日曜日にはTVを消せ 目録



      主題=方法論   佐々木昭一郎 講演

        1984年10月6日 NHK 京都放送局  第二スタジオにて

 今,ご紹介にあずかりましたNHKの佐々木ですが,今日は遠い所からおみえになって下さった方もたくさんいらっしゃると伺いまして,どうもありがとうございます。
 私の作品はテレビジョンを通じてしか公開されませんので,具体的にこうして,ほとんど若い方々ですけど,顔を拝見できて,ほんとに感動しています。

 先ず30分だけしゃべらせていただきます。その後,まあ型通りなんですけども,質問を受けまして,その質問が,私とその質問者との対話じゃなくて,みなさんの中に広がったほうが,僕はうれしいと思いまして,ひとつよろしくお願いします。

 主催してくれた京都大学と同志社大学のプロモーターの方々が,こういうことをしゃべれっていう内容は,次の通りなんです。ここへ出ている以上は演出される出演者の様なもんで,何か聞き出されるために,このキーワードを与えられたと思って,それからまず説明しますと,生活感をベースに,なにがベースになって表現に至っているか,まあ生活感をしゃべれと。
 で,その中にある日常的な物事のとらえかたをしゃべれと。
 それから,どの様な映像を見てきたか,子供の頃から現在までその映像や作品から影響を受けたものについてしゃべれと。
 で,4番目は新作の企画についてしゃべれっていうことなんですけれど,この4番目がいちばんしゃべりやすいんです。なぜかっていうと,現在時間的にいちばん自分にとって身近なテーマになっておりますんで。新作企画について以外は,日ごろ言葉であんまり意識していないので,なかなか話しにくいんですが,とにかく度胸を決めてしゃべります。

 自分の生活感っていうのは何を中心に回っているのかっていうと,表現,まあ日本語では芸術っていう言葉を用いると,非常に神の存在の如き印象を与えるかもしれないんですけれど,芸術に対して,いまここで自分に言い聞かせる様は 言葉をね,確認しているようなことを言葉で確認すれば,ほとんどの時間を芸術のために使わざるをえない,そういう生活かな。

 かといって,修身の教材のように,芸術に対して真摯誠実で,朝から晩まで,芸術の神に対して手を合わせているかっていうと,そうではなくて,私,生活の経営は非常に下手くそでありまして,人間には24時間の時間しかなくて,24時間のすべてを私生活に懇切丁寧に分かち与えて,それでその自分の生活を経営していくっていう才能はあんまりなくてですね,したがって私生活に対しては修身の教材のような誠実さは持ち合わせていないと思います。

 かといって,一般的にいう乱れているとか,そういうような事じゃなくて,何かボーッとイメージを考えているうちに,いまどこの道を歩いて来たか忘れちゃったりですね,大事な物を置き忘れたりってな事で,他人に迷惑をかけたりするような事は日常的に起こっています。
 で,まあ,自分の生活感というのは,表現を中心に回っているという風にいわざるをえない。それは正直な告白であると思います。

 なぜかっていいますと,芸術,まあ言葉でいえば簡単なんだけども,放送局において芸術的な表現をとろうと思った時にですね,ご存知のように,映像っていうのは他人の力を借りなきゃできないもので,自分の中に何かが湧きあがって,その衝動を二次元の紙の上にたたきつければ成立するってものじゃなくて,そこにいたるまで,四次元っていったらよいんでしょうか,映像と原稿用紙をもとにした台がひとつあって,映像が生れて,映像が付け加えられて,音が加わって,編集が加えらる,四つに分けると,まあ四次元の空間芸術が映像表現イコールだと思います。

 とにかく他人の力を利用しなきゃいけない。それで他人を説得しなきゃいけない。そのためには,ひとつの企画書を提出する時に,膨大な量の原稿を書かなくてはいけないですね。
 その膨大な量の原稿こそ,僕にとっての日常生活のほとんどなんです。
 したがって,僕がいちばんうらやましいのは絵描きさんで,その次にうらやましいのは小説家で,他の映像作家は,映画監督を含めて,ほとんど僕と同じような生活をしているんではなかろうか,また,それを信じたいと思っています。

 かかるような生活感覚から生れてくるものというのは,後に述べる方法論しかないんですが,たとえばその方法論をもって,僕は兜町に立つ,それから魚河岸に立つとしますね,大阪駅でも京都駅でもいい,友禅の染め物については何も知りませんけども,その世界に立つ,と,その世界と対決できるんじゃないか。
 対決っていうのは,そこで何を描けるかというような方法論,ま,そういうものを磨いているっていたらいいんでしょうか。

 日常感覚から生れてくるものっていうのは,人が見えないっていうものを見たり。
 ある人に会うときは5,6分ではその人をほんとうに見ることはできなくて,三時間くらい話していつうちに,その人が持ってきた,ひきつけてきた,歴史とか考え方,感情の動き方,現われ方,どういうときにどのようになるか,写真にたとえるとレントゲンのような,そういう視点を持つにいたるわけですけど。
 ほとんどはその様にして人間を見ているんではなくて,表現にとりかかるときに,そういう意識が冴えてきて,自分の目がレントゲンの機械に置き換えられるような視力を持つっていったらいいんでしょうか,大体その様に僕はすごしております。二番目の日常のものごとのとらえ方は,大体いましゃべった様なことの中に入ってくるんですけども。

 映画の体験は,戦前はほとんど覚えてないんだけど,おふくろに聞くと,ゲイリー・クーパーの『北海の男』とか,リチャード・アレンの西部劇を見たっていうんですが,その二人の名前は,ゲイリー・クーパーは皆さん知ってるかもわかんないけど,リチャード・アレンってのは知らないでしょ。僕もどのような映画だったのか,全然思い出せないんですよね。暗い所で何か動いているものを見たっていうような記憶はありまして,僕が六つぐらいの時です。
 戦後になって初めて見た映画は,学校から連れていかれた,非常にイデオロギー的要素のあるものだったですね。
 それから,『キュリー夫人』とか見ましてね,ひとつも面白くなかったです。科学者がいかにがんばるか,っていう映画だったんですけれども,面白かったのは,手を取り合って接吻するんですよ,チュッて大きな音を立てて。学校から連れていかれたんで,次の日から接吻大会が始まりましてね。クラスの中で,会えばもうチューってやる。そうすると,先生は怒る。家の中でもやる。
 なんていうんですかね,科学者の生活を通して,手を取り合うような喜びが,子供たちは誤解して,自分達の生活の中にキスっていうものがあると知ったような映画だったのかな。
 もうこういう話は皆さんとは縁遠い物語だと思うんですけれど。映画っていうのは,ディズニーの映画だとか,いろいろ教育的な映画に連れていかれて,そこで見るというような団体鑑賞だったように思います。

 僕は戦争中,疎開してたりしてですね,戦後もずっと田舎にいるようになりまして。
 いったん東京に帰ってきて,それから田舎へ行ったんですが,そこではずいぶん映画を見ました。村の映画館がありましてね,「ハンケチを十枚用意してきて下さい」って。三益愛子の母もの。僕もおふくろと離れて生活してたから,悲しくて泣いたような体験があります。
 それから岡春男の『あこがれのハワイ航路』,『東京行進曲』『サーカスのうた』なんてのが田舎で流行ってましてね。戦争で閉じ込められていて,軍歌ばっかりだったから,流行歌が流行し始めたんですけど,子供たちもみんな歌ってましたね。

 まだ今まで話したことは,僕の中に映像表現としては全然認識されていなくて,中学に入りましてね。中学3年の時に,東京に帰って来て,疎開体験から,5,6年ぶりに家族と一緒に生活するようになったんです。
 中学3年を卒業して,僕はわりあい裕福な家庭に生れたんですけど,父親が戦争中に死んじゃったものですから,戦後は自分が働かないと食べていけないようになりました。
 卒業していきなり,日本タイプライター株式会社というところに就職したんですよ。中学3年までで,何を僕はみがいたかっていうと,英語を話すことだったんですが,これがまあ,中学生では殆ど話すような能力を持ち合わせることができなくて,日本タイプライターに外国人がいましてね,レミントン・タイプライターってところが経営してましたので。
 これは英語を本格的に身に付けなければ食べていけないってんで,働きながら英語の会話の学校へ行きまして,それがきっかけで映画館に入るようになりました。

 休みの日,映画館で朝から晩まで座って,ひとつの映画を見るんです。目的は何かっていうと,英語の勉強をするためなんですよね。ここで,いま『いとしのクレメンタイン』っていう題名で名作といわれている『荒野の決闘』という映画がありまして,ジョン・フォードの映画。それから,『わが谷は緑なりき』とか,もういろんなものを見たんです。
 毎日,勤めが終るとすぐ映画館へ飛び込んで,という生活が半年以上続いたのかな。英語を学ぶのが目的だったんで,くだらない映画もずいぶん見ましたよ。楽しかった。B級映画ってのは,そのころB級なんて名前は無かったんだけど・・・。

 当時,リパブリックっていう映画会社がありましてね,ウィリアム・エリオットというのがいたんですよ。皆さん知らないだろうな。映画評論家もほとんど知らないはずですよ。その人が,サム・ウッド監督の作品で東映チェーン,当時東映チェーンが外国映画を上映する時が一番安くて,一本30円とか40円とかでね,お金が無いんで,そこに入ってウィリアム・エリオットの映画をよく見ました。西部劇で,必ず『西部のなんとか男』っていうんですよ。『西部の色男』『西部の覆面男』とか,使ってるセットも全部同じ,俳優も全部同じ。必ず最後に死ぬんですよ。バターンて倒れて,ドシャ降りでね,するとそこにエンドマークがスーッと出てくるといった,なんか不思議な映画だったんですけど。
 中身はウィリアム・エリオットが保安官になったり,泥棒になったりして,必ず最後に死ぬというパターンなんですけど,その英語がもう全然わかんないですよ。今ぐらい英語の知識が氾濫していれば,これはアリゾナ州の特殊なところでしゃべる英語だってのがわかるんだけど,もうその英語がわからないために,自分には英語の能力が,勉強する資格が無いんじゃないかって思ったり・・・。
 
 ある時,『黒水仙』なんて映画を見ましてね,クィーンズ・イングリシュは非情に明快で,日本人の耳にはわかりやすい英語なんです。口を開かないし,”I can't understand”(アイ キャーント アンダースタンド)なんて言わないで,アイ カーント アンダースタンドって。
 あっ,これが本当の英語かな,と思って,次の日,会社に行って,レミントン・タイプライターのアメリカ人の英語を聞くと,アイ カーントなんて絶対言ってないし。これは困ったなあ。
 まあ,そういう事の連続で。それから,ランドルフ・スコットの映画とか,たくさん見るようになったんですよ。

 月給はほとんど映画のために使って,自分の手段として英語を使って,どっかの会社で働こうってのが目的ですからね。そこに芸術を表現しているとか,娯楽を表現してるってことを楽しむために,映画館に入ってたわけじゃないんで。
 字幕としゃべっている人の口を見まして,どうもその字幕がちがうことを言っている,僕のとらえた英語とは。例えば”I can’t speak English”と言うと,字幕では「私は別の国の言葉をしゃべります」となってたり。意訳してあるわけです。そういう映画体験でした。

 もちろんその間に聴いた音楽が僕の中に生きていると思います。そのうちに,僕は中学しか出ていないんで,非常に劣等感を持つようになりましてね,高校に入りたい。でも,レミントンタイプに非常に好きな女の子がいたんだけど,僕より年上の18歳の女の子で,鼻もひっかけてくれないんですよね。よおし,こういう人とちゃんと話せるようになるには,大学を出なきゃだめなんじゃないか,と非常に幼稚なことを考えていたんです。

 英語をみがいているうちに,活かせる手段は商社に入ることだということが,わかったんです。次の年から夜学に通うようになりまして,高校は4年間かけて,夜学を出ました。高校へ行くようになってから,だんだん皆さんと同じようにですね,自分と向き合って,自分と対決するようになりましてね,自分と対決しながら,世間と対決したり,それがやっぱり文学だったと思います。
 文学をたくさん読んで,読み飛ばして。大人は,武者小路実篤を読めとか,ドイツのアルトハイデルベルクを読めとか,『車輪の下』を書いたの,なんてったかな,ヘッセ? ヘルマン・ヘッセ。全部読みましたけど,全然わかんなかったですね,当時。どうしてこういうことが起こるんだろうと思って。

 やっぱり映画の方が具体的なんで,僕は映画館に通うようになって。新宿に帝都名画座というのが,あったんですね。ほとんど立ち見で,ギューギュー詰めになってる頭の上から映画を見るんですけど,そこでフランス映画を見るようになったんですよ。フランス映画とかイタリア映画。
 それは,僕がさっきまでしゃべっていたアメリカ映画のように,大々的な広告をして,皆が知っているというような映画じゃなくて,そこへ入ると自分の身の上と同じような身近な世界が展開していくような感じがしましてね。
 『シーナ山の狼』なんていうのがあったんですよ。皆さんご存知無いだろうけど,『苦い米』のシルヴァーナ・マンガーノ主演でね。それだとか,ジャン・ギャバンとディートリッヒの『狂恋の涯』とか,様々な犯罪的な作品が多く見られたような感じがします。
 それでも,僕にとっては,表現というものと直結してこなかったですね。

 その映画体験が高校三年まで続いて,ぴったり映画を見るのをやめるようになったのは,皆さんと同じように大学生になってからです。大学に入ってからは,クラブ活動や仲間のつきあいが楽しくてね。映画を思い出す,映画を見たい,ということがあまり無くなりまして,自分の目的である商社へ入るという事に,僕の方向がいつのまにか向けられてきたわけです。大学でも経済学を専攻しましたし。
 「アメリカのおける銀行制度」というのが,自分にとっての論文だったんです。
 ところが,就職試験を受ける年になったら,商社が全部ダメで,落ちました。
 NHKは僕の学校に60名募集が来ていたんですけど,40名しか学内推薦の募集に応募する人がいなくて−。
 僕の学校は放送や新聞社にはちょっと縁が遠い学校だったんで。NHKの試験を受ける時には商社の試験と並行して受けたのかな。論文も経済学に直結したようなのを書きましてね。もう一題あったところに,僕は今まで見た映像の体験からかなり表現的なことを,表現に関わるようなことを論文に書いたではないかなあ,と思っているんですけど。

 NHKに入ってからすぐ,ラジオを専門にする芸能番組・クイズ・落語・漫才・バラエティという部門に配属されましてね。主に,出演者の送り迎えと身の回りの世話ですか,出演者が集る30分前に入ロに立っていて最敬礼したりですね−例えば金語楼なんかが来るとね,「先生,おはようございます」といわなきゃいけないんです。その,「先生」と呼ぶ経験が僕には無くて,随分困りました。こういう人に「先生」と何で呼ぶのか−と。

 それらの映像が僕の表現の中に少しは影響しているというふうに結論として答えたいとおもいます。

 どうも理屈が先に演繹的に長くなって申し訳ないと思うんですけど,好きな作家はジョン・フォードと,それから,フランソワ・トリュフオーかな。少し好きかな。それからフェリーニと。ベルイマンという監督はあまり好きになれないんですね。好きになれない明確な理由はあるんですけど,しゃべると長くなる。

 僕の映像というのはドキュメンタリー的な手法を用いていて,それはどのようなことであるかしゃべれというんですが,まあ,僕はドキュメンタリーは作っている覚えは無いんです。
 とにかく皆さんでも,テレビ会社や映画会社,或いは独立プロヘ入った時に何を作りたいかというと,自分でなきゃ出来ないものを作りたいだろうと思う。それは自然だと思うんですよね。僕の場合も,自分でなきゃ作れないものを作ろうではないか,作りたい−。
 結局,僕が見出しているものというのは'method',フランス文学でいえば,"methode"−というのかな,「方法論」というものですけど−「技法」とはちょっと違うんですけどね。
 独特の創造法と独特の批評かな。
 批評したいものが無きゃ何も描けませんからね。その二つをもって,それイコール,テーマ・主題の展開であるということを認識するようになったのかな。
 「認識するようになったのかな」という表現を用いるのは,五,六年前にそういうことを認識するようになって。
 その前は若すぎて,夢中で,自分の表現を言葉で説明することなんかとても出未なかったですから。
 それで,「ドキュメンタリー手法を用いて俺はものを作るんだ」なんてことを言っていばっていたと思うんです。
 会社の中でも「ドキュメンタリー手法でものをつくるというのは矛盾しているじゃないか」という人もいましたね。その人は文学に非常に詳しい人だったですけど。
 僕がドキュメンタリー的な手法を用いて俳優じゃない人を使うってことは,しゃべると長くなるんだけども,一言でいえば,やっぱり自分の方法論に即したことをやっているということです。

 表現であるから中身−人間の身体にたとえればですね,ちゃんと洋服を着ていて,肉がついていて,骨はまず見えないような作品を作りたい。
 自分の作品か映像となって定着して,90分なら90分の単発で出る時は,そのような形をとっていないかぎりは失敗である。

 それで,自分の方法論というのは,自分で20年かかってようやく気がついたことなんですけど,
 −若いうちは色々やっぱりやりたいんですね,若い時にやりたかったことを百挙げてしゃべれといわれたら,僕には易しいんですけど,たとえば,大道演劇をぶちたいと思ったし,訪問劇というのもやりたかったですよ。これはまあ,この席だからしゃべれますけど,男女がいるんですよね。で,「私達はなんでも演じてみせます。例えば,セックスを演じてみせますが,いかかですか?」と言って歩くような人間もいて,トントンと叩いて家庭に入って行って−そういう事も考えたですね。でもそういうことをなぜやらなかったかというと,NHKが厳しいからでもありますけど,だんだん自分の方法論ということを絞りこんで考えていったからじゃないかと思うんです。
 だから,いろんな旅をして,いろいろな表現のための可能性というんですか,方法論を追究しながら現在に至って−
 芸術,まあ,映像。僕の映像表現というのは,永久の方法論の追求だと思っています。

 四番目に,新作企画というのは,色々ありましてね。僕が書いた企画は,リバーズはいまチェコスロバキア篇が最後なんですけど,目下のところは最後の件品になっているんですが−

 その,リバーズの主題,川・人間の巡り会いと惜別・言葉もふくめた音,この三つの方法論イコール主題でわが国にきて下さいっていう国が,フランスとフィンランドと韓国とあるんですよ。それからアメリカと。

 僕はまず,一番最初に申し込んでくれたフィンランドに行きたいと思って,そのために今企画を練り上げています。われわれの会社には重役がたくさんいますから,そういう人と対決しなきゃいけないわけです。企画文書で説得するために,何枚も書いて。さらに同時に片方の手では脚本を書くといった日常を送っています。
 それから,事務手続きを進めないといけないから,フィンランドの人に会ったり。
 すると,お金はいくらかかるかといった具体的なこともわかってきて,NHKはここまでしか出してくれない,1000万なら1000万,すると,向うでの滞在費やその他は,フィンランドの国自体がスポンサーになってくれるようにしなきゃならない。
 ただ,フインランドを観光的に表現するカは,僕にはありませんからね。
 文化交流,或いは芸術的に両方の国が,フィンランドでありながら,これを地球の一部と思わざるを得ないような作品に仕立てないといけない。そこをまずフィンランドの人達に分かってもらわなきゃならない。フィンランドは,僕のそういう方法論を認めた上で声をかけてくれてるんですけど,いくら認めてくれたからといっても,そのことを,表現しない限りは日の目をみませんので。

 それから,アメリカも同じように,フランスも同じように…。
 フランスは,向うで発行されるフランス政府観光局の雑誌があるんですけど,そこに川の物語−フランスの川はセーヌ川ひとつしか知らないんですけど,まるでフランス中を旅してパリからセーヌ川に行くような嘘を,まあ物語ですけど,いま連載中です。皆さんにお目にかけられないので非常に申し訳ないと思いますけど,仲々いいフィクションというか,紀行小説といったらいいのかなあ,あくまでシノプシスにすぎないんですが,そのようなことを4,5回にわたって書く予定にしてるんですけど。

 もうひとつは,あの,フランスの女優でジャンヌ・モローさんていう人知っていますか,知らないかなあ,あ,ほとんど知ってる,失礼しました。
 この人と僕,友達なんですよね。それで,私の作品に出たいっておっしゃってくれたんで,何故かって聞いたら,方法論が気に入ってるんだと。
 一つだけ条件は日本に来たい,日本を舞台に撮ってもらいたい,何故ならあなたは日本人だから,と言う。外人を描く時は日本につれて来ない限りは出来ないということをよくわかってるんだね,彼女は。

 僕はフランスでフランス人を主役にした映画っていうのは絶対に撮れないですね。日本人を連れてかなきゃできない。なぜなら僕がいかにインターナショナルなメンタリティを持ってるからといっても,自分の中に流れているものは日本なんですよね。ちょっと話が逸れるかもわかんないですけど,自分の中に流れている日本というのは,よく古い人達が,その,ファシストが言う,日本を見直さなきゃダメだとか,日本の歴史を見直さなくてはならない,いうことではないですから。
 持って生まれたもので,そういう愛情を日本に対して持っていますから。

 ジャンヌさんがどんな風にして来たいって言うか‥来る必然性かあるかっていうのを考えてみたら,やっぱり自分の方法論か編み出したところの三行の文章,最初の三行の文章で成り立つその中身−今しゃべりたいんだけど,非常にこの,自分の情熱が燃え上がって来て,キチガイがしゃべってると思われるんでしゃべらないでおきます。
 一枚の絵がヒントになってましてね。竹馬にのった少年がいて舞台は京都というのを描きたいんですけど。それは夢で終ってしまうか実現されるか,ほんとうに,僕の腕にかかっている。
 それで,困ってます。身件は一つしかなくて,フィンランドの方も描かなきゃならない,京都も描かなきゃいけない。それから,自分の戦後史にあたる,少年と川を結びつけたようなものをある上司が作れって言うんですけど,それはちょっと自伝的になってあんまり好まないんですね。

 僕の見たもの聞いたものが自分の中に生きていて,人間のオリジナリティっていうのは本当はなくて,みんな人が見たもの聞いたものを自分の中に収めて,反芻して,飲んで,かんで,吐き出したものが表現になっているって,そんな事しか,僕には言えません。

 それを表現する手段っていうか方法ですね。僕の場合は方法論イコールもう即主題だと思います。その主題というのがどういう風にかして,方法論によって引き寄せられ,作家が,人生に,人間にかかわるあらゆる例題を主題と化して,まるでこれが本当であったかのように,真実として描く。
 それが作家の存在だと思うので,これからも自分の方法論を展開し− 一言で映像文体って言うのかな,ちょとキザかな,テレビジョンやってる人がこういう事言うのは−それを守りとおして攻めて来る人がいたらなぐり倒して。そこまでやんないと放送における芸術というのは成立しないと思っています。

 どうもありかとうございました。


           質問に答えて 

Q 「川」シリーズの主題 一川・音・人−との出会いについて

A 川と音楽をくっつけて作品を創ろうと企画したのは12,3年前なんです。14,15年前かな。もうどう書いても,何十枚書いても,毎年2回ある企画会議で落っことされたんで。
 それで,『四季』を作った後に,ああ人間が必要だというのがわかったんです。巡るためには一種の紀行文学みたいにならないといけないから,それで調律師というのを考えたんです。
 だから,『四季』を作ったおかげで生まれたと思っています。

Q 方法論が主題につながっていくということを説明してほしい。

A 僕はよく,内容が無くて方法だけが先にあるのはよくない,という風に言われるんですよ。それを言われ続けて10年以上たって,最近言い返しているのはね,あなたの言うのは神様のすることしゃないかって。要するに内容が先にあって方法が後からついてくるという発想は神様しか出来ないですよ。命題が先にあって,それから方法がついてくるっていうやり方は。
 近代芸術は必ず方法論しかないんです,と,僕は思っています。ちょっと説明が不親切ですけど,時間があまりないので。よろしいですか。

Q 方法が主題につながるというのは,小林秀雄がモーツァルトを評して,歩き方が目的地を創り出す,といっているのと同じことですか

A ノリとハサミさえあればラジオのドラマが作れると思っています。テレビジョンに替わっても,やはりノリとハサミさえあれば映像が作れると思っています。
 答えは簡単なんだよ。出演者が居なければいけない。主題になる方法を展開してくれる人。映像は具体物ですからね。出演者が展開していかない限り,主題もかき集められない。作家というのは人間に関するあらゆる例題をかき集めてくる訳だけど,例題を主題化するのはその人しか居ない。
 それを展開していくのが,自分の方法論−そこで方法論イコール主題というのは分りやすいでしょ。
 ただ,これだけではどうにもならない。立っているだけ。ドキュメンタリーになっちゃう。ウロウロしたり。次には,コンストラクションに収れんしていく,自分の体質を表すための−スポーツにたとえるのはよくないけと−パンチが要るよ。例えば,相手がアゴが弱いと思ったら,そこの一点にしぼりこんでパンチするようなのも必要だと思うのね。映像もそれがなきゃダメだし。文学では文体と呼んでいるんではないかしら,このことを,小林秀雄はモーツァルトのことを文学に置き換えて言ったんだと思う。私は読んでませんけど。

Q 作品の中で川の果たしている役割を説明してほしい。

A 『川』は,作劇上の方法から言いますと,川自体を描く作品ではないんでね。作中人物は川に沿って歩き,人に巡り会う,という構造を持っているわけで,(川は)方法そのものに直結した存在だとお答えしたらいいんじゃないか。
 もちろん,川が持っている詩情的なもの,ポエジーを大切にしたいから川を描いている。人間の意識の川でもあると思っています。その,一つの川が海へ下って行く間にいろいろなことがありますよね。人間の歴史もそうだし,人間の感情も毎日そのようにあるんじゃないかな,っていうような。
 3つの要素がいつも川というテーマに,僕の中では,結びついているんですけど。

Q 作品の中での音楽の扱い方が,成功していると思うが,自身の音楽体験について話してほしい。

A 音楽体験って,僕にはそんなにないんです。お袋がカルメン聞いていた記憶があるんですけど。まあ子供だから当時の電蓄,蓄音機が背の高さ程あってね,目の前に針を置くと何回も繰り返されるんで,『カルメン』のイントロのとこは,曲名を知らずに何回も聞いた経験がありますね。
 あと,クラシックに対する理解度の浅さといったら,皆さんが僕に音楽の題名を聞いて,−それから音楽の歴史を,ある作曲家はどこで生まれたとか,ケッへルの何番知ってるかと聞かれたら,ほとんど0点に近い解答しかできないんじゃないか。
 マーラーは偶然聞いたんですよ,僕は。それで好きになって。あの一節がすごく良くてですね。マーラーというのは,天国と地獄の間を意識が上下しているんじゃないかと思うぐらい,そういう音楽を書く人なんですよ。僕は,天国と地獄が手を取り合っているようなところのメロディを…あれが必要なので,どうしてもあれを,マーラーの四番が先にあったような感じがしますね。

Q 音楽だけでなく効果音も非常に素晴らしくて印象に残るのですが,ああした音をどのように見つけ出すのか。又,作品で用いるとき,その音を際立たせるためにどういう工夫をするのか。 

A 音についてしゃべればいいんですね。自分ではあまり答えられないんだけど,音か印象づけて行くって事は,例えば,ビー玉の音を例にすると,ビー玉の音でありながら,或る抽象性を持ち,或る普遍性を持って,ビー玉ではなくなる様な表現が出来るんですね,音っていうのは。
 それから,ある人を引張ることも出来るし。技術的にですけれど。その印象的な音を一回ふっておくと,もう一回リフレインされた時どういう意味をもってくるか,人間の心の中で,というか。その結びつけていく,展開していく見えない糸になっていく訳ですね。限られた時間の中で何か描かなければいけないのだから,構造上,こう,グラフを描いてみると,音のグラフが映像のグラフと一緒になって,時間を引張っているということが言えると思うんだけど。
 ラジオやってたからだと思うんですよ。ラジオっていうのは眼を閉じないと何も描けないですよね。ものすごい苦痛なんですよ。肉体を奪われたぐらいな苦痛なことなんです,ラジオっていうのは。だから,そこで,こう,生きている感じを出すにはどうしたらいいのかなあってことから,必要に迫られて音に関心を持つ。そういう答えしか出来ないですけど。

Q TVの視聴者は気まぐれで何時裏番組にチャンネルを切り換えるかも知れない。そうしたTVで作品が上演されることに不満を感じたりしないか。映画館で上映するとか,ビデオ化して市販するといった形態での上演についてはどう思うか。

A 後ろから答えますね。映画館でやろうがビデオで発売されようが,大いに結構だと思います。そうして貰いたいなと思ってます。ビクターやパイオニアが考えてもらいたいと思う,真面目に。NHKも(笑)。もったいないですよね。せっかく作ったものを,一回だけ放送してゴミの如く棄てていくというのは。ただ,そういう為にテレビジョンはあるのかも知れないし。三十年の歴史の中で,僕は今,断言することはできませんけど。
 それでも,マイブック,マイテレビジョンという方向になっていくんじゃないかしら。カセットが発達して。そうすると,テレビジョンでどうやってもう一回見直すか聴き返すかっててことになってくるのでね。そして,その件品が無ければ,放送局も企業も水久にやらないでしょう。それから,(作品が)あったとしても,もうからないとやらないと思うね。つまり,広告メディアによってガンガン売りまくられて,中身は希薄なんだけど,こ
ういう特徴があるから面白い,とか。そういうレッテルを貼られない限りは売れないでしょう。したがって,なかなかビデオディスクやビデオカセットにはならない。
 −テレビに向き合って僕の番組見なくても全然構わないと思います。選択視聴であるし。それから,その人の生理によって,裏側を見たりしてもいいと思う。映商館というのは,入ったら他に見るものないから,どんなものでも見ない訳にいかないと思うんです。

Q マイナーな,つまり少数の人にしか理解されないような作品であるという印象をうけた。大衆向けメディアであるテレビで上浜するとき,勝算はあるか。或いは,大衆受けを考えているか。


A 大衆受けということについて答えるとね,大衆にはどの程度の数と人間,何て言うか,
 質,で大衆という言葉を使うのか分からないけれど−10%の視聴率があるとしますね,8%とか。或いは3%でも,1%でも,見てくれれば十分だと思います。そりゃ多くの人に見てもらった方がいいけれど,例えば,30%,4O%というのはちょっと異常だと思います。
 ただ,日本のテレビでは,シングルドラマ,単発ドラマのことですが,割合個性的なものが少ないので,NHKしか作れないと思うんですね,個性的な番組というものは。だから,もっといろんな人が出てきて発表すべきだと思います。僕らばっかりでなく。
 まあ断定的に言うと,僕の作品はそういうテレビドラマに対して存在していることで批
評している,と考えています。ちょっといばりすぎたかな。もういいでしょう,20年たっ
たんだから。

Q テレビで仕事を続けているというのは,テレビが好きだということか。芝居とか映画とか他の分野に移りたいと思うことはないか。

A テレビ,好きです。芝居や映画をやってみたいなあって思っているんですけど,体は一つしかないですし。芝居をやったらのめり込むんだと思うし,それなりの方法論をまた自分なりに発見していかなければならないですよね。映画もちょっとテレビの僕の文体で通じるかどうか分からない。夢の中にはあるんだけど,具体的には(芝居や映画をやる予定は)今はないとお答えしたらいいんじゃないかと思います。

Q 出演している人は俳優ではなく,皆素人だということだが,いわゆる演技の臭さ,素人臭さが全く感じられない。それどころかプロの俳優以上の演技をしている。その辺りの演出のやり方について。

A 一般的な答え方は出来ないんですけど,僕の場合は扱えない人間がいるんですよ,必ず。
扱える人間があったら,扱いたくない人間というのかな。例えば,いばってたり,そうい
う類の人というのはあんまり出したくないと思うね。それから素人の中にも絶対に演じられない人がいるんですよね。どういうことか説明していくと長くなるから言えないけど。僕の直感的なもので選ぶっていえばいいんでしょうか。だから今日出てた羊飼いの人だと
か,あの少年なんていうのは,自然に演じられる隠れた天才だと思うんですね。
 さっきから方法論というんですかね,演技論にもつながると息うんだけれども−俳優諸氏が今あまりにも可哀相な状態に置かれているからですね,あなたの言ったように演技の質というのが,素人がやってもプロがやっても同じようなことになるんじゃないかと思う。プロはカタチで処理してるだけで,素人の人はカタチで出釆ないからまずさが目立つということでね。カタチっていうのは演技の中には入らなくてその人固有のものでしかないと思ってるんですよ,僕は。その人固有のものが演技として出ない限りは演技じゃないのね。日常が出ちゃったら生になるわけだから。そうすると俳優白身も自分の演技論を持ってなけりゃいけないと思うんだけども,養成所や演技訓練所って所が鍛えている方法は,型からしか教えてないと思うんだよね。話し方というのがここにあって,それから,テストを見ても分かるんだけど,台本持ってきて読ますんだよ,人の書いた。いきなり感情移入するセリフから続ますんだもの,(本当なら)感情移入なんて出来っこないですよ,人の前で。ずうっとその台本を初めから読んできて理解してからじゃないとできないね。だから,テスするときにそれを読ますという発想 は,いかにカタチでうまく読んでくれるか,だけなんだね。芸能界はこういう俳優が99。9%じゃないかしら。そこにへたな素人が出てきたりするのは(単に)ミスキャストだと思う。それ以前に台本がまずかったんだと思うね,演出の。答えになってる?

 出演者達っていうのは自分自身の肉体と理性,その2つを兼ね備えていて,その人自身でしかない。そこに僕は自分でしかないものをぶつけているんですから,俳優っていうのは大変な商売なんですよね。
 長くなりますけど,僕は脚本を書くんですが,脚本についてもやっぱり字になると演出
する自分にとって全然違ったものになるんですよ。それと対決しなければならない。直接的に言うと,自分の脚本を批評しながら撮っていかないと,とても成り立たないんで。だ
から,出てる俳優にも批評されていると。(そうしたぶつかりあいのために)出演者の中
にものすごい激しいドラマが起こってるんじゃないかと思う。だから方法的にもそれは目
に見えないドラマになってましてね。そこで目に見えないドラマがそのまま生に出てしま
うと,まあよくあるテレビドラマみたいになってしまうんだけど。耐え切れないんで口を
パクパクさせてみたり,目をしばたいたり。ただ立ってればいいのに演技してみたりね。要するに型から入っていくってことになるね。

Q 中尾幸世せさんのファンですが,彼女にまつわるエピソードを。

A  中尾さんは現実の生活は全然面白くもない人ですね。つまり,会話が続かない。それから,僕は演出者だからね,いつも被害者意識持ってると思うな,聞いてみたことないけど。何か命じられるんじゃないか,とか。方法論を持つと人間と対決すると言うのはそのことで,笑顔を見たこともあんまりないんですよね,僕は。微笑を。
 それから,彼女は休みの日に何をやっているかというと,僕なんかとてもじゃないけど,つきあえないようなことで,山を歩いたりね,3時間位。僕はもう3時間山歩く体力無いですよ。大体時間か無いし。それから,(彼女は)ヨガをやっているから。オキ・ヨガ道場ってあるの知ってます? 1回三島へ出演交渉で行ったことがあるんですが,それを見て二度と行きたくないと思ってます。つまり,人間があんなひどい目に遭わされたらたまんない。僕としては,(彼女は)そういう風なことをやって,それを演技に表現してくれているというのを確信してるんだけど,彼女にはそういう意識が無くてね。或いは演出者にこびるからそういう返事しないんでしょうけど。自分の為にやっている,とか言って。
 それから,彼女も変わりましてね。大学生の時はわりあい僕の言うことを聞いてくれたんですよ。例えば,マーラーの一節を本当に覚えておいてくれ,ピアノでも弾けるようにしといてくれないか,と言うとその通りにやってくれましたけど,勤めてからはなかなかやる暇がないんですね。
 だから,この前僕の所へ電話かけてきて,次の件品用意しているんだったら,私はもうやる自信が無い,つて言うです。なぜかというと,体力的に,時間的に(自借が)ないんだと。それから,学生時代からずっと身体を修練してきた時間というのが割けなくなってるんじゃないかと。だから作品のために正直にそう言います,とそういう風なことを言ってきました。
 僕は次これを頼みたいっていうのは,企画が実現されるちょっと前にしか言わないんですよ。初めに言うと何か緊張関係が無くなるっていうか,一方的な命令をしているみたいになるから。
 彼女は趣味っていうのは仏教なんじゃないかな,多分。で,面白いとこは随分ありましてね。あの人は非常に気か強いから,怒った時は口をきかなくなる,とか。僕は演出者として時々失格するんだけど,外国へ行って,例えばスロバキア篇は(彼女は)完全に覚えたと思いこんじゃうんだよね。(彼女は行く前に)何回も聞いているから。ところが,やらされている方はたまんなくて。まだですか,なんていう言葉が強く響いて,ちょっとイヤな時間が続いて,じゃあやろうか,ってなことの方が多いかな。

Q  脚本について,素人を使う場合,プロットは書けても完全な脚本をあらかじめ書くことは出来ないのではないか。現地の人の生活体験等を取材しながら脚本をリライトしていくのではないかと想像しているのだが。

A  完全な脚本を書くけど直すって言った方がいいかな。素人の人だから出来ないか直すというのではなくて,一例をひくと,『春・音の光』に出ている羊飼いのおじいさんは羊飼いじゃないんですよ,本当はね。それから,出てる少年のお父さんはサーカスの人じゃないんです。全部,僕が書いたセリフをそのまま3回練習してやってくれたんです。だから,僕は脚本書く時に大体のこと書きますね。セリフなんかものすごく長いですよ。それを現場で削ってく。何故かっていうと,僕の書いた文章というのは日常生活の中ではとてもありえないようなことを言ったり,舞台の上では成り立つんだけれど。
 映像というのは現実を舞台にして自然を剥ぎ取る,それが僕のやり方ですから,言葉を裸にするという事をやります。
 あのおじいさんの奥さんが戦争で亡くなったというのも嘘です。スロバアの風土っていうのを取材でかき集めたんですよ,ああいう話題を。
 まああれを構造的に僕が説明すると白けると思うんだよね。栄子とミルカとエバは同じ人物なんですよ。つまり僕はあれを通じて東ヨーロッパの歴史を描いたっていうか,第一次大戦から現在に至るまで。そこで繰り返されたのは生−死−生−死で,生きてる訳なんだけど,ミルカは未亡人になるんじゃないかということが分かるわけですね,僕は。それから,兵隊になったユライというのも永久に婦って来ない。そういう現実はヨーロッパにあるかどうか分んないですよ,徴兵制度に首突っ込んだ訳じゃないから。でも,人間の生命を奪うものというのはそのような存在じゃないかなと思う。(こんな風に)基軸はしっかりとってるんですよ。そこで書かれていくセリフというのは長いのから短いのへ縮めちゃう。


前回の上映会の際,ピッコ・フューメでは10の質問を用意し,佐々木氏から以下のような回答を手紙でいただきました 

1)ユートピアノを境目に作風が変わっていますが,転機のようなものがあったのでしょうか?

 何ら,変ってはいない。
 私は,例えば処女作「マザー」は今撮れと命じられても撮れぬであろう。現に「さすらい」を撮った時点で,「マザー」はもはや,私の作品ではないのである。
 私は今,虹色を信じているとする。しかし以前は緑色を信じた。その程度の異相であるにしかすぎない。
 作風など,変わる訳がない。
 ただ,次の例を述べる。
 「さすらい」は通じないことが主題である。その逆が「川の流れはバイオリンの音」である。
 左様,作品は,間違いなく時代をも映すのである。「さすらい」の71年は,「さすらい」に映し出されている。私の意識とて,71年の私のものである。

2)何故フィルムでとるのでしょうか?

 方法論の帰結である。
 フィルムは私のフィルムの方法論によってのみ,使用される。
 VTRは私の方法論のみによって使用されるのである。 
 では,方法論(メソード)とは何か? 出演者によって,最終的に結晶される私の映像文化の体現であるが,私の場合,方法すなわち主題である。
 フィルムは世界を構築するマチエの一つである。VTRは世界を構築するには余りによく見えすぎる。見えすぎる透明人間や理科教室内の人体骨の標本を,一体誰が面白いと思うだろう。
 美しくはない。                     L
 見えすぎる。視覚過多は主題も創造力も阻害し,実に批評の不毛に他ならない。
 批評したい何がしかがない限り,人は作品などつくらない。
 批評を骨格に隠し,肉をつけかえる。美しく柔らかなる肉体。
 そして,現代の洋服を着せるのが,わたしの方法論の進展段階(次のステップ)である。
 創造力に向かって批評という主題の一方を強力にネジ伏せ,作中人物のはるか彼方に追いやり,隠すのが私の方法である。絵画における遠近法とは映像における方法論と一致するのである。
 遠近法なき絵画など,少なくとも近代芸術ではない。
 「紅い花」はVTRであるが,冒頭の線路と川はフィルムであった。

3)作品に恋愛の対象としての異性が出て来ないのはなぜか

 愚問である。
 恋愛とは見せることをさすのか?
 「春・音の光」のオンドレイ,ラドは主人公に恋をしているのである。
 諸兄は愛欲シーンを見たかったのであろうか?
 愛欲シーンは創造力の終点である。
 次に何を見たいのであろうか? 人体外科手術?
 個人でやるべし。生活において。
 否であらばストリップ小屋へ行くべし。

4)川シリーズではない別の視点の作品を見たいと思うが,予定は?。

 川はライフワークである。
 身体が二つあったら作品を多くしたい。
 方法論が主題を求め,リンカクが生じる迄,時間がかかるのをご存知だろう。題材はあたためねばならないのだ。
 毎回の事ながら,たとえ脚本を了えても,広大なイタリア,スロバキア,アンダルシアそして,日本でさえ私は一体作品になるだろうか,と混乱し困惑するのである。
 別の視点の作品を・‥などというのは少なくとも,創造活動の何たるかを解しない人の言である。彼は人に違いないが,善人高じて評論家になってはならぬ。

5)次回の作品について・‥。

 次作はフィンランドで撮ることになろう。
 今からきつい。楽しみと苦しみの連続交措である。
 楽しみは‥・・ダビングルームで完成したあの一瞬だけである。
 あとの日々は苦しみという他はない。
 来年で,もう芸術とは縁を切りたい,と憧れる。
 何しろ,紙やカンヴァスにむかって創造活動する心が羨ましい。
 私は膨大な企画書をまず書く。何回も書くのである。
 その徒労に近い時間をくぐりぬけて,ようやく脚本の前のシノブシスを机上で書き,それから歩くのである。              1
 私は,歩いていても脚本の数行を書いてしまう。
 しかし脚本が完成し,それを演出する段となると私は脚本を完璧に書き直す。
 演出者の私は脚本に対して,真面目なア批評を行うのである。
 第一稿の脚本が全ての命令であるなら,出演者は死んだも同然である。
 実に死人の多いドラマが多く存在することか!  

6)中尾幸世を評して,日本人で一番自然な微笑のできる人と言っているが,その自然さとはどういうことか?

 見たとうりである。
 微笑は,創りましたといって創った顔をすればいいのか?

7)演技としての感情表現は否定するのか? だとしたら演技についてはどのような意見を持っているのか?

 月刊ドラマ10月号,11月号を読まれたい。
 貴兄に聞くが,感情表現とは何か?否定など誰がするものか。
 演劇空間とテレビジョンとは全く異なる。
 演劇とは,幕開きから閉幕まで時間は同時進行である。
 テレビジョンの生命の一つはモンタージュである。
 私は自然界をはぎとるのである。
 演劇空間は,はぎとれるのか?
 いかようにモンタージュ(4台カメラでさえも)しても同一時間のお芝居であろう。

8)昔から他人の作品に接して,演じるというワクを越えてないと感じていたのか? その点で評価できる映画はあったか?

 ヨーロッパ,アメリカの作品は,演技と日常生活の表現が近いからいい作品か多い。
 ただし,イタリア映画の「にがい米」やベルイマンの作品は嫌いである。
 ベルイマンは人体解剖学者かフロイド氏の役を継ぐべし。
 スウェーデンの風土を私は知っているから,あの風土,何もない風土で考えめぐらすのは他人や人間への憎悪だ。見たくもないのである。
 ジョン・フォードとその一家が好きである。  
 モーリン・オハラ。ウォルター・ピジョン。ジョン・ウェイン。ビクター・マクラグレン。
 すがすがしい。
 他,好きな映画は全て高校一年の時,英語を覚える目的で見たB級以下の映画だ。
 ここに書いたら終わらぬほど観た。
 次に京都に行く時話そう。

9)処女作の頃からそういう方法をとってきたという事に関して,最初から独創的であろうとしたのか?

 方法論を持とうと努めた。
 特に独創的であろうと努力はしていない。
 独創性の価値は他人が決めるのである。
 自分では全く見当もつかないでいた。

10)ドキュメンタリー(映画・TV)体験について。(観た,作った)

 私は映画は創っていない。
 ラジオはあきるほど作った。
 ドキュメンタリーをくぐりぬけて,私はフイクションに至ったのである。
  以上

皆様。
いろいろと,ありがとう。21日,万一,時間ができたら,勝手に行くかもしれません。
NHKに,イギリスからの文書など送りました。奥野氏から受けて読んでみて下さい。質問に対し,言葉(文字)で答えるとやさしさが失せ,すみませんが,送ることにしました。悪文にて。
  12/10/'84。    佐々木

   ピッコロ・フューメ上映会 資料パンフ 佐々木昭一郎作品集から   

 
   (1985年4月12日発行.上映会は4月後半.荒田正一=ピッコロフューメ代表.  パンフ=船越聡)

*****日曜日にはTVを消せ ********

1974年11月17日(日) No.1 夢の島少女  (藤田)

1974年12月15日(日) No.2 夢の島少女  (藤田)

1975年1月12日(日) No.3 アニメ・ルパン三世  (池田)
      藤田のTVに関するエッセイ OFF&ON 第2回

1975年2月9日(日) No.4 鏡の中にある如く (池田)
      藤田+池田  OFF&ON 第3回


   日曜日にはTVを消せ 目録

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