狼よさらば ★☆☆
(Death Wish)

1974 US
監督:マイケル・ウィナー
出演:チャールズ・ブロンソン、ビンセント・ガーデニア、ウイリアム・レッドフィールド、ホープ・ラング


<一口プロット解説>
妻子を暴漢に襲われたチャールズ・ブロンソン演ずる主人公カージーは、街にはびこる暴漢達の征伐を開始する。
<雷小僧のコメント>
1970年代と言えばパニック映画の年代ということになるかもしれませんが、もう1つ忘れてはならないのがチャールズ・ブロンソンが活躍した時代でもあったということです。ところが、たとえば「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)や「タワーリング・インフェルノ」(1974)等のパニック映画を現在になって見てもなかなか面白いのに比べ(また現在でも「デイ・アフター・トゥモロー」(2004)等パニック映画は時折製作されていますが、既に50才を越えたチャールズ・ブロンソンがダンディであると見られていた当時と同じ様な意味においてダンディであると見做されるようなヒーローが主人公であるような映画が製作され、あまつさえそれがシリーズ化されるようなことは21世紀になった現在では全くありません)、チャールズ・ブロンソンの主演作は少なくとも私目には現在ではちっとも面白くないのですね。今でもそこそこ面白いなと思えるのは西部劇調にミステリー要素を絡ませた「軍用列車」(1976)とニューオーリンズの舞台設定がなかなか素晴らしい「ストリートファイター」(1975)くらいのもので、あとは軒並みどうしてあの頃はブロンソンに人気があったのだろう?と思わせるような作品ばかりです。その中でも現在でも比較的ポピュラーなタイトル「狼よさらば」をここでは取上げましたが、正直言えば映画としてこの映画を評価しているかと全くそうではありません。むしろ現在の目から見ると、それが意図されているわけではないにもかかわらず思わず失笑したくなるようなシーンがたくさんあります。たとえば、暴漢を撃ち殺した後、家に帰ってゲーゲーやりながらも次の日には爽快な顔をして会社に出勤するチャールズ・ブロンソンには、思わずあきれてこいつは一体どういう神経をしているのじゃと思ってしまいます。また後述するようにこの作品には、どうしても内容が内容だけに現在の目から見るとナイーブに見えざるを得ない側面が存在します。すなわちチャールズ・ブロンソンが体現していたキャラクターが21世紀に入った現代という時代にフィットしないという以上のズレが現代のオーディエンスの目からは感ぜられてしまうような側面がこの映画にはあるということです。
しかしながら、或る意味でこの映画は1970年代という時代がどういう時代であったかをよく示している作品であると言うことも出来ます。すなわち1970年代とは、1960年代後半のカウンターカルチャーを得て価値感がそれ以前とはひっくり返ってしまった時代なのですね。この映画のストーリーを荒っぽく言うと、妻子を暴漢に襲われた男がその復讐をするということになりますが、乱暴な言い方をすればこの作品においては襲われた妻子などはどうでも良いとしか見えないのですね。たとえば、暴漢に襲われてショックで口がきけなくなった娘がいったいそこから回復することが出来るのか或いは出来るとすればどのようにしてであるかということにオーディエンスが興味を持ったとしても、この作品においてはその回答など最後までヒントすら与えてはくれないのです。1960年代前半以前の映画であれば、必ずやそのような側面にも焦点が当てられるはずであり、それは何故かというとそのようなモラリスティックな見地がどうしても入り込まざるを得ないからなのです。それに比べて「狼よさらば」では、ひたすらチャールズ・ブロンソンのワンマンクルセイドに焦点が当てられそれ以外のドラマ的要素には目もくれないのです。或る意味で潔いと言えばそうであるかもしれませんが、そのようなモラリスティックな側面を捨象することが困難であるようなオーディエンスに対しては大きく何かが抜け落ちているような印象を与えるのは必定でしょう。そもそも自警団(Visilante)とは言いながらも自分をわざと襲わせて逆に悪漢を血祭りに挙げるというのであれば、チャールズ・ブロンソン演ずる主人公カージーと悪漢どもの違いというのは単に前者は妻子が殺されたということに過ぎないのではないかという気がどうしてもしてしまうわけですね。この映画の最後のシーンで、警察との秘密協定によってニューヨークの街から追い出されたカージーがシカゴの駅に降り立つや否やそこでもワルどもがはびこっているのを見て指鉄砲をするシーン(画像右端参照)は、まあ続編の予告でもあるわけでしょうが、この映画の本質的なトーンを良く示しているとも言えるでしょう。
また復讐というテーマは、勿論1960年代以前でも西部劇やマカロニウエスタンでも頻繁に扱われたとは言え、「狼よさらば」の復讐劇はそれらとは全く様相が異なります。というのは前者においては主人公の復讐の対象となるのは必ず復讐の原因を作った本人であるということになるはずですが(そうでないとモラル的基盤が崩れ去ってしまうのですね)、後者ではブロンソンの復讐の対象は妻子を襲った本人ではなく、それと同類項のワルども一般に対してなのです。このように言うと「狼よさらば」の場合は妻子を襲った犯人がブロンソン演ずる主人公には特定出来なかったからであると思われるかもしれませんが、私目の言いたいポイントは1960年代以前であれば既にそのようなシチュエーションそのものが映画の中でハンドリングされることは決してなかったであろうということです。要は、チャールズ・ブロンソン演ずる主人公は下手をすると八つ当たりのように見られ兼ねない行動パターンを取っているわけであり、そのような人物が映画の主人公に扱われることはモラル的観点からしてもそれ以前には考えられなかったということです。しかしながら或る意味でこの映画は、1980年代以降アメリカの郊外で発達する自警的ゲートコミュニティを予見しているような側面もないとは言えないわけであり、言わば他所者或いは自分達とは異なる者達を徹底的に排除しようとする傾向が色濃くなってきた1970年代を象徴するような作品であると言っても決して過言ではないでしょう。勿論この映画の場合ブロンソン演ずる主人公が復讐の対象とするのは悪漢どもであり単に他所者というわけではありませんが、しかしながら人間不信をベースとした行動が焦点になっていることには間違いがないところです。まあこの作品はシリーズ化され5作も製作されており(原題はすべて「Death Wish」に連番が振られていますが邦題は5作全てが全く異なり、これはダーティハリーシリーズが原題は全て異なっているのに対して邦題は「ダーティハリー」に連番が振られているのとは全く逆のパターンであると言えます)、このことは1970年代から1980年代にかけてブロンソン演ずる主人公カージーの行動に少なくとも無意識下で快哉を叫ぶオーディエンスが多数いたということを示していると言えるわけです。すなわち、厳しい言い方をするとこの映画はまさにそのような主人公に対する共感なくしては残るものが何もなくなってしまうような作品であるわけですが、それにも関わらず似たような内容のシリーズ作品が5作も続いたということは或る意味でこのシリーズが扱っている内容がその時代の感覚にフィットしていたという側面があるからでしょう。また21世紀に入った現在の目からこの映画を見た時胡散臭く思えてしまうとすると、それはまさにこの映画が体現しているような価値観が現在ではナイーブに見えてしまうからであり、悪漢と言えども理由もなく無闇矢鱈に虫ケラのように殺してはいけないというモラル感をひっくり返して少なくとも無意識下で快哉を叫ぶ機会を与えてくれたこの映画が、価値観がもう一度ひっくり返った(これは現在では価値観が再び1960年代以前に戻ったという意味ではなく、より複雑化したということです)現在の目から見るとどうにも単純且つ無邪気に見えてしまうからです。
更にもう1つ指摘する必要があるのは、この映画のチャールズ・ブロンソン演ずる主人公は或る意味でモンスター的な人物であるということも出来るわけですが、しかしながらその根底には状況が彼をしてそのようなモンスターたらしめたというコノテーションがあることです。すなわち、妻子が暴漢に襲われなければ彼は普通の設計技師としてハッピーハッピーに暮らしていたはずであるというような、「もし・・・であったならば」或いは「もし・・・でなかったならば」、彼は「・・・であったはずである」或いは「・・・ではなかったはずである」という注釈が通奏低音としてこの作品には存在するということです。チャールズ・ブロンソン演ずる主人公とホープ・ラング演ずる奥さんが仲良く南の島でバカンスを楽しんでいる冒頭のシーン(画像左端参照)からそのようなトーンが明確に与えられていることは明白であり、ブロンソン演ずる主人公の普通のサラリーマンからモンスターへの移行が暴漢を殺した後ゲーゲーやっている彼と、次の日に爽快な顔をして会社に出社する彼との間で生ずるわけです。しかしながら、彼は一旦復讐のモンスターと化しても、常に匿名の人物として世間を騒がせます。すなわち彼はモンスターと化したとは言え、それと同時にノーバディでもあるのですね。言い換えればこの映画の主人公カージーは、スーパーマンが実は平凡な新聞記者クラーク・ケントであったというのとは全く異なり(スーパーマンがスーパーマンであることに前提となる条件文は一切必要ないのですね)、「もし・・・であったならば」という条件文の帰結によって結果が異なるような、状況がクリエートしたヒーロー(或いはモンスター)であるということが言えるわけです。勿論70年代にチャールズ・ブロンソンが演じていた主人公がすべからくこのタイプであったというわけでもなければ(ブロンソン演ずるヒーローはスーパーマン的ヒーローであるというよりも等身大的ヒーローである場合が多かったわけですがその彼としてもカージーのようなキャラクターは珍しかったと言えるでしょう)、1960年代以前にはこのタイプの主人公は全く存在しなかったというつもりも毛頭ありませんが、いずれにしてもこの映画の主人公カージーにはその点においていかにも状況に支配される人間達というカフカ的現代的コノテーションが刷り込まれていると言えます。
ところで、今回このレビューを書く為にわざわざDVDを購入したのですが(というかこの作品ならばレンタルでも良かったわけですが、2枚で3000円シリーズに入っていたので他の欲しかったタイトルと共に買ってしまいました)、チャールズ・ブロンソン演ずる主人公カージーの悪漢に殺される奥さんの役を当時ブロンソンの実際の奥さんであったジル・アイアランドが演じているように裏面に書かれています。まあ当時、ブロンソンの映画にはほとんど漏れなく彼女も出演していたので無理からぬことですが、勿論これは「バス停留所」(1956)、「青春物語」(1957)、「大都会の女たち」(1959)、「ポケット一杯の幸福」(1961)等のホープ・ラングの間違いですね。それらの映画に出演していた頃は彼女は細身で線が細いのが特徴であり、それがまた新鮮な印象をオーディエンスに与えたわけですが、この「狼よさらば」ではすっかり貫禄がついてしまいました。それから悪漢の一人は無名の頃のジェフ・ゴールドブラムが演じていますが、ハエ男をやっているよりはその方が似合っているような・・・。

2004/10/31 by 雷小僧
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