大アマゾンの半魚人 ★☆☆
(Creature from the Black Lagoon)

1954 US
監督:ジャック・アーノルド
出演:リチャード・カールソン、ジュリー・アダムス、リチャード・デニング、アントニオ・モレノ

上:おっかないアマゾンの半魚人

この作品に関しては、実際に見たことがない人でも、その存在を知っている人がかなりいるのではないでしょうか。というのも、ビリー・ワイルダーの傑作「七年目の浮気」(1955)の中において、例のスカートハラリシーンの直前で、映画館でこの「大アマゾンの半魚人」を見たあと、モンロちゃん演ずる気のいい娘がその内容について主演のトム・イーウエル演ずるリチャードと仲良く語り合っているシーンがあるからです。最近はあまり見かけませんが、昔は宣伝の目的もあってか同時期に上映されている自社の他の映画を映画中映画として利用したり言及したりすることがたまにありました。私めも、この「七年目の浮気」のシーンによって「大アマゾンの半魚人」については相当昔から知っていましたが(というか邦題は知りませんでしたが)、長い間見たことはありませんでした。私めと同じように「七年目の浮気」のモンロちゃんとイーウエルの会話によってのみこの作品を認知していた人は、或る意味で誤まった印象を与えられていたかもしれません。というのも、モンロちゃんは、この作品に出てくる半魚人を見かけは怪物のように見えるけれども心はやさしいとか、あまつさえ半魚人は愛に飢えているなどといったような昼メロソープオペラ的見解を述べるからであり、私めも長い間その言葉を信じてそういう一種のフランケンシュタイン的なストーリー、すなわち本当は皆と仲良くしたいのに見てくれが悪いので誰にも相手にされず逆に皆に危害を加えてしまうような惨めなモンスターを描いた作品なのかなと思っていました。しかし、実際にはこの作品に出てくる半魚人は、探検隊のメンバーを次々と襲う彼ら自身の行動様式のレベルだけを考えるならばそのようなセンチメンタルなコメントに合うような行動はまったくしてはいないのであり、モンロちゃんのそのような解釈は、単純にこの作品を解釈する限りは恐ろしく想像力のたくましい人でなければ出てこないでしょう(しかし、この作品を現代的視角から見ると別の側面も見えてくるのでありその意味においてはモンロちゃんの解釈は的はずれどころか極めて未来予言的であったと言えますがこれについては後述します)。要するに、モンロちゃんのコメントは実はこの作品について語っているというよりも、彼女自身について語っていたという方が正しく、彼女の気の良いキャラクターを強調する為に、そのようなセリフが挿入されているものと見るべきであろうということです。この作品の大きなポイントの1つとして挙げておかねばならないことに、「大アマゾンの半魚人」は1950年代の前半突如出現しあっというまに消えていった3D仕様で公開された作品であるという点があります。注意して見ていると、たとえば半魚人が水中から海面に手を突き出すシーンが必要以上に繰り返し挿入されているのは、明らかに3D効果を狙ってのことであろうということに気付きます。また、水面を泳いでいるジュリー・アダムスを半魚人が湖底から見上げている、あたかも20年後の「ジョーズ」(1975)を思わせるような構図も、恐らく3D効果を狙ったものではないかと考えられます。いずれにせよ、「大アマゾンの半魚人」というような相当いかがわしい材料が扱われている点は、3D映画のコンセプトとピタリとマッチしていたと言えるでしょう。何故いかがわしい材料が3D映画のコンセプトとマッチするかについては、「肉の蝋人形」(1953)のレビュー又は「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「彗星のように現れ彗星のように消えていった3D映画 《肉の蝋人形》」で述べましたのでそちらを参照して下さい。ここでは繰り返しません。ところで、監督のジャック・アーノルドは、この手の低予算SFホラー映画が得意であった人で、カルト的人気を誇る「縮みゆく人間」(1975)も彼の監督作です。従って、「大アマゾンの半魚人」は一見するといかにも安っぽそうな作品でありながらも、それなりに手堅くよく纏められており、この手の映画のツボは見事に押さえられている作品です。この辺のうまさは、たとえばハマー映画やロジャー・コーマンの作品などとも共通するものがあります。しかしながら、この作品は製作当時よりも現代的な視点から見返して捉えた場合の方がよりインパクトを大きくするような、もう1つの興味深い点が存在する点を指摘することができます。それは、昨今大きな話題になっている環境問題に関する何らかのケーススタディとしてこの作品を解釈することができるということです。勿論環境問題の先がけとなったレイチェル・カーソンの「沈黙の春」は1960年代初頭に出版されたのであり(残念ながら個人的にはこの著名な本は読んだことがありませんが、比較的新しいところでは1990年代後半に出版されたシーア・コルボーンらの「奪われし未来」などは賛否両論あるとしても環境問題関連では興味深い本です)、この作品製作当時は環境問題が大きな問題として取り上げられることは一般的にはなかったはずなので、この作品にそのような意図が明確に盛り込まれていたと見なすことは、モンロちゃんのコメント以上に的はずれになるかもしれません。しかしたとえ意図されてはいなかったとしても、そのような視点により後付けで見直してみることは何らかの意義があるのではないかと思われます。というのも、この物語は見ようによっては、外界と隔離され1つの自律的な環境世界を形成しているアマゾンの半魚人が住むブラックラグーンに(ラグーンとは一般的には海岸沿いに形成される潟湖のような地形のことを指すのではないかと思われ、アマゾン川を遡行したこの作品の内陸部の舞台とはそぐわない名称であるような印象がありますが、これは私めの印象の方が間違っているかもしれません)、主人公達が科学の名目で乗り込んでいき、さんざん自然環境を破壊し尽くし、その結果自然の代弁者たる半魚人の復讐にあい、結局科学という文明の利器をふりかざして優位に立つ主人公達が最後に半魚人達を殺戮して帰っていくストーリーであるとも解釈できるからです。そのような見解を取った場合、半魚人が哀れだというモンロちゃんのコメントもまんざら全くの的はずれとも言えず、もしかするとそれは未来の環境問題を既に見越しての発言なのかもしれませんね。この作品で、半魚人を捕らえるためにラグーンに白い粉末状の毒薬をバラ撒いて、しばらくすると魚が白い腹をみせてプカプカ漂っているシーンがありますが、まさにこのシーンはDDTなどの農薬によって鳥や魚が死んでいく様子を彷彿とさせると言っても過言ではないのではないでしょうか。1960年代以降であれば必ずやそのように極めてネガティブに解釈されるはずであろうこのシーンも、1950年代前半のこの作品の中では、いかにも半魚人を捕らえる為すなわち科学の為であれば何をしても構わないと言いたいがごとくに描かれており、現代の視点から見ると半魚人の醜い姿などよりもそのような感覚いやむしろ無感覚の方にギョッとさせられるのですね。モンロちゃんが、鉄砲で撃たれた半魚人が湖底に沈んでいくラストが殊に哀れだと述べていますが、そのような感情は醜い半魚人のみに対してのみではなく、かくして破壊されてしまったブラックラグーンという生態系全体に対する悲哀感の表現であるのかもしれません、と言えばさすがに我田引水ここに極まれりと言われそうですが、しかしながらモンロちゃんのコメントをもし正当化しようとするならば、半魚人達はブラックラグーンという生態系に侵入してきた主人公達から、自分達の生存にとって必須である環境を守ろうとしていると捉える必要があることは間違いないように考えられます。科学や産業奨励の為に環境を犠牲にすることに対して大きな留意がされていなかった時代の作品であるだけに、それが明確に意識化されるようになった今日の我々から見れば、ストーリーの中からそのような背景を見出すことはむしろたやすいと言えますが、同時代に製作された「七年目の浮気」の中で、この作品に言及して主人公達にのみ焦点を合わせた視角が全てではないということを示唆するかのようなセリフをモンロちゃんに吐かせたということは、「大アマゾンの半魚人」の主人公達が体現している科学の進歩に対する見解がかなり一面的であるということが無意識下であったとしても徐々に一般にも理解されるようになりつつあったということの証左になるかもしれません。最後にどうでもいいことかもしれませんが、この映画に出てくる半魚人の数はいったい何人(匹?頭?)なのでしょう。もしかして、一人(匹?頭?)だけ????


2007/08/22 by Hiroshi Iruma
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