佐々木昭一郎『マザー』『さすらい』を語る    
       類のない映像ドラマの世界

      辻 萬里   月刊「ドラマ」編集部
*************************
月刊「ドラマ」2000年10月号*DRAMA Good Eye*より。32-37頁.
*************************

ホームページ作成者・池田博明


 NHK総合のアーカイブスでは、これまでにも『どたんば』『駅』『ドブネズミ色の街』などの名作ドラマが数十年ぶりに放映された。9月17日には『マザー』、10月15日には『さすらい』が放送される。両作とも当時NHKディレクタだった佐々木昭一郎氏が脚本・監督を手がけた作品で、ノンスターのフィルム製作。後に“世界のササキ”と言われ海外の賞を次々に受賞した佐々木作品のテレビデビュー作と第二作である。両作の成り立ちを佐々木氏に語ってもらった。


      『マザー』について

 シナリオ創りを中心に思い出してみます・・・。まず企画ですけど・・・・はじめにマザーという題名が来て、帳面にmotherと書いたのを覚えてます。少年が神戸の港に立っている遠景が来て、シナリオのトップが浮かんだ。シリトリ式に全体の構成が見えた・・・・。はじめに“イメージありき”なんです。特に私の場合。画像、空間、音楽、言葉が同時に来る、しかし、“霧中、先を探す”という感覚のイメージです。創るということは常に“霧中、先を探す”であると思います。分かっているものは何ひとつない。分りやすいことは悪くはないが、分りやすいことを売りものにすると、もの創り営みは死滅する、と思うのです。分からないから書くのであり、創るのです。
 企画書の形にしたのは1966年秋です。それまで私はラジオドラマを創ってました。同年、寺山修司と『おはようインディア』『コメット・イケヤ』を発表しました。私と寺山の最後の仕事です。
    *

 1966年夏からテレビ映画の第三助監督をやりました。雑用、使い走りです。1967年はドキュメンタリスト吉田直哉の15本60分の特集『明治百年』の助手です。その一年間でドキュメンタリーの優秀なカメラマンと出会いました。『マザー』の撮影監督・妹尾新を知り、葛城哲郎の力を知ったのです。映像から逆算する形で音も勉強し直しました。そして音響効果の織田晃之祐を知りました。妹尾新は遠藤利男演出の『暗い鏡-ヒロシマのオルフェ』(大江健三郎脚本)や『写楽はどこへ行った』(大岡信脚本)の大カメラマンですが、葛城や織田は主にドキュメンタリーの仕事で評判の超売れっ子でした。3年後に、これ等精鋭と一緒に『マザー』を創れることになり、夢心地でした。偶然の出会いなんですけれど、私のシナリオ創りは妹尾、葛城、織田、といった少数の超精鋭、そしてプロデューサー遠藤利男を抜きにはありえないのです遠藤利男が、これ等偶然の出会いを組織してくれました。
 1969年の6月、企画が採用されましたが、台本審査を経て制作するかどうか決める、ということになりました。つまり作家を誰にするか決めろ。というわけです。そこで寺山に会って事情を話したところ断られました。“(この話は)俺しか書けないよ”と言いながら“あんた、書きなさいよ”と言う。書けない、と答えると“書ける。あんたは才能がある”と言われた。(結成間もない)天井桟敷の仕事で手一杯だったのです。そこで福田善之に話しました。“昭チャン書きなさいよ”と断られ、次に小林猛演出の名作『十円玉』『ひるがえる旗の意味』の時、小林猛の紹介で会った谷川俊太郎をいきなり訪ねたんです。“あなたですか”と笑顔で一日だけシナハンにつきあってくれましたが、断られました。“あなたが書くべし”と。結局、プロデューサーになり手がなく、台本審査のための作者捜しということだったんです。
 私はラジオ出身なので映像音痴という風に差別されたのです。私は33歳でしたが“テレビは若い時にやらないと体がついて行けない”“スタジオドラマもやっていないのにカットワリは出来ない”とか散々でした。しかしキリストがやって来た! 遠藤利男です。プロデューサーを引き受けてくれたんです。それで一気に少数精鋭のスタッフを組織してくれました。私の望み通りの精鋭です。台本も私が書くことになった。
    *

 ものを創るということは、このようにいくつもの山を越えなければならに。山を越えないと先が見えない。越えては先を見る、その繰り返し。企画から脚本,配役、撮影、音つくり・・・・発表までいくつ山を越えるか、30以上も山があります。
 当時はまだナマ放送の雰囲気が技術サイドにも演出側にも横溢していました。飲み屋の映画青年がモンタージュ論や映画論をやるように、いい年したテレビ演出家がやれアップだとか逆撃ちだとか、指パッチンしながら廊下を歩いていたものです。私のようにラジオ出身者は全く相手にされませんでしたが、私のラジオを評価してくれるドキュメンタリストたちが応援してくれるようになった。このアーカイブスで8月に放送された『ふたりのひとり』の小尾圭之介と『私とホーテイ・キュー』の工藤敏樹です。
 そして遠藤利男。遠藤はラジオドラマで福田善之や大岡信をデビューさせ『放送詩集』を創り多くの詩人を世に出した。ドキュメンタリーも創り、毎週『若さとリズム』というテレビ音楽番組で話題をさらい、大江健三郎にオペラ台本を書かせ、という大きな才能です。憧れの遠藤利男がプロデューサーをやってくれると知り飛び上がって喜びました。
 フィルムを使いましたが、映画は全く意識しませんでした。当時はゴダールやトリュフォーやフェリーニ、アントニオーニが映画青年たちの憧れで、テレビディレクターたちの中にも彼らの技法を真似する人もいました。トリュフォー『突然炎のごとく』のフリーズとか。私は映画少年だったんです。中学三年から大学二年までにほとんどの映画を見ています。キューブリック『現金に体を張れ』を見て映画館詰めを止めました。その理由は、いずれ何らかの形で映像表現をする場合、影響されやすいので打ち止めにしたのです。正解だったと思います。ゴダールもトリュフォーも最近見たばかりです。『勝手にしやがれ』などはベテランカメラマンの力です。若い監督の青くさいアイデアをプロフェッショナルに撮ったのです。音声には失望です。全部アフレコで、音に関しては何もしていないし古くさい。
 劇映画は意識しませんでしたが、BBC『さすらいのキャッシー』を意識しました。『さすらいのキャッシー』は勿論フィルムですけど、そのリアリズムは役者なのに本物を思わせる臨場感です。最後に字幕でロンドンの住宅事情と民衆の貧困を告発する『さすらいのキャッシー』は1960年代にイタリア賞のグランプリを受賞してからというもの、同じクルーで同じ告発ものを同じタッチのリアリズムで何本も創って行きます。『スポンジャーズ(搾取者)』『ミュート(聾唖者の女が、キャッシーと同じように悲劇的運命をたどり、最後の字幕で福祉行政の欠陥を告発する)』『ジャイアント・ショルダー(サリドマイド少年の悲劇)』。いずれも社会的に弱い立場にある主人公を設定しメロドラマの設定で主人公を苛め抜く物語です。この系列には勝ちたいと、と決心しました。その始まりは『マザー』です。
    *

 夏、表参道の青山荘にスタッフが集まり合宿しました。少人数スタッフです。撮影監督の妹尾、カメラマンの葛城、音響効果の織田、私と演出助手の高田です。合宿の目的はシナリオ創りとロケの準備を兼ねました。妹尾と葛城は早稲田出身で学生時代はシナリオ研究会で活動していました。私よりはるかに筆力があります。
 めいめいのイメージを徹底的に話すうち、私は不思議な体験をしました。どういう体験かというと、例えば葛城と私の脳が完全に入れ代わるという体験です。何日も話すうち、私の考えが葛城になっているのです。また、織田は音を創り皆に聞かせました。音は全編織田サウンドで行こう、と妹尾が言う時、彼の脳は織田の脳と入れ代わっていました。私は脚本を書く時、必ず音をイメージします。音のイメージが決まると説明的設定はかなぐり捨てることになります。こうして、場面と人物の設定が明瞭になりました。あとは、私の役目です。台詞を極力省いた台本を書くことです。日本のドラマは台詞が多すぎるので、国際TV祭には全く向かない。画面と音声で二重の説明をされてはたまらない。
 脚本はすでに書いてあったんですが、合宿で鍛えられたおかげで、強靭な心棒が入り全体のイメージが決まりました。主役の少年は、子役ではなく、寺山と作曲家の湯浅譲二と見つけたケン(横倉健児)を選びました。ケンは9歳。一人で神戸のロケ地の神戸に来ると約束しました。子役は厄介です。マネージャーと母親がついて来るから。役者もそうです。話は違いますがプラハでロケした作品は全て役者を配役しましたが、チェコの俳優は一人で来てます。付き人やマネージャーがついて来るのは全く異常だ。
 こうして神戸ロケです。スタッフは台本を現場には持って行きませんでした。全て頭に入っています。何をすべきか、分かっていました。例えばメリケン波止場での撮影は六百人の小学校の生徒が絵を描いています。どのタイミングでカチンコを入れるか。織田が絵描きになりカチンコを入れました。合宿の経験が生きたのです。スポーツに例えるなら、練習は嘘をつかない、ということです。
 モンテカルロで受賞後に凱旋放送、ということになりました。実は『マザー』は放送せずにモンテカルロに出したのです。国際TV祭の最高賞受賞は初めてなのに『マザー』のタイトルではダメだと言う。横文字は絶対ダメだ、と命じた副総局長がいた。すったもんだの末、選抜高校野球の雨傘で半端な時間に出した記憶があります。それでも見る人は見ていて、飯島正、鳥山拡、青木貞伸、といった専門家が後に評価してくれました。入賞しても山はたちはだかるわけです。
 で、永久に再放送はない、と思ってましたが、今回、二十八年ぶりの放送です。二十八年御蔵入り。ネガの乗りは抜群だ、とヨコシネDIAの笠原征洋(タイマー、現技術課長)は感心してました、二十八年前当時から。葛城、妹尾、超一流カメラマンの勝利です。笠原は私の作品のネガを全部保管してくれています。デジタルが更に進化すればHD変換も出来るそうで、あの小さい16mmが彼のおかげで保管され、いつかまた蘇るのです。


     『さすらい』について

 1971年の2月、『マザー』がモンテカルロで最高賞ゴールデン・ニンフを獲り、次回作の企画採用が決まった。『ブラザー』と題し15歳の少年のさすらいを描こうと決めた。6月に撮影、10月に芸術祭に出す、という案。プロデューサーは遠藤利男。
 遠藤の案で、作家を立てることにした。『マザー』の私のクレジットは演出とだけ表示した。テレビディレクターが何で脚本を書くんだ、という内外の批判があったからだ。私は名前などどうでもいい、表示など要らないと考えた。演出名も要らない、と。しかしスタッフ名は表示したいと思い、演出と出した。当時、スタッフ表示は官僚的で冷たいものだった。後に、つげ義春原作の『紅い花』を創った時は、録音・伊東孝久の名前表示を許されなかった。照明の服部敏一の名もダメ。「技術」とし、一名が代表した。とんでもないことだ。今はCD一枚かけただけで音響効果××、ひどいものでは名曲をかけるフィラーの演出××と表示する。利権の争いに似て醜悪な表示だ。で、肝心要の『ブラザー』の作家を遠藤の案で、井上ひさしに頼むことにした。小説書きで時間のない井上氏は、しかし二つ返事でOKをくれた。当時の井上氏はNHKの台本コーナーに一日中詰め、レギュラー番組をかかえていた。私も台本コーナーの常連で毎日そこで顔を合わせていた。ところが、井上氏への原稿注文電話が鳴り続けるようになり、氏は、原稿依頼を全部引き受けていた。このままでは『ブラザー』の脚本は絶対無理 だ、と感じ、遠藤と相談した。お前書け、ということになり、撮影一週間前まで台本コーナーに詰めた。何の理由もなく『さすらい』と4文字が浮かび、一気に書くことが出来た。
 台本が出来ると『マザー』同様スタッフのミーティングを開いた。今回は先を急ぐ。撮影の葛城は工藤俊樹のドキュメンタリーで勝手知った下北半島を一人で回り、秋田、青森、山形。気仙沼を回り、外波山文明と『はみだし劇場』には大船渡で会い出演交渉もやってくれた。台本にあった野外劇と訪問劇の設定を『はみだし劇場』の3人に当てようと考えた。一方、私は主人公探しに都内と横浜を歩いた。主人公の『ひろし』を演じた渋沢忠男は16歳だ。外人墓地の前で誰かのオートバイを盗もうとさかんにエンジンをふかしているところを私が呼びとめた。彼は学習能力に優れ、私の台本を一気に読み込んだ。数頁読んでは休むのが普通だ。『ひろし』を見た時、私は直感的に孤児であることを当てた。しかし彼は認めようとはせず、自宅に私を連れて行き、両親に会わせた。年老いた両親で、難産だったという母親の表情を見て、ますます孤児だと思った。その場は彼に謝った。
 撮影を通じ、この少年を大きくする決心をした。私の作品では、主人公は作者の台本を解釈するだけでは不満だ。変貌させたい。手助けする職業俳優もいない。職業俳優にそれらしい台詞を教えてもらっては困る。しかし彼を変貌させたい。
 撮影終了後、ひろしは私に近寄らなかった。放送から五年たったある日、葉書が届いた。数珠を手にアメリカに行き、アメリカ人の父親を探し当てた、と書いてあった。日本人の母親の所在もわかった、と。成長したのだ。
 基地の女を演じた笠井紀美子は、一流のジャズシンガーだった。彼女はNHKの軽音楽部からオーディションを受けるように言われた。アメリカでレコードを出している彼女にテストを受けさせるとは驚いた。彼女は拒否した。
 撮影が佳境に入った頃、井上氏が30枚の構成台本を届けてくれた。しかし、私の台本で撮影は終わろうとしている。表紙にはブラザー・ミシンと同じ形の文字で『ブラザー』。その30枚の井上氏の台本を読み私は涙が出た。もう撮影に入ったことを知り、ボツになることを承知で、30枚届けてくれたのだ。中身は私を激励する台本になっていた。
 その年、私は『マザー』と『さすらい』の受賞で芸術選奨新人賞を受けた。授賞式に井上一家が出席していた。私は母親と一緒だった。井上氏は小説で同じ賞を受けたのだった。
     *

 私は少人数でしか出来ない方法即内容論を確立したから、また何か創ることにあるだろう。敵は私自身。初めにイメージありきだからイメージが枯渇したものは死すのみ。しかし、いわゆるテレビドラマは創らない。台詞で全部説明がつく作品は、私には要らない。しゃべっている役者の顔を写すのは死ぬほど退屈だ。無論、スジを追いかけ回す作品は存在するに値しないと思っている。
 家の近所で最近テレビの連続もののロケを見た。何十人もスタッフがいて大型劇映画を撮影しているのかと勘違いした。スタッフが“カントク、カントク”と演出を呼んでいる。これにも驚いた。名前で呼ぶのが良い。カントクはない。ましてや社員の演出に向かってカントクはない。
 テレビ局もプロダクションも人材で成り立っている。そこで、同じ作家は二人いては困る。例えばバッハは一人で良い。二人目は真似だ。同じようにゴッホは一人で良い。演出家も同じだ。そこで他人が絶対に書けないものを書く。他人が演出出来ないものをやる、ということです。永遠の法則です。
 (本文は佐々木氏の談話と原稿を元に、編集部・辻萬里が作成しました)


  「日曜日にはTVを消せ」プログラム に戻る