肉の蝋人形 ★★☆
(House of Wax)

1953 US
監督:アンドレ・ド・トス
出演:ビンセント・プライス、フィリス・カーク、キャロリン・ジョーンズ、フランク・ラブジョイ



<一口プロット解説>
蝋人形作りの名人ビンセント・プライスは、放火魔に襲われて命からがら火災から逃出すが、顔面に醜い火傷を負い両手がきかなくなってしまう。そこで、彼はアシスタントとともに蝋人形を新しい方法で製作し始める。その方法とは・・・。
<入間洋のコメント>
 一般的には必ずしもメジャーであるとは言えないこの作品を取り上げた理由の1つは、この作品が3D映画を代表する映画の1つだからである。実を言えば、個人的には3D映画を3D映画として見たことは一度もないが、「肉の蝋人形」を見ているとフラットな画面を通じても朧気ながら3D映画とはどのようなタイプの映画であったかを窺い知ることが出来る。3D映画或いはステレオスコープ映画と呼ばれる立体映画は、ほとんど映画史と同じくらい古くからその可能性が模索されていたが、技術的な面或いは予算的な面から1950年代に至るまで実用化されることはなかった。1950年代に実際に3Dが実用化された背景には、勿論技術面での進歩ということもあるが、テレビという新しいメディアの出現によって映画界が晒されていた脅威に対抗する為に、映画でなければ体験することの出来ない付加価値要素の導入が死活問題であると考えられるようになったという事情もある。そのような状況下で1950年代前半に実際に実用化された技術として、3D技術とシネマスコープなどのワイドスクリーンプロセスが挙げられる。しかしながら3D技術に関しては、実際に適用されたのは僅か2、3年の間であり、その後は全く廃れてしまう結果となる。ワイドスクリーンプロセスが現在ではむしろ当たり前になっているのとは異なり、3D映画は全くの短命に終わってしまうわけである。その短命に終わった中で最も知られている作品として、「キス・ミー・ケイト」(1953)などと共にこの「肉の蝋人形」が挙げられる。またあまり知られていないかもしれないが、本書でも紹介予定のヒチコックの「ダイヤルMを廻せ!」(1954)も実は3D映画として公開された作品であり、グレース・ケリー演ずるヒロインが悪漢(アンソニー・ドーソン)に襲われるシーンで彼女が手を伸ばして鋏を取り悪漢の背中に突き立てる有名なシーンは、3Dを意識した構図になっている。それにも関わらず、現在では「ダイヤルMを廻せ!」が3D映画であることを強調する人などいない。それはあたかも3D映画であると言われること自体がいかがわしいことであり、名匠ヒチコックの名前を汚すことであるかのようでもある。

 実を言えば、この事実は3D映画が短命に終わった理由を示唆しているようにも思われる。というのも3D映画にはいかがわしげなイメージが付着しているのも事実だからである。結局3Dとはある意味で実際には存在しないものを幻視させる視覚のトリックのようなものであり、「のぞきからくり」的なイメージを払拭することが出来なかったということである。つまり、実際にはそうではないにも関わらず覗きをしているようないかがわしさがそこには存在するということである。それにも関わらず「肉の蝋人形」が3D映画として成功したのは、この映画自体がそのようないかがわしさにマッチした内容を持っていたからであり、3D映画が3D映画として真に成功したと言える例は、ほぼこの作品のみであるという事実には何の不思議もない。では何故この作品が3Dの持ついかがわしさとマッチしているかというと、テーマが蝋人形館だからである。そもそも蝋人形館という存在そのものがいかにもいかがわしい存在である。というのも、人形をなるべく生身の人間に近付けようとすることは、皮肉にも人形の存在意義からすると異端だからである。人形とは人の形と書くが、必ずしも生身の人間と同じリアルさで提示されるべきであるということがそれによって示唆されているわけではない。それどころか、人の形はしていても人ではないということが直ちに確認出来ることが愛玩対象としての人形の必要条件であるという方がむしろ正しい。従ってたとえば等身大の人形が奇異に見えるのもこの理由からである。勿論、デパートに飾られているマネキン人形は等身大であるが、それがあまり奇異に見えないのはマネキンが商品ディスプレイ用に有用なものであるという有用性の原理に基づいた価値判断が前提了解事項として見る側にあるからである。試しに夜中にただ一人デパートの衣類売り場でマネキン人形に囲まれて立ちつくしているところを想像してみれば、コンテクストが変われば事情は全く違ったものになるであろうことが容易に理解出来るだろう。これに対して、蝋人形のような有用性とは全く無縁な場合にはいかがわしさが必要以上に際立ち、またその点がそもそも蝋人形館という怪しげな娯楽施設の存在意義にもなるのである。逆説的な言い方をすれば、蝋人形館とはそこに飾られている人形達に関して、人形として本来あるべきではない側面が強調されているが故に発生するいかがわしさを見世物にするというかなりひねくれた動機があり、それを見物する側も心の底に何やらそのようないかがわしさを期待して好奇心丸出しでゾロゾロと蝋人形館に詰掛けるのである。一言で言えば、歴史の勉強をする為に、蝋人形館にやって来る者などほとんどいないということである。かくして、現実世界においてもいかにもいかがわしいイメージが付着している蝋人形館が舞台になっているこの作品は、3D映画の題材としては打って付けであったと言えるのではなかろうか。そうであるとすれば、「肉の蝋人形」といういかにもいかがわしさが滲み出ている邦題は、実に的確にこの映画の本質を表わしているとも言えよう。

 また、題材は別にしても、「肉の蝋人形」には3D効果をマキシマイズさせる工夫があちこちに散りばめられている。ヒチコックの「ダイヤルMを廻せ!」では、グレース・ケリーが襲われるシーン以外ではどれが3D効果を狙ったシーンであるかがほとんど識別出来ないが、「肉の蝋人形」では至るところにそれがある。たとえば、蝋人形館の客引きがラケットに紐でボールを括り付け、その玉を何度も何度もカメラの方向に向かって打ちつけるあまりにもあからさまなシーンから、幾多の蝋人形が遠く近くに配置された蝋人形工房の内部をカメラが移動しながら撮影していく冒頭のシーンなどの3Dメガネを通して見なければ直ぐにはそれと分からないようなシーンに至るまで、ありとあらゆるシーンで3D効果が多かれ少なかれ適用されていることが分かる。このようなハンドリングが常套的に行われるのが3D映画の特徴でもあり、それはまた大きな欠点に結びつくことにもなる。何故ならば視覚的に特殊な効果を狙ったシーンが次から次へと配置されると、ストーリー展開などのそれ以外の要素が軽視される傾向が避けられないからである。1970年代に突如出現し突如消えていったギミックに、超低音域の振動効果を利用したセンサラウンド方式なる立体音響効果があり(最もポピュラーな作品は「大地震」(1974)である)、3D映画同様いかがわしさばかりが際立つ結果となって結局すぐに廃れてしまったが、このような手練手管が逆効果になるのが映画というメディアだと言えるかもしれない。そうであるにも関わらず「肉の蝋人形」がある程度成功した理由は、そのような提示のされ方がなされてもそれ程その他の要素がダメージを受けない蝋人形館というかなり特殊なバックグラウンドがメインの舞台として設定されていたが故であることは前述した通りである。逆説的な言い方をすると、この作品の3D映画としての成功によって、むしろ3D映画の限界が浮き彫りにされてしまったと言えるかもしれない。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2001/01/13 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp