連邦警察 ★☆☆
(The FBI Story)

1959 US
監督:マービン・ルロイ
出演:ジェームズ・スチュワート、ベラ・マイルズ、マレー・ハミルトン、ニック・アダムズ

左:ジェームズ・スチュワート、右:ベラ・マイルズ

先月(8/15)に「James Stewart The Signature Collection」というDVDボックスセットが海外で発売されその中にこの「連邦警察」も含まれていたので久々に見ました。久々に見たというのは、この作品はどうもFBI(及び長らくFBI長官を務めていたエドガー・フーバー)のよいしょ映画という印象が避けられなかったので、あまり何度も見る気がしなかったからです。何せ、タイトルそのものが単 純明快な「The FBI Story」であり、ラストにはエドガー・フーバーその人への謝辞が付加されています。また、冒頭付近フーバーが演説するシーンがありますが、彼の(というか彼を演ずる俳優の)顔は見せずに、後姿だけ映し出されます。これは当時神のような存在であったフーバーを、主演のジェームズ・スチュワートならばともかく、ちんけな俳優が演じているシーンが画面上に現れるのは都合が悪いと考えられたからではないでしょうか。要するに、ここから一種の神格化すら見て取ることができるのではないかということです。因みに、エドガー・フーバーは1920年代前半にFBI長官に就任してから、実に50年近くFBI長官として権力を掌握し続けた人であり、この作品が製作された頃はおろかこの作品が製作された次の年に生まれた私めが小学生であった頃もまだその名が世界中に轟いていたのですね。そういうこともあってか、この作品にはどうしても胡散臭いなという印象を感ぜざるを得なかったのであり、見直してみてもその印象は全く変わりませんでした。ただしかし、それだけであればわざわざレビューとして取り上げる理由はないということになりますが、映画自体が面白いか否かは別として(実際現在の目から見ればFBIよいしょは別としても極めて古臭い印象が否めないといのが正直なところです)当時或いはそれまでのアメリカ人の物事の考え方を捉えることができるという点では価値があるのではないかと思われたのでここに取り上げたわけです。1つは、彼らの持つ正義感及び自己犠牲ということについてであり、この映画のテーマがまさにこれなのですね。正義感ということに関しては、ジミー・スチュワート演ずる主人公ハーデスティによりはマレー・ハミルトン演ずる彼の同僚にもっともよく現れています。ハーデスティは最初危険が多いFBIでの仕事よりも家族の方が大事であると考えて辞表を提出しようとしますが、この同僚に「お前はばかだ」と言われます。その言葉とフーバーの演説を聞いた彼は辞表を提出するのをやめますが、要するにここで彼は自己犠牲をしてまで正義を行うことを優先させることを決意するのであり、それが彼のその後の一生を決定付けるわけです。この辺の演出は巧妙であり、彼が最初から確信犯的に正義感に凝り固まったバリバリの捜査官であるとして描かれていたならば、むしろオーディエンスにマイナスのイメージを与える結果になったはずです。そのことは、FBI捜査官ではありませんが「フレンチ・コネクション」(1971)のポパイ刑事と比較してみれば一目瞭然になります。1959年製作の「連邦警察」と1971年の「フレンチ・コネクション」では製作年に10年少々の隔りがありますが、「フレンチ・コネクション」はこのマイナスのイメージを徹底的に追求し、正義が転じて悪になるギリギリの境界を疾走(迷走?)するアンチヒーローを描いた作品であり、それが「フレンチ・コネクション」が現在の目から見ても決して古くは見えない理由の1つです。要するに権力の問題が不可避的であるが故にきちんとした裏付けがないと、正義はあっというまに悪に転ずる危険を有しているとも言え、それが60年代後半以後盛んに取り上げられるようになる堕落した警官というテーマに繋がるわけです。それに対して、「連邦警察」では自己犠牲という裏付けを得ることによって、FBI捜査官が行使する正義が大きな正当化を得るように見える構成がとられていることが今回見直してよく分かりました。従って私めのようなひねた輩がこの作品を見ると余計に美談的なFBIよいしょストーリーに見えてしまい、また古臭いなというイメージを受けてしまうわけです。それからもう一つ注意すべき点は、ナレーションの中で科学捜査の効用がしばしば強調されていることです。実を言えばこの映画の中で展開されているエピソードはほとんど科学捜査よりは筋力と意志力が焦点になっていると言ってもよく(冒頭のニック・アダムズ演ずる飛行機爆破犯人を捕らえるエピソードのみは例外ですが、プレタイトルシーケンスとして開始されるこのエピソードには主人公達は直接関与していません)、わざわざナレーションの中で科学捜査という点を強調せずともストーリーは十分に成立するのですね。それにも関わらずそのような一種のメッセージが挿入されているのは、やはり科学に対する大きな信頼或いはこう言ってよければ信仰がその根本にあるからであり、それを抜かせば片手落ちになるように思えたからでしょう。要するにFBIは何も前近代的なマッスルパワーや宗教的信仰心にも似た自己犠牲をベースとした正義感だけに依存しているわけではないよという点がそこでは強調されているのではないかということです。といことで、マックス・スタイナーの景気のよい音楽も含めて様々な面でFBI賛歌に満ち溢れた作品ですが、しかしながら自己犠牲をベースとした正義感や無条件な科学信仰は必ずしもFBI賛歌を謳歌するためにのみ現れてきた主題ではなく、当時のアメリカ文化が持っていた特質の1つでもあったのではないでしょうか。だからこそ、カウンターカルチャー運動やベトナム敗戦等を経てそれが消失する1970年代になって、それとは正反対の「フレンチ・コネクション」のような映画が出現し始めるわけです。まあ、いかにも1950年代後半の映画かなというような作品です。


2006/10/01 by Hiroshi Iruma
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