青春の旅情 ★★☆
(Return to Peyton Place)

1961 US
監督:ホセ・フェラー
出演:キャロル・リンレイ、ジェフ・チャンドラー、エリノア・パーカーチューズデイ・ウエルド

左:ジェフ・チャンドラー、中:ペイトン・プレイスの町、右:キャロル・リンレイ

 「Return to Peyton Place」という原題が示す通り、この作品はラナ・ターナー主演の「青春物語(Peyton Place)」(1957)の続編(sequel)です。「青春物語」でラナ・ターナーが演じていた役はエリノア・パーカーが、ダイアン・バーシが演じていたアリソン・マッケンジー役はキャロル・リンレイが、ホープ・ラングが演じていたセリーナ・クロス役はチューズデイ・ウエルドがそれぞれ演じています。ホープ・ラングとキャロル・リンレイは共に線の細い女優さんでありかなり似たところがあるので、ホープ・ラングの役をキャロル・リンレイが演じているような錯覚をいつも起こしますが、キャロル・リンレイはダイアン・バーシが演じていたアリソン・マッケンジー役を演じています。「青春の旅情」は「青春物語」に比べると小粒な印象が否めないとはいえ、「青春物語」のレビューでも述べたように、自閉的な地方共同体に関するテーマの敷衍という意味では「青春の旅情」の方が遥かに明快です。そもそも「青春物語」の場合には当時ビッグスターであったラナ・ターナーが主演しており、興行面からも主眼がラナ・ターナー演ずる主人公に置かれざるを得ないのに対し、「青春の旅情」の場合には核になるビッグ・スターは不在であり、その分ペイトン・プレイスという地方の小共同体に、より多くの視線が向けられています。従って、「青春の旅情」では、いかに自閉的な地方共同体が、人や情報の外部からの流入を排除し、それらの内部からの流出を阻止するかが、明瞭にストーリー中に織り込まれています。前者に関しては、閉鎖社会ペイトン・プレイスを象徴するような閉鎖的マインドの持ち主である母親(メアリー・アスター)が息子のイタリア人の嫁(ルチアナ・パルッツィ)を、ことある毎にいびり倒す様子に典型的に現れており、後者に関しては、ペイトン・プレイスを舞台とし内部暴露もの的な内容を持つアリソン・マッケンジーが書いたベストセラー小説を町を挙げて徹底的に排除しようとする様子に典型的に現れています。

 そのような閉鎖社会の抱える問題点が、クライマックスのタウンミーティングシーンにおいて浮き彫りにされます。このシーンでは、アリソン・マッケンジーのベストセラーを学校の図書館に蔵書しようとした彼女の義父(「青春物語」ではリー・フィリップスが演じていました)を解任するか否かを決定する裁判が描かれます。結果は、始めはジェフ・チャンドラー演ずる編集長のように外部からやって来た人間と若者ばかりが伝統に固執する共同体のあり方を批判しますが、やがて彼らの考え方を多くの人が受け入れるようになり、結局最後は、村中の人々(マイナスメアリー・アスター演ずる母親)によってアリソン・マッケンジーの書いたベストセラーが承認され、彼女の義父の解任は否決されます。つまり、これまで閉鎖社会として成立していた共同体のあり方を、これを機に変更せざるを得なくなります。自分の目論見がものの見事にはずれたメアリー・アスター演ずる母親が、「この決定はペイトン・プレイスの伝統を破壊するものであり、このような決定をしたことをいつか後悔することになるであろう」と往生際の悪い捨てゼリフを最後に吐きますが、要するにこの裁判は、見かけはアリソン・マッケンジーの義父を解任するか否かの個人に関する裁判でありながら、同時にその根底には、ペイトン・プレイスの村人達がこれまで当然のものと考えてきた共同体のあり方そのものが審議に掛けられているのです。

 では、ペイトン・プレイスとはどのような村であったのでしょうか。ペイトン・プレイスでは、そこで発生する全ての出来事はそれがどんなに個人的なものであろうと共同体全体に関わると見なされます。その故に、たとえば、義父を撲殺した罪に問われ一度裁判で正当防衛によって無罪になったはずのセリーナ・クロスが、いつまでも村人からはアウトカーストと見なされ、共同体のマージナルな位置に追いやられているのです。すなわち、全ての出来事が、モラル、責任、義務などの個人に関連する近代的なカテゴリーによって判断されるのではなく、共同体全体として働く力学の中で自動配置されるのが閉鎖社会の特徴であり、またその力学が共同体の安寧を保障するメカニズムとして機能しているわけです。従って、今まで共同体内部に存在していなかった何らかの要素が外部から流入することは、安全保障メカニズムを破壊する可能性がある為に危険であると見なされ、まさしくこれがメアリー・アスター演ずる母親の捨てゼリフの真意なのです。従って、或る意味で彼女の捨てゼリフは全く正しいのです。しかし、彼女が全く理解できないポイントは、それ程の危険を冒してでもなぜ共同体のあり方を変えなければならないかに関してです。そのこころをシステム論的に述べれば、1つのシステム(共同体も1つのシステムと考えられます)とは、外部に存在する環境とのインタラクションが不可欠であり、時にはその過程でダイナミックに自己を再定義していく必要があり、そのようなダイナミズムを失うことはイコールシステムの停滞ひいては死に至るということです。そして、この認識が彼女には全く欠落しているのです。

 「青春の旅情」は、エンターテインメント的な観点から見れば、全体的にはやや平凡な印象があるのは否めないとはいえ、閉鎖的共同体に関するテーマがかくして見事に浮彫りにされており、そのようなテーマそのものが雲散霧消してしまった感のある現在からすればテーマ的には逆に新鮮であるとすら云えるかもしれません。それはそうと、キャロル・リンレイ、チューズデイ・ウエルド、エリノア・パーカー、ルチアナ・パルッツィなどの綺麗どころがわんさか出演しているので、野郎オーディエンスにはお楽しみがあります。メアリー・アスターについては、いつのまにかとんでもない意地悪婆さんが板につくようになってしまったと感心させられます。「マルタの鷹」(1941)のスタイリッシュな彼女はどこへ行ってしまったのでしょうか。また、「青春物語」で流れていたフランツ・ワックスマンの素晴らしい音楽が、この作品でも全篇に流れており、タイトルバックでは歌詞付きで歌われるのが実に魅力的です。


2004/03/27 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp