シェイクスピアの四大悲劇と映画/『リア王』 
 2001年3月28日設置
 2002年8月17日,2003年2月20日,2003年12月28日 更新

              池田 博明 


 シェイクスピアの目を通して人生を見ることは、人生のすべてを見ることである。
   − ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』序文より


 複雑な反応、それはシェイクスピア特有の性格観であり、喜劇、史劇、悲劇すべてに通ずるものと把えるべきだ。以後の章でふれるが、悲劇の主人公も悪党に劣らず、複雑な反応を我々に起こさせるのだ。野蛮で人情にもとるような彼等の思いや行為に目をつぶってしまえば、我々だって彼等に対してうっかり感傷的になりかねない。悲劇の主人公が世界中の人々を魅了して止まないのは、もしかしたら、彼等が現存する文学中でも類いまれなほど最高に複雑に入り組んだ反応を我々から引き出すからではないのだろうか。
  -ホニッグマン『シェイクスピアの七つの悲劇 劇作家による観客反応の操作』(53頁)


ハムレット オセロ マクベス リア王
『史 劇』(英国史劇、ローマ史劇) 『喜劇その他』 世にも憂鬱なハムレットたち ハムレット狂詩曲
“ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ” 『天保十二年のシェイクスピア』 BBCシェイクスピア全集


●データ、△引用、*私見。シェイクスピアの映画化だけでなく、関係する映画もとりあげる。
△道化に関して以下に喜志哲雄の論評を付記しておこう。

あらゆる劇は"世界の究極の意味を探る試みであると言える。その場合に、一つのやり方は、人間を超えた絶対的な目、つまり神の目を想定し、その目で見れば世界は隅々まで見えるのだと考えることである"。
 
  "もう一つのやり方は、絶対的な目の存在を認め、しかもそれを人間のものと考えることである"。"我々は歴史の流れの中にある法則性ないし秩序を認め、歴史の目で見れば世界の意味が分るだろうと考えるのである。つまり、人間は歴史に究極の意味の認識を委ねるのであって、いわば歴史が神の代りをするのだと言える"。
  "道化の精神はこれら二つのやり方のどちらもとらない"。人間を超えた絶対的な目も、歴史の法則性も否定する。"世界の究極の意味を現在この場で見てしまおうというのだ。道化の立場から見れば、過去と現在と未来との間には何の相違もないことになる。誰が王になろうと、誰が権力闘争から脱落しようと、同じことだというわけだ。人間とは要するに、自らの意志とは無関係にこの世に生まれ、欲望に動かされて生き、何の理由もなくやがて死ぬものなのだ"。
  "道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ"。神にもっとも近づいた時のあり方だが、"しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うことだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである"。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)

△喜志哲雄『劇場のシェイクスピア』(1991年、早川書房)はシェイクスピア演劇を論じて興趣つきない本だが、この中に「ルネサンス劇団のシェイクスピア」を論じた一文があった。
 ルネサンス・シアター・カンパニーを率いるブラナーは、1990年に日本で『夏の夜の夢』『リア王』の両方を演出した。この劇団のシェイクスピアについて、“必ず指摘できるのは、分りやすくて楽しいことである。作品のリズムが何よりも俳優の演技のリズムとして捉えられている。あるところでなぜ声を張上げるのか、別のところでなぜおさえた芝居をするのかといったことが、一々納得がいくのである。だから、舞台を見ていると実に快い。観客は俳優の声と身体とによる表現に自らをらを委ねていればいいのだ。めりはりがきちんとしているから、台詞がよくわかる。もちろんこれは、芝居が深みを欠いていてくさいということでもあって、差当ってブラナーの演技がその例である。しかし、くさい芝居ができるということはその俳優がかなりの技術を持っているということであり、下手であるよりはずっといいことなのだ。第一、若い時から枯れた演技をする俳優などというものは、かりにいたら相当胡散臭い存在であるに違いない”。 “ブラナーという俳優が名声をきわめる頃には私はもうこの世にいないであろうが”、“イギリスで芝居を観る楽しみが確実にひとつふえた”。
 この時の舞台では、エマ・トンプソンが『リア王』の道化を演じており、肉体的存在感が排除されて道化が抽象的な表現になっていると感じられたという。また、喜志氏はボトム役とリア王役を演じたリチャード・ブライヤーズを高く評価していた。資料によれば、ブラナー自身は悪役エドガーを演じていた(ちくま文庫『リア王』)。ブライヤーズは映画『空騒ぎ』では知事レオナートを演じている。


       『リア王』       池田博明

■ピーター・ブルック監督の演出映像(1969年,主演ポール・スコフィールド)があるというが、未見。他にローレンス・オリヴィエのテレビ作品(1983年)、イエーツ監督『ドレッサー』(1983年)のビデオがあったが、廃盤。傑作という評価の高いソ連の『リア王』(コージンツエフ監督、1970年、主演ユーリ・ヤルヴェト)は今後見られるかどうか、疑問である(2000年にDVDが発売された)。
 ラム姉弟はシェイクスピア劇は上演するよりも読むにふさわしいものと考えて、物語化したそうだが、特に『リア王』は上演不可能とみなしていたという。ラム姉弟の『シェイクスピア物語』は、史劇以外のほとんどを物語化している。ラムの物語は、よく出来ていて、梗概を把握するにはうってつけである。

 (1)黒澤明監督『乱』

▼黒澤流の『リア王』の翻案ものだが、私見では散漫な作品であった。どうしても、『リア王』と比較しながら見てしまう。原作に引きずられて物語に無理が出てくる。また、表現はリアリズムでもないし、象徴的でもなかった。中途半端な作品だというのが、私の評価である。

 (2)オリヴィエ製作・主演の『リア王』

▼1983年製作、マイケル・エリオット監督の国際エミー賞グランプリ作品。原作を忠実に映像化している。舞台ではないので、台詞は大声で語られるわけではないが、はっきり聞き取れる。イギリスの名優を集めて、台詞を聞かせる芝居になっている。オリヴィエのリア王
  『リア王』は、親不幸な娘たちの物語ではない。リア王は、人間の徳を映し出す鏡なのだ。長女ゴネリルや次女リーガン、私生児エドマンドは利に敏い現実主義者である。エドマンドの台詞は痛烈である。「(父グロスターのような)馬鹿もここまでくれば、あっぱれだ。運が向かなくなると、大抵は自業自得に過ぎないのに、禍いを太陽や月や星のせいにする」「善人は人を怪しむことを知らぬ」等。
  道化は観客の認識(真実の物の見方)を代弁して王に伝える知恵者である。嵐で濡れた後、道化が洞窟で震えている場面があり、この後、突然登場しなくなってしまうのはこの時、病を得て死亡したであろうと推測される演出である。
  リアの言葉には含蓄がある。例えば「乞食でも余分な物を持っている」「飾りを剥ぎ取ってしまえば、人間とは裸の二本脚の獣にすぎぬ」「世の中くらい、目がなくとも見える。耳で見ろ」等など。リア王

△冷戦時代のような激動の世紀にあって、『リア王』物語は、愚かにして不幸な父と不幸にして哀れな娘の親不幸(孝行)物語であることをやめてしまった。それに代わって急浮上したのが、かつては悪党(ワル)とみなすのが常識とされていた人々(ゴネリル、リーガン、エドモンド)である。自由闊達な、束縛を嫌う生き方、エネルギッシュで、欲望に生を賭ける生き方が、この二十世紀には魅力的に見えるからである。
 そして、もともと『リア王』という劇は、敢えて言わせてもらうならば、登場人物の誰かに特別な共感をもって見入る劇ではないのである。この劇を見て私たちが泣くことがあっても、それは私たちが『リア王』という劇がトータルとしてさらす世界、あるいは人間、あるいは関係というものに曰く言い難いひとつのヴィジョンを見てとるからである。(大井邦雄『シェイクスピア この豊かな影法師』15頁)

■音楽ゴードン・クロス、照明クリストファー・ホワイト、カメラ・ロジャー・イングランド、衣裳デザイン・タニヤ・モイセイウフォッチ。グラナダ・テレビ。
  リア王に忠実なケント伯役コリン・ブレイクリー、三女コーデリア役アンナ・カルダー・マーシャル、道化役ジョン・ハート、次女の夫コーンウオール役ジェレミー・ケンプ、長女の夫オルバニー役ロバート・ラング、グロスターの次男エドマンド役ロバート・リンゼー、グロースター伯役レオ・マッケン、グロスターの嫡男エドガー役デイビッド・スレルフォール、長女ゴネリル役ドロシー・チューチン、次女リーガン役ダイアナ・リグ、長女の家来オズワルド役ジオフリー・ベイトマン、求婚者バーガンディ役ブライアン・コックス、フランス王役エドワード・ペサーブリッジ。

(3)イアン・ホルム主演、リチャード・エア(Richad Eyre)脚色・監督のテレビ作品『リア王』がビデオ販売されていた(1998年、Mobil Masterpieces Theatre)。

 ロイヤル・ナショナル・シアター出演、BBCテレビとWGBH/ボストンの製作(制作者スー・バートウィスルとレベッカ・イートン)。ビデオ上巻は3幕まで(1時間半)、下巻は52分で、台詞や場面を若干省略していた。エア監督のリア王
▼ シンプルな赤い壁の部屋が城内を表す抽象的な舞台である。荒野や戦場以外は、この室内が舞台である。衣裳は端正なデザイン。
  エドマンドの第一独白は冒頭のグロスターとケントの会話場面で内的独白として処理されている。この映像版では一般に観客向けの独白はカットされている。
  王国三分割のシーンでのコーディリアの傍白はカットされ、表情を変える演出で処理、舞台では表情の変化が観客には見えないので、傍白で処理せざるを得ないのだが、この映像では、これ以降もすべての傍白はカットされていた。
 その点で傍白や独白が台詞として生かされているオリヴィエ作品とは異なる。
 姉達に別れを告げるコーディリアの口調はかなり厳しい。しかし、コーディリアはゴネリルやリーガンと比べると小娘という印象である。
 姉達の感情表現は大きく、 リアの呪いの言葉を聞くゴネリルの表情はかなり険しく、耐え難いという感じであった。また、リーガンは性格の強さが声や口調に現われていた。舞台の演技を撮影収録したものではなく、テレビ映像用に演技され、撮影されている。リチャード・エアの演出は映像の特色をよく把握した優れたもので、ダイナミック。
 ラスト・シーンは死体を載せた荷車を引くケント伯が濃霧のなかに消えていくもの。

■音楽ドミニック・マルドニィ、カメラ操作サイモン・ランズリー。
 エドガー役ポール・リス、エドマンド役バリー・リンチ、グロスター役ティモシー・ウェスト、ケント役デイヴィッド・バーク、ゴネリル役バーバラ・フリン、リーガン役アマンダ・レッドマン、オルバニー役デイビッド・ライオン、コーンウォール役マイケル・シムキンズ、コーディリア役ヴィクトリア・ハミルトン、フランス王役エイドリアン・アーヴィン、オズワルド役ウィリアム・オズボーン、バーガンディ役ニコラス・ベイリー、道化役マイケル・ブライアント。

(4)パトリック・マギー主演の『リア王』

●英国テムズTV制作1988年作品のビデオがあった。110分。リア王(英国)
■製作者トニー・デイヴノール、製作統括チャールズ・ワレン。
 リア王はパトリック・マギー。
 共演者はケント役レイ・スミス、コーディリア役ウェンディ・アルナット、リーガン役アン・リン、ゴネリル役ベス・ハリス、グロスター役ロナルド・ラッド、エドマンド役パトリック・モワー、 エドガー役ロバート・コールビー、アルバニー役フィリップ・ブラック。
 スタッフはスクリプト・エディターをレスター・クラーク、コスチューム(衣裳)をジャン・ロウエル、デザイナー(美術)をロビン・パーカー。
▼TV映画ながら、セリフ中心の演出で、静的である。セリフを言っている俳優以外の役者の動きがほとんどないのが特徴。したがって、ロケシーンもあるが、映画的に面白いとは言えない。脇の筋や、リア王以外のセリフはかなりカットされている。道化のセリフや登場場面が、ほとんど無くなっているのは際立った特徴であろう。

(5)東京グローブ座にて『リア王』(英国のシェイクスピア・グローブ・シアター・カンパニー公演)

▼実際の舞台を見た。
 公演の最終日2001年10月14日(日)14時から。合間に20分の休憩をはさんで17時半まで。
 東京グローブ座は半円形舞台で、装置も目立つ照明効果もほとんどなく、台詞中心の芝居だった。効果音も幕間のトランペットやトロンボーンのファンファーレ、ときどき鳴り響くドラム程度だった。
 役者の台詞は大変クリアに聞こえた。英語公演だったが、日本語同時通訳のイヤフォーンが有料で借用できたので、理解にはさほど事欠かなかった。抽象的な空間の創出ではなく、役者たちはみなリアルな演技を心がけていた。エドマンド役のマイクは台詞にときどき日本語もまじえての(「泥棒」といった悪態の言葉や、ゴネリルとリーガンの求愛に対して「どっちにしようか?」とか)熱演だった。狂ったリア王の台詞自体が詩的なので、なおさら演技にはリアルなものが要求されるだろう。そうしないとテーマが浮いて、嘘くさくなってしまう恐れがある。演出バリー・カイル。
 公演の最終日なので、上演後に俳優さんたちへの質疑応答があった。
 質問「nothingという語は重要だと思うが」。マイクの答え「その通り。エドマンドは最初は無一文で始まる。反対にリアはすべてを持っているが、最後には無になる」、グローバーの答え「コーディリアはクオート版ではnothingと一度答えるが、フォリオ版では二度答える。原型から俳優たちの手が入って変更されたものだろう」。
 質問「道化が嵐の夜の最後に首を吊っているのをエドガーが発見する場面がありますが、この演出意図は?」。グローバーの答え「初演当時、道化とコーディリアは同じ若い俳優が演じました。したがって、この二人が同時に舞台に現われることはないんですね。演出家の意図は道化が死んで、最後の場面を装置の上の天国から目撃していることで、象徴的な効果を高めていると思います。私達の舞台ではそれぞれ別人が演じているのですから、私個人としては最後に道化に“エドマンドは死んだ”という台詞を言わせても面白いと思います」。(道化とコーディリアは同一人物が演じたのではないという解説もあるが・・・)。
 質問「最初の場面でコーディリアが眼鏡をかけているのは、どのような意味があるのですか」。グローバーの答え「この劇では、洞察、知恵、insight、視力を失うといったテーマが象徴されています。眼鏡はそれら目に関係するイメージに注意を喚起する道具です。コーディリアは洞察力はあるものの、“見えない”女性であったといえましょう」。
 質問「演出家がキイ・ワードについてよく考察しておくようにと指示したそうですが、どんなキイ・ワードですか」。マイク等の答え「nature, fortune, wheel, time, nothing, loveなど」。
 質問「好きな台詞がありますか」。マイクの答え「あまり好きな台詞があると、気が入りすぎて不自然になってしまいますね」。
 質問「音響はいろいろな所から音を出していましたが、これは英国でも同じですか。昔もそうだったのでしょうか」。金管演奏者(急病者の代役)レイチェル・ホイートリーの答え「上からの音は天国から、舞台下からの音は冥界からといった意味があり、シェイクスピアの時代も同様でした」。
 質問「この難しい劇を演ずるのに意図は?」。グローバーの答え「私達は役柄の人物が類型的にならないように努めました。人間としてリアルに表現するように心がけました」。

■リア王ジュリアン・グローバー、ゴネリル役パトリシア・ケリガン、リーガン役フェリシティ・ディーン、コーディリア役トニア・ショーベ、グロスター伯爵ジェフリー・ホワイトヘッド、エドガー役ポール・ブレナン、エドマンド役マイケル・グード、ケント伯爵ブルース・アレクザンダー、道化ジョン・マッケネリー(ゼッフィレッリの『ロミオとジュリエット』のマキューシオー役だった俳優)、オールバニー公爵ハリー・ゴステロー、コーンウォール公爵マイケル・フェナー、カラン役ロジャー・マッカーン、オズワルド役ピーター・ハミルトン・ダイアー、フランス王アンドリュー・ホイップ、バーガンディ公爵デビッド・カロン、隊長ほかカラム・コーツ、伝令使マーリー・マッカーサー。
 美術ヘイドン・グリフィン、照明リチャード・アラン・フィッシャー、作曲クレア・ヴァン・カンペン、衣裳ジャマイマ・トムリンソン。

 (6)ピーター・イェーツ製作・監督『ドレッサー』(1983年)

▼第二次世界大戦中のイギリスである。ワンマン劇団の主役サー(アルバート・フィーニー)はある町で『リア王』を演ずることになる。劇中劇に『リア王』が挿入されているだけではなく、老年学としてみたリア王の寓意が感じられる作品。これほどの傑作がDVDもないとは。
 だいぶ歳を取り、無理がきかなくなった体にむち打って公演を続けてはいるものの、名優は精神的にもおかしくなり始めている。そんな彼に献身的に付き合っているのは“ドレッサー”(衣裳係兼付き人)(トム・コートニー)である。dresser
 喜怒哀楽の激しい名優をなだめたり、すかしたりと、ドレッサーの苦労は並大抵のものではない。俳優たちも、サーに批判的なオグルビー(エドワード・フォックス)や、セリフがうまく言えない俳優など曲者が多い。
 劇中劇として演じられるのは『リア王』の冒頭・嵐の場面・終幕である。
 若い女優志望の女の子が、名優の控室に来る。憧れの目で彼を見る女の子に対して、サーは「ドアをロックして」「脚を見せろ」「もっと上まで」と要求する。そして、突然彼は女の子を抱きかかえる。よろけて倒れる二人。部屋から放心状態で出た彼女に、ドレッサーは何があったのかを問い詰め、彼の行為の意味を解説する。「コーディリアになったような気持ち」と幻想を抱く彼女に、「彼は体重の軽い子が欲しかっただけで、テストしたんだ、あんたは少し重い。今の彼の奥さんも以前はもっと痩せていて軽かったから、抜擢されたのだ」と、冷水をかけるような言葉を浴びせる。
 公演が終わって、控室に戻ったサーは自伝“My Life”の最初だけを書いたという。献辞である。いろんな役割の人々が列記してある。大道具係・小道具係・照明係などなど。しかし、「ドレッサー」という用語が無い。そして、名優が密かに思いを寄せ、尊敬もしていたはずの舞台監督(Stage Manager)マッジ(アイリーン・アトキンス)に対する献辞もないのだ。自分は“無”に等しい存在だったのか、驚愕するドレッサーが見たものは、精魂果てて死んでしまった名優の姿だった。
 ドレッサーは16年間に蓄積した、ありったけの憎悪の言葉を、死体に向って投げつける。しかし、サーと一心同体の彼に、もはや残されたものは、なにひとつ無いのだった。
 絶望した彼は、死体の上にリアのマントをかけ、自分の体を投げかけて、ただ泣く。
 脚本ロナルド・ハーウッド、音楽ジェームズ・ホーナー、美術スティーヴン・グライムス

 (7)アリベルト・ライマン作曲の歌劇『リア王』のCDがある。2時間14分。
  1978年7月9日 バイエルン州立歌劇場初演。

■ゲルト・アルブレヒト指揮、バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団、1979年公演。
 リア王(ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)、フランクリッヒ王(カール・ヘルム)、 アルバニー公(ハンス・ウィルブリンク)、コーンウォール公(ゲオルグ・パスクーダ)、 ケント伯(リヒャルト・ホルム)、グロスター伯(ハンス・ギュンター・ネッカー)、 エドガー王子(ディヴィッド・ヌットソン)、エドマンド(ウェルナー・ゲッツ)、 ゴネリル(ヘルガ・デルネッシュ)、リーガン(コレット・ローランド)、 コーディリア(ジュリア・ヴァラディ)、道化(ロルフ・ボイセン)、 士官(マルクス・ゴリッツキ)、騎士(ゲルハルト・アーエル)。グラモフォン発売。
 演出は、ライナー・ノーツにライマンと一緒に写っているジャン・ピエール・ポネルがしたようである。 歌劇リア王
▼フィッシャー=ディースカウがライマンに持ちかけて実現したシェイクスピア原作のドイツ語オペラである。 台本はクラウス・H・ヘンネベルク。
 CDのライナーノーツにライマンが、かなり詳細に作曲の経緯を書いている。
 “最初にリア王を考えたのは1968年、ディースカウがシェイクスピア劇をどうかと私に尋ねてきたときのことだった。長いこと、その考えを嫌って拒絶してきたが、作品を読み直し、他の仕事をしているときも、少しずつアイデアを蓄積はしていた。デースカウと話はしていたんだ。



 1972年に、私はリア王への積極的な関心を持つ決心をし、私の脳裏にあったたくさんの劇に急速に注意を向け、音楽へ転換する過程に入った。『メラシネ』の直後で、1971年にアムステルダムでディースカウに書いたツェランの連作歌曲を聞いている間、私はこれが出発点になるにちがいないと理解した。暗い色彩、大規模な管楽器の集団と弦楽器の重奏がリアの特徴に思えた。私がそれまでに書いた曲、とりわけ、Wolkenloses Christfest、シルヴィア・プラスのセットと菅弦楽のための変奏曲がリア王への接近をもたらした。言うまでも無いが、これらはそれ自身で独立した作品であるが、リア王が背景にあった。特に変奏曲はこのオペラの先駆であり、前奏曲のようなものだった。完全な孤独の状態にある人間の孤立、蛮行に晒された、まったく無意味な存在。
 1975年にミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の、アウグスト・エヴァーディングが私にリア王を委嘱してきた。プレミアは1978年と予定された。”(この項目未完)

 福尾芳昭の著書に次のような紹介がある。ライマンのリア王
 “(これは)対話オペラで、歌唱の基本は朗誦である。 美しい歌謡的旋律や叙情的旋律の独唱や重唱はきわめて乏しい。 例外は第二部第六場のリア王とコーディリアのかけ合の場面である。 ここではゆっくりしたテンポで歌われるやさしく、愛情に溢れた、抒情的な旋律の歌唱が聴かれる。
 ドラマの性格を反映して、音楽も歌唱もきわめてドラマティックで激しい。 ゴネリルとリーガンの歌唱は絶叫調の甲高い声が特徴で、彼女たちの激しい性格を雄弁に表現している。管弦楽には耳障りな音型やリズムも少なくない。 しかし、二十世紀後半のドイツ・オペラとしては、決して聴きずらい曲ではない。
 シラビック歌唱がほとんどだが、女声ではリーガンに、男声ではリア王とエドガーに装飾歌唱が聴かれる。 エドガーの声は男声の超高音カウンター・テノールで、現代オペラでは珍しい。


■2008年10月にフランクフルトで再演された。
 キャストは、リア王(ウォルフガング・コッホ)、フランス王(マグヌス・バルドヴィンソン)、 アルバニー公(ディートリッヒ・ヴォール)、コーンウォール侯(ミヒャエル・マックコーン)、 ケント伯(ハンス・ユルゲン・ラザール)、グロチェスター伯(ヨハネス・マルティン・クレンツル)、 エドガー(マルティン・ウォルフル)、エドマンド(フランク・フォン・エイキン)、 ゴネリル(ジャン・ミッシェル・シャルボネ)、リーガン(キャロリン・ホイスナン)、 コーデリア(ブリッタ・ストールマイスター),道化(グラハム・クラーク)、騎士(ニコライ・クラワ)
セバスチャン・ウィーグル指揮、フランクフルト博物館管弦楽団、
合唱指揮マティアス・ケーラー、フランクフルトケ劇場合唱団
 CDが2009年に発売された。DVDで発売されるといいのだが。

 (8)ポール・マザースキー監督・脚本『ハリーとトント』(1974年)ハリーとトント

▼『リア王』を下敷きにしているという紹介を目にしたことがあり、気になっていたポール・マザースキー監督・脚本作品。ハリー役のアート・カーニーがアカデミー主演男優賞受賞。ピーター・イェーツ監督の『ドレッサー』と共に中古ビデオを発見・入手できました。
 老齢のハリーはニューヨークの家を追い出されてしまい、ニューヨークの長男の家、シカゴで書店をやっている長女のところ、コロラドの次男の家と転々とする。「老人になって家を失って放浪するとは、リアのことを考えた」と話し、立ち退きを要求されて家を出されるときには、リア王の嵐の独白を言う。もっとも、全体の作品のトーンは『リア王』の換骨奪胎というものではなかった。
 物語はこんな風に展開します。ハリー・クームズは72歳の元国語教師。トントは彼の飼い猫。ニューヨーク市のアパートから強制的な立ち退きを迫られる。椅子ごと階下まで連れ出されたハリーは『リア王』の嵐の場面を独白し、「家を追い出された老人はリアだ」と言いつつ、長男バート(フィル ・ブランズ)の家へ身を寄せます。嫁のエレン(ドリー・ジョナー)と、ときどき衝突します。次男のエディ(ラリー・ハグマン)は無言の行を行い、自然食品だけを食している青年で、長男にはバカにされています。
 ハリーはシカゴに住む娘シャーリーの元へ行くことにします。しかし、空港の手荷物検査でトントの入ったカゴを係官に渡すことを拒否して、バスに乗ります。
 途中でトントに尿をさせようとバスを一時停止させますが、トントは雲隠れしてしまい、とうとうバスは先へ行ってしまいます。そこで、ハリーは中古車店へ行き、車を買ってシカゴへと向かうことになります。
 途中、家出娘ジンジャー(メラニー ・メイロン)を乗せたり、彼女の薦めで、昔の恋人ジャージー(ジェラルディン・フィッツジェラルド)がいる老人ホームに寄ったりします。ジャージーはウーマン・リヴの先駆けで、イサドラ・ダンカンとパリで踊ったという過去がありますが、もう呆けていてハリーを「アレックス」と呼び違えます。けれども、「踊りましょう」と彼を誘い、二人は情愛あふれるダンスをします。やがてジャージーはハリーに体を寄せて昔を懐かしむようにゆっくり踊ります。ここは本当にホロリとさせられる場面です。
 シカゴでは娘のシャーリー(エレン・バーンスティン)が小さな書店を経営しています。書店にはエディが来ていて、ここではエディは無言の行を行ってはいなくて、普通に話します。娘は父親を愛してはいますが、一緒に暮らせるような状況ではありません。娘「シェイクスピアを引用するのは止めて」、父「最高の作家だぞ」という会話があります。
 ハリーは家出娘ジンジャーとエディに車を与え、コロラドのコミューンへと旅立たせます。ハリーはヒッチハイク の旅。途中、ラスベガスでは立ち小便をして留置場に入れられます。出会ったインディアンの酋長に肩を治療してもらいます。
 末息子ルロイ(エイヴォ ン・ロング)の住むロスに到着。ルロイは破産状態。トントは老衰からか死亡してしまいます。
 ラストは西海岸でハリーが公園のベンチでくつろいでいると、ネコ好きの老婦人(サリー・K・マール)から一緒に暮らさないかと口説かれます。トントにそっくりのネコを追って海岸に向ったハリーは砂遊びをする子供と笑顔を交わします。
 トントを担当したアニマル・トレーナーは ルー・アンド・ベティ・シューマッハー。
 製作・監督・脚本ポール・マザースキー、脚本ジョシュ・ グリーンフェルド
 撮影マイケル・バトラー、音楽=ビル・コンティ
 老齢の父親が子供のもとを巡るという設定は『リア王』ですが、シェイクスピアの影は若干引用される程度といえましょう。

 (9)ソ連映画『リア王』     池田博明

 「世界最高のシェイクスピア映画と評価している」(狩野良規による)

●[ロシア映画社アーカイブスより転載] その厳しいまでの悲劇性のため舞台の上演も少なく、映画界でもそのスケール、人間模様の複雑さから映像化が困難といわれてきたが、18ヶ月におよぶ撮影を経て『リア王』を映画化した作品。『ハムレット』に続いてシェークスピア研究の大家コージンツェフ監督がメガホンをとり、この作品が遺作となった。撮影も再びグリツュスが担当して名人芸を披露。特にシベリアで撮影された、すさまじい雷雨シーンは映画史に残ると言われている。ヤルヴェルトのリア王
 主役リア王には、エストニアの舞台俳優で映画にはまだ脇役でしか顔を出していなかったユーリー・ヤルベットが抜擢され、"その血も肉も彼自身がリア王なのだ"と評されるほどの迫真の演技をみせた。他の配役陣も、「ハムレット」で王妃を演じたエリザ・ラジニをはじめ個性的な実力者が顔を揃えている。
 長年、コージンツェフ監督と組んだ作曲のショスタコーヴィチにとってもこれが最後の映画音楽(作品137)となった。
 黒澤明監督の「乱」(1985)が「リア王」をモチーフにしたものであったことを思うと、正攻法で取り組んだこの作品の偉大さがあらためて感じられよう。

■[スタジオ/製作年] レンフィルム・1971年製作 (披露試写会は1970年12月4日だった)
 [スタッフ] 脚本・監督:グリゴーリー・コージンツェフ     撮彩:イオナス・グリツュス
 美術:エフゲーニー・エネイ
 音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ 演奏:レニングラード国立フィルハーモニーオーケストラ
 [キャスト] リア王:ユーリー・ヤルベット、コーディリア:新人ヴァレンチーナ・シェンドリコワ、ゴネリル:エリザ・ラジニ、リーガン:ガリーナ・ヴォルチェク、道化:オレグ・ダリ、アルバニー公:ドナータス・バニオニス、ケント:ウラジミール・エメリヤーノフ、エドマンド:レギマンタス・アドマィティス、アレクセイ・ペトレンコ
 [ジャンル] 長編劇映画 [サイズ] 35mm / シネマスコープ / モノクロ /
daughters [上映時間] 2時間18分 [日本公開年・配給] 1972年2月5日 丸の内ピカデリー劇場 松竹映配
▼待ちに待った作品がようやくDVD化された。コージンツェフ監督の『ハムレット』に続いて、今年2003年の最大のDVD話題作である。採算を度外視したかのようなアイ・ヴィー・シー社のDVDライン・アップには拍手を送りたい。
 第1部巻頭、何も持たない民衆が歩いている。病気の子供を荷車で引いている者もいる。いったい何が始まろうとしているのだろうか、誰かの葬儀だろうか。いや、民衆は城の周囲にやってきたのである。
 城内では王の引退と権力委譲の儀式が始まろうとしているのだ。
 写真の左から長女ゴネリル、次女リーガン、三女コーディリア。
 王の理不尽な裁定にケント伯は異議を唱える。「権力が無能なら、臣下に自由はない」と。映像には動きが心がけられており、例えば王は城内を歩きながら、す早く兵士や馬や犬を選ぶ。
 妾腹の子エドマンドは正妻の兄エドガーを陥れようとニセの手紙を用意する。その内容は「敬老の精神は苦痛の種」という文句を散りばめたもの。そこで、この劇の基本構造が明らかになる。リア王は娘たちに《敬老》を求める。娘は《敬老》には嫌気がさしているが、富と権力を親が掌中にしているうちは、敬老を範とし忠誠を誓うふりをしている。しかし、ひとたび、親がその富と権力を手放してしまえば、親に価値は無く、敬老精神は地に落ちる。
 王と同様に、忠臣グロスターも息子たちに《敬老》を求めており、その《敬老》精神を無視されて怒る姿は、リア王の相似形であった。リア王とグロスター、この二人は表面的な《言葉》によって騙される点でも似ている。二人とも現実を見る眼を曇らせたのである。エドマンドの言葉を借りれば「見れども見えぬお人好し」なのであった。やがて、王はすべてを失い、グロスターは目を失う。コーディリア
 真実を語る道化の言葉は価値を逆転し、相対化する役割をする。
 逃げたエドガーは貧民の列に入り込み、哀れなトムという乞食となる。第1部はリアがリーガンの城から出る決意をし、エドマンドが密かに「老いぼれは去れ」と言うところで終わる。
 第2部は荒野の嵐の場面で始まる。王と道化とケント伯が雷雨の中を彷徨している。ケント伯が見つけた小屋に彼らは避難する。すると、そこは貧民たちで一杯だった。リア王は驚き、そして呟く、「栄華に驕る者よ、貧民の苦痛を知れ」と。乞食の中にエドガーもいる。
 リーガンの婿コーンウォール侯が手傷を受け倒れた後、リーガンは侯を見捨てて、エドマンドの部屋へ急ぐ場面が挿入されていた。リアとコーディリア
 劇では道化は嵐の場面以降は登場しない。しかし、この映画ではフランス軍に保護された王を笛で慰める役として、そして最後に王の葬送の曲を吹く役として再登場する。
 また、ゴネリルの夫アルバニー公は重要な役を引き受けており、英仏戦で指揮官は自分だと宣言し、エドマンドを大逆罪で告発する、宣言を出してエドマンドの罪を告発する兵士を募る(もし誰も決闘の希望者が出なかったら、自分が相手をするとまで言い切る)。その宣言に応じて覆面をしたエドガーがエドマンドに挑むという展開だ。荒野にて道化と舞台では、エドガーがドーバーの崖で盲目となった父グロスターの自殺を演出して騙す場面がある。しかし、おそらく映画全体に喜劇的なトーンを持ち込んでしまうせいだろう、削除されていた。グロスターは疲労で倒れ、エドガーが墓を作って埋めるという場面に変更されていた。
 コーディリアは牢内で刺客の手で絞首された。彼女が吊るされているのが一瞬映される。
 舞台ではあまり登場することのない多くの民衆や兵士たちがこの映画のもうひとつの見どころである。王の家族の権力争いを見る人々の目がいつも存在している。人々の目は正面から写し出されることは決してないけれども、その後ろ姿は常に映しだされている。

●コジンツェフは語った(1970年7月)。“『リア王』は不平等と不正の悪弊によって滅びかけている文明に関係している。それは虚偽に関する多角的悲劇である。リアは自らを欺き、エドガーとグロスターはエドマンドに欺かれる。リアは真実とおべっかを見分けることができない。そして実際に自分が持っているよりはるかに大きな権力を持っていると信じている。自己欺瞞の時期が過ぎた後で、リアは自分がかつて王であった時の世界を理解するようになる。彼の家来が最低の状態に近づくにつれて、リアの知恵は深まる。そして彼は社会の本質を学ぶ。”・・・・美術監督エフゲニー・エネイと衣裳デザイナーのS・ヴィルサラーゼ(専門はバレエの衣裳)は、いずれも『ハムレット』を手がけた人たちだ。(ロジャー・マンヴェル『シェイクスピアと映画』より)

 (10)山崎努『俳優のノート』(文春文庫)
 『リア王』を演ずる山崎の役作りの記録。舞台俳優の作品解釈が面白い。

 (11)井上ひさしの『天保十二年のシェイクスピア』

 『天保十二年のシェイクスピア』は1974年西武劇場での初演(1月5日〜2月3日)以来、一度も再演されていなかった。それもそのはず、この劇は一大失敗作なのである。1974年当時の粟津潔作のチラシを見るだけでも豪華絢爛の感があるものの、詰め込みすぎだった。当時の演出は出口典雄だった。1974年のポスター
 天保水滸伝を父に、シェイクスピア全作品を母に織り成す一大傑作という宣伝文句だったが、なにしろ、五巻の『井上ひさし全芝居』(新潮社)にも収録されていない。もとは新潮社の書下ろし新潮劇場で出た作品なのに・・・。ちなみに、この書下ろし新潮劇場では井上ひさしは既に『珍訳聖書』という奇作も出していた。
 しかし、不思議な因縁がめぐってくる。2002年に日本劇団協議会が社団法人化10周年を記念して、企画・制作する作品として選ばれ、新演出で上演されたのである。『あいさつ』等がウェッブ・ページ上にある。企画は鴻上尚史で、初演当時4時間以上あった上演時間を鴻上尚史の監修のもと2時間30分に短縮し、いのうえひでのりが独自のテイストに演出する、というねらいで企画は立ち上がった。券は完売で、舞台はDVD化されている。
天保2002年ポスター 元はシェイクスピアの37作品全部をつめこんだ劇作であるが(なかには『十二夜』のようにセリフに題名しか出て来ない作品もある。再演ではこのセリフはカットされていた)、最初は『リア王』である。ナレーター役の隊長(熊谷真美)がとりしきる中、鰤(ブリ)の十兵衛が三人娘、お文(村木よし子)、お里(西牟田恵)、お光(沢口靖子)にその身上を譲ろうとしているところから、芝居は始まる。身上を二つに割ったお文とお里の夫々の一家は『ロミオとジュリエット』のように相争う博打うちとなる。雇い入れた用心棒が幕兵衛(古田新太)で、『マクベス』ばりに跡目をついだり、せむしの男(上川隆也)三世次(みよじ。『リチャード三世』)の讒言が争いの火に油を注いだり、『ハムレット』のきじるし王次(阿部サダヲ)がからんだり・・・。
 第2幕の幕開けは魔女たちの「禍いの雑炊」作りである。代官が着任し、一家の争いもひと休み。代官の女房・お幸(さち。沢口靖子の二役)はお光と双子の姉妹。代官と王次がお互いに入れ替わった相手を間違える趣向があり、やがて王次は代官に斬られてしまう。『間違いの喜劇』で、お里はお光が裏切ったものと誤解する。お里が刺客として放った三世次は誤ってお文を刺殺してしまう。そして結果的にお里が宿場をとりしきり、とりあえず安泰に。
 次なる設定は、病気の幕兵衛がオテロ、三世次がイヤーゴ、お里がデズデモーナ。そして、幕兵衛が自殺した後、親分衆の寄合の席で、利根の河岸安(カシヤス)に継がせるはずの代紋を、三世次は『ジュリアス・シーザー』のアントニーの演説ばりに河岸安を陥れ、自分の掌中に収めてしまう。自分の恋情を受け入れないお光をとうとう三世次は刺殺してしまう。お光殺害の容疑で捕縛された三世次は謀略で、とうとう代官に成り上がる。その挙句に三世次は、代官の女房・お幸を口説いてしまう。しかし、お幸は三世次を許してはいなかった。
 もともと自分もその出身である抱え百姓の甚兵衛を斬り捨ててしまったことで一揆の起こる中、代官屋敷では、お幸が三世次にオランダ渡りの姿見で自分の姿を見せていた。三世次は自分の醜い姿を見て愕然とする。そして、自害したお幸と乱入した百姓たちの前で、三世次は閻魔堂の老婆の予言、「ひとりでふたり、ふたりでひとりの女に惚れない限り」、「自分で自分を殺さない限り」勝ちだという予言が当ったことを知るのだった。
 演出のいのうえひでのりはあと20分間短縮できればよかったが・・・と言っていた。場面転換をロック・バンドの歌で切り換え、原作にあったシェイクスピアの作品解説的なセリフをすべてカットして、かなり進行を早めた。
 井上ひさし作品としては『藪原検校』ばりの悪の主人公・三世次が活躍するピカレスクだが、その原型がリチャード三世であり、イアーゴーであり、アントニーであり、マクベスであるところが、この劇作の趣向で、原作を知っているほど井上ひさしの工夫が楽しめるという作品になっている。  註:この項『リチャード三世』と共通

天保十二年の舞台 蜷川演出 『天保十二年のシェイクスピア』は、蜷川幸雄演出、宇崎竜童音楽で2005年秋に再演された。歌を生かし、原戯曲通りの4時間近い上演時間である。グローブ座を模した舞台装置。
 配役が豪華な顔ぶれとなっている。三世次に唐沢寿明、お文に高橋恵子、お里に夏木マリ、お光に篠原涼子、王次に藤原竜也、老婆に白石加代子、語り手に木場勝巳。
 9月28日のBunkamuraシアターコクーンでの公演の模様が、2005年12月23日夜にWOWOWで放映された。連日満員だったというから、演劇というものは分らない。

 (12) ベルリオーズ作曲 序曲「リア王」 作品4
 15分近い序曲である。ヴァーツラフ・スメターチェク指揮 プラハ交響楽団の演奏がある。

 (13)トレヴァー・ナン演出、イアン・マッケラン主演の『リア王』

●イアン・マッケランはトレヴァー・ナンの演出で、ロイヤル・シェクスピア劇団の公演で2007年から世界中を巡回した後、イギリスに戻ってスタジオ収録した『リア王』がNHKのBSハイビジョン放送で放映された(2009年2月7日22:00〜)。2時間50分。
 トレヴァー・ナン演出のシェイクスピア、しかもリア王とくれば期待しないほうが無理というもの。イアン・マッケランはトレヴァー・ナンとはケンブリッジ大学時代からの友人。いつか『リア王』をやろうと約束していたという。シェイクスピア俳優にとって、リア王は頂点であって、その次はないとイアンは語った。この演出では、リア王は結婚指輪をふたつはめていて、最初の妻はゴネリルとリーガンの母親、二番目の妻はコーディリアの母親だが出産直後に死んでしまったという読みだそうである。イアンは、映像とちがって劇場はその時限りのもの、もしこの映像が気にいったら、劇場で別の人々での上演も見てくださいとも語った。

▼物語の進行上、削除しても構わないセリフは若干カットされた。
 リア王(イアン・マッケラン)が王座で神に誓う言葉を吐くたび、臣下は一斉にひれ伏す。このような動きは初めてだった。道化の言葉の一部は歌になっている。
 王がゴネリルに子供を孕ませるなと呪詛の言葉を吐くとき、トレヴァー・ナンの演出ではゴネリルはあふれそうな涙をこらえている。多くの演出家は無表情で呪詛を聴くゴネリルを演出することが多いのだが、ナンの演出はゴネリルに人間的な心を持たせていた。ゴネリルもリーガンもたいして区別なく非道の女として同じように描かれる例が多いのだが、ナンの演出では夫が手傷を負って死んだことを幸いにエドマンドを誘惑し、最期はゴネリルに毒殺されるリーガンに比べて、夫の優柔不断に憤り、エドマンドと謀反を企て、最期は自殺するゴネリルに複雑な表情をさせていた。コーディリアも単なる受け身のお姫様ではない。積極的にリア王に自分の言葉の真意を説得しようとする強い女性であった。
 ケント伯は顔に傷を描いて変装している。足枷の刑を延長したリーガンは去り際にケント伯の顔に杯の酒をかける。ケント伯はとりなしを言うグロスターに「善人も不幸に遭う」と語る。
 嵐の夜、雨は降りつづけ、役者たちはずぶ濡れ。グロスターが拉致された嵐の小屋で、追手により逃げ遅れた道化が絞首される場面が付け加えられている。原作には道化が絞首される場面は無いが、この場面以降、急に出場してこないので、これは納得のいく解釈。道化は最期に「ふしだらな女も身の凍る夜だね」と軽口をたたくが、追手に倒されて嘆きながら「別れの前に予言する。聖職者は口先だけになり、酒屋は水で酒を薄めるご時世、異端者の迫害ある限り、人間は足では歩けない」と語る。このセリフはもとはリアが小屋に向かう第三幕第二場の最後の道化のセリフの一部。
 グロスターが目をつぶされた後の召使役や老人の役を同じ女性に当てていた。これは問題のない解釈。
 エドマンドと決闘するエドガーは白い下着姿に黒い覆面を付けたみすぼらしい格好で登場する。ケント伯も同様であった。
 リアは最期の言葉で「(胸の)ボタンをはずしてくれ」と頼むが、同じ言葉が嵐の夜の裸のトムを見ての言葉にあった。何も持たない(ナッシング)裸の人間こそがことの真実だと悟ったときのリアの言葉である。つまり、リアは最期に裸になろう、無になろうとしていたのだ。 
 息もつかせぬ迫力で見せます。

■グロスター伯爵(ウィリアム・ゴーント)、その庶子エドマンド(フィリップ・ウィンチェスター)、嫡子エドガー(ベン・メイエス)、長女ゴネリル(フランシス・バーバー)、次女リーガン(モニカ・ローラン)、三女コーディリア(ロモーラ・ガライ)、道化(シルヴェスター・マッコイ)、ケント伯爵(ジョナサン・ハイド)、リーガンの夫コーンウォール侯爵(ガイ・ウィリアムズ)、ゴネリルの夫オルバニー侯爵(ジュリアン・ハリス)、ゴネリルの忠臣オズワルド(ジョン・ヘファーナン)。他にラッセル・バーン、ディビッド・ウエスト、ピーター・ヒントン、ベン・アディス、シーモア・マヒューズ、ゾエ・ボイル、リチャード・ゴールディング、メラニー・ジェソップ、ジム・クレイトン、ブランウエル・ドナヒュー、キラン・ビュー、ナオミ・カプロン、アダム・ブース。
 日本語版監修・岩崎徹、翻訳は石川眞弓・谷島かほる・山崎智子。

 (14)BBCのテレビ作品『リア王』 
 
 演出はジョナサン・ミラー。収録日時は1982年3月26日から4月2日、英国初放送日1982年9月19日、アメリカ初放送日1982年10月18日。

■ケント伯(ジョン・シラプネル)、グロスター(ノーマン・ロッドウェイ)、エドマンド(マイケル・キッチン)、リア王(マイケル・ホルデーン)、ゴネリル(ギリアン・バージ)、コーデリア(ブレンダ・ブレスリン)、リーガン(ペネロープ・ウィルトン)、アルバニー公(ジョン・バード)、コーンウォール公(ジュリアン・カリー)、バーガンディ(ディヴィッド・ウェストン)、フランス王(ハリー・ウォーターズ)、エドガー(アントン・レサー)、オズワルド(ジョン・グリロ)、道化(フランク・ミドルマス)、カラン(ケン・スコット)、医師(ジョージ・ハウ)。放映183分。

 ≪舞台裏で≫ジョナサン・ミラーは以前に『リア王』をBBCシリーズ「今月の演劇」用に脚色して演出した経験があった。ミラーの今回はマイケル・ホルデーン(リア王)とフランク・ミドルマス(道化)をスターにした。もとはロバート・ショウがリア王に予定されていたが、本プロダクションが始まる前の1978年に亡くなった。

▼テレビ画面に常にきちんと登場人物を入れて、表情を捉えて演出されている。バストショットより接近することは少ない。ただし、嵐の場面はアップで撮影。セリフを一部カットした完全版。長台詞はかなり早口で語られる。
 冒頭、コーデリアの独白は道化に話される。ケント伯の王への抗議はかなり激しい。変装したケントは頭を剃って登場する。
 道化はリアにかなり辛辣な言葉を投げつける。リア王役のホルデーンはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの団員。
 エドガーやケント、アルバニー公なども丁寧に演出されている。スタジオ撮影だが、ロングショットがないため、ロケの効果を感じさせる撮影。
 写真は(左)第1幕第5場;道化(ミドルマス)とリア(ホルデーン)。(中)第5幕第3場;エドガー(レサー)とリア、ケント(シラプネル)、コーディリア。(右)第1幕第4場;アルバニー公(バード)とゴネリル(バージ)。

 (15)ドビュッシー作曲の『リア王のための音楽』
 ジャン・マルティノン指揮、フランス国立放送局管弦楽団の演奏で1904年作曲の劇付随音楽、 「ファンファーレ」(1分48秒)と「リアの眠り Le Spmmeil de Lear」(3分10秒)である。ファンファーレは通常のファンファーレでそれほど個性がきわだつ曲ではない。「眠り」はドビュッシーらしい曲。

 (16) 日本ビクター「シェイクスピア全集」の『リア王』
 1990年6月に日本ビクターで制作・企画・発行したバード・プロダクション制作「シェイクスピア全集」(9作品)のVHS第15-17巻は『リア王』である。

■演出はアラン・クック、音楽ジェラード・バーナード・コーエン。
 リア(マイケル・ケレン)、ケント伯(ダリル・ヒックマン)、グロスター伯(チャールズ・エイドマン)、エドマンド(デビッド・グロー)、道化(ヴィンセント・カリスティ)、ゴネリル(ジェラ・ジャコブソン)、リーガン(メローラ・マーシャル)、コーディーリア(キティ・ウィン)、コーンウォール公(カーロル・ストラノ)、アルバニー公(サム・アンダーソン)、フランス王(ブライアン・キーウィン)、バーガンディ公(バード・プレイバーマン)、医師(オラフ・プーリィ)、エドガー(ジョエル・ベイリー)。上演時間は3時間2分。

▼シェクスピア作品はセリフに重さがある。この演出ではアメリカ作品らしく、セリフのある役者の動作が大きく舞台劇の要素を残してセリフがはっきり語られる。BBC作品やナンやエア、ミラーなどの英国の演出家は映像化に当たってささやくような言い方もさせているのに対し、映画的なメリハリはほとんどつけられていない。舞台を収録したような形式で作られている。
 道化はアルルカンの扮装をしている。

 (17) オーソン・ウェルズの映画『リア王』

●2011年にCOSMIC PICTURESでDVD廉価発売したシェイクスピア名作映画集のなかに、オーソン・ウェルズ主演の映画『リア王』があった。いままで日本ではきちんと紹介されたことのない珍品。クレジット・タイトルが付いていない。TV放映用に製作された作品である。IMDbの評価は6.9(まずまず)。1953年にアメリカで製作された75分の白黒映画。監督・撮影がアンドリュー・マカラ。音楽はヴァージル・トムソン。ウェルズは1948年に『マクベス』、1952年に『オセロ』、1966年に『ファルスタッフ』を映画化している。

▲中央がコーデイリア、
左がゴネリル、右がリーガン

▲道化(Alan Badel)、
 ヒゲをそったケント伯(Bramwell Fletcher)、リア
 ⇒最期の死体をひきずって王座へ戻ってきたリア

左からグロスターの眼をえぐるリーガンたち、 末娘とフランス王(Wesley Addy)、 次女と王と長女、 ゴネリルと机下の道化

▼オーソン・ウェルズの映画『リア王』はエドガーとエドマンドの挿話をカットしている。嵐の夜、風車小屋に現れるトム(Micheal MacLiammoir)もエドガーではなく、グロスターの子供という設定もカットしている。場面、シークエンスのつなぎに工夫をして展開を早くしている。ゴネリル(Beatrice Straight)の城からすぐリーガン(Margaret Phillips)の城に王と兵隊が移動し、リーガンと王が言い争っている場面にゴネリルが参加、すぐに王は追放され嵐の荒野に放り出される。風車小屋からグロスター(Frederick Worlock)が王を逃すと、そこへリーガンやゴネリルがやって来て、グロスターを詰問。グロスターはそこで眼をえぐられる。リーガンの夫コーンウォール侯(Scott Forbes)はケガをして死亡。リア王はフランス軍によってドーヴァーで救出され、コーディリア(Natasha Parry)と再会するものの、王が娘と気づいた途端にオズワルド(David J. Stewart)が率いる英国軍が侵入、捕らえられて牢獄へという展開である。最期はオズワルドをリーガンが夫と宣告、怒るゴネリル、ゴネリルの夫オルバニー侯(Arnold Moss)が妻がオズワルドに送った手紙を公開して暗殺計画の全貌を明らかにし、オズワルドとゴネリルを反逆罪で告発、リーガンはゴネリルに、ゴネリルはオズワルドに刺される。オズワルドの口からリア王とコーディリアの暗殺計画を聞いた人々は、牢獄から娘の死体を引きずって歩く王に出会う。リア王は冒頭の領地分割の部屋に入り、王座でこと切れる。空っぽの3脚のイスがそばにある。
 セリフは大幅にカットされているが、王が吐く娘への呪詛の言葉はきわどいセリフも残されているし、道化の皮肉も効果的に残っている。リア王の骨格を見事に残して映画化した傑作といえよう。

■Produced by Paul Feigay .... associate producer,  Fred Rickey .... producer.Original Music by Virgil Thomson
 Cinematography by Andrew McCullough, Production Design by Henry May, Set Decoration by Gene Callahan ,Music Department Virgil Thomson .... conductor
 Peter Brook .... stage director , Georges Wakhevitch .... art advisor

△喜志哲雄はシェイクスピア劇の演出について、こう書く。
  1960年代から70年代にかけて《現代的》と呼ばれて来たピーター・ブルックなどの《クール》な演出とは、人間に現実感を与えようとはせず、暴力や性を強調し、性格を捨てて、状況を重視する傾向である。 これは、"リアリズムの演劇観を支えている「芝居は人生だ」という考え方を否定して、「芝居は芝居であること」、舞台上の出来事は虚構であることをわざと強調するやり方につながっている"。
  しかし、1968年にロイヤル・シェイクスピア劇団の総監督に就任したトレヴァー・ナンは"人物の個人としてのあり方に焦点をすえると言っても、それは、人物に心理や情熱による肉づけを施し、現実らしいものにして登場させることを意味するのではない。ナンはシェイクスピア劇をアレゴリー風に演出することに意を用いている。"そして、"状況そのものを虚構とみる《演劇の再演劇化》の方向へ"、更には、"「人生は芝居だ」とする視点が現代においては失われているのを承知のうえで、敢えてそういう視点の可能性を探ろうとしているのではないか。つまり彼は、まがいものをほんものであるかのように扱うという逆説の上に立って、シェイクスピアを理解しようとしている。これは要するに、シェイクスピアの作品をバロック演劇として理解することである"。(喜志哲雄「シェイクスピアと現代」)
△ ロイアル・シェイクスピア劇団が発足したのは1960年、若い演出家ピーター・ホ−ルがシェイクスピア記念劇場の責任者に指名されたのである。ホールはロンドンのオールドウィッチ劇場も獲得し、これらの劇場はロイアル・シェイクスピア劇団と改称された。 1963年にはオールド・ヴィックを仮の本拠地としてナショナル・シアターが仕事を始めた。この二つがイギリスのシェイクスピア上演の二大劇場である。 ロイアル・シェイクスピア劇団の舞台では演出家のコンセプトが前面に出て、台詞の空洞化が目立つようになっていった。ブルックの『夏の夜の夢』(1970年)のように成功した舞台もある。"三方から壁に囲まれ、装置は無く、現実のイリュージョンを作り出すための照明も用いないというのは、シェイクスピア時代の舞台のあり方に他ならない。言いかえれば、ブルックの演出は、近代リアリズムの演劇観を斥けるという意味では確かに前衛的だったが、他方ではそれはおそろしく伝統的なものだったのである"。(喜志哲雄「ロイアル・シェイクスピア劇団は何をしたのか」)

△水田宗子の『リア王』論=老人の人間的成長(『活字マニアのための500冊』朝日文庫,2001年より)
 老いを扱った古典的な作品は、なんといってもシェイクスピアの『リア王』だろう。『リア王』はまず老害を描いた作品である。そして、その老いという障害を通して、老人の人間的成長と成熟と救済を主題とした作品である。『リア王』では、老いは、社会や政治、家族や絆、愛や忠誠、善や悪など、自然、社会、法、人間を考えるキーワードとして作品の中心にすえられている。テーマとしても、中心人物像としても、物語の展開要素としても、このように老いを作品構成の中心に組み入れて書かれた作品は、ほかにあまり例を見ない。
 老いたリア王は、なかなか権力を若い世代に譲ろうとしなかった。すでに一家をなしている姉娘たちは自分の国を持ち、統治するという自立への願望を抱きながら、長い間、その成就を引き延ばされてきたのである。父のリア王から国を分けてもらうために、娘たちは頑迷で我がままな父に逆らえず、我慢してご機嫌をとってきた。娘たちはいつまでも王座に居座り、財産分与を引き延ばす父親に、怨みと憎悪を内に含んできたのである。
 リア王の老害はそれだけではない。いざ引退を決意し、国を娘たちに分与しようとするときに、娘たちが自分を愛する度合いによってそれを分配しようとする。父親は自分への憎しみをさえ抱いている娘たちの心に気がつかず、親への情愛の大きさを彼女たちの言葉で測ろうとしている。愛は言葉で表現され、言葉は心の真実を表現するものと思い込んでいる。姉たちの偽りの愛の言葉に腹を立てたコーディリアは、そのような言葉が愛を意味するなら、自分は父を愛してはいないと言って、父を怒らせ、財産の分与に与れないばかりか、父から勘当されてしまう。
 リアの愚かさは、性格によるものでもあるが、長い間権力の座にいた者の傲慢さから来るものでもあり、それは彼の老いを表してもいるのである。年をとって耳が痛いことは聞きたくなくて、人にへつらわれることだけを欲する老人。財産と権力に固執する老人。すぐに感情的になり、物ごとの客観的な判断や理解ができない老人。真実を見分ける目も洞察力も失って、見かけだけを信じ、物ごとの表層だけにしか反応できない老人。そのような愚かさでむざんな老いのありようが、国や財産と引き換えに娘たちから甘い言葉を期待し、末娘の本物の愛をみすみす失ってしまう、老いた王の姿なのである。
 『リア王』は、リアの老害ばかりでなく、姉娘たちの甘い嘘の言葉で国土も権力も財産も失って、怒りに取り乱す老醜の姿もあますところなく描いている。しかし、リアはその老醜をさらけ出すことによって、ますます深まる孤独を経験し、しだいに自らの愚かさと間違いに気がついていき、世の中の不条理と自然の理の認識を得ていく。『リア王』は、ドラマとしては悲劇だが、老いの愚かさと醜さが成熟をもたらす契機であること、人生では成熟こそ達成すべきものであり、それは老いてなお可能なのだという人間認識が描かれていて、老いに深い意味を見出しているのである。ここでは、老いとは人間が成熟に達するための嵐であり、人間の生をまっとうするための通過儀礼なのである。


参考文献
福田恒存『シェイクスピア全集』1〜15巻、新潮社
松岡和子『シェイクスピア全集』1〜8巻、ちくま文庫
坪内哨遥『ザ・シェークスピア(全戯曲:全原文+全訳)』第三書館
ラム『シェイクスピア物語』(上下)、偕成社文庫
AERAムック『シェイクスピアがわかる』(朝日新聞社、1999年)
喜志哲雄『劇場のシェイクスピア』(早川書房、1991年)品切
高橋康也ほか、『シェイクスピア辞典』(研究社、2000年)
出口典雄(監修)、佐藤優(執筆・編集)『シェイクスピア作品ガイド37』(成美堂出版、2000年)
狩野良規『シェイクスピア・オン・スクリーン』(三修社、1996年)
ミルワード『シェイクスピアの人生観』(新潮選書、1985年)
中野好夫『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書、1967年)
福尾芳昭『シェイクスピア劇のオペラを楽しもう』(音楽之友社,2004年)
大井邦雄『シェイクスピア この豊かな影法師』(早稲田大学出版部、1998年)
ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社、新装訳書1992年)
ジョン・ウェイン『シェイクスピアの世界』(英宝社、1973年)
ホニッグマン『シェイクスピアの七つの悲劇』(透土社、1990年)
C・ウォルター・ホッジス『絵で見るシェイクスピアの舞台』(研究社出版、2000年)
松本侑子『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社、2001年)
ローレンス・オリヴィエ『一俳優の告白、オリヴィエ自伝』(文藝春秋、1982)
ケネス・ブラナー『私のはじまり』(白水社、訳本1993年。1989)
ロジャー・マンヴェル『シェイクスピアと映画』(白水社、訳本1974年。1971年)


 シェイクスピアの劇の魅力はそのポリフォニーにある。緩と急、転換と展開、韻文と散文等など。
 ジョン・ウエイン『シェイクスピアの世界』には興味ある指摘が多い。次に抜粋要約する。
 エリザベス朝の演技がどのようなものであったのかを理解するにはオペラハウスへ行くのが一番よい。つまり、オペラ歌手は「アリア」を歌うときは観客に向って歌い、「叙唱(レシタティーヴ)」では対話の相手に向う。
  これと同様のことがシェイクスピアの劇では「韻文(verse)」と「散文(prose)」で起こる。韻文はオペラのアリアに相当し、散文は叙唱に相当する。韻文は劇的で、形式的である。例えば『アントニーとクレオパトラ』ではクレオパトラは韻文でしか話さない。散文は写実的である。どんなに内容が詩的であっても、例えば『ハムレット』で、墓場でハムレットがヨリックの頭骨に語りかけるセリフは韻文では書かれていない。この違いはリアリズムの度合いの違いである。
  初期のシェイクスピアはジュリエットの乳母のような散文にふさわしい内容も韻文で書いた。さらに、初期の史劇では庶民は散文を語り、身分の高い人は韻文を語った。しかし、次第にシェイクスピアは散文で詩的な感情も表現するようになった。ハムレットの墓場の台詞はそのような時期のものであるが、散文で書かれているということは、彼が決して物思いにふけって独白を語っているのではなく、この場面を構成する登場人物の一員となっていることを示している。


 シェイクスピア劇の詩句の特徴として、「弱強5歩格」を、アル・パチーノの『リチャードを探して』では説明していた。ブランク・ヴァース (blank verse) は弱強五歩格で脚韻を踏まない詩形である。たとえば、『ハムレット』の有名な独白は、“to(弱) be(強) or(弱) not(強) to(弱) be(強), that(弱) is(強) the(弱) question(強)”と読まれる。


  シェイクスピアにとって、独自のプロットや素材を創造しないことは欠点でもなんでもなかった。“民俗的想像力は全く無自覚にほとんど本能的に作品に取り込まれたのである。彼の作品に入り込むにつれて、私たちはますます一人の人間の言葉にではなく、人類そのものの想像力から直接出てくるものに、耳を傾けているのだと思われる”。


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