スピード ★★★
(Speed)

1994 US
監督:ヤン・デ・ボン
出演:キアヌ・リーブス、サンドラ・ブロック、デニス・ホッパー、ジェフ・ダニエルズ



<一口プロット解説>
エレベーターに人質を取り一儲けしようとして捜査官のキアヌ・リーブス等に邪魔されたデニス・ホッパーは、彼らに復讐しようとして高速道路を走るバスに爆弾を仕掛ける。
<雷小僧のコメント>
どうも最近のアクション関連の映画を見ていると今一堪能したという気分になれるものがないのですね。これについて、つらつらと考えて見ると少なくとも2つの要因があるように思われます。まず1つは、どうも最近のアクション映画(必ずしもアクション映画に限らないのですが)は現実感が希薄であるというかある意味において非常に抽象度が高いのではないかということです。確かに映画というものには、映画の主人公という1つのパーソナリティに感情移入することにより普段日常ではあまり起こりそうもないことを代行的に(ちょっと日本語ではこれ以上いい言葉が思い浮かばなかったのですが、英語で言えばvicariouslyが最もよく適合します)体験することを可能にするという要素があるはずであるとも言えるでしょう。けれども、これにも限界があるわけであり、映画が描く対象が我々が通常暮らしている生活世界とはかけ離れていけばいく程、その映画の抽象度も比例的に増大していくと考えるべきでしょう。分かり易い例を挙げてみましょう。これは最近のアクション映画ではないのですがスタンリー・キューブリックの映画に皆さんご存知の「2001年宇宙の旅」(1968)があります(余談ですが、もうすぐこの2001年にならんとしているのですが、どうもこの映画が描いているような宇宙探検が可能にはまだなっていないですね。1968年と言えばアメリカやソビエトがしきりに月ロケットを打ち上げていた頃で、あのペースでいけば2001年頃には、この映画で描かれているような宇宙旅行が可能になるであろうと思われていたのかな?)。この映画が扱う内容というのは、当時であれ今日であれ、日常生活とは大きくかけ離れたものであり、いわば我々が通常体(からだ)で理解している現実世界からは大きく逸脱というか遊離したものであると言えます。かの映画が、たとえばモノリスであるとか最後のシーンであるとかいうような非常に観念的に抽象化された事物や事象を持ち出しても映画全体のバランスが全く崩れていないのも、この映画自体が最初から現実生活から乖離度の高い、従って抽象度の高い映画であるからなのですね。それから最近の話題になった映画を挙げてみますと、「マトリックス」(1999)があります。たとえば、この映画では、受話機を使用して2つの世界を行ったり来たりするのですが、見ている観客がこういうシーンを受け入れるには、まず映画自体を自分達自身の現実生活から遊離させ、映画鑑賞モードにおける抽象度を非常に高めておく必要があるわけです。勿論、この抽象度には段階があるわけで今挙げた二つの映画は非常に抽象度の高い方の映画であると言えるのですが、一般的な言い方をすると最近の映画、殊にアクション関連の映画は、この抽象度が暫く前と比べて非常に高くなっているように思われます。
さてもう1つの要因ですが、これは最近の撮影機器や録音機器の性能の向上とも大いに関係があるように思われるのですが、視覚や聴覚等の感覚器官に対する映画自体の持つ情報量がいやが上にも肥大しているということが挙げられるように思います。これは第1に挙げた要因にもかかわらず、映画自体のリアリティというか具体度を増大させるはずであるように思われるかもしれません。でもこれは少し私目は違うように思います。何故なら、現実生活という文脈でのリアリティ度というのは、決して視覚や聴覚等の感覚器官に対する情報量が増すにつれて増大していくような性質のものではないからです。むしろ事実はこの逆であり、我々の持つ感覚器官というのは全ての情報を受け入れるパッシブな器官どころではなく、必要な情報を選択し必要でない情報を切り捨てる能動的且つ取捨選択的な器官なのです。これは、20世紀の(今世紀と書かなかったのは、もうすぐ21世紀になるので来年になって書き直すのは面倒だからです)有名な哲学者メルロ・ポンティの「知覚の現象学」(みすす書房、法政大学出版局)を読んでもよく分かります。彼は、知覚というのは必要な情報を前景として取り出し必要でない情報を背景に押しやる能動的な作用であると述べています。従って、近年の感覚器官に対する映画自体の持つ情報量の増大というのは、リアリティの増大を比例的にもたらすわけでは決してなく、逆に情報過多によるその混乱をもたらすという方がより事実に近いのではないでしょうか。それから、それに付随して情報の正確さに関する誤解もあるように思います。すなわち、情報量の多さ=情報の正確さという等式にはならないのです。何故ならば、情報の正確さとはそれを受け取る側の取るポジションとの相関関係の問題なのであり、情報量が増大すればする程そのポジションとは無関係な情報も増えるわけであり、切り捨てなければならない情報が増える分、逆に言えば正確さが減少してしまうわけです。最近の映画がどうも皆どれも同じように見えて仕方のない理由の1つにこれがあるように思われます。すなわち、情報量が多すぎて、映画製作者が映画を通じて構成したい或は伝えたいリアリティを、オーディエンスの側が拾い切れてはいないのではないかということです。一言で言えばリアリティとは情報の量という関数に関する問題では決してなく、情報の選択プロセスに関するものであるということです。昨今よくバーチャルリアリティということが言われていますが、リアリティとは決して情報量の増大に伴って比例的に増大していくものではないという認識がそこには欠けている印象があるように思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか。
と、ここにきてやっと、表題の「スピード」が登場します(やれやれ、こんなに長い間当の映画について触れられない映画レビューも珍しいなと我乍ら感心しています)。この「スピード」という映画は、第一番目の抽象度という点に関しては非常にうまく処理されているのですね。何も抽象度が高い方がよくないということを意味しているのではないのですが、この「スピード」という映画は昨今のアクション映画としては非常に抽象度が低いのです。たとえば、この映画は、エレベーター、バス、地下鉄等の普段我々が見慣れたというか乗りなれた乗物が舞台になっています。いわば日常生活に非常に近い舞台で映画が進行するわけであり、この点に関して我々はこの映画を見る時日常生活からの映画自体の乖離という操作を意図的に或は無意識的にする必要がないわけです。これがこの映画にとって何故重要であるかと言うと、明らかにタイトルの「スピード」(原題も同様)が示すようにこの映画はスピード感に強調点があると思いますが、日常生活からの乖離という操作が発生してしまうとスピード感という現実感覚に基いた感覚を演出するのはまず不可能であろうからです。何故ならスピード感というのは一人称的なものであり、抽象度が高まれば高まる程この一人称的な要素が希薄化し三人称的(或は総称的)な要素が濃厚になるからです。極端な言い方をすれば、「2001年宇宙の旅」のような映画でスピード感を出そうなどとは誰も思わないでしょう。これは、たとえ宇宙船の速度は、バスの速度に比べようもなく速いと言ったところで真なのです。何故なら、現実的な生活から乖離されたところには、スピード感というのは発生し得ないからです。こういう点が、この「スピード」という映画はうまいのですね。決して、これは現実的ではないなという点を越えては進まないのです。確かに、たとえば一台のバスが、工事中の高速道路の未完成区間のギャップを飛び越えるなどということは、物理的な法則から考えても有り得ないわけですが、けれどもそういう論理的に不可能な場面があるからと言って、それが抽象度を増すわけではないのです。というのは論理的な実現可否が抽象性を直接的に決定するわけではなく、現実的であるという感覚は現実的に発生し得るということと等価であるというよりは、我々見る側の内的な世界観とその映画が示すリアリティがいかに過不足なく適合し合うかにかかっているということであり、また第2の要因のところでも述べたように必ずしも情報の多さ或はそれに伴って増大するとともすると考えられがちな情報の正確さが我々の抱くリアリティを構成するわけではないからです。この意味においてはバスがギャップを飛び越えることは現実的で有り得ても、電話の受話機を通して2つの世界を行き来するのは現実的ではないことが十分に有り得るのです。
それから、舞台が地上であるということがこの映画を非常にスピード感あるものにしています。まあ比較対象物がふんだんに与えられているということで、実に単純にわかり易いのですね。これに対してこの映画の続編である「スピード2」(1997)は見事に失敗していました。風景が遠景的になる海を渡るクルーザーを舞台にしてしまっては、まあ絶対にスピード感など出ないでしょう。言わば柳の下に二匹めのどじょうを狙って、柳はおろか全然関係のないヤシの木の根元を堀ったようなものです。最後に「スピード」の配役について触れておきますと、私目はどうもキアヌ・リーブスには通常はうーーーーん???と思ってしまうのですが、この映画では彼で良かったような気もします。それは一般に思われているように彼がこの映画でカッコ良かったからというのではなく、逆にそれ程カリスマ性があるようには見えない彼の方が、たとえばトム・クルーズやブラッド・ピットを持ってくるよりも現実的なように思われるからです。それからデニス・ホッパーは相変わらずという感じがありますが、ああいうような執拗に狂った輩を演じさせて彼の右に出る人は今はいないでしょうから仕方のないところかというところですね。後、サンドラ・ブロックがいいですね。今どきの女優さんで彼女のような親近感を持っている人はちょっと珍しいような気がします。よく知らないのですが、彼女はきっと実生活でも気立てがいい人ではないのでしょうか。別に映画の役と実生活を混同するつもりはないのですが、そうでなければ映画の中での彼女のそういう印象もなかなか出せないような気がするからです。そうそうそれから全然関係ないのですが、あるスピード以下に減速すると爆弾が爆発するという設定は、何やら70年代の日本映画「新幹線大爆破」を思い出しますね。まあ、でもパクッたわけでもないのでしょう。

2000/10/08 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp