ヘルハウス ★☆☆
(The Legend of Hell House)

1973 US
監督:ジョン・ハフ
出演:クライブ・レビル、パメラ・フランクリン、ロディ・マクドウォール、ゲイル・ハニカット
左:クライブ・レビル、中:ロディ・マクドウォール、右:パメラ・フランクリン

科学者を含めた4人のメンバーによって構成される調査隊が、悪霊に取り憑かれた悪名高き屋敷「ヘルハウス」に乗り込んで散々な目に合うというストーリー展開は、かのロバート・ワイズの「たたり」(1963)と共通する面があります。しかしながら、そちらのレビューでも述べたように、「たたり」にはヘンリー・ジェームズ原作の「回転」(1961)にも似たサイコスリラー的な側面が見られるのに対し、「ヘルハウス」には全くそのような傾向は見られません。従って、「ヘルハウス」には、心理ドラマに由来するナラティブの曖昧性がほとんど見られず、その意味では「たたり」に比べると「ヘルハウス」は遥かに現代的で分かりやすいといえるかもしれません。とはいえ、21世紀に入った現在この「ヘルハウス」というオカルトホラーを見直してみると、やはりどうにも古い映画であるような印象を受けざるを得ません。というよりも、ホラー映画のパロディであるように見えてしまうという方が正しいかもしれません。個人的には、公開時にこの作品を見ることはありませんでしたが、それなりにおっかない映画であると世間一般では考えられていたことを覚えています。何しろ、タイトルは泣く子も黙る「ヘルハウス」です。当作品の宣伝予告で、ガタガタと揺れるテーブルの上で食器が踊り、シャンデリアがいきなり天上から落下し、暖炉が火炎竜のごとく火を吐くシーンが流されていて、まだ自分がお子ちゃまであったこともあってか、当時はそれがとてもとても怖い映画であろうと思っていたことを覚えています。ところが、これ見よがしのこのシーンを現在見ると、確かに映画館の大画面で見ればかなり違いはあることが予想されるとはいえ、おっかないどころか、笑いすらこみ上げてきます。勿論、コンピュータグラフィックなど存在しなかった当時の映像が洗練されていないことにもよりますが、それ以上に「ホラー映画の何が怖いか」という一種のコードのようなものが、当時と現在では異なることにもよるのでしょう。たとえば、「ヘルハウス」と同年に公開された「エクソシスト」(1973)の、リンダ・ブレアの首がくるりんと360度回転する有名なシーンを、現代のオーディエンスが見て怖いと思うでしょうか。むしろ滑稽に見えるのが普通ではないでしょうか。しかし、当時はあのシーンには衝撃的なインパクトがあったのです。つらつらと考えてみると、80年代のスプラッターホラーの隆盛などを得て陳腐化されることにより、このようなギミックは現在では通用しなくなったと考えられるかもしれません。通用しなくなったというよりも、そのような段階をとっくに通り越して滑稽に見えるようになってしまったと考えた方が正しいでしょう。このような歴史的経緯の他にも、「ヘルハウス」がホラー映画のパロディであるように見える理由はいくつかあります。端的にいうと、そもそも「ヘルハウス」は本当にオカルトホラー映画のパロディが意図されていたのではないかと考えられることです。そのような言い方をすると奇を衒っているように聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうではなく、今回見直してそのような印象を更に強く受けました。たとえば、ラストシーンには典型的にそのような徴候が見て取れます。ラストシーンでは、ロディ・マクドウォール演ずる調査隊の一人が悪霊に向かって「売女のかあちゃんから生まれたお前は、てて無し子(bastard)で、ちんちくりん野郎だ!」などと叫ぶと、何と!あろうことか悪霊が退治されてしまうのです。これには、思わずポロリと笑いがこぼれてしまいます。恐らく長いホラー映画の歴史を通じて、4文字言葉で罵倒されただけでだらしなく降参してしまう悪霊など他に例がないのではないでしょうか。悪霊が退治されたあと、ロディ・マクドウォールとゲイル・ハニカットが、周囲を鉛で覆われた秘密の部屋に侵入すると、そこには義足をつけた屋敷の主?が死んだ時そのままの姿で座っています。このシーンなどは、フランケンシュタインを代表とする古典的なホラー映画のパロディではないかとすら思えます。このような笑いさえ誘うシーンを見ていると、もしかすると「ヘルハウス」は、現在の目で見るがゆえに滑稽に見えるという以上に、そもそもホラー映画ジャンル全般のパロディが意図されていたのではないかとすら思えるほどです。そのように考えられる理由は他にもあります。たとえば、全編に渡って当該シーンが何月何日何時の出来事かであるかを示す時間経過のキャプションが時々画面の下部に表示される点が挙げられます。このようなキャプションは、ドキュメンタリー的なリアリズムを擬態する目的で使用されるのが普通であり、従って純粋なフィクションであるホラー映画で用いられることはまずありません。では、なぜホラー映画であるはずの「ヘルハウス」でそれが用いられているのでしょうか。その回答は明らかです。すなわち、「ヘルハウス」という作品では、リアリズムが擬態されていることをオーディエンスに示したかったからということでしょう。とはいえ、現在のオーディエンスであろうが当時のオーディエンスであろうが、この作品を見てリアルであると思う人はまずいないであろうことは、製作者にしても百も承知していたはずです。では、そうであるにも関わらず、なぜリアリズムの擬態を目的としたギミックを利用しようなどと思い付いたのでしょうか。これに回答するには極めて難しいものがありますが、ある種の視点のギャップを設ける意図がそこにはあったのではないかと個人的に考えています。つまり、途方もない非現実性を強調するために、現実性を強調する道具を拝借したのではないかということです。非現実性が強調される枠組みの中で非現実性が提示されるよりも、現実性が強調される枠組みの中で非現実性が提示される方が、より大きな非現実的効果が結果として得られることが計算されているのではないかということです。しかし、このような手段が取られると、現実性が強調される枠組みとその中で提示される非現実的な内容の間に存在するギャップが大きければ大きいほど、むしろ滑稽に見える結果になり兼ねないのは容易に予想されるところです。そのことは、当作品における科学の扱いの中にも見て取れます。近代科学の父とも見なされているかのニュートンさんは、実は陰でこそこそ錬金術に没頭してニタニタしていたなどという噂があるとはいえ、科学とはリアルなものであり、オカルトとは相容れないものであると本来考えられているはずです。従って、「ヘルハウス」でも、悪霊に取り憑かれたヘルハウスの謎を科学者が科学的に究明して、与えられた問題を科学的に解決するという、科学を擬態する図式が導入されているのです。ところが、「ヘルハウス」に登場する科学とは、エクトプラズムであるとか交霊会もどきの実験であるとか悪霊を追い払う珍妙な装置であり、昨今はやりの用語を用いればトンデモ科学なのです。つまり、リアルで実証的な科学という枠組みが与えられていながら、その内容は恐ろしく非現実的なシロモノであり、かくして現実性と非現実性の間に穿たれたギャップが笑いを誘うわけです。そもそも「トンデモ科学」そのものが、まさにそのようなものとして笑いを誘うのではないでしょうか。映画の製作者が意図的にそのような効果を意図していたか否かは別であるとしても、現実を表現するための枠組みの中に非現実な内容を強引にはめ込むと、その間にあるギャップは、やはり笑いを誘う結果になるのです。それから、オカルトホラージャンルには縁遠いクライブ・レビルを主演に据えている点もただの偶然ではないかもしれません。彼は、純粋なコメディアンではないとはいえ、通常の俳優にはない独特のしゃべり方とタイミングを持っているので、コミックな役割を演ずることが多く、また、たとえコミックな役ではなかったとしても恐ろしくエキセントリックな人物を演じているのが普通です。ホラー映画で、犠牲者となるはずの人物の振舞いがいちいちタイミングのはずれたものであっては、シリアスな内容が相対化される結果になり、心臓バクバクの折角の緊張感が緩んで具合が悪いことは火を見るよりも明らかです。従って、彼ほど、ホラー映画の主役を演ずるに不適格な俳優はいないと言っても必ずしも大袈裟ではないはずであり、よりにもよってそのような彼を主演に据えたのは、もしかするとわざとではないかという疑いが持たれたとしても不思議ではないはずです。すなわち、「ヘルハウス」は単純なオカルトホラー映画ではないというジェスチャーが、それによって込められているのではないかということです。そのように考えてみると、製作者の意図はとりあえず棚上げしておいたとしても、「ヘルハウス」は、殊に21世紀の現在となっては、オカルトホラー映画のパロディであるとして見た方が、そもそも面白いのではないかという結論が得られます。「エクソシスト」とどちらが先に公開されたかは定かに覚えていませんが、「エクソシスト」のパロディが「ヘルハウス」であったという図式にはなかなか興味深いものがあります。因みに、霊媒師を演じているパメラ・フランクリンは、冒頭でその名を挙げたホラー映画の傑作「回転」でデビューした当時は、まだ小さな小さな女の子でした。それから10年以上経った「ヘルハウス」でも、いまだに「She is practically a child!(彼女は、まだほんの子供だ!)」とクライブ・レビルに、当世風にいえばダメ出しされてしまうのはまことにお気の毒です。まあ、いずれにしてもチャーミングな女優さんです。一方のビューティ、ゲイル・ハニカットは、70年代当時は久々の大型女優の到来であると評されていた時期もありました。確かに彼女には、60年代末にマンソン一味に殺害されたシャロン・テートに似た華やかさがあり、或いは現在も活躍するキャンディス・バーゲンに似たところがあるかもしれません。しかし結局は、一山いくらの鳴かず飛ばずの女優さんで終わってしまったようです。独自性に欠けていた点が致命的だったのでしょう。ということで、「ヘルハウス」は、現在の技術水準を前提とすると迫力不足に見えますが、それだけにパロディ的に捉えると新たな面白味が見出せる作品であると個人的には考えています。多かれ少なかれSF映画なども同じ問題を抱えているのであって、50年代のSFは、ただ単にビジュアル的側面からだけ捉えられるとどうしようもない未熟さが現在では目立ちます。従ってどうしてもその点においては、パロディ、キッチュ、レトロなどといった相対化する視点を導入しなければならないところがあるのです。「ヘルハウス」も、もはやそのような相対化する視点の導入が必須であるような作品と化したとも考えられるかもしれません。


2009/2/23 by Hiroshi Iruma
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