札束とお嬢さん ★★☆
(Cash McCall)

1960 US
監督:ジュセフ・ペブニー
出演:ジェームズ・ガーナー、ナタリー・ウッド、ディーン・ジャガー、ヘンリー・ジョーンズ

左から:ディーン・ジャガー、オットー・クルーガー、ナタリー・ウッド、
ジェームズ・ガーナー

「札束とお嬢さん」とは、また随分と変わった、まるで食い合わせのような奇妙な邦題が付けられています。とりわけ「札束」という言い回しが映画のタイトルとしては随分と即物的であり、そもそも実際のところ、作品中には、札束が舞うシーンはおろか、紙幣一枚ですら見られません。では、なぜそのような邦題が付けられているかというと、ジェームズ・ガーナーが演じている主人公のキャッシュ・マッコール(それが原題です)は、「ウォール街」(1987)でマイケル・ダグラスが演じていたゴードン・ゲッコーのはしりのような不埒な人物であるものとして世間で噂されているキャラクターだからです。「ウォール街」に登場するゴードン・ゲッコーがどのような人物で、どのような阿漕なまねをしていたかについては、そちらのレビューを是非とも参照して頂きたいところですが、一言でいえば、彼は、普通に株の売買を行うだけでは飽き足らず、優良なれどどこかに弱みを抱えている会社を見つけ出しては、その会社の株を買占め、経営権を握った後、従業員を解雇し、やおら資産をばら売りし始めるいわゆる乗っ取り屋なのです。ここに取り上げる「札束とお嬢さん」も、「ウォール街」と同様、マネーゲームがはびこるビジネス界を舞台とする作品なのです。また、主人公の名前がキャッシュであることに鑑みると、邦題中にある「札束」とは、実はジェームズ・ガーナーが演じているキャッシュ・マッコールのことを隠喩的に表していることが分かります。因みに、マッコール自身の説明によれば、「キャッシュ」とは、彼の母親の旧姓ということのようです。では、彼がどれほどゴードン・ゲッコーに近い人物であると世間では考えられているかというと、それは、企業コンサルタントのギルモア(ヘンリー・ジョーンズ)が、キャッシュ・マッコールという男を知っているかと顧問弁護士?のハリソン・グレン(エドワード・プラット)にきかれて、それに返答する序盤のシーンで明らかになります。以下にその会話を挙げておきます。

ハリソン:君は、彼を知っているのかね?(Do you know him?)
ギルモア:彼のようなタイプなら知っている。(I know the type.)
ハリソン:それは、どのようなタイプだね?(What type is that?)
ギルモア:はげ鷹、ジャッカル・・・(Vultures, Jackals・・・)
ギルモア:やつらは、ちょいと問題を抱えている優良な会社をあさって、うろつきまわっている・・・(They prowl around looking for a good company that's having a little difficulty・・・)
ギルモア:(そんな会社が見つかれば)ただも同然で買収して、それからやおらそれをばらばらに引き裂き始めるんだ。工場を閉鎖し、税金による目減りを見越してバラしちまう。(buy it up for practically nothing, and then they start pulling it to pieces. Close the plant down, and spin it off for a tax loss.)
ギルモア:やつらがあぶく銭を儲けているあいだに、町中が職を失ってしまうんだ。(They throw a whole community out of work just to make a fast buck.)


まさに、これは「ウォール街」のゴードン・ゲッコーのあくどい乗っ取りビジネスの定義そのものですが、実際には、「ウォール街」よりも25年以上前に製作された「札束とお嬢さん」の主人公キャッシュ・マッコールのことについて語っているのです。勿論、株式の売買が行われるようになってからは、いつの時代にもゴードン・ゲッコーのようなはげ鷹がいたであろうことは間違いがないであろうとしても、それを映画の題材として取り上げるかどうかはまた別の話です。殊に、それが表現に対するモラル的な検閲が厳しかった時代のことであってみれば、なおさらです。その意味では、「札束とお嬢さん」が極めて斬新な作品であったことに、異論の余地はないはずです。しかしながら、残念ながら、というよりは幸いにも、キャッシュ・マッコールは、ゴードン・ゲッコーではないことが、ストーリーを追っていくと次第に明らかになります。余談ながらここで一つ白状すると、小生は株の売買や会社の経営などにはまるで縁がないので、このタイプの作品を見ていると、どうにも意味が分からない箇所があることに気付くケースがかなりあって、「札束とお嬢さん」でも細かい点に関しては意味不明なところがいくつかあり、これまでにも既に3回は見ているはずである上、今回はわざわざ英語字幕をONにして見たにも関わらずストーリーを追うのにかなり苦労しました。多分、小生と同じ印象を受けるオーディエンスも多いものと思われますが、それでも作品自体は楽しめるはずです。話を元に戻すと、キャッシュ・マッコールがゴードン・ゲッコーでないことは、キャッシュがギルモアと会話するかなり初めの方のシーンで早くも分かります。そこで、彼は自分について、次のようにギルモアに紹介します。

キャッシュ:私は、中古ディーラーのようなものだ。古くなってくたくたになった会社を買って、鍛え直した後で、もう一度売りに出すんだ。(I'm sort of a secondhand dealer. I buy old tired companies and whip them into shape, and then sell them again.)

つまり、確かに会社の売買をしているのは確かであるとしても、買収した会社を五体満足なまま、しかも経営状態を健全な状態に戻してから売却するのが自分の仕事であると、彼は言っているわけです。ゴードン・ゲッコーであれば、買収した会社を鍛え直す(whip them into shape)労など一切取らず、即座にバラしてしまうはずです。また、ラストシーンでは、性懲りもなく会社の売買の話をしているギルモアを、キャッシュ・マッコールは次のように諭します。

キャッシュ:何かを達成する唯一の方法は、そこに留まって、一に築き、二に築き、三に築くことだ。(The only way you'll ever get anywhere is stay with it and build and build and build.)

「そこに留まって(stay with it)」とは、勿論、買収した会社の経営責任を負うという意味であり、これは、ゴードン・ゲッコー流のマネーゲームには、全く無縁の考え方なのです。つまり、早い話が、キャッシュ・マッコールは、ギルモアのいうはげ鷹ジャッカルタイプに属する情け無用の乗っ取り屋ではまったくなかったということです。そもそも、1960年に公開された「札束とお嬢さん」には、60年代初頭のモラル観が色濃く反映されているのが当然であると見なすべきであり、80年代後半に製作された作品のえげつないストーリー展開をこの作品に期待するのは筋違いかもしれません。しかしながら、えげつないストーリー展開であるとはいえ、よくよく考えてみると、「ウォール街」の場合にしても、確かにゴードン・ゲッコーを演じたマイケル・ダグラスは「アカデミー主演男優賞」を受賞したとしても、ストーリー上の主演はチャーリー・シーンだったのであり、彼が演じている主人公は、インサイダー取引で最後は逮捕されるとはいえ、ゲッコーが買収した、自分の親父(マーティン・シーン)の会社の経営に参加して、会社の業績を伸ばそうとする理想を抱いていたという点においては、モラル観では冷酷非情なゴードン・ゲッコーよりも温情的なキャッシュ・マッコールにむしろ近かったのです。従って、80年代の「ウォール街」においてすらも、モラルのかけらもないゴードン・ゲッコーを中心に据えてストーリーを組み立てることはできなかったと見る方がむしろ正しいのかもしれません。いずれにしても、実は、「札束とお嬢さん」は、まったくのコメディではないとしても、ロマコメ調のライトタッチな作品なのであり、主演がジェームズ・ガーナーであることから考えても、「ウォール街」のようなシリアスなドラマが展開されているはずはないことが容易に分かるはずです。その点では、同じく50年代のビジネス界を扱った作品であるロバート・ワイズの「重役室」(1954)のような面白いながらも肩の凝る作品と比べても軽妙さが目立ちます。とはいえ、個人的な見解としては、「札束とお嬢さん」は、ジェームズ・ガーナー+ナタリー・ウッドのロマコメとして見るよりは、軽快なタッチのビジネスドラマとして見た方が興味深いように思われます。というのも、ジェームズ・ガーナーのお相手のローリー・オースティンを演じているナタリー・ウッドは、この作品ではそれほど目立ってはおらず、主演のジェームズ・ガーナーは別としても、会社を売却して隠居生活をエンジョイしようとしている企業家グラント・オースティンを演じているディーン・ジャガー、犬のように情報を嗅ぎ回る企業コンサルタントのギルモア・クラークを演じているヘンリー・ジョーンズ、冷静に状況を判断しながら損得を勘定するのに長けた弁護士を演じているE・G・マーシャル、狡猾な手段でキャッシュ・マッコールとローリーの仲を引き裂こうとするホテルのアシスタントマネージャーを演じているニナ・フォックの方がナタリー・ウッドよりもよほど興味深いキャラクターを演じているからです。くせもの俳優が、ビジネス界のくせものを演じている作品として捉えた方が面白いということです。現在でも現役のジェームズ・ガーナーは、60年代は、ロマコメへの出演が多かった俳優ですが、「セパレート・ベッド」(1963)でもかなり類似した役を演じていました。強烈な個性はないながらも、当たりの良さそうなイメージが際立っていた(いる)人であり、その意味でもキャッシュ・マッコールがゴードン・ゲッコーになることはとてもあり得なかったと言えます。穿った見方をすれば、マネーゲームのいやらしさを、ジェームズ・ガーナーの持つ人当たりの良さで薄めたと考えられるかもしれません。また、マックス・スタイナーの、いつもの彼とはやや雰囲気の違った思わずスキップしたくなるような楽しい音楽が、当作品に一段と軽妙洒脱なイメージを与えています。壷を得たその音楽には、さすがはマックス・スタイナーと言うべきでしょう。ということで、小生のような経済音痴にはストーリーを追うのが大変であるような側面もありますが、あまりこの手の作品が多くはないのは確かであることもあり、それなりにお薦めできる作品です。


2009/03/28 by Hiroshi Iruma
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