チェンジリング ★☆☆
(The Changeling)

1979 CA
監督:ピーター・メダック
出演:ジョージ・C・スコット、トリッシュ・バン・ディバー、メルビン・ダグラス、ジョン・コリコス

左:ジョージ・C・スコット、右:トリッシュ・バン・ディバー

しばらく以前、名匠ロバート・ワイズのホラー映画「たたり」(1963)を取り上げましたが、その中で1970年代に入るとこの作品の亜流とも言えるような悪魔に取り憑かれた屋敷を舞台とする類似の作品が続々と製作されたことを述べました。「たたり」のレビューでは、設定的に最も近似した作品である「ヘルハウス」(1973)についてのみ言及しましたが、アメリカ産の作品としてはその他にはたとえば「家」(1976)、「悪魔の棲む家」(1979)などを思い出すことができます。ここでさっそく脇道に逸れますが、これらの作品の原題と邦題を比較してみると興味深いことに気付きます。それは、「ヘルハウス」に関しては原題と邦題はほぼ同じで日本語にすれば「地獄の家」ということになりますが、それ以外の2作に関しては邦題では「家」が強調されているのに対して、原題はぞれぞれ「Burnt Offerings」と「The Amityville Horror」であり確かに家屋敷が舞台ではありながらもタイトル上では必ずしも家に強調点がおかれているわけではないことです。少し大胆な見方をすると、これは必ずしもタイトルだけに限定されることではなく、アメリカと日本ではやや異なった視角からこれらの作品が眺められているのではないかということを示しているようにも考えられます。すなわちアメリカではアンチキリストとしての悪魔学的パースペクティブがそこには反映されているように考えられるのに対して、日本の場合は祖霊信仰的で呪術的なパースペクティブから捉えようとする意図が含まれているのではないかということです。日本人にとって家とは、自然信仰としての土地やそれに結び付いた祖先礼拝と強く結び付いているのに対し、歴史の浅いアメリカでは家という具体的な対象物よりも、たとえ家がストーリーの展開される舞台であったとしてもむしろより観念的で抽象化された悪魔学的な側面の方が際立っているのではないかということです。考えてみれば日本語の「家」と英語の「house」とでは、指示対象となる実体は同一であってもそこに含まれるコノテーションは相当異なるように思われます。というのは余談ですが、いずれにせよこれらの作品は、内容面で見ればいずれもこけ脅しのようなオカルト的展開に傾くことが多く、どうしてもBクラス以下という印象を受けざるを得ません。そのような展開になってしまうと、たとえば「エクソシスト」(1973)や「オーメン」(1976)のような(恐らく)おゼゼをかけたメインラインの作品に比較されるとどうしても見劣りがする結果にならざるを得ないでしょう。その点で云えば、カナダ産の作品である「チェンジリング」は、それらの作品とはやや趣きを異にした側面があると同時にアメリカ産の作品に見られるのと同様な陥穽にやはり最後は結局陥ってしまったような印象があり、プラス面マイナス面の双方を含んだ両義的な傾向を見てとることができます。「チェンジリング」の監督は、ハンガリー生まれのピーター・メダックですが、彼は1956年のハンガリー動乱の折に国外脱出ししばらくはイギリスで活躍していました。彼の作品で最も評価が高いタイトルは、1970年代前半に製作された二本のブラックコメディすなわち「A Day in the Death of Joe Egg」(1972)と「The Ruling Class」(1972)ですが、横文字で記したことからも分るように残念ながら日本ではどちらも劇場未公開のようであり、恐らくビデオ等でも発売されていないのではないかと思われます。個人的には、アラン・ベイツ主演の前者は全く見たことがなくDVDの発売を首を長くして待っているところですが、後者はCriterionから発売された折にさっそく購入しました(実を言えばCriterionから販売されているプロダクトは、他のメーカーのものより遥かに値が張り、送料まで考慮すると日本国内で販売されている売れ筋ではないタイトルのDVDプロダクトに付けられているほとんど暴力的とも云える値段に匹敵するほどなので、のどの余程奥の方から手が出ない限り買わないことにしており、我慢し切れずに現在までに実際に買ったのは、この作品の他にはアンソニー・アスキスの50年代前半の傑作2本すなわち「The Browning Version」(1950)と私めのオールタイムベスト3の中の一本と云って良いオスカー・ワイルドの傑作戯曲の映画化「The Importance of Being Earnest」(1952)、及び最近購入したビリー・ワイルダーの隠れた名作「地獄の英雄」(1951)のみです)。「The Ruling Class」は、階級批判と共に神聖冒とく的な側面を持つブラックコメディであり、このどちらの面に関してもすなわち階級という点でもキリスト教という点でも馴染みが薄い日本人が見たならばいまいち理解が困難であるはずの内容を持っています。その意味では、ピーター・オトールが主演し、のみならずアカデミー主演男優賞にもノミネートされているにも関わらず日本劇場未公開であるのも納得ができますが、しかしながらいずれにせよこのことからもピーター・メダックは、単に華々しいエンターテインメントのみを追求するような監督さんではなかったということが看取できます。そのメダックの良い面が、「チェンジリング」の前半では生きていて、抑制の効いたリアルな展開はこの手のホラー映画にはあまり見られないシリアスなトーンに充ちています。このような言い方をすると、そもそもホラー映画はコメディではないのだからシリアスであるに決まっているではないかと思われるかもしれませんが、シリアスをどのように定義するかにもよるとはいえ、たとえば「エクソシスト」、「オーメン」、「ヘルハウス」、「家」、「悪魔の棲む家」のようなホラー映画は陰惨ではあってもシリアスであるとは個人的にはあまり考えていません。どこに違いがあるかというと、リアルさよりも芝居がかったわざとらしさの方が際立ってしまうと、それはシリアスであるというよりは陰惨且つ途方もない一種のおとぎ話のように見えてしまうのですね。確かに「チェンジリング」も遺産目当てのジョージ・C・スコット演ずる主人公の音楽家が新しく借りた屋敷にオヤジに殺された幼い息子が取り憑いているという設定に関しては、おとぎ話的な途方もなさでは他のホラー映画とさほど大きな違いはありませんが、前半はむしろ主人公の性格付けなどにも留意がなされていて、単なるこけ脅しのホラー映画に終わらないような工夫が見られます。この作品は、主人公の奥さんと娘が交通事故で死んでしまうシーンから開始されますが、実はその事故自体はストーリーのその後の展開には全く何の関連もありません。従って、始めの内は何故そのようなシーンが冒頭に挿入されているのか疑問に思わざるを得ないこと必定ですが、実はこれはジョージ・C・スコット演ずる主人公の音楽家が極めて精神的に不安定な状態にあることを示す為に挿入されているのであろうということにやがて気付くことができます。つまり、彼は幽霊屋敷を借りた時、ルンルン気分のハッピーな家族持ちでもなければ、独身貴族を謳歌し耽美的な快楽にふけるドリアン・グレイのような人物でもなかったということが示唆されているのであり、主人公は最初からメランコリーを抱えた複雑な人物として登場していることになります。それでなくとも音楽家という設定は、主人公が極めてセンシティブな人物であることを示唆しているのであり、前半は殊に彼のそのようなパーソナリティが、屋敷で起こる不可思議な現象と関連しているのではないかという印象があり、サイコサスペンス的な色合いをそこには見出すこともできます。主演のジョージ・C・スコットは、「ホスピタル」(1971)ではメランコリーに陥った自殺願望の医師を、ある意味で極めて芝居がかったとも云うべき強烈なパフォーマンスで演じていましたが、この作品ではむしろ抑制されたリアルなパフォーマンスによりメランコリックな音楽家を演じておりこの作品のリアルな雰囲気に大きな貢献をしています。メルビン・ダグラスもそうですが、ジョージ・C・スコットという俳優さんは良い意味でも悪い意味でも極めて手堅い俳優さんでした。また降霊術によって亡霊とコンタクトしようとするシーンなどは、定番のコックリさん的なまたかと言いたくなるような使い古されたイメージではなく新鮮味があり、細かな面でも留意が払われていることが分ります。しかし残念ながら、殺された息子の死に関する真の理由の調査を主人公が開始し、メルビン・ダグラス演ずる議員がそれに何らかの関連があることを突き止める終盤に差し掛かるあたりから(ジョン・コリコス演ずる刑事が転倒した車の中で死ぬあたりから)、折角の雰囲気が加速的にブチ壊しになっていきます。勿論ミステリー的要素が加えられていることはプラス要因ではありますが、肝心の詰めの部分で扇情的で安易な方向に走ってしまうのですね。かくして、亡霊の復讐によって屋敷が火炎に包まれるラストシーンでは、「あーーあ、やっぱりこういう展開になってしまったか」とため息をつかざるを得ない大向うを張ったド派手な展開になってしまいます。これでは主人公の性格付けも何も一編に消し飛んでしまいます。ラストシーンの直前で、トリッシュ・バン・ディバーが空の車椅子に追いかけられるシーンなどは、それまでの展開を全く帳消しにしてしまう(たとえば降霊術師を呼んでまで亡霊とコンタクトしなければならなかったのにこれはどういうこっちゃと思えてしまうのです)どころかむしろ笑いさえ誘うと言った方が正解かもしれません。この作品は、この手のホラー映画としてはあちらではかなり評価がされている作品ですが、そのようなわけで、個人的には終盤までの部分に関してはそれなりに高く評価しますが、ラストスパートの部分で結局「one of them」に成り下がってしまったような印象があると言わざるを得ません。それでも、このタイプの作品の中では、殊に前半は雰囲気的にも抜群であり最も良い作品の中の1つであるものと見なせるように思います。因みにチェンジリングというタイトルですが、この作品ではメルビン・ダグラス演ずる議員が実は殺された病弱な息子の代わりであったという「取替え子」の意味で使用されていますが、辞書をひくと民話などで「妖精がさらった子供の代わりに置いていく小妖精」のことを指すともあり、そのようなコノテーションも意識されているのでしょう。敢えて指摘する必要はないと思いますが、最後に付け加えておくと、主演のジョージ・C・スコットとトリッシュ・バン・ディバーは実生活では夫婦でした。ただ後者に関して云えば、彼女の声を聞くとカール・ライナーのカルト的人気のあるコメディ「Where's Poppa?」(1970)での舌足らずなしゃべり方を思い出してしまうので、この手のホラー作品では少々具合が悪いですね。


2007/10/17 by Hiroshi Iruma
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