たたり ★☆☆
(The Haunting)

1963 US
監督:ロバート・ワイズ
出演:ジュリー・ハリスクレア・ブルーム、リチャード・ジョンソン、ラス・タンブリン
左から:ラス・タンブリン、リチャード・ジョンソン、クレア・ブルーム、ジュリー・ハリス

「たたり」は、悪魔や悪霊に取り憑かれた屋敷を舞台とするホラー作品の1つであり、結構カルト的な人気があります。その為というわけではないとしても、70年代に入ると、悪魔や悪霊に取り憑かれた屋敷を舞台とする「たたり」の亜流とも見なせる類似の作品が続々と製作されました。その中でもジョン・ハフの「ヘルハウス」(1973)は、科学者を筆頭に男女それぞれ2名の調査員が調査の為に呪われた屋敷に乗り込むという設定においては、「たたり」に最も近い内容を持つ作品でした。何しろどちらの作品においても、調査対象となる化け物屋敷は「ヘルハウス」と呼ばれています。但し、やはり60年代の白黒作品と70年代のカラー作品では異なる点も多く、これについては後述します。ここで個人的な話をすることを許して頂くと、実は「たたり」はかなり最近になって初めて見た作品です。というのも、かつて海外の映画ファンとメイル通をしていた時に、この作品は怖いぞというようことを聞かされていたので、おっかない映画をそれ程好んで見ることのない小生は、君子危うきに近寄らずで敢えて捜したり注文したりしてまで見る気にはなれなかったからです。またレオナルド・マルティン氏のレビューにも「一人で見るべからず」と書かれていたので、どれ程怖い作品なのだろうかと思っていました。そのような情報を吹き込まれた状態で、実際に作品を見た時の印象はどうであったかというと、少なくとも日本人であれば、「たたり」を怖い作品であると思う人はほとんどいないのではないかという印象を受けました。この作品に限らず海外ホラー映画一般について当て嵌まることですが、あちらの怖さの基準と日本のそれではかなりズレがあるように思われ、日本人の目からすると海外ホラーは怖さという点ではどうも何かが欠けているのではないかという気がして仕方がないのです。その点に鑑みると、昨今の日本のホラー映画の隆盛はまさに海外ホラー作品に欠けているものが日本製ホラー映画にはあるからではないかと考えられます(考えられますとは、昨今の日本のホラー映画を見たことはなく噂に聞く内容のみで判断しているからです)。というのも、海外ホラー映画に出てくる悪魔や亡霊は、あまりにも実体化され過ぎ、アグレッシブすぎるきらいがあるからであり、いるのかいないのかも定かではない薄明状態の中で何の意味もなく、また何の前触れもなくヌーと現れる日本の怪談の幽霊の怖さにはとても及ばないように思われるからです。実は「たたり」には、視覚的な実体として悪魔や亡霊が出現することはまったくありません。この点では、オーディエンスの想像力に訴えかけ、それによってそれなりの緊張感が醸し出されるがゆえに、下手に悪魔や亡霊を出現させるよりは、少なくとも初めて見る際にはかなりの効果があります。殊に陰影のある白黒の画像は、この手のホラー映画としてはベストの1つであると評せるでしょう。しかしその雰囲気を見事に壊してしまうのが、「音」です。「たたり」では視覚的に実体化された悪魔や亡霊が登場しない代わりに、ドアや壁を通して聞こえてくる「音」が亡霊の存在を示す一種のインデックスとして機能しています。ところが、この「音」がどうにもいけません。あまりにも大きくあまりにもアグレッシブなのです。無気味な音がどこからともなく聞こえてくるというのであれば怖さは倍増しますが、ドカンドカンというまるで工事現場の騒音ではなかろうかと思われるような威圧的な音響で迫ってくるのであれば、それはホラー映画の音響効果ではなく怪獣映画のそれであり、それによってホラー映画本来の怖さは恐ろしく希釈されてしまうこと必定です。この辺は、前述したように彼我の文化の違いが見事に顕現しているということかもしれません。彼我とは勿論西洋と日本のことを指しますが、西洋的な怖さの概念の基本はあくまでも物理的な危害が加えられるか否かに置かれているように思われ、怖さを与える主体がアグレッシブであればある程ホラーとしても怖いのではないかと考えられているフシが見受けられます。勿論、日本の怪談の中では、あの世の幽霊がこの世の人間に危害を加えることはないと言いたいわけではなく、怖さの描写に関して、西洋では、それがたとえ超常現象といううわべを装ってはいたとしても、現実の社会や政治力学の中に最も典型的な形で見出される、たとえばパワーやフォースなどの極めて俗世間的な要素が背景に濃厚に存在するのではないかという印象を抱かざるを得ない点を指摘したいのです。これに対して、耳なし芳一や四谷怪談のような怪談物語を聞かされて育ってきた日本人は、悪としての「パワー」の行使が強調される西洋流の悪魔志向的な怖さの観念は、現象の説明不可能性を強調する怪談志向的な怖さの観念とは全く異なると見なすのが普通であり、日本人がホラー映画に求める怖さは前者に対してではなく後者に対してであると考えられます。そのようなわけで、日本の怪談志向的な怖さを「たたり」に期待しても「なんだがっかり」という感想を抱かざるを得ないように思われ、それを期待するならば本場日本のホラー映画を見た方が遥かに確実に満足感が得られるはずです。しかしながら、そのような日本人好みのエッセンスを海外作品に期待して、それが全く欠けているがゆえにダメ出ししていては、それとは別のエッセンスを見逃してしまうことになります。そこで次に、「たたり」という作品のエッセンスはどこに求められるべきかについて検討することにしましょう。それを行うにあたって比較の対象として述べておきたいのが、70年代に入ってからの海外ホラー映画に一般的に見られる傾向についてです。実は70年代には、様々なタイプのホラー映画が製作されており、必ずしもそれら全ての作品について等しく当て嵌まるわけではないとしても、少なくとも「エクソシスト」(1973)や「オーメン」(1976)等のメインラインの作品について見出される特徴について思い出してみることにしましょう。簡潔に述べると、それは宗教的コノテーションが色濃く含まれる点であり、たとえば神父、教会、十字架等が重要なアイテムとして登場することです。というよりも、悪魔的なイメージ、或いはもっと直裁な言い方をすると「アンチ・キリスト」のイメージを色濃く反映させるために、そのようなアイテムが持ち込まれているのです。詳しくは、いずれそれらの作品のレビューで述べるつもりですが、世俗化された黙示録的テーマが頻繁に見出されるようになるのが70年代のホラー映画であったように考えられます。それでは、それに対して60年代はどうであったのでしょうか。60年代のホラー映画としてすぐに思い浮かぶのは、クリストファー・リー、ピーター・カッシング、ビンセント・プライスらが主演したハマー映画等の低予算ホラー映画ではないでしょうか。彼らの出演した作品は、たとえばドラキュラ作品を考えてみれば分るように、たとえ十字架のような宗教的なコノテーションを孕んだ小道具が登場するとしても、それらはむしろストーリーを展開させる為に利用されているというのが内実であり、必ずしもそこに宗教的な意味合いが強く籠められていたり、ましてやアンチ・キリスト的イメージが付与されていたりしたわけではありません。すなわちそれらの作品は70年代的な黙示録的テーマとは縁遠い存在であり、むしろモンスター映画として分類されるべきであると考えられます。それとは別に60年代のホラー映画の典型として思い浮かぶのが、ここに取り上げる「たたり」と、ヘンリー・ジェームズの「ねじの回転」を原作とする「回転」(1961)です。この2作の独自性は、ホラー映画が持つ展開の中にサイコスリラー的な曖昧性が加味されており、また70年代ホラー映画に特徴的な黙示録的色合いは全く存在しない、というよりも宗教色そのものがほとんど全く存在しない点に見出せます。「たたり」に極めて類似した作品である70年代の「ヘルハウス」においては、科学によって化け物屋敷の秘密を解き明かす主人公を登場させながら(或いはそれゆえにかもしれませんが)、結局チャペルや十字架のような小道具を登場させどうしてもそこに黙示録的な色合いを加味せざるを得なかったのに対し、「たたり」の大きなポイントは、主人公の一人であるオールドミス(ジュリー・ハリス)の屈折した心理状態に起因するナラティブの曖昧性に存在します。その何よりの証拠として、「たたり」には時折、彼女の内面的な心理状態を暴く独白的モノローグともいえるナレーションが挿入されていることを挙げることができます。さすがに「回転」とは異なり、他の3人の登場人物が常に居合わせる「たたり」の場合には、作品全体がジュリー・ハリス演ずるオールドミスの主観的視点から見られた内面描写であるとする無理な解釈を適用しない限り、ストーリー全体を解釈するカギを彼女の妄想に求めることは困難ですが、しかしいずれにせよ彼女のメンタル面での脆弱性がストーリーを牽引していることに間違いはありません。多少大袈裟になるかもしれませんが、彼女の内面的な脆弱性が作品全体に曖昧で両義的な色合いを与えており、直接そのことがホラー映画としての怖さに結びつくか否かは別にしても、オーディエンスの内面に対して不安定な印象を与えることに間違いはないでしょう。そのような曖昧性、両義性が最も巧妙に描かれている作品の典型例が、寡作な映画監督ジャック・クレイトンの傑作ホラー映画「回転」なのです。そもそもヘンリー・ジェームズの原作自体の持つ曖昧性に関係する論争が、映画ファンはおろか世界中の英米文学を専攻する大学教授達にメシのタネを供給してきたくらいなのです。かくして、「たたり」の持つそのような特色を考慮するならば、「Variety Movie Guide」の以下の「たたり」評は、一見正しく見えながらも少し的はずれであるように思われます。

◎ギディングのシナリオは時に不明瞭であるが、この映画の一番の欠陥は、自らが課したテーマ的な動機を最後まで貫徹しないことである。超常現象に関して最後に何らかの科学的結論が得られるかのような期待をオーディエンスに対して抱かせるような入念な導入が行われた後、この作品はそのような点を完全に回避して、なまくらでメロドラマティックなクライマックスを提示することで満足してしまう。
(Gidding's scenario is opaque in spots, but its cardinal flow is one of failure to follow throught on its thematic motivation. After elaborately setting the audience up in anticipation of drawing some scientific conclusions about the psychic phenomena field, the film completely dodges the issue in settling for a half-hearted melodramatic climax.)


確かに「たたり」には、超常現象の解明を途中で放棄して(たとえば、くだんの「音」の正体については最後まで何も説明されません)、最後に全く関係のないメロドラマティックなクライマックスへとストーリーが完全に逸らされてしまったかの感があることは否めないところです。しかしながら、もともと超常現象の解明よりもサイコドラマの展開の方に主な意図が置かれていたと捉えるならば、この印象は瞬く間に氷解します。少なくとも個人的には、この作品は最後に何らかの科学的結論が与えられべき探偵物語的ストーリーが提示されているのではなく、前述の通り精神状態が不安定なオールドミスを主人公とする曖昧で両義的なストーリーが語られていると見なしています。従ってその意味においては、類似の作品である「ヘルハウス」が最後に超常現象に関して何らかの解を与えようとやっきになっていたのとは異なり、「たたり」に解は不要であったと考えています。尚、「スピード」(1994)のヤン・デ・ボンによるリメイク(1999)がありましたが、そちらは想像力が麻痺しそうなCG過多作品で全くいけませんでした。


2007/09/03 by Hiroshi Iruma
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