大列車作戦 ★★☆
(The Train)

1964 US
監督:ジョン・フランケンハイマー
出演:バート・ランカスター、ポール・スコフィールド、ジャンヌ・モロー、スザンヌ・フロン

左:バート・ランカスター、右:ジャンヌ・モロー

 丹那トンネル開通までは東海道本線であった御殿場線沿線に子供の頃住んでいたことがあり、パワフルな蒸気機関車D52が我が物顔で走り廻っていたことを覚えている。この型式の蒸気機関車は重量が重く、通常のローカル線では走ることが出来ない型であったが、そこは旧東海道本線の御殿場線でありD52のような本格的なSLが走ることが出来たのである。その頃の小生にとって、蒸気機関車とはパワー溢れる重量感の象徴そのものであり、その印象は現在でも変わらない。たとえば単純な重量による比較では航空機や船舶より蒸気機関車など遥かに大きさも小さい上重量も軽いが、重量感とは重量とは全く違う。重量感とは、人間の感覚に訴えかける重さのイメージを意味し、その観点から見れば空を飛ぶ飛行機には実際の重量とは関係なく飛翔する軽さのイメージがあり、また船舶にはそのサイズに関係なく波浪に弄ばれる木の葉のイメージがある。これに対し大気や水面のような不安定な媒体ではなく大地という堅牢な足場を基盤として眩暈を引き起こしそうな程のド迫力で驀進する蒸気機関車は、スピード感が増せば増す程重量感が際立つという、飛行機とは正反対のイメージを喚起させる。そのような蒸気機関車を題材にした映画で、蒸気機関車が持つパワフルさを最も適確に捉えた映画として真っ先に思い浮かぶのがこの「大列車作戦」である。ナチス占領下のフランスにあって、フランスが誇る数々の美術品をドイツに持ち帰ろうとするドイツ軍将校フォン・バルトハイム(ポール・スコフィールド)と、それを阻止しようとするレジスタンス闘士ラビッシュ(バート・ランカスター)との虚々実々の駆引きを描いた作品であり、実話が元になっているようである。しかしながら、小生にとって、この映画の主役は蒸気機関車であり、驀進する蒸気機関車の勇姿を堪能出来るのが嬉しい。この映画はシンプルな力強さに満ち溢れているが、レジスタンス抵抗運動を蒸気機関車のイメージと象徴的に重ねあわせたような側面があり、それが極めて効果的に機能している。

 しかしこの映画は、シンプルで力強いだけが身上ではない。そのような誉め言葉は、単なるうどの大木にすら適用出来る。人間存在が持つ矛盾点が鋭く指摘されている点が、シンプルというよりはシンプルトンに近い無数の一山いくらの映画からこの映画を価値あるものとして際立たせているように個人的には考えている。それでは、この映画で指摘されている人間存在の矛盾点とは何であろうか。結論を先取りすると、それは、審美的な価値或いはたとえば審美眼のような天賦の才に恵まれているという個人的な価値と、コミュニティの成立基盤として不可欠な倫理規範としての価値とは全く別の範疇に属する価値であるにも関わらず、時として人はそれをイコール或いは少なくとも比例したものであると見なすことがあり、それが悲劇的或いは非人間的な結果をもたらすことすらあるということである。たとえば、現実世界ではアウシュビッツのようなホロコーストを生み出した輩が、家に帰ればワーグナーの音楽に聞き惚れていたというようなことが実際にあったのである。この映画のラストシーンで、ドイツ軍将校バルトハイムは、レジスタンス闘士のラビッシュに「お前には、お前が守ろうとした物の価値は分かるまい。今までお前がしてきたことは何の為であったか、自分にも分かるまい。それ(美術品)が持つ価値は、それを理解するものにしか分からないのだ。だからそれが分からぬお前はただのクズだ。」というような内容のセリフを、累々と横たわる死体を前にして平然と言ってのける。実を言えば、この言葉の前提部は一面の真理を含んでいる。というのも、ラビッシュは、それらの美術品が価値あるものであることを理解していたから奪われることを阻止したわけでは決してなく、多くの仲間がそれを守ろうとして死んでいったのを見てヒューマンな立場から自分もそれに従っただけだからである。また、それらの仲間達にしたところで、真に美術品の美的価値を理解していたというわけでは必ずしもなかったはずである。従って、「お前が守ろうとした物の価値は分かるまい」というバルトハイムの指摘は間違ってはいない。

 それでは、バルトハイムの指摘が真であるとするならば、レジスタンス闘士達は本当に無意味な抵抗を続けていただけであるということになるのだろうか。その回答は当然のことながらノーであるが、それは何故かと言うと、バルトハイムの論法の前提部は真であったとしても「だから、それを理解出来ぬお前はクズも同然だ。」という帰結が同時に真になるわけではないからである。バルトハイムの論法の前提部で言及されている美的価値とは、個人的な体験領域において美術品が個人に対して持つ価値のことであり、またそのような価値を享受する能力が個人に備わっているか否かということであるのに対し、ラビッシュが守ろうとした価値とは、複数の個人間でのコミュニケーションが不可欠であるようなコミュニティが成立する為の基盤になる価値のことである。個人的な価値とは、個々人が何を価値あるものと見なすかによっていくらでもその内容は変化し得るのに対し、コミュニティが依拠する価値基盤とは、状況或いは各個人の信条によって内容がコロコロ変わるようなものであってはならない。それ故、コミュニティが成立する為の価値基盤が無視されると、「俺達はXXXの価値を理解することが出来るが、お前達にはXXXの価値を理解する能力が全く欠けている。」という前提から、すぐに「従って俺達は優等人種でありお前達は劣等人種なのだから、お前たちはこの世に存在するに値しない。」というバルトハイムの帰結に繋がっていく。ここには、普遍的でなければならない結論部を導く前提部の価値判断が、個人的であるかせいぜい仲間内でしか通用しない基準に基づいているという大きな矛盾がある。「XXX」の箇所にこの映画で言えば「美術品」、アウシュビッツの例で言えば「ワーグナー」を当て嵌めれば、その論法で現実に何が発生するかが理解出来るだろう。

 これに対してコミュニティが成立する基盤としての価値とは、「俺達は、XXXの価値を理解することが出来るが、お前達にはXXXの価値を理解する能力が全く欠けている。」という前提がたとえ真であったとしても、「従って俺達は優等人種でありお前達は劣等人種なのだから、お前たちはこの世に存在するに値しない。」という帰結が同時に真になるわけではないことを理解する為の思考基盤を提供する。「俺達は、XXXの価値を理解することが出来るが、お前達にはXXXの価値を理解する能力が全く欠けている。」という前提は、「XXX」に当て嵌める語句によっていくらでもある特定の人々にとって有利且つ真であるようなステートメントを作成することが可能である。たとえば、「俺達は、日本文化の価値を理解することが出来るが、お前達には日本文化の価値を理解する能力が全く欠けている。」というようなステートメントは、語る主体すなわち「俺達」が日本人であり「お前達」が日本人でなければ、それが真である確率が非常に高いレベルで言明することが可能である。すなわち、単に前提が真であるに過ぎないこのようなステートメントは状況によっていくらでも作成することが出来るということである。コミュニティが成立する基盤としての価値とは、このようなステートメントがいくらでも作成出来ることを認識し、そのような各々のステートメントが論理的に真であるというだけで特別な価値を持つことはないことを認めることである。従って、コミュニティが成立する基盤としての価値を理解することは、「俺達は、美術品の価値を理解することが出来るが、お前達には美術品の価値を理解する能力が全く欠けている。」というステートメントが仮に真であったとしても、「従って俺達は優等人種でありお前達は劣等人種なのだから、お前たちはこの世に存在するに値しない。」という結論が同時に真にはならないことを理解することでもある。「十二人の怒れる男」(1957)と同様、この映画を見ていると現代アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの議論を思い出すが、彼は、生まれつき財産や能力などに恵まれた人々が、一種の僥倖によって恵まれたとも言えるそれらの財産や能力を駆使して自らの利益とすることが出来るのは、同時にそのような行為が、持たざる人々の利益ともなる場合のみであり、それが社会正義であるというようなことを述べている。意識的であるにしろ無意識的であるにしろ、この点を理解して行動しているのがレジスタンス闘士達であり、そのことが全く理解出来ないのがドイツ軍将校バルトハイムである。

 ということで、ややスローな印象はあるが、蒸気機関車の驀進シーンあり、深く考えさせられる内容ありで、見応えのある作品である。この映画は、内容的にも白黒で撮られるべくして撮られた作品であるが、監督のジョン・フランケンハイマーは初期の頃、白黒映画において素晴らしい才能を発揮していた。「グランプリ」(1966)以後のカラー作品が必ずしも悪くはなかったとしても個人的にはイマイチに思われるのに対して、初期の白黒作品には見応えのある作品が多い。「大列車作戦」の他には、「明日なき十代」(1961)、日本劇場未公開であるがウォーレン・ビーティのプレイボーイオーラが炸裂する「All Fall Down」(1962)、「終身犯」(1962)、「影なき狙撃者」(1962)、「5月の7日間」(1964)、「セコンド」(1966)がある。扱っているテーマから言っても白黒画面の方がふさわしいものが多く、それは殊に「大列車作戦」に当て嵌まる。最後にイギリスの舞台の名優ポール・スコフィールドが出演していることを指摘しておかねばならないだろう。彼の出演する映画は多くはないので、この作品は貴重である。トーマス・モアを演じてアカデミー主演男優賞に輝いた「わが命つきるとも」(1966)は必見である。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。


2003/11/08 by 雷小僧
(2008/10/16 revised by Hiroshi Iruma)
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