ウォール街 ★★★
(Wall Street)

1987 US
監督:オリバー・ストーン
出演:チャーリー・シーン、マイケル・ダグラス、マーティン・シーン、ダリル・ハンナ



<一口プロット解説>
若い証券マンのバド・フォックス(チャーリー・シーン)は、自分の親父が勤める航空会社の内部情報を手みやげに、金儲けのためならばどのような手段も辞さない悪徳投機家ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)に取り入ることによって、次第にビッグなマネーゲームに加わるようになり地位を上げていくが・・・。
<入間洋のコメント>
 小生は経済音痴なので、あまり経済に強い関心を抱いたことはありませんが、その昔面白いと思いながら読んだ経済関係の本が、経済学者の岩井克人氏の本でした。経済の本質的な側面を、難しい数式なしで分かり易く解説する書物「ヴェニスの商人の資本論」や「貨幣論」などは、ワクワクしながら読んだことを覚えています。最近久々に「二十一世紀の資本主義論」という文庫本を買って読みましたが、そのスリリングで面白いこと面白いこと。もしかすると、経済学を専攻している人であれば特別目新しいことが書かれているわけではないのかもしれませんが、しかし少なくとも小生にはページをめくるごとにいちいち「うーーん!」と唸らずにはいられないものがありました。この「二十一世紀の資本主義論」を読みながら鮮明に思い出した映画があり、それがここに取り上げる「ウォール街」です。「二十一世紀の資本主義論」は、80年代以後顕在化し始めるいわゆるマネー資本主義、すなわち生産はおろか現代社会のメルクマール的な産業であると考えられていた第三次産業つまりサービス業にすら凡そ関係のない、株式投機などによる純粋なマネーゲームが幅を利かせる資本主義経済が、世界経済にもたらすゆがみを鋭く抉る本であり、「ウォール街」が扱うテーマも、まさにこのマネー資本主義によってもたらされる悪徳に関するものなのです。世界中に根を下ろしたマネー資本主義のゆがみによって生じた不安定さのあおりをモロに食らって東アジアから世界規模で金融危機が拡がった90年代に、マネー資本主義の抗し難い魅惑とそれにより引き起こされる決定的なカタストロフを描いたユアン・マクレガー主演のなかなか面白い作品がありましたが、「ウォール街」が描くえげつない世界は、既に80年代にあって90年代の恐ろしく不安定な世界経済を予見したところがあります。「ウォール街」は、マイケル・ダグラスがオスカーを受賞したこともあって、これまで何度も見ている作品であり、小さなバスケットのゴールが装着されたゴミ箱にチャーリー・シーンがゴミをシュートして捨てるシーンにインスパイアされた小生は、しばらく会社のゴミ箱にミッキーマウスの絵が描かれた小さなバスケットゴールを装着し、いつもゴミをシュートして捨てていた程の強い印象を受けていたとはいえ、経済音痴の小生にはよく意味が分からない箇所がそこここにあったのを覚えています。たとえば今でも、チャーリー・シーン演ずる主人公のバドが最後に逮捕されるインサイダー取引きに関して、どのような条件が揃うとインサイダー取引きとして摘発されるのかイマイチよく分からないところがあります。そもそも、バドが親父(チャーリー・シーンの実の親父マーティン・シーンが演じていることは皆さんご存知のことでしょう)から情報を引き出し、それをゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)に売り渡した時点でインサイダー取引きが成立するように思われますがどうなのでしょうか?

 それは別として、実は「二十一世紀の資本主義論」には、マイケル・ダグラスが演じているゴードン・ゲッコーとはいかなる人物であるかを明瞭に解説する文章があるので(と言っても「ウォール街」への言及があるわけではありません)、以下に引用させていただきます。経済音痴の映画ファンで「ウォール街」とはいったい何についての映画であるかがイマイチ理解できなかったオーディエンスでも(ひょっとすると小生だけだったりして・・・赤恥!!)、以下の文章を読めば、それがかなり理解できるようになること請け合いです。

「じっさい、近年たとえばアメリカの株式市場を舞台として暗躍している会社乗っ取り屋の商売とは、まさにこの原理(入間注:この原理とは法人否認説のことですがここでは取り合えず気にしないで下さい)の応用にほかならないのである。かれらはつねに、株式の市場価格が会社資産のバラ売り価格を下回っている会社を鵜の目鷹の目で探している。そういう条件にあった会社が運よく見つかると、かれらはさっそく株主相手にTOB(買収を目的とした公開の株式買付け)をおこなう。株式投資をたんなる利殖の手段と考えている零細な大衆株主は、現在の市場価格よりも高い価格をつけてくれるTOBを一般に歓迎し、容易に株式買付けの申し入れに応じることになるだろう。ときにはじぶんの首が危うくなった経営陣が対抗してTOBをかけたり、もっと貪欲な乗っ取り屋が新たなTOBをかけて漁夫の利をねらったりすることがあるかもしれない。このようなTOB合戦に打ち勝ち、首尾よく過半数の株式を手にいれることができたならば、わが乗っ取り屋は支配株主の権限を行使して会社を株式市場からひきあげ、その資産をバラ売りしはじめることになる。会社資産のバラ売り価格と株式の買い取り費用との差がそのままかれらの儲けになるわけである。買収相手の会社の資産を担保に借金をするLBOの手法を駆使すれば、自己資金がまったくなくても大儲けができる、これはまことにボロい商売である。」(ちくま学芸文庫「二十一世紀の資本主義論」の「ヒト、モノ、法人」より引用)

阿漕な手段を駆使して稼いだ自己資金を既にタンマリ持っているゴードン・ゲッコーは、LBOなどという小賢しい手段に訴える必要は全くなかった点を除くと、この解説はそのまま「ウォール街」の解説にもなります。要するに、彼は、バドの協力を得てバドの親父が勤めるブルースター航空に関する情報をどんな手段を駆使しても鵜の目鷹の目で探し出し、同社の株を買い占め、支配株主になった暁には、たとえば飛行機の機体はメキシコに売り飛ばし、格納庫はつぶしてマンションを建設し、様々な利権は競合他社に売り払って大儲けしようと画策しているわけです。ゲッコーの手引きでマネーゲームの味を覚えたバドは、自分の親父が働く会社をダシにして一儲けする一方、自分でも会社の経営を立て直そうとする理想が芽生えますが、ゲッコーに比べれば幼稚園児にも等しい彼は、まさかゲッコーが社員を解雇し会社の資産のバラ売りを始めようとしているとまでは思いもよらないのです。彼がどっぷり漬かったマネーゲームの論理を突き詰めれば、そのような解もあり得ることが当然予想されるにも関わらず、ひよっ子の彼はそれを見抜くことができないのです。それでは、ここでいうマネーゲームとはいったいどのようなゲームなのでしょうか。これについても、「二十一世紀の資本主義論」は明確に語ってくれます。

 岩井克人氏は、ソビエトが崩壊した時に、世の人々は、これでいよいよ見えざる手が支配する市場経済の正しさが証明され、「アダム・スミスの時代」が真に到来したと思ったのではないかと述べます。ちょうどその頃、経済的に最も成功を収めていた地域は東アジアであったわけですが、ところが90年代後半にその東アジアを発端として深刻な金融危機が発生し、そのようなオプティミスティックな見解が木っ端微塵に吹っ飛びます。しかしながら、世の経済学者達は、この国際的な金融危機の原因を探るうちに、その張本人として「投機家」を見出し、一件落着したと思い込み安心してしまったと岩井氏は述べます。彼によれば、話はここからスタートするのです。すなわち、ここから投機の本質とは何かにメスを入れます。一言でいえば、投機家の存在が経済というフィールドに登場すると、経済の持つ意味合いが全く変質してしまうのです。すなわち、需要と供給の図式に従って市場全体が機能している限りにおいては、確かにアダム・スミスの見えざる手は十全に機能し得るとしても、投機家という存在がそこに現れると、そのような単純な図式はもはや通用しなくなるのです。なぜか?その回答は、次の通りです。すなわち、投機家の主眼は、たとえばある製品の需要がどれだけあるかなどの需要と供給の図式に従った側面によりも、他の投機家達がどのように考えどのように行動するかという側面に置かれているからです。「ウォール街」にも、その点がよく分かるシーンがあります。ゴードン・ゲッコーは、宿敵の大資産家サー・ラリー・ワイルドマン(テレンス・スタンプ)の行動をバドにスパイさせ、ワイルドマンが買い占めようとしているある鉄鋼会社の株を先回りして買い漁ろうとします。それを聞いたバドの同僚は、「冗談だろ!あの会社は最近成績が良くないぞ」などと言いますが、ゲッコーにとっては会社の成績がどうかという点はこの際二の次なのです。ワイルドマンという大資産家が株を買おうとしている事実だけで、彼にとってはその会社の株を買う十分な理由になるのです。つまり、重要と供給のようなベーシックなレベルからはまったく遊離したレベルにおいて、投機家間での互いの思惑の予想合戦というシステムが機能しているのであり、バドがいみじくもゲッコーによって導かれるマネーゲームとはまさにこのレベルで争われるゲームなのです。このレベルに達したゲームにおいては、もはやアダム・スミスが述べる見えざる手などという単純な図式は全く通用しなくなってしまうのです。かくして、重要と供給という一次元的なレベルとはまったく異なるレベルで機能する投機家のマネーゲームという危うい基盤の上に成り立つ世界経済がガラガラと音を立てて崩壊したのが、20世紀末の金融危機の実態であったということです。

 このように、人々の行動予測がシステム内に取り込まれ、自己言及的な回路がシステム内に一旦生成されてしまうと、客観的な法則によってシステム全体の動きを把握したり、客観的な法則に従って事前計画を立てたりすることが極めて困難になる点を指摘する御仁は他にもいます。思い出せるところでは、イギリス首相トニー・ブレアーの知恵袋とも呼ばれるアンソニー・ギデンズがその一人です。ギデンズは、「高度なreflexisivity」という用語を用いて、そのような現象を説明します。「reflexisivity」とは日本語でいえば「再帰性」というような意味になりますが、抽象的な言い方をすると、再帰的であるようなシステムとは、システム内の構成要素が同じシステム内に包摂される同一又は他の構成要素に参照する構造を持つシステムであると定義できます。このようなシステムの中では、全ての事象を考慮に入れた上で前もって計画を立てることが極めて困難になります。なぜならば、計画を立案する側は、自分が立てた計画がもたらすであろう効果に対する一般民側の予想を更に先取的に予想し計画を立案する必要が生じるからです。こうなるとその程度で済むという保証はどこにもなくなり、たとえば、自分が立てた計画がもたらすであろう効果に対する一般民側の予想を更に先取的に予想してたてたはずの計画を、さらに一般民が予想するかもしれず、予想の連鎖は無限後退的にきりがなくなるのです。すなわち現代という時代においては、一次元的で単純な計画モデルは通用しないのであり、ギデンズは、その1つの例として、ソビエトの社会主義経済崩壊の一因をこの点に求めています。

 ということはなんと!、20世紀の世紀末に資本主義社会を揺るがした金融危機発生の原因と、同じく20世紀末に劇的な幕切れを迎えた社会主義崩壊の原因が実は同じようなところにあったということになります。しかし、さすがは岩井克人氏。彼はこれに対する回答もきちんと用意しています(誤解のないように述べておくと、ギデンズの説は小生が勝手に持ち出しただけであり、ましてや岩井氏が社会主義経済崩壊の原因を彼の理論によって説明しているわけでもありません)。彼は、実は社会主義とはアダム・スミス流の考え方を極限にまで突き詰めた考え方であり、アダム・スミス流の考え方に由来するという点では資本主義とまったく異なっていたわけではないと述べます。つまり、見えざる手を見える手に変えようとしたのが社会主義だったというわけです。いずれにしても「ウォール街」は80年代に製作された作品であり、80年代といえばやはり政治/経済/文化の面において「グローバリゼーション」が進行し始めた時代であったともいえます。「ウォール街」も、そのような時代背景を考慮して鑑賞すればもっと面白いかもしれません。「グローバリゼーション」というテーマは様々な識者が論じているテーマですが、経済的な事象を含め統計などの実証データを駆使して解明しようとするシカゴ大学教授のサスキア・サッセン女史の著書などが興味深いところです。彼女は、日本でもフィールドワークをした実績を持つようであり、グローバル都市東京の分析など必読でしょう。日本語訳もあるはずなので、興味がある向きは読んでみて下さい。もう1つ指摘すべきことは、「ウォール街」が製作された頃は、アメリカが債権国から債務国へ転落した頃でもあり、ゴードン・ゲッコーの演説には、そのような当時の状況が反映されている部分があって、興味深いところがあります。ということで、「ウォール街」は、80年代以後の浮遊する経済の本質的な側面を見事に切り取った傑作映画であり、必ずしもオリバー・ストーンの映画には感心しない小生も手放しで推奨できる作品です。また、経済に詳しくない人は岩井克人氏の著書を読みながら見ると楽しさが倍増する作品であることを付け加えておきます。

2006/08/26 by Hiroshi Iruma
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