シェイクスピアの劇と映画/アラベスク (1)  2001年3月28日
              池田 博明 


 シェイクスピアの目を通して人生を見ることは、人生のすべてを見ることである。
   − ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』序文より


 シェイクスピアの劇の魅力はそのポリフォニーにある。緩と急、転換と展開、韻文と散文等など。
 ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』には興味ある指摘が多い。次に抜粋要約する。
 エリザベス朝の演技がどのようなものであったのかを理解するにはオペラハウスへ行くのが一番よい。つまり、オペラ歌手は「アリア」を歌うときは観客に向って歌い、「叙唱(レシタティーヴ)」では対話の相手に向う。
  これと同様のことがシェイクスピアの劇では「韻文(verse)」と「散文(prose)」で起こる。韻文はオペラのアリアに相当し、散文は叙唱に相当する。韻文は劇的で、形式的である。例えば『アントニーとクレオパトラ』ではクレオパトラは韻文でしか話さない。散文は写実的である。どんなに内容が詩的であっても、例えば『ハムレット』で、墓場でハムレットがヨリックの頭骨に語りかけるセリフは韻文では書かれていない。この違いはリアリズムの度合いの違いである。
 初期のシェイクスピアはジュリエットの乳母のような散文にふさわしい内容も韻文で書いた。さらに、初期の史劇では庶民は散文を語り、身分の高い人は韻文を語った。しかし、次第にシェイクスピアは散文で詩的な感情も表現するようになった。ハムレットの墓場の台詞はそのような時期のものであるが、散文で書かれているということは、彼が決して物思いにふけって独白を語っているのではなく、この場面を構成する登場人物の一員となっていることを示している。
 韻文と散文の大雑把な見分け方は、行の冒頭がすべて大文字で始まっていれば韻文で、そうでなければ散文だと考えればよいでしょう(由井哲哉)。


  シェイクスピア劇の詩句の特徴として、「弱強5歩格」を、アル・パチーノの『リチャードを探して』では説明していた。また、ブランク・ヴァース(blank verse)は弱強五歩格で脚韻を踏まない詩形である。たとえば、『ハムレット』の有名な独白は、“to(弱) be(強) or(弱) not(強) to(弱) be(強), that(弱) is(強) the(弱) question(強)”と読まれる。   


  シェイクスピアにとって、独自のプロットや素材を創造しないことは欠点でもなんでもなかった。“民俗的想像力は全く無自覚にほとんど本能的に作品に取り込まれたのである。彼の作品に入り込むにつれて、私たちはますます一人の人間の言葉にではなく、人類そのものの想像力から直接出てくるものに、耳を傾けているのだと思われる”。

 

『史  劇』 トライロスとクレシダ ウィンザーの陽気な女房たち 間違いの喜劇 ヴェローナの二紳士 アテネのタイモン
ヴェニスの商人 終わりよければすべてよし じゃじゃ馬ならし 恋の骨折り損 夏の夜の夢 ロミオとジュリエット
シンベリーン ペリクリーズ から騒ぎ お気に召すまま 尺には尺を 冬物語
十二夜 『四大悲劇』 (ハムレット、オセロ、マクベス、リア王) あらし
恋におちたシェイクスピア BBCシェイクスピア全集


●データ、△引用。シェイクスピアの映画化だけでなく、関係する映画もとりあげる。

       映画  『恋におちたシェイクスピア      池田博明

 設定は、シェイクスピアが28歳から29歳ごろのことだろう。劇作家マーロウが酒場で刺殺されたのが、シェイクスピアが29歳の1593年だし、劇の出演者を選ぶオーディションで男装の貴婦人ヴァイオラが朗読するシェイクスピアのソネットが書き始められたのが、やはり28歳のころだからである。
 当時は女性が舞台上で芝居をすることは禁止されていたので、女役を男性が演じた。女性に芝居をさせるのは公序良俗に反したのである。まるで日本の歌舞伎のようだ。恋に落ちた

 この物語はオリジナルである(脚本はトム・ストッパード、『未来世紀ブラジル』『太陽の帝国』の脚本家である)。
 スランプ気味の青年劇作家シェイクスピアと、演目にこと欠く芝居小屋。一方、資産家の娘ヴァイオラは芝居に夢中で、特にお気に入りはシェイクスピアの作品だった。彼女は男装して、シェイクスピア劇の出演者のオーディションに参加する。自分のソネットを見事に朗読した若者に感心したシェイクスピアは、女性とは気づかずに合格させる。
  一方、宴会場でシェイクスピアは気品あるヴァイオラに一目ぼれするが、まさか自分が合格させた新団員、ヴァイオラの使用人という若者がその本人とは気がつかない。
  ヴァイオラに会いたい一心で男装のヴァイオラを船で送っていったシェイクスピアは、若者の正体を船頭に教えられる。それを機会に、人目を忍ぶ二人の恋が始まる。ヴァイオラには公爵が求婚した。名誉はあるものの、資産のない公爵にとって、これは一種の政略結婚でもある。しかし、ヴァイオラには断る理由がない。
 新作としてシェイクスピアが練習しながら書きあげていくのが『ロミオとジュリエット』。ロミオ役を男装のヴァイオラが、ジュリエット役を劇団の男性が演じる《倒錯》が映画の劇的空間を広げる。劇の寸暇を惜しんで、二人は逢い引きを重ねる。
 ヴァイオラが芝居作家に夢中と知った公爵は、宴会場でシェイクスピアが口走った「自分はマーロウだ」という言葉を真に受けて、マーロウに嫉妬する。酒場で当代随一の劇作家マーロウが刺殺されると、シェイクスピアは、下手人は公爵の刺客だと思い込み、自分のウソの責任だと自分を責める。
 練習中の小屋にシェイクスピアに女房を寝取られたことを知った、対立する劇団の団長が、仲間を連れて殴り込みに来るわ、シェイクスピアの正体を知った公爵は決闘に来るわ、そのうちヴァイオラの男装の化けの皮ははがれるわ、てんやわんやの大騒ぎとなる。
  なんとか上演初日に持ち込めた『ロミオとジュリエット』だったが、ロミオ役の予定だったヴァイオラが出演できなくなったので、代役をシェイクスピア自身が演じなければならなくなる。開幕が近づくのに幕開きの口上を述べる男(説明役)はどもってセリフが出ないし、ジュリエット役は声が出なくなるし、初演は失敗確実の状況である。
  しかし、幕が上がると、説明役は口上をとちらなかった。観客席に潜んでいたヴァイオラに急を告げる連絡が入って、ヴァイオラが突然、舞台にジュリエット役で登場。ヴァイオラは、練習中に相手役のジュリエットのセリフもすべて覚えていたのだ。ほんものの女性が出てきたとは感じていない観客は、実際の恋人、シェイクスピアとヴァイオラの二人が演ずる『ロミオとジュリエット』の舞台に感動する。
 劇の余韻も冷めない小屋に女性を舞台に上げた容疑で役人たちが乱入する。客席に忍んでいたエリザベス女王が突然現れて、ヴァイオラを女性と認めず、お咎めなしとする。女王はシェイクスピアには宮廷で客を歓待する際の新作喜劇を依頼する。女王は以前に劇場で心を打つ真実の芝居があるかないかで賭けをした公爵とシェイクスピアに対して、公爵の負けを宣告し、賭け金を届ける役目を(女性と知りつつ、男子とみなしている)ヴァイオラに指示する。
  その後の経緯が説明される。シェイクスピアは新作喜劇『十二夜』の主人公名をヴァイオラとした。ちなみに喜劇『十二夜』で、ヴァイオラは男装の女性である。

●監督のジョン・マッデンの作品は『ビクトリア女王/至上の恋』『哀愁のメモワール』。プロダクション・デザインは『英国万歳!』でアカデミー賞を受賞したマーチン・チャイルズ。衣裳デザインはサンディー・パウエル。ヘア&メイクはリサ・ウェスコット。
●エリザベス女王を演じたジュディ・デンチはロイヤル・シェイクスピア劇団の中心女優であり、過去にオフィーリア役、ジュリエット役、ヴァイオラ役など有名な舞台がある。1972年2-3月のRSC来日公演『十二夜』ではヴァイオラを演じた。
●ヴァイオラ役のグウィネス・パルトロウは本作で男装・付け髭の青年から資産家の娘まで、ロミオ役やジュリエット役から奔放な恋人まで、多様な役を演ずる。オースティン原作の映画『エマ』のエマ役、映画『大統領の情事(原題パリのジェファーソン)』のジェファーソン大統領の娘役など若き大女優となっている。
●公爵を演じたコリン・ファースはBBC製作の『高慢と偏見』ではダーシー卿を演じていた。マーロウ役はルパート・エヴェレット。ローズ座の運営主ヘンズロー役は『シャインズ』のジェフリー・ラッシュ。ネッド役はベン・アフレック。金貸しフェニマン役はトム・ウィルキンソン。ラルフ役は『英国万歳!』『ブラス!』のジム・カーター。仕立て屋ワバシュ役マーク・ウィリアムス。女形を演ずるダニエル・ブロックルバンク。ヴァイオラの乳母はイメルダ・スタウントン(ジム・カーターの妻である)。座長リチャード役マーチン・クラネス。宮内大臣ティルニー役サイモン・カロウ。

△丸谷才一“『十二夜』をめぐる推理”(中央公論社『新集世界の文学1』月報、1969年)によると、ホイットスン『「十二夜」の最初の夜』(1954年)では、『十二夜』は1601年1月6日にエリザベス女王がイタリアの王子オーシーノウ公爵をもてなすための芝居であったと推理している。
 『ロミオとジュリエット』が出版されたのは1597年で執筆は1596年後半と推定されている。この映画では大胆に3年ほどさかのぼらせて、執筆・初演を1593年後半としている。

△戸田奈津子の『スターと私の英会話』(集英社、2001年)は、映画で英語の表現を学ぼうという連載をまとめた本である。この本には『恋におちたシェイクスピア』も取り上げられている。以下、その引用。
 基本的には『ロミオとジュリエット』の話を知っていれば、バルコニーの場面など、いろいろのパロディで大笑いすることができるし、たとえ何の知識がなくても、十分に楽しめる映画だということを、まず言っておきたい。
 でも・・・。“でも”である。この映画には、知っていればもっと笑えるというネタが、あちこちに埋められている。ほじくり出したらきりがないのだが、そのほんのいくつかを解説しておく。たぶん、ガイジンの観客だけがゲラゲラ笑うという事態が生じるだろうから、キミは映画の終了後、「あのジョークはね・・・」とカッコよく友達にウンチクを垂れることができる。
 まず、スランプ状態にあるウィルが、悩み相談で、当時の精神分析医のもとに行く場面(こういう現代を織り込んだアイデアが秀逸!)。カウチに横たわった彼がまず言うせりふは“Words! Words! Words!”「言葉! 言葉! 言葉!」。これは『ハムレット』の最も有名なせりふのひとつ。劇作家なのに、言葉のスランプに陥ったウィルの嘆きのせりふにすり替えてある。
 この精神分析のシーンで、ウイルは故郷に置いてきた妻アンとの結婚生活が、幸せでなかったことを語る。
WILL: I was a lad of eighteen. Ann Hathaway was a woman, half as old again.
DR.MOTH: A woman of property?
WILL: She had a cottage.
ウィル:ぼくはたった18の若造で、アン・ハザウェイはその半分も年上の女だったんです。
医師モス:財産のある女だったのかね?
ウィル:小さな家(コテージ)を持ってました。
 英国を旅行して、シェイクスピアの生地、ストラットフォード・アポン・エイボンを訪れた人なら、このジョークがわかるはず。この街の観光名所のひとつは、“Ann Hathaway's Cottage”と呼ばれている、茅葺き屋根の彼女の家なのだ。
 さて芝居小屋「ローズ座」の外には、いつも「芝居反対!」を叫んでいる、超保守的なオジサンがいる(どこの国にも。いつの時代にもいます)。
“The Rose smells rank by any name!”
「ローズ座は、どんな名で呼ぼうとも、悪臭の源だ!」
 これは『ロミ&ジュリ』の名せりふ中の名せりふ。家柄のためにロミオと結ばれないジュリエットが、キャピュレットという自分の家名を呪い、“A rose is a rose by any name” 「バラは何と呼ぼうともバラ」と言うせりふのパロディ。
 シェイクスピアに関係のないお笑いもたくさんある。芝居にはまった高利貸しの親分が、役者たちを自分の酒場兼淫売宿に招いて大盤振る舞い。
“Kegs and legs open and on the house! Oh, what happy hour!”
「酒樽と(女たちの)足を開け! 店のおごりだ! ああ、何と幸せな時!」
 注目したいのは最後の“Happy Hour”。アメリカを旅行した人なら、必ず町でこの言葉を目にしているはず。酒を飲ます店は、夕方のまだすいている時間を“Happy Hour”と称して、割り引き値段で酒を飲ます。わりに最近始まって、いまは定着したポピュラーな風潮である。
 芸人根性の鉄則、“Show must go on.”「ショーは何があっても続けねばならない」という有名なフレーズも、ジョークのネタにされている。だが、その使い方は:
 ジュリエット役の少年が声変わり。ウィルと座長のヘンズローはまっ青。
WILL: What do we do?
HENSLOW: The show must...you know...
WILL: Go on!
ウィル:どうする?
ヘンズロー:ショーは・・・わかるだろ・・・
ウィル:続けろよ!
 go onを「続けろよ」という、相手をうながす言葉にしてしまった、おかしさ。
 まだまだあるのだが、紙面が尽きた。ちょっとこんなことも頭に入れておけば、さらに楽しさが増す。リッチなリッチな娯楽映画だ。 (99年6月)


       映画 『もうひとりのシェイクスピア   池田博明   

 シェイクスピア別人説に基づき、脚本が書かれ、映画化された作品。脚本ジョン・オローフ、監督ローランド・エメリッヒ。2011年コロムビア映画。
 現代のニューヨークで舞台に立った英国の名優デレク・ジャコビが前口上を務めます。物語は一気に17世紀に飛びます。
 劇作家ベンジャミン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が兵士たちに追い詰められ、逃げ込んだ劇場で逮捕される場面で始まるので、シェイクスピアの正体はベン・ジョンソンという解釈かと思ったら、彼は単なる使者として利用されただけで、真の作者はオックスフォード伯エドワード・ヴィア(リス・エヴァンス)だった・・・といっても作者探索のミステリー仕立てではありません。脚本のオローフは『恋するシェイクスピア』の出現で1990年代に書いた脚本を封印してしまったそうで、映画に描かれる時代や背景は似ていますが、こちらはラブ・コメデイーではありません。「Anonymus(無名氏、匿名)」という原題が示すように戯曲執筆を秘匿せざるを得ない事情と並行して、英国王室の王位継承をめぐる策謀が描かれます。
 演劇の方の人間関係は理解しやすいです。言葉の力を信じながらも高貴な身分が災いして戯曲の執筆を秘密にせざるをえなかったヴィア伯、戯曲執筆を快く思わない伯爵の妻(アンチジェ・スイエール)、ヴィアに作品を託され自分の名前で発表するように言われたにもかかわらず、役者のウィル(レイク・スポール)に作者に対する称賛を横取りされ欲求不満を抱えるベン・ジョンソン、字が書けないにもかかわらず作者に名乗りを上げ挙句の果てには秘密の作者ヴィアを恐喝して劇場開設資金を巻き上げる小ずるい俳優シェイクスピアといった人々。
 一方、英国王室の方の人間関係は分かりにくいです。人心を惑乱する演劇を敵視するせむしの宰相ウィリアム・セシル(デビッド・シューリス)、演劇好きなエリザベス1世(バネッサ・レッドグレーヴ。恋多き女で私生児もいて王位継承の騒動の原因となる)は分かったのですが、エセックス伯(セバスチャン・リード)やサウサンプトン伯(ゼイビア・サミュエル)などの位置関係は一度見たくらいではよく分かりませんでした。エリザベス1世からもヴィア拍は戯曲の作者として名乗ることを禁じられるのですが、それほど隠された史実を戯曲が暴いているということでしょうか。
 
 観客がシェイクスピア作品を熟知していることを前提にして作られています。例えば『リチャード3世』をヴィア伯が書き、上演を見た観客がリチャード3世を「セシルだ」と理解することなど。また役者のウィルは作品名を『ジュリエットとロメオ』と間違って言ってしまい、ヴィア伯の失笑をかったりしています。



       映画 『ロミオとジュリエット   池田博明   

Romeo and Juliet (1)映画版『ロミオ&ジュリエット』のディカプリオ版(1996年)は、時代設定を現代に変えたのはいいとしても、演出(バズ・ラーマン監督)に品が無かった。特に冒頭のシーンの演出の品のなさが後まで尾を引いた。長い韻文の独白もそのまま生かされているため、著しく不自然であり、例えば二人(ジュリエット役はクレア・デーンズ)の自殺場面は台詞が大仰で、大根役者の大芝居の感があり、笑うほかなかった。架空の都市ヴェローナ・ビーチにギャング同士の争いが展開する。

 (2)一方、ゼッフィレリ監督の映画『ロミオとジュリエット』(1968年)はスピーディな展開をする。劇的な展開を阻害する長い独白は大胆にカットされている。しかし、重要な対話、ダイアローグは残されている。映画はダイアローグの展開だというゼッフィレリの主張が感じられる。ゼッフィレリ版は主役ふたり(ホワイティングとハッセー)の若さもさることながら、息つくひまもないほどの展開が見事である。特にバルコニーの場面、ロミオとジュリエットが去りがたくて、引かれ合い、言葉を交わし合い、抱き合うシーンの演出や、マキューシオとティボルトの争い、ロミオとティボルトの決闘のシーンの映画らしいダイナミックな演出はすぐれたものだった。ニーノ・ロータ作曲の主題歌も名曲。
△ 『ゼッフィレッリ自伝』(創元ライブラリ、原著1986年、訳書1998年)によると、『ロミオとジュリエット』は彼が最初に演出したシェイクスピア劇だった。1960年の英国公演でオールド・ヴィック座の総支配人マイケル・ベントールはゼッフィレッリの“若さ”の要請に応えて、ロミオ役にジョン・ストライドを、ジュリエット役に小柄なジュディ・ディンチを推薦した。長い胸壁を持つバルコニー、ロミオがのぼる糸杉は躍動感を高めるためのゼッフィレッリのアイデアである。初演の批評は手厳しかったが、マイケルは“何も分かっていない批評家を気にするな”“タイロン・ガスリーの「ハムレット」以来もっとも独創的なシェイクスピア劇を実現した”と熱弁した。「オブザーバー」にケネス・タイナンの“新解釈、啓示であり、革命である”“卓越した舞台、輝かしい一夜”という劇評が出て、観客が世界中から来て、若者たちが押しかけたという。ゼッフィレッリ、38歳であった。
△ 『ロミオとジュリエット』の映画化の話は、1966年公開のリズとバートン(エリザベス・テーラーとリチャード・バートン)の映画『じゃじゃ馬ならし』の撮影中に生まれたという。無名の俳優を主役に選ぶのは映画会社にとっては賭けだったが、ゼッフィレッリには自信があったという。ロミオ役は別の劇の装置担当者の推薦でホワイティングに決まったが、ジュリエット役はなかなか決まらなかった。オーディションの第一候補の少女は二回目のテストで長い金髪を切ってしまっていた。他の役は決ったが、ジュリエット役はなかなか見つからなかった。自暴自棄気味に最初に落とした候補者に会ってみたところ、最初は太りすぎていたハッセーが減量で別人となっていた。撮影中、ゼッフィレッリは若い二人の父親役を務めていたという。

●ジュリエットの従兄弟ティボルト役は『じゃじゃ馬ならし』でゼッフィレッリと知り合った才能豊かなマイケル・ヨーク。主役二人のセリフ回しは下手だそうだが(狩野良規の評)、ロミオの友人マキューシオー役にジョン・マックエネリー、乳母役にパット・ヘイウッド、ジュリエットの母役にナターシャ・パリー、修道僧にミロ・オシーアといったベテランが当った。

△映画の撮影が半分しか終わらないうちに予算が底をついた。パラマウント社の社長ブルードーンに試写を見せたが、試写中にも仕事で社長は映画に集中していなかった。すると同行していた社長の14歳の息子ポールが父親に言った。「だまってよ、父さん」。全員が息を呑んだ。
 父親「これが気にいったのか?」息子「そうだよ」
 「わかるのか?」「もちろんさ」
 それで予算が増額された。それでも映画は約百五十万ドルで完成した。公開されると、世界中で大成功した。しかし、1968年の末にゼッフィレッリは交通事故で死の淵をさまよった。

△ "ゼフィレリの功績は、それまでの型にはまった演出によって窒息しかけていたシェイクスピア劇に生気を吹込んだところにあると言えるだろう。ゼフィレリは、舞台の上で演じられる芝居が、決して単なる芝居でなくて現実であることを観客に納得させようと努めたのだ。その意味で彼はリアリストである"。つまり、"《ホット》な演出である"。
  1960年代から70年代にかけて《現代的》と呼ばれて来たピーター・ブルックなどの《クール》な演出とは、人間に現実感を与えようとはせず、暴力や性を強調し、性格を捨てて、状況を重視する傾向である。 これは、"リアリズムの演劇観を支えている「芝居は人生だ」という考え方を否定して、「芝居は芝居であること」、舞台上の出来事は虚構であることをわざと強調するやり方につながっている"。(喜志哲雄「シェイクスピアと現代」)
 
 (3)映画版ということになると、映画『ウエスト・サイド物語』(ワイズ監督、1961年)を是非あげておきたい。『ロミオとジュリエット』を現代化したものでは最大の傑作といえよう。
 ヴェローナの名家の争いをニュ−ヨークのウエスト・サイドの白人とプエルト・リコ、ふたつの人種の争いに置き換えた脚本(アーサー・ローレンツ台本、スティーヴン・ソンドハイム作詞)とバーンスタインの音楽が見事である。バーンスタイン自身のメイキング映像もあり(1984年)、これも見応えがある。
 (4)グノー作曲の歌劇『ロメオとジュリエット』
 ブライアン・ラージ映像監督のLDがある。河合秀明の評、1995年9月号レコード芸術より。
△(前略)おおよその筋は変更されていないが、最後の場面はロメオが毒薬を飲んだ直後にジュリエットが目覚め、喜び二重唱を歌った後に悲劇が訪れる。このオペラではジュリエットのワルツとして知られるアリア「私は夢に生きたい」やロメオのアリア「恋よ、恋よ!」が有名であるが、四つの重要な場面、すなわち、第一幕のモンタギュー家の仮面舞踏会での二人の出会い、第二幕の忍び込んだロメオとの庭園の逢引き、第四幕第一場の新婚初夜、第五幕の最後の場面と、美しく優れた愛の二重唱が配されて雰囲気を盛り上げている。
 従来、このオペラは美しいが迫力に欠けるとされていたが、トウールーズ・キャピトル劇場の芸術監督をつとめる演出家、ニコラ・ジョエルの巧みな演出とカルロ・トンマージの中世の雰囲気を醸し出した舞台装置(とはいっても、この映像のカメラ・ワークが人物中心のために詳細に知ることは無理だが)、チャ−ルズ・マッケラスのダイナミックで周到をきわめた指揮、さらには主役二人のみごとな歌唱と演技力によって、聴衆たちの熱狂も当然の感動的な公演となった。特に最後の幕切れのシーンは美しく印象的。グノーはこのオペラ初演のリハーサル中に、セリフによるオペラ・コミックスのスタイルだったのを、セリフをレチテティーヴォに全部入れ替え、ジュリエット役のカロリーヌ・カルヴァリヨが劇的な才能に不足すると知って、ローランス神父から受け取った薬を飲むのに逡巡するアリアに変え、ジュリエットのワルツを追加したりし、その後も何度か改訂した。このプロダクションでは、カットされた第四幕のアリアを復活させ、第二場のパリス伯爵との婚礼の場の冗長な<婚礼歌>をカットしたりして、盛り上がりに成功している。
 ロメオを歌うロベルト・アラーニャはカレーラス以来のカリスマを持つと大評判のシチリア人を両親とするフランスのテノール。声は意外に甘さが少なく、ハスキーにも感じられるが、男性的な響きを持ち、高音もきっぱりと出て、技巧も表現力も充分でルックスも良く、身のこなしの軽さと若々しさはロメオに理想的。(中略)ジュリエットのレオンティーナ・ヴァドーヴァもかつて発売されたロイヤル・オペラ・ライヴLDの『カルメン』全曲でミカエラを演じていたが、最初のシーンで出てきただけでぱっと華やかになった素敵なソプラノ。コトルバスの再来とか言われているようだが、あのように陰性ではなくずっと魅力がある。あまり声が大きくないせいか、大歌劇場のために無理をしているのかな、と思われる箇所もないではないが、声も表情も初々しいジュリエットで、アラーニャと似合いのカップル。復活されたアリアの場面など真に迫り、目線や演技の自然さに感嘆する。
 最近ペレアス役で評判のフランソワ・ル・ルーがメキューシオで「マブ女王のバラード」を聴かせ、乳母のサラ・ウオーカーやキャプレット卿のピーター・シドムなどは柄も歌も適材。ただローランス神父のロバート・ロイドがいつもの美声ではなく、鼻にかけた声に作ったのはやり過ぎ。また。コーラスもオーケストラも素晴らしい貢献をしている。
●アンナ・マリア・パンツアレラ(S,ステファノ)、ポール・チャールズ・クラーク(T、ティボルト)、リチャード・ホルト(Br,パリス)、ジェレミー・ホワイト(Bs.グレゴリオ)、デヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Bs,ヴェローナ大公)。演出ジョン・ニコル、映像監督ブライアン・ラージ、チャールズ・マッケラス指揮コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団。パイオニア・クラシックス。1994年11月収録。176分。

 映画版にはレナート・カステラーニ監督『ロミオとジュリエット』(1954年)もあるし、白黒時代の名作(ジョージ・キューカー監督、1936年。ロミオに43歳のレスリー・ハワード、 ジュリエットに32歳のノーマ・シアラー)もある。未見。。

ロミオとジュリエットロメオとジュリエット
 


 (5)プロコフィエフ作曲、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』
 リトアニア・バレエ団公演、ロストロポーヴィッチ指揮、新日本フィル。2001年6月3日NHK教育テレビで放送。
 原作をダイジェストした感じは否めない。しかし、ロメオとジュリエットの愛の場面や、ロメオとティボルトの決闘場面はダイナミックだった。
 プロコフィエフの交響叙事詩『ロミオとジュリエット』を使った、バレエ映画(パウル・ツインナー監督。1966年)があるが、未見。


 (6)BBCシェイクスピア全集より『ロメオとジュリエット』
 アルヴィン・ラコフ演出,収録 January 31-February 5, 1978、英国での初放送 December 3, 1978、アメリカでの初放送 March 14, 1979。

 パトリック・ライカート Patrick Ryecart as Romeo, レベッカ・シャイア Rebecca Shire as Juliet, セリア・ジョンソン Celia Johnson as the Nurse, マイケル・ホーデーン Michael Hordern as Lord Capulet, ジョン・ギールグッド John Gielgud as the Chorus, アンソニー・アンドリュース Anthony Andrews as Mercutio, アラン・リックマン Alan Rickman as Tybalt,ジョセフ・オコンナー Joseph O'Conor as Friar Lawrence,ローレンス・ナイスミス Laurence Naismith as Prince Escalus,ジャクリーン・ヒル Jacqueline Hill as Lady Capulet,クリストファー・ストローリ Christopher Strauli as Benvolio,クリストファー・ノーゼイ Christopher Northey as Paris,ピーター・ヘンリー Peter Henry as Peter, ロジャー・ディヴィッドソン Roger Davidson as Balthasar, ジョン・ポール John Paul as Montague, ズェルマ・ディーン Zulema Dene as Lady Montague, エスモンド・ナイト Esmond Knight as Old Capulet, デイヴィッド・シブリー David Sibley as Samson, ジャック・カー Jack Carr as Gregory, バニー・リード Bunny Reed as Abraham, ヴァーノン・ドブチェフ Vernon Dobtcheff as Apothecary, ジョン・サヴィデント John Savident as Friar John

 ≪舞台裏で≫レベッカ・シャイアは映画が製作されたときわずか14歳だった。ジュリエットを演じた女優としては異常に若かった(舞台のときはたった13歳)。

  (7)ビクター制作「シェイクスピア全集」(9作品)の『ロメオとジュリエット』
 演出ウィリアム・ウッドマン、制作ジャック・ナカノ
 ロミオ(アレックス・ハイド=ホワイト)、ジュリエット(ブランチェ・ベーカー)、乳母(エスター・ロール)、マキューシオー(ダン・ハミルトン)、ベンヴォーリオ(フレドリック・レーン)、修道士ロレンス(アルヴァ・スタンリー)、ティボルト(ノーマン・スノウ)、キャピュレット(ピーター・マクレーン)、その夫人(ペネロピー・ウィンダスト)、バルサザー(マイケル・カミンズ)、パリス(マルコ・バリッセリ)、グレゴリー(テーランス・ミショー)、サムソン(ジョン・サンダーフォード)、エスカラス大公(ウィリアム・バセット)、ピーター(ウィリアム・ガンベル)、モンタギュー(ダン・メイソン)、その夫人(ケート・フィッズモーリス)、修道士ジョン(ジェイムス・ストームス)、薬屋(サンダー・ジョンソン)
 ジュリエットは14歳という設定なので、ブランチェは実際にその年齢に近いと思われる。幼い感じである。ロミオもやや年上の少年といってよい面持ち。ジュリエットにパリスが求婚しているが、父親のキャピュレットは二年早いと判断している。母親はお前の年には母親だったと結婚に積極的。
 台詞がある役者が画面の中心に出てきて話すという演出で、台詞主体である。



       映画 『十二夜』と劇 『女たちの十二夜』    池田博明

 (1)映画『十二夜』の監督・脚本はトレヴァー・ナンの1996年作品(ルネッサンス・フィルム版)。豪華キャストで、ロケーションが見事な作品である。底抜けに明るい喜劇ではなく、道化のかもしだす哀愁もよく表現されている。

△中野好夫は“この『十二夜』ほど、イキで、楽しくて、しゃれた喜劇はないと思っている”、“全編音楽的雰囲気に包まれて”いて、シェイクスピア喜劇のいちばんであると、書く。中野の『シェイクスピアの面白さ』は、その題名通りの素晴らしく面白く、楽しい本である。
十二夜
●ヴァイオラ役にイモジェン・スタッブス(RSCのナン演出『オセロー』ではオセローに負けじと言い返すデズデモーナ役を演じたという。イモジェンという名前は『シンベーリン』の主役名でもある)、その双子の兄セバスチャン役にスティーヴン・マッキントッシュ、オーシーノ公爵役にトビー・スティーブンス、オリヴィア役にヘレナ・ボナム・カーター(彼女はタイトルロールの一番手に名前が出る)、道化フェスタ役にベン・キングズレー(映画『ガンジー』の名優)、執事マルヴォーリオ役にナイジェル・ホーソ−ン(1999年彩の国さいたま劇場『リア王』の主役)、オリヴィアに求婚する愚鈍な金持ちエイギュチーク役にリチャード・グラント(彼はタイトルロールの二番手に名前が出る)、オリヴィアの酔っ払いの叔父トビー役にメル・スミス(30歳のローレンス・オリヴィエも『ハムレット』の後にこの役を演じた)、女中頭マライア役にイメルダ・スタウントン(ジュディ・デンチの再来といわれているとか)。

  冒頭、船の中での仮装劇で双子の兄妹が同じ女装でベールを取ると二人とも髭面の男子、次にその付け髭を取ると女子という趣向で、この男女の取り違えの劇を一瞬で象徴する。
 ナンの演出はいかにも映画らしく、目配せひとつにも意味があるように演出されている。例えば帰郷した道化フェステと執事マルヴォーリオの丁々発止とやりあう確執の場面や、亡き兄の喪に服していたオリヴィアの心が使者のセザーリオ(実はヴァイオラ)に魅かれていく場面など。
 台詞は思い切ってカットされ、表現の多くを映像が雄弁に表現している傑作である。トレヴァー・ナンはシェイクスピアはもちろん、ミュージカル『キャッツ』の演出もした才人。映画監督作品は、この『十二夜』が第一作といわれているが、実はサイモン・ラトル指揮のガーシュインのオペラ『ポーギーとベス』の演奏(1988年2月、グラインドボーン音楽祭)を基にして、映像を後で作った(1992年11-12月)ときの監督がナンだった。この映像演出も見事なものである。

 (2)ルネサンス劇団でブラナー演出の俳優のアンサンブル中心のテレビ放映版のDVDがある。1988年製作、ポール・カノフ監督。
 時代をヴィクトリア朝後期に設定、全編冬景色のもの悲しい色調に彩られている。
 第一幕第一場と第二場を入れ替えて難破したヴァイオラと船長の場面をオーシーノ侯爵の煩悶より前に移動している。このほうが第一幕第三場のオリヴィア家の女中メアリーやトビーの場面につながりやすい。もっと効果的な変更は第二幕第一場と第二場の入れ替えに現れている。第二幕第二場はマルヴォーリオがヴァイオラに指輪を返す場面で、本来第一幕の最後に置かれていてもおかしくない場面だからである。
 マルヴォーリオにリチャード・ブライアーズRichard Briers 、道化フェステにアントン・レサー Anton Lesser 、ヴァイオラにフランシス・バーバーFrances Barber、オーシーノ侯爵にクリストファー・レーベンスクロフト Christopher Ravenscroft 、オリビアにキャロライン・ラングリッシェ Caroline Langrishe 、オリヴィアの叔父トビーにジェームズ・サクソン James Saxon 、愚か者の居候アンドルー・エイギーチェクにジェームズ・シモンズ James Simmons 、女中マリア(マライアと訳されている例も多いが、映像ではメアリーと発音されている)にアビゲイル・マックカーン Abigail McKern 、ヴァイオラの兄セバスチャンにクリストファー・ホリス Christopher Hollis 、船長にティム・バーカー Tim Barker 。

 (3)日本で、主要な登場人物すべてを女性で上演した『女たちの十二夜』を見たことがある(神奈川県立青少年センターにて、1991年。鵜山仁演出)。
 オリヴィア家の使用人の登場人物の衣装が類似していて、この劇を初めて見た私には人間関係がよく分からなかった。特に片桐はいりが演じたエイギュチークの可笑しさがよく分からなかった。もっとも印象深かったのは白石加代子の演じた執事マルヴォーリオだった。叫びだけでなく、つぶやきも後ろの客席まで、とてもよく聞こえるのである。この上演では道化役の声に力が無く、弱かったので、道化の場面は迫力を欠き、かえって道化の重要性が理解できたものだった。

△道化に関して以下に喜志哲雄の論評を付記しておこう。
  あらゆる劇は“世界の究極の意味を探る試みであると言える。その場合に、一つのやり方は、人間を超えた絶対的な目、つまり神の目を想定し、その目で見れば世界は隅々まで見えるのだと考えることである”。
  “もう一つのやり方は、絶対的な目の存在を認め、しかもそれを人間のものと考えることである”。“我々は歴史の流れの中にある法則性ないし秩序を認め、歴史の目で見れば世界の意味が分るだろうと考えるのである。つまり、人間は歴史に究極の意味の認識を委ねるのであって、いわば歴史が神の代りをするのだと言える”。
  “道化の精神はこれら二つのやり方のどちらもとらない”。人間を超えた絶対的な目も、歴史の法則性も否定する。“世界の究極の意味を現在この場で見てしまおうというのだ。道化の立場から見れば、過去と現在と未来との間には何の相違もないことになる。誰が王になろうと、誰が権力闘争から脱落しようと、同じことだというわけだ。人間とは要するに、自らの意志とは無関係にこの世に生まれ、欲望に動かされて生き、何の理由もなくやがて死ぬものなのだ”。
  “道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ”。人間が神にもっとも近づいた時のあり方だが、“しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うことだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである”。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)

 (4)BBCシェイクスピア全集より『十二夜』
 演出はジョン・ゴリー John Gorrie、収録は May 16-21, 1979、英国初放送は January 6, 1980、アメリカ初放送は February 27, 1980。
 アレック・マッコーェン Alec McCowen as Malvolio, ロバート・ハーディRobert Hardy as Sir Toby Belch, フェリシティ・ケンドール Felicity Kendal as Viola,アネット・クロスビー Annette Crosbie as Maria,サイニード・キューザック Sine'ad Cusack as Olivia, トレヴァー・ピーコック Trevor Peacock as Feste,クライヴ・アリンデル Clive Arrindell as Orsino, ロニー・スティーヴンス Ronnie Stevens as Sir Andrew Aguecheek,ロバート・リンゼー Robert Lindsay as Fabian,モーリス・レーヴス Maurice Roe"ves as Antonio, マイケル・トーマス Michael Thomas as Sebastian eynolds,マルコルム・レイノルズ Malcolm Reynolds as Valentine ライアン・ミッチェル Ryan Michael as Curio,リック・モーガン Ric Morgan as the Sea Captain,アーサー・ヒューレット Arthur Hewlett as the Priest。

 ≪舞台裏で≫監督のジョン・ゴリーはこの劇をイギリスのカントリー・ハウスのコメディと解釈した。そして、ルイジ・ピランデルロの『Il Giaco delle Parti』からTVの『上階、下階』までの影響を具体化した。ゴリーはまたこの劇の時代をイギリス市民戦争中と設定した。騎士派と円頂派の使用が祝祭と清教徒の衝突の劇化に焦点を当てると期待される.


       空騒ぎ      池田博明

 (1) 映画『から騒ぎ』
 監督・主演はケネス・ブラナーで、壮麗な音楽はブラナー作品常連のパトリック・ドイル、1993年作品。
 映画版『空騒ぎ』の特徴は、冒頭に既に充分に表現されていた。大公の一行が到着するというニュースが着くと、村人たちは一斉に屋敷に駆けこむのである。そして汚れた労働着を脱ぎ捨て、裸になって水風呂にとびこみ、宴会の衣装に着替えるのだ。この群集の勢いをカメラは移動でダイナミックに把える。
 つまり、『空騒ぎ』は"最もイタリア的で、最もルネッサンスの精神に近いもの"であり(クイラ・クーチの評言)、"ずばぬけて溌剌とした作品"である(M・R・リドリーの評言)。
 映画は自然を背景に、それぞれの登場人物を生身の人間として、生き生きと描写しようとしていた。これは最近のイギリスの文芸映画の傾向のようだが、映画というメディアには演劇よりも適当な演出である。空騒ぎ

△喜志哲雄『劇場のシェイクスピア』(1991年、早川書房)はシェイクスピア演劇を論じて興趣つきない本だが、この中に「ルネサンス劇団のシェイクスピア」を論じた一文があった。
 ルネサンス・シアター・カンパニーを率いるブラナーは、1990年に日本で『夏の夜の夢』『リア王』の両方を演出した。この劇団のシェイクスピアについて、“必ず指摘できるのは、分りやすくて楽しいことである。作品のリズムが何よりも俳優の演技のリズムとして捉えられている。あるところでなぜ声を張上げるのか、別のところでなぜおさえた芝居をするのかといったことが、一々納得がいくのである。だから、舞台を見ていると実に快い。観客は俳優の声と身体とによる表現に自らを委ねていればいいのだ。めりはりがきちんとしているから、台詞がよくわかる。もちろんこれは、芝居が深みを欠いていてくさいということでもあって、差当ってブラナーの演技がその例である。しかし、くさい芝居ができるということはその俳優がかなりの技術を持っているということであり、下手であるよりはずっといいことなのだ。第一、若い時から枯れた演技をする俳優などというものは、かりにいたら相当胡散臭い存在であるに違いない”。 “ブラナーという俳優が名声をきわめる頃には私はもうこの世にいないであろうが”、“イギリスで芝居を観る楽しみが確実にひとつふえた”。
  この時の舞台では、エマ・トンプソンが『リア王』の道化を演じており、肉体的存在感が排除されて道化が抽象的な表現になっていると感じられたという。また、喜志氏はボトム役とリア王役を演じたリチャード・ブライヤーズを高く評価していた。資料によれば、ブラナー自身はエドガーを演じていた(ちくま文庫『リア王』)。ブライヤーズは映画『空騒ぎ』では知事レオナートを演じている。

△ ところで、戯曲『空騒ぎ』には欠陥があると指摘されている(福田恒存の解題による)。侍女マーガレットを詰問する場面がない、ベアトリスが結婚式前夜だけヒーローと寝室を別にしたのはおかしい、不義の逢引の場面がない等(ケネス・ブラナーの映画版には逢引を目撃するシーンがある。また、侍女は自分の役割に薄々気づくものの言い出せないで、主人が「災難だったな」と言葉をかけるという演出がされている)。

△ 『空騒ぎ』には、ヒーローとクローディオーの浪漫喜劇の物語、ベアトリスとベネディックの風俗喜劇の物語、愚鈍な警保官ドグベリーとヴァージズの道化の世界の三つの筋がある。シェイクスピアは最初、クローディオー中心の浪漫喜劇を書き出したが、ベネディックの方に力が入り、クローディオー側の主体性を削らねばならなくなって、逢引の場面も削ってしまったのだろうという。

  映画版でも劇を引っ張る主役は才女ベアトリスと将校ベネディックで、ヒーローとクローディオーはやや主体性を欠く、邪悪に翻弄される可愛い人形でしかない。死んだヒーローの代わりに生き写しの別の娘をもらってくれと言われて簡単に承諾するクローディオーの性格は弱々しい。映画はベネディック役のブラナーとベアトリス役のエマ・トンプソンの演技合戦の趣きがある。映画製作当時、この二人は実際に夫婦だった。

●大公ペドロ役をデンゼル・ワシントン、悪巧みをする異母弟ジョン役をキアヌ・リーブス、青年将校クローディオ役をロバート・ショーン・レナード、知事レオナート役をリチャード・ブライヤーズ、その令嬢ヒーロー役をケイト・ベッキンセール、レオナートの弟役をブライアン・ブレシド、侍女マーガレット役をイメルダ・スタウントン(『十二夜』では女中頭役だった。原戯曲では侍女のセリフが多いが映画ではセリフは無い)、侍女アーシュラ役はフィリダ・ロウ(エマ・トンプソンの実母)、愚鈍な警保官ドグベリー役をマイケル・キートン。

△狩野良規の評価は“ブラナーはハリウッド映画のファン”で、“軽薄なハリウッド映画に熱を上げ、舞台だけでは飽き足らず、みずからメガホンを取って次々に映画を撮りまくっている”、『空騒ぎ』は、“映画全体が面白過ぎる。滑稽過ぎる。笑える映画なのだが、もっと深い意味があるはずのシェイクスピア作品にしてはなんとももの足りない。娯楽性の中に、文学的意味は埋没してしまっているのが、この映画の欠点なのである”と厳しい。この評価は、ないものねだりになっている。ブラナー作品は、原作の精神が、かなり生かされた映画である。
● 野田秀樹の『から騒ぎ』(1990年)は舞台を相撲部屋の世界に設定した面白いものだったという。公演は見ていないが、戯曲版が本になっている。三篇収録『真夏の夜の夢』『から騒ぎ』『三代目、りちゃあど』。
 (2)組曲『空騒ぎ』
 モーツアルトの再来と言われたコルンゴルト(1897-1957)の作品11。
 日本屈指のヴァイオリニスト渡辺玲子のCD、『マイ・フェイヴァリッツ』(1997)に四曲が収められている。ピアノ伴奏はサンドラ・リヴァース。
 「花嫁の部屋の乙女 The Maiden in the Bridal Chamber」3分17秒、クライスラーの曲のような優雅な作品。「ドグベリーとヴァージェス(夜警の行進) Dogberry and Verges (March of the Watch)」2分12秒、滑稽な夜警二人を表す短い行進曲。「庭園の場 Scene in the Garden」4分3秒、対話風な落ち着いた曲。「仮面舞踏会 Masquerade (Hornpipe)」2分13秒、常動曲。
 (3)BBCシェイクスピア全集より『空騒ぎ』
 演出はスチュアート・バージ Stuart Burge。収録 August 15-21, 1984,英国での初放送 December 22, 1984,アメリカでの初放送October 30, 1984。

 リー・モンターグ Lee Montague as Leonato、シェリー・ルンギ Cherie Lunghi as Beatrice、キャサリン・レヴィ Katharine Levy as Hero、ジョン・フィンチ Jon Finch as Don Pedro、 ロバート・リンゼィ Robert Lindsay as Benedick、ロバート。レイノルズ Robert Reynolds as Claudio、ゴードン・ホワイティング Gordon Whiting as Antonio、 ヴァーノン・ドブチェフ Vernon Dobtcheff as Don John、ロバート・グイリム Robert Gwilym as Conrade、トニー・ロー Tony Rohr as Borachio、 パメラ・モイセイウィッチ Pamela Moiseiwitsch as Margaret、イシア・ベニーソン Ishia Bennison as Ursula、 オズ・クラーク Oz Clarke as Balthasar、マイケル・エルフィック Michael Elphick as Dogberry、クライヴ・ダン Clive Dunn as Verges、 グラハム・クラウデン Graham Crowden as Friar Franci。

 ≪舞台裏で≫『空騒ぎ』はドナルド・マックウィーニー演出、ペネロープ・キースとマイケル・ヨーク主演で、このシリーズの最初に製作され記録されたのだが、アメリカの視聴者に不満と考えられて、放送されなかった。第7シーズンに撮り直される間、スチュアート・バージ監督は最初はなんらセットなしで、背景の空白のタペストリーに反する完全なエピソードを撮ることを考えたが、観客がこれを良しと反応したわけではなかったように感じて、そのアイデアを捨てた。.

参考文献
福田恒存『シェイクスピア全集』1〜15巻、新潮社
松岡和子『シェイクスピア全集』1〜8巻、ちくま文庫
坪内哨遥『ザ・シェークスピア(全戯曲:全原文+全訳)』第三書館
ラム『シェイクスピア物語』(上下)、偕成社文庫
AERAムック『シェイクスピアがわかる』(朝日新聞社、1999年)
喜志哲雄『劇場のシェイクスピア』(早川書房、1991年)品切
高田康成・河合祥一郎・野田学(編)『シェイクスピアへの架け橋』(東京大学出版会、1998年)
高橋康也ほか、『シェイクスピア辞典』(研究社、2000年)
出口典雄(監修)、佐藤優(執筆・編集)『シェイクスピア作品ガイド37』(成美堂出版、2000年)
狩野良規『シェイクスピア・オン・スクリーン』(三修社、1996年)
ミルワード『シェイクスピアの人生観』(新潮選書、1985年)
中野好夫『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書、1967年)
ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社、新装訳書1992年)
ジョン・ウェイン『シェイクスピアの世界』(英宝社、1973年)
C・ウォルター・ホッジス『絵で見るシェイクスピアの舞台』(研究社出版、2000年)
松本侑子『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社、2001年)
ローレンス・オリヴィエ『一俳優の告白、オリヴィエ自伝』(文藝春秋、1982)
ケネス・ブラナー『私のはじまり』(白水社、訳本1993年。1989) 


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