シェイクスピアの四大悲劇と映画/ハムレット   
    2001年3月28日設置   2012年11月30日 更新

              池田 博明 


 シェイクスピアの目を通して人生を見ることは、人生のすべてを見ることである。
   − ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』序文より 

 シェイクスピアは形式的な整合性には全く無頓着だったのであり、古典主義的な理屈など一切お呼びではなかったのである。
 ・・・シェイクスピアがその創作の拠りどころとしたのは、リアリスティックな整合性ではなく、奔放な想像力だっという基本事項を確認しよう。
   - 河合祥一郎『謎解きハムレット』56ページ

 『ハムレット』が真に近代の幕開けを告げる戯曲であるのは、そこに実存的主体が描かれているからである。
 人間が根本的には無に近い存在であることを認め、不安や絶望に襲われながらも、神(あるいは絶対的な善)の前にひとり毅然として立ち、
 主体的に-つまり<不安>を抱えながらも自己の責務と無力をわきまえて-生きていくこと、それこそ『ハムレット』における最も重要な主題にほかならない。
   -  河合祥一郎『謎解きハムレット』182ページ 


ハムレット オセロ マクベス リア王
『史 劇』(英国史劇、ローマ史劇) 『喜劇その他』 世にも憂鬱なハムレットたち ハムレット狂詩曲
ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ BBCシェイクスピア全集
●データ、△引用、▼私見。シェイクスピアの映画化だけでなく、関係する映画もとりあげる。

       映画『ハムレット』   池田博明    

■映画では、オリヴィエの『ハムレット』(1948年)、ソ連のコージンツエフ監督の作品(1964年)、トニー・リチャードソン監督作品(1969年)、ゼッフィレッリ作品(1990年)、ケネス・ブラナー作品(1996年)、アルメレイダ作品(2000年)と、喜劇オリジナル『世にも憂鬱なハムレットたち』(1995年)がある。コージンツエフ作品も2003年にようやく見ることが出来た。もっとも、『ハムレット』映画はサラ・ベルナールのハムレット役に始まって、これまでに六十本以上あるという。

△ ジョンソン博士はハムレットに批判的であった。ハムレットの狂気には充分な理由がない、オフィ−リアに残酷にからむところは無用で気ままな残忍さが現れている等がその理由である。ヴォルテールも批判的であった。ハムレットは粗雑で野蛮であるという。
△ 中野好夫はその好著『シェイクスピアの面白さ』で、こう書いていた。
  “ある意味で『ハムレット』は支離滅裂なのである。近代劇や近代小説観からいえば、およそこれほど破錠だらけ、矛盾だらけの芝居もない。なんといおうと、それが『ハムレット』の一面である。それをきれいごとに、大傑作、大古典などと簡単に太鼓をたたくのは、つまりそのこと自体、文豪だの、古典だのと余計な予備知識に災いされているといって誤りない”。そこで、シェイクスピアの作品は、“誰か、せいぜい浅草あたりの大衆芝居の座付無名作者が書き下ろした新作をでも読むような、つもりで読むことである”。

■劇を「読む」前にビデオで「見る」ことの出来る現代の私たちは、中野好夫がこの好著を書いたころ、1965年ごろよりずっとシェイクスピアを「楽しむ」のによい環境にあるといえよう。
  『ハムレット』を演ずることの喜びがよく現われているブラナー監督の『世にも憂鬱なハムレットたち』を見ると、少年少女のころから、いろんな演出で『ハムレット』に親しむことの出来る観客は幸福だなと思わされる。映画に描かれているとおり、冒頭の兵士の一語、「誰だ?」にも万感の想いをこめることが出来るのだ。
  それに、シェイクスピアの劇は基本的にセリフ重視である。中野好夫の著作から引用する。

△ “それほどまでにセリフの芝居であるということは、当時の劇場構造と深くつながっているように思う。エリザベス朝のロンドンの劇場は、すべて小劇場であった”。せいぜいテニス・コ−トにちょっと毛の生えたくらい、まず日本の古い寄席程度と思えばまちがいあるまい。しかも背景といっても、きわめて簡単な暗示的なものが使われたにすぎないから、いわゆる「見せる」要素はかなり乏しかったといわねばならない”。

 私たちは、多様な『ハムレット』を映画で楽しむことができる時代にいるのである。

 (1) オリヴィエ作品『ハムレット』は白黒。
△オリヴィエの自伝から引用すると、“焦点の深さによって韻文の背丈に見合うだけのより壮大なよりポエティックな映像を生み出すために、あるショットで、前景にいるオフィーリアが長い廊下を歩いてくるハムレットを鏡に映して見るところがある。彼女は百二十フィート離れたところにすわっている、その彼女の髪の毛一本一本にも焦点が合い、彼の目鼻立ちにも合っていた”。
 撮影はデズモンド・ディッキンスン。音楽はウォルトン、企画はロジャー・ファース。

■ハムレット役は四十歳になったばかりのオリヴィエ。国王クローディアス役をバジル・シドニー、王妃ガートルードを“あの美貌の女優”で、オリヴィエより“十三歳若かった、これは記録にちがいない”(オリヴィエ自伝から)エイリーン・ハリー、ポローニアス役をフェリックス・エールマー、オフィーリア役を“見るものをうっとりさせる十六歳の”ジーン・シモンズ、ホレーシオ役ノーマン・ウーランド、レアティーズ役テレンス・モーガン、オズリック役ピーター・カッシング。

△最後の場面、スタントなしでオリヴィエは高い回廊から国王に向かって飛び降りる。自伝によれば、これは一か八かの撮影だったという。
  『ハムレット』の解釈について、オリヴィエは自伝で1937年に最初にオールド・ヴィック座で演じる前に、アーネスト・ジョーンズ教授の意見を聞きに行ったと記録している。リアリズムを目指す時代でハムレットの行動の動機を理解することが不可欠だったからだ。
  “教授と会って以来、ハムレットはエディプス・コンプレックスに悩む最たるものと信じている−もちろん、教授が熱心に強調されたように、まったく無意識にではあるが。彼はその徴候を印象的に並べて見せる−目を見はらせる気分の揺れ、愛するものに対する残酷な扱い、そして特に、彼に要求されている道を進むことができない絶望的な無力さ。エディプス・コンプレックスは、したがって、彼の非難されている面すべてに膨大な責任を負っている。必要とされている沸騰点に自分を持っていこうとする彼の決然たる努力には大きなペーソスがある、そしてこの責任をのがれるために彼が見つける口実にも大きなペーソスがある”。
  そしてもう一つ、オリヴィエが重要視しているのは、ハムレットの“演技癖である。もしその演技癖が彼を行動に駆り立てるものであるならばわからないものではない。だが不幸にしてそれは行動を遅滞させるのである。彼の気性を故意に人目にさらすことは、彼を消耗させるだけでなく、目的に専心することを一時忘れさせ息抜きを与えるかのようであるー稽古にすべてを使い尽くして本番の舞台をやり抜くことがほとんど余分と感じる俳優のように”。(オリヴィエ自伝第五章)
  オリヴィエ作品では、内面の独白と解釈された台詞では、俳優の唇は動かない。深い焦点距離を生かそうとしたというオリヴィエの言葉からも分かる通り、映画的な表現を追求した作品である。

▼冒頭に「これは、優柔不断な男の悲劇である」という原文にないナレーションを入れている。「このようにすべてを「性格」のせいにしてしまうロマン主義的解釈自体がが問題なのである。 ・・・そのイメージを最初に強く打ち出したのが、ドイツ・ロマン主義を代表する文豪ゲーテであった。・・・ロマン主義が生み出した、 優柔不断で意思の弱いハムレット像は、あたかも常識であるかのように広く受け容れられるようになった。・・・ 歴代のハムレット役者たちの演技を詳細に分析するという大変な研究をしたマーヴィン・ローゼンバーグは、これまで舞台に表象されたハムレットは「心優しきハムレット」(the sweet Hamlet)と 「力のハムレット」(the power Hamlet)とに大きく分類できると言う。・・・ハムレットの人物像を明らかにするひとつの手がかりとして年齢がある。ハムレットは幾つなのだろうか。 ・・・墓掘りの場で・・・普通『ハムレット』の底本とされる第ニクォート版(1604)とフォーリオ版(1623)では、ヨリックは「この二十三年間」地中に埋まっていたという墓掘り人夫の台詞があるので、 ハムレットが七歳の時にヨリックが死んだ計算になる。一方、第一クォート版では「三十年このかた」という台詞がなく、ヨリックは「この十二年間」埋まっていたことになっている。 「おぶってもらったこともある」というハムレットの台詞に照らして、第一クォート版のいてもヨリックが死んだのがハムレット七歳頃と想定できるとすれば、七歳頃から十二年経って、 今は十九歳ということになるわけだ。・・・マラルメにとって、「正位には即(つ)き得ない陰の王侯」としてのハムレットが、 すべてを見抜き感じとる天才的感性に溢れていながら不毛であるという矛盾は、まさに理想的詩人が持つジレンマを示すものであった。 それゆえハムレットは、不幸な天才として、マラルメ自身の姿と重ね合わせられたのである。 ・・・ロマン主義が生み出した大いなるハムレット讃歌はやがて実存主義的絶望、現代的な不安や疑念、あるいは政治的不満へ道を譲り、ハムレットは次第にその輝きを失い、批判を浴びはじめた。 世の中がだんだん慌ただしくなって殺伐としてくると、ハムレットの悠長な哲学的瞑想よりもその優柔不断さ、煮え切らなさが鼻についてきて、マイナス面が強調されはじめたのである。 ・・・しかし、どんなに激しいハムレット批判が繰りひろげられようと、実はニーチェにしろ、ロレンスにしろ、ロマン主義が作り出したハムレット像から逸脱していないことに注目したい。 憂鬱に悩む哲学青年のポーズに惚れ込むか、毛嫌いするかが違うだけであって、根本的なハムレット像の理解について大きな違いはないのである」(河合祥一郎『謎解きハムレット』第2章)。

 (2) トニー・リチャードソン監督『ハムレット』

▼リチャ−ドソン監督は私の大好きな映画『蜜の味』や、名作『長距離走者の孤独』『トム・ジョーンズの華麗な冒険』などを作っている。その彼の『ハムレット』はカラー作品なのだが、ほとんど白黒作品のような地味な色彩で一貫している。亡霊も兵士たちの台詞で語られるだけで、その姿は映し出されないし、ミドルショット以上にカメラが引くこともほとんどない。台詞はケレン味なく、自然に語られ、拍子抜けするほどである。
 王妃ガートルードは、王と一緒のベッドの上で飲み食いし、ただれた感じを漂わせている。ハムレットもやや髪の毛が薄くなった年長者である(ニコル・ウィリアムソンが演じている)。
 ミドルショットやクロースアップは一般に内面の心理を表現する技法であるが、この映画も心理劇として演出されていた。

 (3)ゼッフィレッリ監督『ハムレット』

Hamlet▼音楽がエンニオ・モリコーネである(イタリア映画音楽の雄。この作品では音楽は控え目に付けられている)。
 ドラマの勢いを留めてしまう台詞は大胆にカットされている。ゼッフィレッリは『ロミオとジュリエット』以来、あい変わらず、“ホットな”リアリズムを目指している。傍役にベテランを配置した堂々たるハムレットである。

■ハムレット役メル・ギブソン、その母ガートルード役グレン・クローズ、父王ハムレット役ポール・スコフィールド、叔父クローデイアス役アラン・ベイツ、ポローニアス役イアン・ホルム、その娘オフィーリア役ヘレナ・ボナム・カーター(小柄な少女で、この初々しいオフィーリアは一見の価値がある)、レアティーズ役ナサニエル・パーカー(優男である。パーカー監督の映画『オセロ』ではキャッシオ役)、ホレイショー役ステフェン・ディレーン。

▼河合『謎解きハムレット』第6章では、オフィーリアはハムレットとは肉体関係のない娘である。
 “オフィーリア。その名前の頭文字Oは、ゼロを表す。空白のゼロ。それは、父権制社会における空白であり、そこには、兄や父など他の人が好き勝手に書き込みをし、オフィーリアの「あるべき姿」を決めてしまう。ゼロは数字(figure=人物)として認めらない。彼女は一人前の人間として認められていないのだ。・・・レィアーティーズと結びつけば<妹>、ポローニアスと結びつけば<娘>、ハムレットと結びつけば<恋人>というふうに。しかし、彼女が結びつくべき数字(男たtり)同士が互いにいがみ合ったり、抹殺されたりして意味を成さなくなれば、ゼロは存在しえなくなる。そのとき彼女は正気を失わざるをえなくなるのだ。・・・オフィーリアは穢れない肉体の持ち主であり、その清純な肉体を死ぬまで守るのである”

 (4)ケネス・ブラナー監督『ハムレット』ブラナー版ハムレット

▼この作品は、比較的新しい、洋服の時代に設定し(1990年ごろ。留学するレアティーズはスーツにコートという洋服であるし、軍服は飾りはあるものの洋装であった)、台詞のほとんどを生かした完全版であった(243分)。 完全版は長すぎるため上演されたことはないという。長台詞はたたみかけるように早く語られる。ブラナーはどの画面も躍動感のあるハムレットにしたかったと証言している。音楽はブラナー作品常連のパトリック・ドイル。
  ブラナーは理知的で演劇的なハムレットを演じている。ハムレットはじゅうぶん自分自身の演技を意識していて、どの程度に狂乱を見せつけたらいいかを、ちゃんと知っている。 そのことは劇団員の前で話す演技論に、よく表現されてくる。つまり、やり過ぎてもいけないし、あまりにさらりと喋られても困る。
 ハムレットの乱心は演技であるという演出で一貫しており(例えば「尼寺へ行け」という言葉も、わざと王の潜む部屋の鏡面の前で(中からは素通しで見える特殊ガラス)、 意識してわざと聞かせる設定だったし、劇中劇を演ずる劇団の芝居とハムレットの演技論も明確に表現されていた。台詞や演技にメリハリがあって、その意味を理解しやすいものだった。 ブラナーはハムレットをせいぜい30歳ぐらいと認識。演じた当時のブラナーは35歳だったので自分が演じられる限界だったろうと追憶している。
 カメラは台詞に微妙に反応する人々のアクションをきちんと捉えており、長い台詞であっても、話す人以外の人々のアクションがこまめに拾いあげられているため、大変多様で奥深い解釈が可能になっている。 映画のよさがよく出ていた。4時間という長時間だが、脇役まで豪華な布陣で、決してあきない見事な作品である。絢爛豪華なハムレット。

△福田恒存は『ハムレット』の解題に次のように書いていた。
  "ハムレットを演じる役者には、ほんの一寸した心がけが必要である。シェイクスピア劇においては、自分の役の内面心理の動きや性格をせりふから逆に推理演繹して、 その表現をめざすといふ写実主義的教義は有害無益である。ハムレットの演技法はハムレットに教はることだ。シェイクスピア劇の演技法はシェイクスピアに教はることだ。 そのハムレットは演戯し、演戯しながらそれを楽しんでゐる。さういふハムレットを役者は演戯すればいい。演戯といふことが既に二重の生であるがゆゑに、そこには二重の演戯がある。 これは私の持論だが、人生においても、そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演戯してゐる。生き甲斐とはさういふものではないか。 自分自身でありながら自分にあらざるものを掴みとることではないか"。
  福田の文章の「演技」と「演戯」の使い分けにも注意しよう。

■ブラナーはキャストの交渉もほとんど自分で行なった。国際的なスターを集めている。ハムレットの母ガートルード役ジュリー・クリスティー、英国国王リチャード・アッテンボロー、叔父クローデイアス役デレク・ジャコビ(『ヘンリー五世』で説明役の名優)、 ポローニアス役リチャード・ブライヤーズ、その娘オフィーリア役ケイト・ウインスレット(ゼッフィレッリ版のヘレナ・ボナム=カーターよりは年上で、ハムレットとは床を共にしていたという演出がされている。 それに、狂乱のオフィーリアは性的な妄想にかられて悶える演出である)、ホレイショー役ニコラス・ファレル、、劇団の団長役チャールトン・ヘストン、 劇団団長の語りの中の王ピラス役ジョン・ギールグッド、同様に王妃ヘキュバ役ジュディ・ディンチ、審判オズリック役ロビン・ウィリアムズ、衛兵マーセラス役ジャック・レモン(ブラナーは「平凡な人間」を演じたらレモンが一番と評価)、 フォーティンブラス役ジェラルド・ドパルデュー、墓掘り役をビリー・クリスタル、他にチャールズ・ダニッシュ、ルフス・シーウェル。
●製作デイビッド・バロン、撮影監督アレックス・トムソン、デザイナーをティム・ハーヴェイ、編集ニール・ファレル、音楽パトリック・ドイル、主題歌「IN PACE」をプラシド・ドミンゴが歌う。

▼原作では最後に到着するノルウェイの王子フォーティンブラスはポーランド戦線から引き揚げの途中に立ち寄ったことになっているが、 ブラナー版では野心家のフォーティンブラスが軍勢を率いて攻め込んだという演出をしている。城外から次第に接近する敵の脅威を背景に城内では《一族の死》となる決闘が行われているという設定である。

 (5)ショスタコーヴィッチ作曲のバレエ作品の『ハムレット』がある。ヌレエフのハムレット写真はビデオ函より。

 (6)イーサン・ホーク主演『ハムレット』

▼バズ・ラーマン監督の現代化した『ロメオ&ジュリエット』が好評だった影響だろう。現代化した『ハムレット』も製作された(ダブルAフィルムズ作品、2000年USA)。マイケル・アルメレイダ脚色・監督、ジョン・デ・ボーマン撮影、112分。
 時代は2000年のニューヨーク。デンマーク社の会長が急死し、2ケ月後、その弟が会長に就任、未亡人との結婚のマスコミ発表の会場に、大学留学中だったハムレットが帰って来る。ビデオ・カメラやポータブルAVプレーヤーを持って現れるハムレットは、部屋の中にもコンピュータや多くのAV機材を持ち込んでおり、情報・映像オタクのようである。ホテル名がエルシノアである。
 亡霊(サム・シェパード)はビルの廊下に出現する。
 オフィーリア(ジュリアン・スタイルズ,『オセロー』を下敷きにした高校生ドラマ『O[オー]』では、デジーつまりデズデモーナ役)は会社のカメラ部員であり、自室の暗室で写真の現像もしている。 会社の重役でもある父親ポローニアス(ビル・マレー)に盗聴マイクを仕掛けられて、ハムレットのもとに行かされる。「尼寺に行け」の場面である。盗聴マイクをハムレットに発見されて、ハムレットに罵られる。 神経を病んだオフィーリアはビル内の噴水池に落ちて溺死する。Ethan Hawk
 叔父クローディアス(カイル・マックラクラン)と母ガートルード(ディアン・ヴェノーラ)に、ハムレットが見せるのは自作の映画「マウス・トラップ(ネズミ捕り)」。 多くの映画とコンピュータ・グラフィックをコラージュした短編。ハムレットがレンタル・ビデオ店で沢山の映画を借りる場面が、その前にある。
 母の部屋の衣装部屋に隠れているポローニアスをハムレットは拳銃で撃つ。彼の死体をハムレットは隠してしまい、映画の終わりまで彼の死体は発見されない。 クローディアスはハムレットを英国支社に送るが、飛行機内で謀略を知ったハムレットは支社長宛てのメッセージを書き替えて、すぐに空路で戻ってくる。 迎えに出たホレイショー(カール・ゲアリー)のバイクの後ろに乗って二人は町に入り、オフィーリアの埋葬に立ち会う。 ハムレットに対する復讐の気持ちに高ぶるレアティーズ(リーヴ・シュライバー)と喧嘩になる。
 現代化したときに、最後の剣の試合の設定が、物語の展開からして困難であろうと予想された。この映画では、叔父がハムレットとレアティーズに、余興としてフェンシングの試合を提案することになっていた。 ビルの一室で、剣の試合が行われる。ハムレットが2本先取したところで、叔父が用意して薦めた酒杯を、母が怪しんで自分が奪い取って飲み、ハムレットの額の汗を拭く。 3本目を始めようとしたところで、レアテーィズが突然剣を捨ててハムレットを撃つ。とっ組み合いになり、自分をも撃ってしまったレアティーズは、ハムレットに酒杯に毒が仕掛けられていることを告白する。 ホレイショーに助け起こされたハムレットは、拳銃を拾い、叔父を撃ち殺し、自らも息を引き取る。
 イーサン・ホークは、『理由なき反抗』のジェームス・ディーンに自己投影している神経症的なハムレットなので、映画も彼の独白中心に展開する。 重要な台詞はそのまま使われている。ハムレットの名台詞は現代の状況においてみると、かえって警句として生きていることが分かる。
 とはいえ、台詞が大時代的なので、奇妙な味の映画に仕上がっている。もっと大胆に構成を変え、台詞を刈り込んで、行動的な映画にした方がいいのではないかと思った。 象徴的な場面としては、ポローニアスが叔父たちにハムレットの狂気を地口を交えて回りくどく話すところ、映画としてはかなり浮き上がっている。 こういった場面はビジネス界に現代化したとき、不要であったろう。

 (7)ピーター・ブルック演出『ハムレット』   2002年12月31日NHK教育テレビにて放送

 2002年にNHK制作でハイビジョン収録されたブルック演出のハムレット。台詞を削って削って、2時間に短縮した凝縮版である。台詞中心の芝居で、装置も様式化された舞台で、衣裳もシンプルである。フランスのブッフ・デュ・ノール劇場にて。

▼ブルックは『ハムレット』はシェイクスピアが最初から構想した芝居ではなく、当時のメロドラマをリメイクした作品であるため、芸術的な失敗作であると言う。 いわば作品は二層になっており、修飾部分のメロドラマを削ると、時代を超えた純粋な神話的な要素、主人公たちの関係が現れてくると言う。
 劇はハムレットの第一独白から始まる。ハムレット役はジャマイカ出身バーミンガム生まれの黒人エイドリアン・レスター。ブルックは「現代の若者として共感でき、 自分の言葉のようにシェイクスピアの言葉を話すことのできる役者」と絶賛する。ホレイショー(スコット・ハンディ)が登場し、王子は亡霊と出会う。 亡霊役は黒人のジェフリー・キッスーン。亡霊が消え、ホレイショーが誓うと、国王と王妃(ナターシャ・パリー)が登場する(原戯曲の1幕第2場に戻る)。 国王クローディアス役はなんと亡霊と同じキッスーンが演ずる。
 オフィーリアはインドのシャンタラ・シヴァリガッパが演ずる。ポローニアス(ブルース・マイヤーズ。墓掘り人も演ずる)は王子を恋の病と判断する。 ローゼンクランツ(アジル・ライズ。オズリック役も演ずる)とギルデンスターン(ロアン・シーヴァ。レアティーズ役も演ずる)は王子の意図を探りに来る。
 ハムレットの独白さえ台詞が刈りこまれている。。「尼寺へ行け」の場面の後で、旅役者(菰田勝広)の毒殺場面がある。第4独白「生か死か」は通常の位置ではなく、 イギリスに行く直前に置かれた。
 剣戟場面は力強く描かれた。最後にハムレットが王を突くとき、「近親相姦の、人殺しの、地獄落ちのデンマーク王、死ね」と批難するが、これに対してブルックは王に「それが必然」と答えさせている。 原作にはない台詞である。
 『ハムレット』が現代的な理由をブルックは亡霊の言葉で解説していた。亡霊はハムレットに(復讐のために)「如何なる手段をとろうとも、お前の心を汚してはならぬ」と言う。 芝居全体を通して、汚れない心を持ったまま、他人を殺すことはできるのかという重い問いがつきつけられているのだ。

●シェイクスピアの四大悲劇中、『ハムレット』はかなりオペラ化されていて、30曲以上あるという。その半数が1950年以降である。トーマ作曲の歌劇『ハムレット』(1868)が一番よく上演されるが未見。
 シェイクスピアでいちばん多くオペラ化された作品は『テンペスト』で、次が『ロミオとジュリエット』だそうである。

 (8)ソ連映画『ハムレット』    ロシア映画社アーカイブスより転載
 1964ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞、シェークスピア生誕400年記念作品。
 厳密な時代考証をもとに、今日的感覚で原作に忠実にアプローチし、シェークスピアを生んだイギリスでも絶賛を博したコージンツェフ監督の代表作。 コージンツェフ監督はシェークスピア劇に造詣が深く、著書もあり、71年には遺作となった「リア王」も映画化している。 ハムレットを演じたインノケンティ・スモクトゥノフスキーはそれまで、舞台俳優として名声を得てきたが、この作品でレーニン賞を受賞するなど映画界における地位も不動のものにした。 また、当時、19歳だったヴェルチンスカヤの初々しいオフェーリア役も忘れられない。ロシア映画ハムレット
 撮影のイオナス・グリツュスは、クリミア半島に設営されたオープン・セットを見事に生かし、中世ヨーロッパの雰囲気を醸し出している。 作曲家のドミトリー・ショスタコーヴィチは、監督と深い交友関係あって、コージンツェフ作品の殆どの音楽を手がけている。
 [スタジオ/製作年] レンフィルム1964年・製作
 [スタッフ] 原作:ウィリアム・シェークスピア 翻訳:ボリス・パステルナーク
 脚本・監督=グリゴーリー・コージンツェフ
 撮影:イオナス・グリツュス
 美術:エフゲニー・エネイ 、ゲオルギー・クロパチェフ、スリコ・ヴィルサラーゼ
 音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
 [キャスト] ハムレット:インノケンティ・スモクトゥノフスキー 、オフェーリア:アナスタシア・ヴェルチンスカヤ、クロディアス王:ミハイル・ナズワーノフ、王妃:エリザ・ラジニ、 ポローニアス:ユーリー・トルベーエフ、ホレーシオ:ウラジーミル・エレンベルク
 [ジャンル] 長編劇映画 [サイズ] 35mm / シネマスコープ / モノクロ / 2部作 [上映時間] 2時間30分

▼ようやくDVD化された(2003年11月.IVC作品)。
 白黒の画面に不吉な鐘声が響き,荒れた海面にエルシノア城の影が映るオープニング。ショスタコーヴィッチの音楽が鳴る。黒い半旗が出され,早馬が駆ける。ハムレットが帰って来た。 城門が閉じられ,王が死んだようだ。
 一転して告知の太鼓が鳴らされ,義弟と王妃の結婚が報じられる。廷臣たちが「片目に笑み,片目に涙か」と噂し合っている。 ハムレットの第一独白は王の新婚を祝う喧騒のなかで心中の言葉として発せられ,王子の孤独感を表現する。三木清の『人生論ノート』に“孤独は山になく,街にある”とあった。
 オフィーリアはギター(ダ・ガンバ?)の伴奏で踊りの稽古をして登場。兄と父に王子の言葉を真に受けないようにと忠告される。祝宴で浮かれたつ城内とは裏腹にハムレットたちは強風のなかを城壁へと進む。 自然の荒々しさや「風」,荒涼とした風景が描かれる。妖しい気配に馬が暴れ出す。
 この映画で印象的なことは城内の家来たちが大抵ハムレットや王や王妃の行動を見つめていることだ。ハムレットの様子を遠巻きにしてみんなが見つめている。 これは狭い劇場の舞台では無かったことである。
 王に演劇を見せた後にも,周囲の目撃者たちが右往左往するなかを主人公が走るといった、劇的な展開となる。この映画では,クローディアスの独白のとき,ハムレットは傍にいない。第一部はここで終了。
 第2部はハムレットが母親の部屋を訊ねるところから。部屋でハムレットは母親を責める。そのとき亡霊のテーマが鳴り、ハムレットに父の言葉「母親には危害を加えるな」を思い出させる。 しかし、この映画では亡霊の姿は映し出されない。
 オフィーリアが発狂する場面は実に美しい。目撃者=兵士たちの間を枯れた枝に花を見て,声をかけていく。
 剣先に毒を塗るのは父や妹の復讐心に燃えるレアティーズの発案となっていた。
 臨終の場面でハムレットはホレイショーに助けられながら城の外へ出て,息を引き取る。字幕は「俺はもう駄目だ」と翻訳してあったが,やはり「あとは沈黙」と字義通り訳すべきではないだろうか。 有名な「言葉,言葉,言葉」も,「いろんな言葉だ」と訳してあったが,パステルナークが翻訳に苦心したという原文を尊重して訳してほしいところである。
 映画的な脚色が見事にはまっている傑作である。

 (9)BBCシェイクスピア全集の『ハムレット』 Hamlet, Prince of Denmark
 演出ロドニー・ベネット、収録January 31-February 8, 1980、英国初放送 May 25, 1980、アメリカ初放送 November 10, 1980。

■デレク・ジャコビ Derek Jacobi as Hamlet、クレア・ブルーム Claire Bloom as Gertrude,パトリック・スチュワート Patrick Stewart as Claudius、エリック・ポーター Eric Porter as Polonius、ララ・ワード Lalla Ward as Ophelia、ディヴィッド・ロッブ David Robb as Laertes、 パトリック・アレン Patrick Allen as the Ghost of Hamlet's Father,、ロバート・スワン Robert Swann as Horatio、 ジョナサン・ハイド Jonathan Hyde as Rosencrantz、ジオフリー・ベイトマン Geoffrey Bateman as Guildenstern,、 エムリス・ジェイムズ Emrys James as Player King 、ジェイソン・ケンプ Jason Kemp as Player Queen、イアン・チャールソン Ian Charleson as Fortinbras、テイム・ウィルトンTim Wylton as First Gravedigger、 ピーター・ベンソンPeter Benson as Second Gravedigger、ポール・ハムポレッツPaul Humpoletz as Marcellus ニール・パッデンNiall Padden as Bernardo クリストファー・ベインズChristopher Baines as Francisco、ジョン・ハンフリー John Humphry as Voltimand、ジョン・スターランド John Sterland as Cornelius、ピーター・ゲイル Peter Gale as Osric、レイモンド・メイソン Raymond Mason as Reynaldo、 ダン・ミーデン Dan Meaden as Norwegian Captain、ディヴィッド・ヘンリー David Henry as English Ambassador。
 デレク・ジャコビのハムレットは14歳のケネス・ブラナーに役者の道を歩ませるきっかけとなったそうである。王立演劇アカデミーの校長ギールグッドの前でブラナーは演技をしたこともあったという。




(10)映画『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
 Amazon.co.jpのレビューからBo-he-mianさんのレビューを引用。
 “おやおや・・・このページに書かれたレビューを見ると、ずい分敷居の高い映画のように思えてしまいます。 シェイクスピア、ハムレット・・・などとブンガク的な言葉を並べられると、なるほど、何だか難解でとっつきにくい気もします。
 でもちょっと視点を変えてみると、これは「ハムレット」で超・脇役だった2人のキャラクターを、目線をひっくり返して主人公にしてしまった、一種のパロディなんです。 「ハムレット」から、バディものでスピンオフ!なんて言ってみたら、ほら、ググっと敷居が低くなってちょっと面白そうに聞こえませんか?
 これは劇作家のトム・ストッパードが'60年代に書いた戯曲を、自ら監督した映画です。トム・ストッパードWHO?とお思いの方も、テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」やスピルバーグの 「太陽の帝国」の脚本家、といえば映画ファンとして何だか親近感がわいて来ませんか? まず何より、これは喜劇なのです。最後には死んでしまうという悲劇的な運命が決まってしまっているのに、2人のキャラクターの、クスリと笑ってしまうやりとりが何とも味わい深い凸凹道中なのです。
 直感的なひらめきを持ちつつも、それをうまく説明できない、おっとり型のローゼンクランツ(ゲイリー・オールドマン)。 現実的で利口に見えるが、柔軟さを持ち合わせない、カタブツのギルデンスターン(ティム・ロス)。 筆者が大好きなところは、ローゼンクランツが事あるごとに万有引力の法則を発見したり、蒸気機関や飛行機の原型となるものを創ったりするのですが、 ことごとくギルデンスターンが否定してしまい、ニュートンやライト兄弟の登場までおあずけ・・・になってしまう、というウィットとブラックユーモアあふれるエピソードのもろもろ。 もちろん「ハムレット」の世界なわけで、あの有名な名セリフや、オフィーリアの水死の美しいシーンもありますが、それはむしろオマケの方。だってハムレットは今回、脇役ですから。 まずはまだ未見の方、肩の力を抜いて、才人トム・ストッパードの名人芸ともいえる「スピンオフ・バディ・コメディー」をお楽しみ・・・
 えっ、DVD絶版!?  そいつはいけませんな・・・今すぐ再発するように。廉価版で。  Rosencrantz and Guildenstern will be Back!


▼パロディーとして成功を収めたのも、従来の解釈を逆転させて、ハムレットをてきぱきと行動する人として規定する一方で、 ローゼンクランツとギルデンスターンを「話してばかりで何もしない」“ハムレット的”状況に置いてみせたからである(河合『謎解きハムレット』第2章)。

(11)エンツォ・カステラーリ監督の映画『ジョニー・ハムレット』 

▼ハムレットを西部劇にしたててしまった奇作。日本未公開。1967年イタリア・スペイン合作。原案は傑作『続・荒野の用心棒』のセルジオ・コルブッチ。監督はエンツォ・G・カステラッリ。脚本はティト・カルピ、フランチェスコ・スカルダマーリャ、エンツォ・カステラッリ。
 南北戦争帰りのジョニー(アアンドレア・ジョルダーナ)は夢枕に立った父親に導かれるように故郷の町へ帰ってきた。そこで知ったのは、父親が殺され、その弟クロード(ホルスト・フランク)が母ゲルトリー(フランソワーズ・プレヴォスト)とともに暮らしているという衝撃の事実だった。
 ジョニーは友人のオラス(ギルバート・ローランド)から殺し屋はサンタナ、しかし、サンタナは既に殺されたと聞く。恋人のエミリー(ガブリエラ・グリマルディ)は不在の間にいろいろなことが起こった、元には戻れないと言う。エミリーは保安官の娘、ならず者のロス(エンニオ・ジロラーミ)とギルド(ペドロ・サンチェス)がジョニーに襲い掛かる。激しい殴り合いでオラスの助けを得たジョニーが優勢だったが、保安官が止めた。保安官はエミリーに会うなと忠告する。
 叔父は銃の名手だ。叔父の話では、戦争資金30万ドルを輸送する途中をサンタナが襲った、金がなかったのでサンタナは輸送責任者のジョニーの父親を殺した。サンタナは金が盗まれたと吹聴し、叔父が正当防衛でサンタナを殺した。しかし、ジョニーにはすぐには信じられなかった。オラスと相談しているところへ旅芸人の一座が到着。女優のオフェーリアの片方の耳飾りが殺害現場に残されていたものと一致した。ジョニーはオフェーリアと一晩を過ごしながら耳飾りの出所を聴く。知らないイタリア人にもらったと言う。サンタナだろうか。ジョニーは翌日サンタナの墓を暴く。ベルトの飾りは違うものだった。叔父がジョニーを追跡していた。宿へ帰ったジョニーはオフェーリヤが寝台で殺されているのに気づく。部屋の外へ出ると殺し屋が集まってきていた。銃撃戦を制してジョニーはサンタナを捜す。
 サンタナの隠れ家に行ってみると、生きていた彼は叔父と一緒だった。ジョニーが軍への拠出金はどこへやったかと聞くと、サンタナ(マニェル・セラーノ)が逆上する。金があるのなら、分け前を寄越せというのだ。叔父とジョニー、サンタナ一味は一緒に宝探しに出かける。
 しかし、一行は途中の岩山で狙撃された。かろうじて切り抜けるが、狙撃者は叔父の雇ったならず者ロスとギルドだった。
 救いに入って脚を撃たれたオラスとジョニーはいったんここで別れた。一方、エミリーはジョニーに秘密をもらした疑いで、クロードに撃たれて川に棄てられた。凶器の拳銃は母親がジョニーに渡した形見の銃だった。保安官はエミリーを撃ったのはジョニーだと推理する。
 墓堀りの場面。ジョニーが墓堀人夫にクロードの墓を依頼したが、人夫から今掘っているのはエミリーの墓だと聞いて、驚く。保安官とロスとギルドが突然ジョニーを殴る。気を失ったジョニーを十字架にはりつけ、私刑にしようと準備するが、サンタナが荒くれ者を集めて村へ向かったのを目撃する。ジョニーを十字架上に残したまま彼らは村へ戻る。ゲルトリーはサンタナが襲撃に来ると聞いて不審に思う。クロードが兄の復讐を果たしてサンタナを殺したはずではないか。拳銃を片手にクロードを問い詰めるゲルトリー。そこへならず者のギルドが来てゲルトリーを撃つ。クロードはギルドを殴るが、もうサンタナがそこまで来ている。激しい銃撃戦となる。
 ゲルトリーは死んではいなかった。馬を奪って虫の息ながらジョニーのもとへ。保安官が待ち伏せっしていたがオラスの助けでジョニーは救われる。町ではなんとかサンタナを仕留めたクロードらが十字架のところへ駆けつけると、十字架にかかっていたのは保安官でその下ではゲルトリーが息を引き取っていた。
 酒場でギルドがオラスに撃たれる。ジョニーは釘をうたれた右手に拳銃をくくりつけていた。ロスがジョニーに撃たれたのを見てクロードは逃げ出し、飼料小屋で隠していた黄金を回収する。しかし、途中でジョニーに撃たれ、黄金はほとんど風に飛ばされた(袋の中は一部は黄金だが、ほとんどは粉のように見える)。オラスとジョニーは昔、父害っていたように「風に向かって」去っていった。
 フランチェスコ・デ・マージの音楽がいかにもマカロニ・ウェスタン風。

(12)蜷川幸雄演出・藤原竜也主演の劇『ハムレット』
 You Tubeに分割でアップされている。
 蜷川幸雄演出「ハムレット」、渋谷のシアターコクーンにて2003年11月16日から12月14日まで、33ステージ)   
 全席指定。前売り当日とも S席10000円 A席7500円 コクーンシート5000円  
 翻訳:河合祥一郎、美術:中越司、照明:原田保、衣裳:前田文子、音響:井上正弘、ヘアメイク:河野陽子、殺陣:國井正廣、小道具デザイン:安津満美子・田渕英奈、 演出助手:井上尊晶・石丸さち子、舞台監督:小林清隆、宣伝美術:トリプル・オー。
 制作:松井珠美ほか、企画・製作:Bunkamura、主催:フジテレビジョン、Bunkamura。
 WOWOWで放映された。TVディレクターは油谷真一。放映は200?年4月17日午後3時から。

■藤原竜也:ハムレット、西岡徳馬:叔父クローディアス/亡霊、高橋惠子:母ガートルード、たかお鷹:ポローニアス、井上芳雄:レアティーズ、鈴木杏:オフィーリア、 高橋洋:ホレイシオ、新川將人:ローゼンクランツ、中山幸:ギルデンスターン、小栗旬:フォーティンブラス、
 二反田雅澄:マーセラス/隊長 田村真:バナードー、小豆田雅一:フランシスコ、栗原直樹:ヴォルティマンド、富岡弘:オズリック、  
 沢竜二:座長/墓堀り、衣川城二:司祭/黙劇の王、下崎篤:コーネリアス/黙劇の王妃、野辺富三:黙劇の毒殺者/紳士、グレート義太夫:前口上役/船乗り、 月川勇気:劇中の王妃、杉浦大介:劇中の王、井出らっきょ:劇中の毒殺者/墓掘りの相方、川端征規:一座の役者、宮田幸輝:一座の役者、金子岳憲:使者/一座の役者、

▼舞台はホールのほぼ3分の1の位置にステージ。両側に客席。舞台上には檻があり、その中や周囲で芝居が行われる。
 後半はフェンスが取りはずされる。役者の劇に王が怒りを表すと一同の騒動がスローモーションで示された。音楽は主にマイルス・ディビスを使っているが大変効果的。
 藤原竜也のハムレットは若々しく激しい。膨大なセリフを自家薬篭中のものとしていた。スピーディなセリフ回しと演出で、話がどんどん進む。 翻訳は野村萬斎のハムレット用に河合祥一郎が訳したテキストで、簡潔にして舞台上ではえるように工夫された台詞である。
 オフィーリアは翻弄される一方の少女だったんだと改めて確認できた。 ネット上の感想から引用。
 藤原竜也は2003年当時、21歳。台本を受け取ってから半年間、毎日稽古場から帰宅するまですべてのセリフを言うようにして生活したという。自分のセリフを録音し、聞いて覚えることの繰り返し。 午前3時、4時、5時という時間帯がセリフがよく入るという。
 蜷川さんはロシア映画の『ハムレット』を見て、“ハムレットが若いってことが大事。ロシア映画のハムレットは37〜38歳で、母親は50歳すぎ。それで母親が好きなんて・・・最悪。 俺たちのほうがずっといいよ”と発言していた。
 城の道化ヨリックが「死んでから23年」というセリフがあり、ハムレットはヨリックにおぶってもらったし、道化の戯言を覚えているというから、原戯曲のハムレットの年齢設定は30歳以上ではある。 にもかかわらず、この舞台では藤原竜也は若いハムレットを演じた。母親を愛すると同時に叔父との早すぎた結婚を許せない息子である。

▼急にハムレットが「尼寺へ行け」と言うのは謎だった。
 その前にハムレットは「ははあ、お前は貞淑か(正直か)?」と何かに気づく。いったいハムレットは何に気づくのか。河合『謎解きハムレット』第6章はこう説明する。
 “これについては二十世紀前半の『ハムレット』を編纂したJ・Q・アダムズと、シェイクスピア新訳刊行中の松岡和子の説が明快な回答を   与えてくれる。アダムズによれば、オフィーリアの返答はすべてポローニアスの指示通りになされている。ポローニアスの教えこんだとおりに彼女の口は動いているのだ。その極めつけの証拠を松岡和子は発見した。彼女自身の訳で見ておこう---
   オフィーリア その香りも失せました。
    お返しいたします。品位を尊ぶ者にとっては(to the noble mind)
    どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます。
     (Rich gifts wax poor when givers prove unkind.)
    さあ、どうぞ。(There, my lord.) 
   ハムレット ははあ! お前は貞淑か? (Ha, ha? Are you honest?)    (三幕一場100-4行)

 松岡和子は指摘する---「品位を尊ぶ者」(the noble mind)という表現は、歳ゆかぬ娘が自分のことを指すにはあまりにも仰々しすぎる。これは明らかにポローニアスが娘に言わせている言葉だ。 そう考えた彼女は、蜷川幸雄演出『ハムレット』の稽古でオフィーリア役の松たか子の発言に驚くことになる。こちらが何も言わないうちから、 彼女は「私、この台詞は父(ポローニアス)に言わされているのだと思っています」と言い、それを受けてハムレット役の真田広之が、「僕も、この台詞を聞いて、裏に親父がいるなと思うんです」と応えたという。 そしてさらに、自身ハムレットを演じたこともあるマイケル・マロニーをはじめとするイギリス人たちに次々と確かめたところ、 みな、この台詞は確かにポローニアスがオフィーリアに言わせているものと感じられると証言したというのである。
 これは重大な発見である。さらに付け加えれば、問題となる二行が、mindとunkindが韻を踏むカプレット(二行連句)になっていることも見逃せない。 それまで無韻で台詞が続いていたのに、突然カプレットになって、いかにもとってつけたようなぎごちない端正さを感じさせるのである。 このことについては、すでに初代アーデン版『ハムレット』編者エドエワード・ダウデンが、この台詞には「準備された感じがある」と指摘している。 疑いなく、オフィーリアがポローニアスに命じられた通りに返答していることを、この台詞によってハムレットは察知するのだ。
 ・・・この芝居が、ハムレットが自分と戦う物語と考えれば、壁掛の背後の連中などどうでもよいことがわかってくる。第四独白で存在のあり方について瞑想するのも、 オフィーリアの女としての弱さを攻撃するのも、ハムレットが人間として気高くあろうと葛藤をしているからのことであり、そのとき敵がどこで何をしているかがどということは問題ではない。 この芝居のテーマは悪党と復讐者の知恵比べではないのである。・・・ハムレットの真の敵はハムレット自身の中にいるのだ。 彼自身の性的な、政治的な、世俗的なあらゆる欲望-罪の根源-を根絶し、神の意思をおこなう「神の鞭」(三幕第四場164行)たりうるか。 「神の鞭」になるとは神の道具になるということであり、そのためには自分の罪も贖わなければならない。キリストが、姦淫を犯した女を責める人たちに「なんぎらのうち、罪なき者まず石をなげうて」(ヨハネ伝8:7)と言ったように、ハムレットは王を罰する前にまず己に厳しい態度をとり、オフィーリアを遠ざけるのである。”

▼河合『謎解きハムレット』第7章より、“最初は自分はヘラクレスではないと言っていたハムレットは、いつしか、自らヘラクレスのようにふるまわなければならない状況に陥ってしまう。つまり、一幕ニ場で「俺はヘラクレスと違う」と言ったにもかかわらず、そのあとで亡霊と出会って、ヘラクレスになろうと決意せざるをえなくなることにこそ、この作品の劇的効果(ドラマ)があるのだ”、“ヘラクレスは当時[十六世紀]のスーパー・ヒーローであった”、“ヘラクレスは、腕力のみならず知力の鑑でもあった”。
 “人間としての己の力の限界---それこそがハムレット」の復讐遅延の最大の原因なのだ”、“第五幕に入ると、ハムレットは二度目の変貌を遂げていく。人間としての弱さを乗り越えようとするのではなく、それを認めたうえで行動しようとするのだ。その変貌は、ヘラクレス的な行動をとることをすっかり諦め、すべてを神意にゆだねようとすることによって達成される。”

世にも憂鬱なハムレットたち
       映画『世にも憂鬱なハムレットたち  池田博明

▼ 『ハムレット』を見た後で見ると、無類に面白い作品である。イギリスのように子供の頃からシェイクスピア劇に親しんでいる人々は泣き笑いしながら見ただろう。趣向はバックステージ(舞台裏)ものだが、とにかく演劇が好きだという作者たちのメッセージが明瞭である。ブラナーが完全版『ハムレット』を作る前に製作したハムレットに対するリスペクトを表した作品。

■ 売れない役者ジョー(マイケル・マロニー)は一大決心をする。クリスマス・イヴに『ハムレット』を上演しようというのだ。スポンサーは女友達(ジョーン・コリンズ)。役者募集の広告を見て集って来たのは、自信家ヘンリー(リチャード・ブライヤーズ)、ゲイのテリー(ジョン・セッションズ)、落ち目の役者カーニフォース(ジェラルド・ノーラン)、子役あがりの青年トム(ニコラス・ファレル)、ド近眼のニーナ(ジュリア・サワラ)。

▼オンボロ教会に泊まり込んで二週間の練習が始まる。うまくいく予感が乳首を立たせるという奇妙な女性デザイナーのファッジ(セリア・イムリー)、スタッフ参加のジョーの妹モリー(ヘッタ・チャーンリー)、友人ヴァーノン(マーク・ハッドフィールド)が加わって、主役兼演出のジョーのもと、短縮版ハムレットの幕開きに向ってスタートする。脚本・監督のケネス・ブラナーの思い出は、15歳でこの劇を見て人生が変わったんだというジョーの言葉ではないだろうか。子供の観客が大切だというのも、ブラナーの信条だろう。
 練習を通してぶつかる役者たちには、それぞれの人生が反映していた。オフィーリア役のニーナは軍パイロットの夫を空中衝突事故で亡くしていた。クローディアス役のヘンリーは実際の大舞台は経験したことが無かった。王妃役のテリーの息子は父親を軽蔑していた。15役をこなすカーニフォースは自分の演技に自信を無くし、酒におぼれていた。ジョンも自分のオンボロ人生に嫌気がさしていた。しかし、練習でぶつかりあううちに、それぞれが成長していく。リハーサルもほぼうまく出来た。
  いよいよ当日、午前中の準備時にジョンが引き抜かれる。SF映画の主役に抜擢されたのだ。公演を前に去るジョンをニーナは「芝居があなたのすべてだったはず」と批難する。主役の抜けた穴をジョンの妹のモリーが埋めることにして、いよいよ公演が始まる。
  客席にはジョンのプロデューサーやタイムズの記者も来ていた。子供たちもたくさん来ている。劇が始まってハムレットの出番になった。セリフが出て来ないモリー。すると客席からハムレットつまりジョンが出現する。彼は映画の主役のチャンスを棒に振って戻ってきたのだ。一世一代の舞台が始まる。観客は舞台にぐんぐん引き込まれていく。実は観客が舞台を引っ張る重要な参加者である。『ハムレット』は人の心をうつ芝居なのだ。

  1995年。製作はケネス・ブラナーの『オセロ』『ハムレット』のデヴィッド・バロン、白黒撮影はロジャー・ランサー、デザインはティム・ハーヴェイ。原題の『In The Bleak Midwinter』は「寒々とした真冬に」の意で、讃美歌のひとつである。



       小説『ハムレット狂詩曲紹介    池田博明

▼服部まゆみのサスペンス小説『ハムレット狂詩曲』(1997年、光文社文庫)は服部のシェイクスピア論、歌舞伎論などが伺える作品で、一種のハムレット論にもなっていた。ホレイショーは父王ハムレットの戦場を見ているから、学友とはいえ、王子ハムレットとは親子ほども年齢が違うとか、オフィーリアを歌舞伎の女形の少年に演じさせるとか、劇中劇の「ゴンザーゴ殺し」の役にも小説の主要な登場人物を当てているなど等。
 王クローディアスを演ずるのは歌舞伎界の重鎮、王妃を演ずるのは劇団代表の女優と設定しているが、ポローニアスの役者の活躍は、小説ではあまりない。また、紗幕と照明で一瞬にして転換する舞台、客席に降りていくスロープ、バロックから現代まで多様な音楽などの過激な舞台作り。 それでいて、あくまで腹式呼吸で、台詞をはっきり言うことが一番大切という、基本に忠実な演技論など。
  小説の主役の演出家ケンはこんなことも言う。「オリヴィエはハムレットにリアリズムをもたせました。肉体を持った一人の男性として演じました。ジョン・ギールグッドは逆にハムレットの精神に重点を置き、より高潔に、シェイクスピアの言葉を奏でる魂の楽器として、シェイクスピアの精神を伝える使徒として、肉体を希薄にして演じました」。そして、あなたはあなたのハムレットを演じなさい、と。      

参考文献
福田恒存『シェイクスピア全集』1〜15巻、新潮社
松岡和子『シェイクスピア全集』1〜8巻、ちくま文庫
坪内哨遥『ザ・シェークスピア(全戯曲:全原文+全訳)』第三書館
野島秀勝『ハムレット』(岩波文庫、2001年)
ラム『シェイクスピア物語』(上下)、偕成社文庫
AERAムック『シェイクスピアがわかる』(朝日新聞社、1999年)
喜志哲雄『劇場のシェイクスピア』(早川書房、1991年)品切
高橋康也ほか、『シェイクスピア辞典』(研究社、2000年)
出口典雄(監修)、佐藤優(執筆・編集)『シェイクスピア作品ガイド37』(成美堂出版、2000年)
狩野良規『シェイクスピア・オン・スクリーン』(三修社、1996年)
河合祥一郎『謎解き『ハムレット』』(三陸書房、2000年)
ミルワード『シェイクスピアの人生観』(新潮選書、1985年)
中野好夫『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書、1967年)
大井邦雄『シェイクスピア この豊かな影法師』(早稲田大学出版部、1998年)
ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社、新装訳書1992年)
ジョン・ウェイン『シェイクスピアの世界』(英宝社、1973年)
C・ウォルター・ホッジス『絵で見るシェイクスピアの舞台』(研究社出版、2000年)
ホニッグマン『シェイクスピアの七つの悲劇』(透土社,1990年)
松本侑子『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社、2001年)
ローレンス・オリヴィエ『一俳優の告白、オリヴィエ自伝』(文藝春秋、1982)
ケネス・ブラナー『私のはじまり』(白水社、訳本1993年。1989)
Cousins, 2009. 『The Shakespeare Encyclopedia』, A Fireely Book.


 シェイクスピアの劇の魅力はそのポリフォニーにある。緩と急、転換と展開、韻文と散文等など。
 ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』には興味ある指摘が多い。次に抜粋要約する。
 エリザベス朝の演技がどのようなものであったのかを理解するにはオペラハウスへ行くのが一番よい。つまり、オペラ歌手は「アリア」を歌うときは観客に向って歌い、「叙唱(レシタティーヴ)」では対話の相手に向う。
  これと同様のことがシェイクスピアの劇では「韻文(verse)」と「散文(prose)」で起こる。韻文はオペラのアリアに相当し、散文は叙唱に相当する。韻文は劇的で、形式的である。例えば『アントニーとクレオパトラ』ではクレオパトラは韻文でしか話さない。散文は写実的である。どんなに内容が詩的であっても、例えば『ハムレット』で、墓場でハムレットがヨリックの頭骨に語りかけるセリフは韻文では書かれていない。この違いはリアリズムの度合いの違いである。
  初期のシェイクスピアはジュリエットの乳母のような散文にふさわしい内容も韻文で書いた。さらに、初期の史劇では庶民は散文を語り、身分の高い人は韻文を語った。しかし、次第にシェイクスピアは散文で詩的な感情も表現するようになった。ハムレットの墓場の台詞はそのような時期のものであるが、散文で書かれているということは、彼が決して物思いにふけって独白を語っているのではなく、この場面を構成する登場人物の一員となっていることを示している。


  シェイクスピア劇の詩句の特徴として、「弱強5歩格」を、アル・パチーノの『リチャードを探して』では説明していた。ブランク・ヴァース (blank verse) は弱強五歩格で脚韻を踏まない詩形である。たとえば、『ハムレット』の有名な独白は、“to(弱) be(強) or(弱) not(強) to(弱) be(強), that(弱) is(強) the(弱) question(強)”と読まれる。


  シェイクスピアにとって、独自のプロットや素材を創造しないことは欠点でもなんでもなかった。“民俗的想像力は全く無自覚にほとんど本能的に作品に取り込まれたのである。彼の作品に入り込むにつれて、私たちはますます一人の人間の言葉にではなく、人類そのものの想像力から直接出てくるものに、耳を傾けているのだと思われる”。
 - ホニッグマン『シェイクスピアの七つの悲劇 劇作家による観客反応の操作』


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