白鯨 ★★☆
(Moby Dick)

1956 UK
監督:ジョン・ヒュースン
出演:グレゴリー・ペック、リチャード・ベースハート、レオ・ゲン、ジェームズ・ロバートソン・ジャスティス


<一口プロット解説>
巨大な白い鯨「モービー・ディック」に片足をもがれたエイハブ船長は、復讐を果たす為に再び大海原に乗り出す。
<入間洋のコメント>
 改めて言うまでもなく、この作品はハーマン・メルビル原作の「白鯨」の映画化です。メルビルのこの作品はアメリカ文学の金字塔とも言われ、たとえばウイリアム・フォークナーのような大作家でさえこの作品をアメリカ文学史上最高の作品と考えていたようですね。しかしながら、確かにイギリス、フランス、ロシア、ドイツなどと比べると本国の歴史が浅く、従って文学の歴史という意味でも長い歴史を持たない国であるとはいえ、個人的にはこのモツ煮込みのような作品(というとファンや専門家に怒られるかもしれませんが個人的にはそのような印象があります)がアメリカ文学のチャンピョンであるというのにはどうにも首を傾げたくなるところで、それならばたとえばピューリタン的な象徴表現に満ちたホーソーンの「緋文字」のような作品の方が遥かに超一級の文学作品らしく見えますが、まあ浅はかな文学音痴にはそのように見えてしまうものなのかもしれません。「白鯨」を読んだことがないオーディエンスの為にモツ煮込みとはどういうことかということを説明しておくと、「白鯨」は全部で135の章から構成されていますが、各章のバランスが故意にバラバラに書かれているのですね。そもそも長さがマチマチで、かなり長い章があるかと思えば122章などはタイトルを除けば4行(ペンギンクラシックス版)しかなかったりします。しかし勿論長さだけではなく、各章の書式スタイルも様々で、ある章では説明文に終始したり、ある章では戯曲風になったりというように章毎にスタイルが七色に変化します。しかも、Pequod号がナンタケットの港を出港した後はエイハブ船長一行とモービー・ディックが死闘を繰り広げる最後の3章に至るまで、メインプロットに従ったエピソードが語られる章と鯨の博物誌のような説明に終始する章が交互に配置されていて読む方としてもかなりフラストレーションが溜まるような構成になっています。すなわち、自然なプロットの流れがブツ切りにされているわけですが、まあ単純にストーリーがリニアに進行しないという意味では19世紀の作品とは言え20世紀的な側面があると言えるのかもしれません。勿論映画バージョンでは、説明的な章に対応する部分は一切オミットされているわけですが、もしそのような各章間におけるスタイルの変化が「白鯨」の大きな特徴或いはエッセンスであるとするならば、メディアの性質上映画バージョンではそのようなエッセンスは全て切り捨てられざるを得なくなります。名作文学の映画化はともすると原作のダイジェスト版になりがちになるという症候群に陥り易いことは良く言われるところで、そうするとこの作品では余計にそのような傾向が目立ちそうな気がしても何の不思議もないところですが、意外にそのような印象は受けませんでした。まあこれは原作を読む以前に映画バージョンを見たことがあるが故のことであるかもしれませんが、もとの原作自体のストーリーの流れが断続的であるのに対し、映画バージョンではそれがスムーズに流れるだけに「白鯨」という小説からストーリー進行の妨げとなる説明的な章を間引くと実はこのようなスッキリした作品であったのかという一種フラストレーションが解消されたような印象が得られるのでむしろ新鮮に感ぜられるということかもしれません。まあそのような印象もあってか、傑作文学の映画化としては悪い方ではない、というよりも商業主義が先行するアメリカ映画においては純文学作品の映画化はあまり多くはないことを考えると、そのようなカテゴリーの中では最良の作品の1つに数えて良いかもしれません。

 ところで、この作品に登場する白い鯨はマッコウ鯨です。そういえばシロナガスクジラという種類もあったはずですが、マッコウ鯨は通常は白くはないはずなので白いマッコウ鯨には特別な神話的価値が付着することになるわけです。そのマッコウ鯨は、面白いことに英語で「Sperm Whale」と言うようですね。「Sperm」とは一般にはご存知の通り「精子」のことですが、もしかしてマッコウ鯨は巨大化した精子のように見えるということでしょうか。そう考えてみると「Moby Dick」の「Dick」がスラングで男のイチモツを意味することと併せて考えると、この一致はただの偶然とも思えず何やらフロイト先生にご登場願いたくなったとしてもさ程不思議ではないかもしれません。しかしながら、文学作品等に精神分析的な解釈を施している著作や論文は飽きる程見たことがあり(最近では文章中にフロイトやユングの名前を見かけると思わずうむむこの著者大丈夫かいなと思ってしまいます)、少々食傷気味なのでやはりフロイト先生にはお引取り願うことにしておきましょう。それよりもこの作品を見ていて連想したのは、かのセルバンテスの「ドン・キホーテ」です。ドン・キホーテが、時代の流れについていけずに自分だけにしか通用しない騎士道の幻影を世の中に投影して周囲を混乱に陥れるのと同様、この「白鯨」の主人公であるエイハブ船長はモービー・ディックに片足をもがれたことに対する復讐を果たすという自分以外の誰にも通用しないようなコードを金科玉条としそれをPequod号の乗組員全員に押し付け彼らを最後は破滅へと追いやってしまうのであり、両作品とも主人公と主人公が生きる時代が決定的に乖離している点が共通するわけです。何しろ洋上で出会った他の捕鯨船の船長からモービー・ディックを見たと聞くや否や、それまで苦労して仕留めたはずの鯨を解体もせずにそのまま海洋に抛り出して直ちに出発してしまう程です。このようなエイハブ船長の行動を抑制しようとするのが副官のスターバック(コーヒー屋ではありません)ですが、彼は会社の利益をまず先に考えるような実利的且つ理性的な思考法を持った人物として描かれています。すなわち彼は、産業社会が勃興しようとしていた時代に見合った近代的な物の見方を備えた、現代の我々から見てもかなり常識的な人物だと言えますが、それに対してエイハブ船長は「復讐」という中世的いやそれどころか極めて原始的なプリズムを通して世の中を見ていることが対比的に示されていることになります。つまりスターバックが新たな時代にうまく同化することができた人物であるのに対し、エイハブ船長は時代がかったドン・キホーテ的にアナクロニスティックな人物であるということがこの二人の対比を通して強調されているわけです。

 しかしながら、同様に時代錯誤的な人物であるとは言えども、ドン・キホーテとエイハブ船長の間には大きな違いもあります。すなわち、ドン・キホーテは確かに自らが固執する時代錯誤によって周囲に混乱をもたらしはすれども決して周囲にいる人々を巻添えにして破滅に導いたりすることはないのに対し、エイハブ船長はドン・キホーテとは違った意味で狂気的とも言える時代錯誤によって最終的には自分に関係する人々全てを破滅に導いてしまうことです。それ故、ドン・キホーテには喜劇的側面があるのに対し、一見すると「白鯨」には悲劇性はあれど喜劇性は全く存在しないように見えるかもしれません。これに関しては実は原作と映画ではやや事情が異なるように思われます。というのは、娯楽的要素がより重要視されざるを得ない映画バージョンにはやはりドラマティックな印象を与えることが重視される傾向があり喜劇性はほとんど捨象されているように思われるのに対し、原作は前述したようにスト−リーが展開される物語的な章と博物誌的な説明が開陳される章が交互するということからも分かるようにかなり客観的な冷めた視点もそこには存在していて、そのような客観的な視点に由来する喜劇的な描写さえしばしば散見されるからです。たとえば、エイハブ船長の最後に関するハンドリングなどにその違いがはっきりと現れています。ストーリー展開に関してのみ言えば原作と映画バージョンの間には見たところ極端に大きな相違はないように思われますが、実はエイハブ船長の最期に関してのみは映画バージョンでは大きな変更が加えられています。すなわち、映画バージョンではエイハブ船長は死闘の果てにモービー・ディックの巨体にロープでがんじがらめになった状態で壮絶な最期を迎えるのに対して(モービー・ディックの動きにつれて彼の手が動くのでそれがあたかも他の乗組員を地獄へ手招きしているように見え、いつもは冷静なスターバックを含めそれを見た乗組員達にエイハブの狂気が乗移ってモービー・ディックに立ち向かっていきます)、原作においてはモービー・ディックの巨体にロープでがんじがらめに巻き付けられて発見されるのは前日に行方不明になったある乗組員であり、エイハブ船長自身は視覚化するとむしろ滑稽に見えるような死に方をします。以下に原作におけるエイハブの最期の描写を挙げておきます。尚、邦訳が手元にないので訳は私めのものであり、イマイチかもしれませんが大目に見て下さい。

◎銛が投げられ、それに打擲された鯨(モービー・ディック)は飛ぶように前方に突進した。爆発的な速度で、ロープは(巻取り装置の)溝の間を滑走し、もつれた。エイハブはかがんでそのもつれを直そうとした。確かにもつれは直ったが、まさにその時滑空するロープの一巻きが彼の首に巻きついた。そして、あたかもトルコの叛徒(?※)が犠牲者を絞殺する時のように声もなくボートの外に投げ出された。ボートの乗組員は、その一瞬に全く気が付かなかった。
(The harpoon was darted; the stricken whale flew forward; with igniting velocity the line ran through the groove;-ran foul. Ahab stooped to clear it; he did clear it; but the flying turn caught him round the neck, and voicelessly as Turkish mutes bowstring their victim, he was shot out of the boat, ere the crew knew he was gone.)
※「Turkish mutes」とは普通に考えれば「トルコのおし達」ということになりますがそれでは意味が通らないので、ひょっとして音が似ているのでmutesとはmutineersのことかと考えて叛徒としました。しかしながら、後で気になって岩波文庫の「白鯨(下)」の該当部分を本屋で立ち読みしたところ「トルコのおしの死刑執行人」とありました。すなわち「Turkish mute executioners」という意味であるようですね。まあ古来死刑の執行人とは、共同体外部のよそ者や或いはマージナルであるという刻印を押された人々によって務められたということなのでしょう。

 さすがに、上のシーンをそのまま映像化してそこだけを見るとほとんどコメディに見えることは間違いないでしょう。いずれにせよ、映画バージョンではエイハブ船長は殉教者的な悲劇の英雄であるとも取れるようなドラマティックな死に方をするのに対して、原作ではいともあっさりと見方によっては威厳のある船長の死に様とはとても思えないような極めてアンチヒロイックで滑稽な死に方をします。一言で言えば映画バージョンにおけるエイハブ船長の死は特権化され神話化された死であるのに対し、原作のそれは全くその逆であり、脱特権化、脱神話化された死だと言えます。そのような原作における滑稽さはドン・キホーテにも通じるものがあり、「ドン・キホーテ」で見られるような滑稽な表現は何もこのエイハブの最期のシーンに限らず全編に渡って散りばめられています。ナンタケットを出航する前の始めの方の第15章で語り手のイシュマイルとQueequeg(船の名前
Pequodを始めとしてこの小説には発音がイマイチ定かではない固有名詞が少なからず登場しますがこの文明化した人食い人種の王の息子の名前もその1つです)が宿屋でチャウダーをむさぼるシーンも愉快ですが(このシーンは映画バージョンにはありません)、例として、船に積んであった樽の漏洩を調査する為に船倉にある樽が全て甲板に引き上げられた時船がトップヘビーになった様子を描写する私めが大笑いした110章の以下のような表現を挙げておきましょう。

◎この時船(Pequod号)は、あたかもアリストテレスで頭を一杯にした晩メシを食っていない学生であるかのごとくトップヘビーであった。
(Top-heavy was the ship as a dinnerless student with all Aristotle in his head.)


個人的な感想を言えば、よりドラマティックに見えるように構成されている映画バージョンの方が鑑賞後の満足感がありますが、恐らく原作ではまさしくそのような印象を与えてしまうことが避けられていたと言えるようにも思われます。というのも、原作においてはエイハブ船長は近代的な資本主義世界からはじき出された一種のドン・キホーテ的なコメディアンであることが示唆されているのであり、間違っても殉教者的な英雄や悲劇の主人公たり得ないからです。「白鯨」は帝国主義的な表象が色濃く現れている小説であると言われることもあるようですが、復讐の感情に取り憑かれ近代的な搾取の概念などとは全く無縁なエイハブ船長は帝国主義が成立する以前の時代の過去の遺物なのであり、もし帝国主義と近代資本主義が不可分の関係にあるのならばエイハブ船長とは帝国主義が成立する為にはまず一番先に除去されねばならない古代中世的な表象の代弁者であったということになります。逆に言えば、まさにエイハブ船長として体現されている障害が最終的に除去されるが故にこの作品は帝国主義的だという言い方はできるかもしれません(その様子をつぶさに観察して古い時代の終焉を目撃しているのが語り手のイシュマイルであるということになるわけですね)。考えてみるとエイハブ船長の狂気的な行動が描かれる或る意味で呪術的とさえ言えるようなストーリー部分とは対照的に、博物誌的な情報が羅列される説明的な章には、知をコントロールしてそこに権力を生じせしめようとする近代に特有な意思を看取することが可能であるとも言えるようにも思われますが、さすがにそれは穿ち過ぎでしょうか?。博物誌的な情報の集積が意図された万国博覧会の誕生が、いかに当時の帝国主義的な政治状況と結び付いていたかに関しては、吉見俊哉氏の「博覧会の政治学」(中公新書)などに詳しいので是非ご一読下さい。いずれにせよ、近代の黎明期という時代的背景が暗に織り込まれているようなイメージが原作にはあり脱神話化され脱特権化されたエイハブ船長の死は同時に新たな産業資本主義社会の到来を暗に示唆しているようにも思われるのに対して、映画ではそのような印象はあまりなく
、よりドラマティックな面が強調されているような印象がありますが、まあそのような選択は映画作品としては賢明であったと言えるように個人的には考えています。また、映画でなければ表現出来ないようなリアルさがあることも事実であり、たとえばモービー・ディックに対する復讐心に燃えて落ち着くことのないエイハブ船長が夜中に甲板を歩き回り、義足がたてるコツンコツンという音が下で寝ている乗組員達に聞こえてくるシーンは、雰囲気満点で実にリアルです。また、文芸作品の映画化という点では暫く前に取り上げた「カラマーゾフの兄弟」(1958)同様、かなり見事に視覚的な雰囲気が捉えられた作品であると評価することができるでしょう。グレゴリー・ペック演ずるエイハブ船長は、ペックが感情を激しく表に表現するようなタイプの俳優ではないだけに、ややイメージが違うかなという印象も無きにしもあらずですが、致命的であるとも言えないでしょう。最後に1つだけ追加しておくと、エイハブ船長がモービー・ディックとの闘いに破れる壮絶な死闘は日本近海で行なわれることに注意しましょう。

2007/05/12 by Hiroshi Iruma
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