佐々木昭一郎 アーカイブ

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佐々木昭一郎というジャンル トークショー報告
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2010年7月24日〜30日
渋谷ユーロスペースにて

本ページ作成者は池田博明。

『日曜日にはTVを消せ』ウェッブページ版特別・資料 
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    映画館で《佐々木昭一郎というジャンル》   池田博明
 
 “佐々木昭一郎というジャンル”(2010年7月24日〜30日)が渋谷ユーロスペースで開催された。毎日、21時からのレイト・ショー。私は初日24日の『四季・ユートピアノ』上映後のトーク・ショーに瀬々敬久監督とともに招かれたほか、29日『夢の島少女』にも鈴木卓爾監督とともに招かれた。本当だったら、藤田真男君と一緒なはずだが、藤田君は都合があって、私ひとりになってしまったのだ。会場の都合で上映後のトークは25〜30分しか時間がない。『マザー』上映後の遠藤利男プロデューサー、『さすらい』上映後の葛城哲郎カメラマン、『四季・ユートピアノ』上映後の中尾幸世さんの話も聞いておきたかった。
 『四季・ユートピアノ』(24日):ユーロスペース2の座席は145だが、立ち見も出ていた。観客の笑いを誘う場面があった。宮さんが榮子の日記を読んで面白いねというシーン、蚊をたたくシーン、川さんが日記を借りるシーン、宮さんが川さんを「あの青年、感じよくないね」と評するシーンなど、一人でテレビを見つめているときは経験できない反応が観客から聞かれた。
 瀬々監督が佐々木作品を初めて見たのは土曜ドラマの『紅い花』(1976年4月)で高校生のとき、しかし、佐々木作品というより、つげ義春作品の映画化として記憶していたと言う。次に注目したのは大学生のころで『四季・ユートピアノ』(1980年)。インタビュアーは企画の中野香さん。
 瀬々監督は『四季・ユートピアノ』の何が自分をとらえたのかということを考えてみた、多くのひとの死が描かれている。なかには自殺したひともいる。そのような状況にあって、榮子という名前に注目してみる。火を二つ書くというところに榮子の強さが表現されている。また、音のダビングや編集はかなり大きな音で行なうが、テレビ画面のスピーカーでは聞えない場合もある。しかし、今回のように映画館で上映されると、馬が草を食むような小さな効果音まで分かって、その精細な仕事ぶりが分かると話された。
 鈴木卓爾監督が『夢の島少女』を見たのは今回初めてで(7月25日) 、圧倒されたと言う。音に注目していた。鈴木監督がこれまでに佐々木作品に注目したのは、『川の流はバイオリンの音』以降だった由。
 7月25日にはカメラマンの葛城哲郎さんが大坂から来場されていたため、急遽予定にはなかったトーク・ショーが行なわれた。上映スタッフの渡辺氏がインタビュー(25日と26日)。なお、25日には、『夢の島少女』の音響効果の岩崎進さんも来場されていて、私はロビーで一言お話ししました。 私はサヨコが去ってからの岩崎さんの仕事を絶賛しました。鈴木監督も線路のカタンカタンという音がきっかけになり、トンネルへ侵入し、パッヘルベルのカノンに重なっていくあたりに感嘆。 岩崎さんは「若い人が大勢来場されていて嬉しい」「映画館のような大音量の場所で聞くと音楽の効果が大きいことがよく分かる。音響に関してはこれだけの音量ではツブれてしまったところがあってちょっと残念」と話しておられました。
 葛城カメラマンは26日『さすらい』の上映後にもお話しされました。26日は立見席も売り止めの満員状態。前売り券は27日『四季・ユートピアノ』と29日『夢の島少女』が少し残っているだけだった。その後それらも完売になり満員札止め。

   葛城哲郎カメラマンとの一問一答(『夢の島少女』上映後)
 Q.上映パンフレットに佐々木さんが10日間で撮影と書かれていますが?
 A.それはおもなところで、中尾さんはもっと長期間、拘束していましたね。
 Q.どの辺に時間をかけたんですか?
 A.出演者を決めるのに、待ちました。一年間。中尾さんに会ったとき、私もこの人だったらいけると思いました。撮影はテストもせず、トップシーンから撮り始めました。
 一年前は東北をアリフレックス(カメラ)を持って、演出助手と美術スタッフと四人で回って来ました。
 〔この辺の具体的なことは葛城氏はロケハンのこと、撮影日数のことなどを既に書いている。〕
 Q.台本がかちっとはないということですが。
 A・全然ありません。そういう状態で何を根拠に撮影するかとなると、説明が難しいですね。話し合いの中で、次第にテーマが浮びあがってくる・・・・。私は佐々木さんとは『マザー』も『さすらい』もやっているので。佐々木作品のかもし出すなにかをつかんでいたということは言えるかもしれません。しかし、今度は新しい表現をしてみようとは思っていました。
 〔葛城氏は『夢の島少女』はかなりフィクションに挑戦した作品と書いている。〕
 白紙の台本を持って始めました。「今日は何を撮るか」となったときに、鈴木志郎康氏と書いた最初の部分の台本がありましたが、そこには、川に浮いている少女を少年が助け出して下宿へ連れてゆく、次第に様々なことが分かってくるとしか書かれていませんでした。後は少女の個性をつかみながら即興でやっています。カメラのフィルムはワンカットで10分しか回りません。最初に出演者の芝居がとぎれるまで回そうとだけは決めていました。ケンが「大丈夫」という前までは回しつづけています。佐々木さんや録音の人が周囲にいますが、それは映りこまないようにして手持ちで撮りました。中尾さんの個性やケンの真摯さが出ればと。カメラはNPRという同時録音のカメラで、局でも当時はまだあまり使っていませんでした。佐々木さんが何を言うか、あるいは言わないか、中尾さんが何を言うか、言わないかが大事。すべて手持ちで撮っています。ラジオドラマから始まった方法論ですね。
 Q.葛城さんのドキュメンタリーの撮影経験が役立ったのではないですか.
 A.それはあったかもしれません。手持ちカメラでワイヤレス・マイクがあると、佐々木さんは安心していました。
 Q.数百人の候補者に会い、人から物語をつむいでゆくのが佐々木さんの方法ということですが?
 A.その点で佐々木さんはすごいと思います。秋田に人を探しに行ったこともありました。また、例えば『「マザー』の頃、ケンの運動会を見に行きました。佐々木さんはあの少年と目をつけるんですね。出演者が役者じゃないことと、私がドキュメンタリー出身なので、やりやすかったと思います。撮る前に出演者やディレクターに断らずに自由にカメラを使えましたから。
 Q.当時のドラマにあきたらなさを感じていたのでしょうか?
 A.当然です。徹底的な話し合いが大事です。ときどきイヤになったこともありましたが、今思うと牧歌的な時代だったと思いますね。
 Q.ヘリ撮影がすごかったとか?
 A.全日空ヘリの若いパイロットが航空法違反の操縦をして撮影に協力してくれました。事前にこういうものを撮りたいとはパイロットに説明はしましたが。あの低空飛行はすごい技術です。四肢が操縦桿になっているような人でした。後で彼はこのときの撮影のことを書いています。
 現場は苦しかったですが、楽しくもありました。
 〔葛城氏は『夢の島少女』のヘリコプタ−撮影について書いている。〕
 Q.ご自身で映画を撮影したいと思われたこともあったとか?
 A.ありました。佐々木さんとの作品はそのような気持を満足させてくれました。
 Q.大阪芸術大学で教鞭を取っておられますが、佐々木さんの作品を紹介することはありますか?
 A.もちろんありました。ただ一部だけだったりしますから、学生は全部見たいと言います。倍の時間を取って授業をしたいと思ったことがあります。

   葛城哲郎カメラマンとの一問一答 (『さすらい』上映後)
 Q.佐々木さんとの出会いを伺います。
 A.エクレルNPRというカメラを導入してドキュメンタリーで多用していたところ、妹尾新カメラマンから同時録音を多用するので手伝って欲しいと誘われたのがきっかけですね。佐々木さんはラジオドラマでは『都会の二つの顔』や『コメット・イケヤ』で有名な作家になっていました。ドキュメンタリーからドラマに変わっていくきっかけがどうなるのかに興味がありました。
 Q.ラジオドラマでは遠藤利男プロデューサーの力が大きかったそうですが。
 A.遠藤さんと妹尾さんは名古屋にいたので親しかったんじゃないですか。ドキュメンタリーの手法で、『さすらい』は『マザー』の延長の感じでやっていました。
 〔葛城氏は『マザー』を牧歌的な作品と云っている〕。
 Q.『さすらい』で葛城さんがここは見て欲しいと思うところは?
 A.いろんなところに行ったなと思いました。ロケハン中心ですね。ロケハンが一番だいじなんですよ。土地の人を探してね。一人でロケハンしているとき、下北半島で「はみだし劇場」に会ったんですね。それで彼等が気仙沼に来る予定が分かった。そこで撮影を一人でやらせてもらった。佐々木さんも許容してくれました。あそこは僕なりのやり方で撮っています。警察官が実際に来てしまったところではどうしても撮らなきゃいけないか迷いましたが、案外すぐに帰ってしまったので、あんなかたちになりましたね。
 Q.佐々木さんは台本なしに構想して、人を見抜き、場所を選ぶといいますが?
 A.佐々木さんには人を見る力がありますね。ただの直感力ではなく、いろんなことを観察して人を選んでいきます。『さすらい』でも東北のロケや渋谷のロケ(当時の道玄坂界隈が映っている)で、普通の人が自分の職業をやっているその場所で撮っていきます。例外は笠井紀美子のシーンですね。笠井さんには三沢基地まで来てもらいました。『さすらい』のテーマ、「何かが欠けている」、そこへマグリットの大家族の絵が出て来て、ハトの姿を紙で切り抜いて芝生のヒロシの方に投げる。マグリットの絵が視聴者に分かっていないと理解できないシーンかもしれませんが、それでもある空気感を出していきます。ある時点でヨーイ・スタートではなく、いつのまにか始まって、いつのまにか終わる。
 Q.『さすらい』にはいろんな人が登場していますが、これは佐々木さんの実験意欲なのでしょうか?
 A.佐々木さんが新しい方法に悩んでいた時期なのではないでしょうか。右も左もいろいろとやってみるという。ペンキ屋から東北の旅へのさすらいは、細かいことが決っていたわけではなく、ヒロシの人生を作っていく、テーマを固めていく旅ですね。こう撮る、ああ撮るというよりも、長いカットで撮ってやっています。撮影についての佐々木さんの注文はないんです。ヒロシという主人公をどうつめていくのかが関心の中心ですね。
 Q.『さすらい』は『マザー』の続編ですか?
 A.内容とテーマは佐々木さんのラジオ時代から持っているものとつながっていると思います。
 Q.時間が来ました。今日はソウルから佐々木さんが来て下さるかもしれないということでしたが。
 〔空港から駆けつけたばかりの佐々木さん登場。みんな驚く。葛城さんと再会〕
 佐々木.いま来たばかりです。葛城さんと一緒にまた作品を創ります。
 〔観客からどよめきが起こった。インタビューは終ったが、佐々木さんの登場で会場は異様な盛り上がりになった。佐々木さんや葛城さんはロビーでいろんな方とお話されていました。私は終電が無くなるため、お二人に挨拶だけさせていただきました。〕 この日、カメラを紛失してしまった。

  7月28日『マザー』上映後は遠藤利男氏の話。
 Q.自由に語って下さい.
 A.この作品は久し振りに見て感銘深いものがありました。1964年ですから今から40年以上前、プロデューサーになりたての頃の作品です。いろんなことがありましたが、何から語ったらいいのでしょうか。上映パンフレットの1ページめに私が箇条書きで書いた佐々木作品に関するメモが掲載されていますが、佐々木作品を簡単に書くとか、文章では書ききれない、追っかけてももれてしまう、そこが大切。いい足りない。大事なことは映像にある。
 佐々木作品は映画でもテレビでもテレビドラマでもない。そういった既成の概念ではとらえきれないものを持っている。見終わってみると、心をとらえて放さないものがある。
 当時のテレビドラマは映画や演劇を追っかけていた。私も演出をやっていた人間で、企画を提案していたのだが、なかなか通らない。企画が通っても、2年に1本くらい。テレビが今までの映画や演劇から飛び出した新しい場所じゃないかと思ってはいたのですが、なにせ企画が通らなかった。局がディレクターにしておくよりもプロデューサーにした方がいいだろうと判断して仕事が変わってからは、今までにないものを創りたいと思ったんです。挑戦的で創造的なもの、心の中に深く止まっていくもの、表現の領域を狭めるものではなく、多様に文化が変わっていくもの。それを目指して佐々木君とやろうということになりました。
 よく実現できましたねという話がありましたが、許可を得るのは大変でした。佐々木君がラジオで素晴らしい成果を挙げていたことは知られていたものの、テレビを撮らしたら、はたして視聴者に理解できるようなものが創れるんだろうか、そんな不安が上にはあった。ラジオはなんとなく取っているようでありながら、実は収録に大変な時間がかかっている。それと同じ事をテレビでやられたら、いくらお金があっても足りない。
 この『マザー』がテレビ作品の最初ですね。単一のメッセージが届けばいいという作品ではありません。もっとゆるやかな、見るひとによってどこをキャッチしてもよいという。この作品以降の佐々木作品のあらゆる作品に共通する。
 私は編集にはノリとハサミがあればいいと考えています。編集に、決まりきった文法はありません。作品は彼一人でできるわけではありません。ベテランの編集者から見れば、拙いと見えるかもしれないところが、佐々木さんの特徴なのです。
 ヨーロッパのテレビ局連合EBUで、ロッセリーニが「放送における言語の問題」というシンポジウムをやったときに、この『マザー』を採り上げたのを思い出しました。『マザー』には、英語の会話がありますが、会話は成り立っていません。フランス人のクリスとの会話も成り立っていない。こういった描写は言語の本質をとらえています。ヨーロッパではそれがベケットの不条理劇の方に行ったりしますが、『マザー』はそれとも違う何かを表している。
 マザーに対する共通の想いや屈折した想い、近づこうとしながら近づけない想いも表現されています。我々にとって言葉とは何かをとらえていると思います。
 Q.(会場から)音響の側面はどうですか?
 A.音楽、言葉、映像が一緒になってモノを言っています。撮影で同時録音をしていますが、ワイヤレス・マイクを導入した初めてのドラマではないでしょうか。吐息や聞きとれないほどのコトバが重要な音になっています。コトバも同時録音していますが、そのまま使っているのではなく、つないでいます。ナチュラルに聞こえますが。
 Q.(会場から)佐々木さんはフィルム作品にこだわっていると考えていいのですか?
 A.フィルムでしか表現できない世界というのはあるでしょうね。ただ、当時のビデオ機械はとても大きくて、佐々木さんのように非職業的俳優を使い、相手に圧迫感を与えず撮るとなったら、そんな巨大な機械は使えませんよね。
 Q.(会場から)作品ができてからオン・エアされるまでの期間は?
 A.撮影自体はニケ月くらいでしょう。最初は『おはよう、ぼくの海』というドキュメンタリー的な作品だったんです。それを再度編集し直してこの作品になりました。一年間くらいはかけたと思います。
 Q.(会場から)ケンとの関係は?
 A.ケンはラジオ・ドラマ『おはようインディア』にも出ているでしょう。そのとき発見されたんです。『マザー』もケン中心にすることで取りかかったもので、ケン中心なら成り立つと思えました。
 〔本日も佐々木さんが来られていた〕

  7月29日『夢の島少女』。満員、立見席も売り止めだった。ロビーではキャンセル待ちの人、入場券をダブって買ってしまい、券を買えないお客さんに買ってもらっている人、「先入観なしに見たほうがいいよ」と先輩から助言されている若者などを目撃。観客は総勢170名くらいか。私は大スクリーンで『夢の島少女』を見るのは四回目(1976年NHK試写室、2001年多摩、2010年7月25日・29日)、テレビを合わせると15回くらい見た。今日もテレビ画面で見て来たところである。大画面で見るとテレビの小さい画面よりずっと官能性がきわ立つ。
 上映後のトークは鈴木卓爾監督と池田で、対話していたため、メモできず。池田は最初に『日曜日はTVを消せ』発刊の経緯を話した。鈴木監督の『私は猫ストーカー』がどこか『四季・ユートピアノ』を思わせること、葛城カメラマン岩崎効果マンの貢献、少年や少女への共感が軸になって感動したものの、現代の視聴者に70年代のアイテム=集団就職、都会と田舎、おとなと子供などが図式的と捕えられはしないかと懸念するという発言をした。何回もくり返し見るにつれ、冒頭の字幕の意味が重く感じられるようになってくる。なにか遺失物を探しているひとの心に訴えかけてくると思われるのだ。鈴木監督は今回の上映される四作品を観て、『四季・ユートピアノ』の完成度を称えていた。『夢の島少女』については、夢に関してタルコフスキー、人間関係に関してカラックス『汚れた血』やエヴァンゲリオンを連想したと云う。ケンに関する話の中で、鈴木さんは「疎外感」という表現をされていたが、文脈がよく理解できずスルーしてしまいました。すみません。
 「リスペクト佐々木昭一郎」企画の多摩シネマフォーラムの黒川由美子さんにお会いしました。

  7月30日『四季・ユートピアノ』上映後、中尾幸世さんのトーク。
 Q.無防備にカメラに向っているように見えますが、どんなお気持ちでしたか。
 A.かなり長い期間の撮影だったので、ゆったりとした時間でした。季節の移り変わりの中で、どちらかというと、メッセージを伝えるという気分はありませんでした。見てくださる人と演ずる役を結ぶ役割というか、そんな感じでしたね。音をテーマにした作品なので、自分にとってはあまり意識をしていなかったのかもしれません。
 Q.共演者の方々との関係は?
 A.霧多布の祖父母はきびしい自然のなかで生活している方々なので、やさしい方でした。私自身がおばあちゃん子でしたので、おばあちゃんを思い浮かべていました。とてもやさしくて、生のクジラの刺身をご馳走になったこともありました。
 宇都宮さんが著書に書かれた撮影のエピソードを紹介します。「あの青年、感じ悪いね」というシーンがありますが、その撮影のときは、佐々木さんが今日はセリフをお願いしますと、最初から変だなという感じでした、赤い表紙の日記が面白いねと云った後、手を十回くらいたたいて下さいというんです、うちのトイレには網戸がしてあり、蚊なんかいないのに変だなと思ったのですが、どうもそれは佐々木さんが宮さんを怒らせるように仕向けていたんですね。大川さんが帰りしなに「この家のピアノは古いね」と捨てゼリフを吐くものですから、「感じ悪いね」というセリフになってしまった。それがちゃんと収録されていたというわけです。
 Q.佐々木さんとの出会いを教えて下さい。
 A.佐々木さんと初めて会ったのは、(佐々木さんは上北沢とおっしゃっていますが)、桜上水の喫茶店なんです。1階がケーキ屋さんで、2階が喫茶店でした。佐々木さんは普通のサラリーマンみたいな人でしたが、自己紹介のあと、いろいろなシーンをどっと話されるんです。これはもうやらないといけないなと引き込まれてしまいました。
 Q.佐々木さんの演出面について伺います。
 A.台本はそのときその場にいて佐々木さんが作り出して、こう言って下さいと指示されるんです。佐々木さんは1回目がいちばんいいという考えで、一回目でうまくいかないと、設定を変えるんです。いったいどんな言葉で演出されていたのか思い出せないですね。
 Q.立教大学の卒論で佐々木さんを取り上げた学生からの質問ですが、録音時に意識していたことは何ですか?
 A.アフレコでは調整室で、佐々木さんが原稿用紙に書かれたものを手渡しされるんです。録音に際してことさら意識したことはないですね。映像と言葉と音が重なって三位一体となり、すごいものだなと思いました。言葉と声に意味を持たせる試みに興味が持てました。
 Q.若い人に送るメッセージをお願いします。
 A.いちばん難しい質問です。映像に関心を持つ若い人ですよね、私はふつうの人なので・・・・体に気をつけて下さいということでしょうか。冷たいものを飲み過ぎないようにして、食べ物に気をつけて下さい。最後に朗読をします。
  一歳、母のミシンの音を聞いた。
  ニ歳、父の靴音を聞いた。
  三歳、古いレコードを聞いた。
  四歳、兄とピアノを見た。大きなピアノだった。
  触ると、ダイヤのような音が おなかの中に ひびいた
 
 〔この日も佐々木さんが来られていて、檀上で制作中の映画作品について話された。主人公の少年が未確定だそうである。終映後のロビーには中尾さんと佐々木さんがおられ、サイン攻めに会っていました。終電に間に合わなくなくなるので、私は失礼しました〕

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      「佐々木昭一郎というジャンル」上映会によせて インタビュー

         取材/文:佐野 亨 協力:中野香( 2010年7月20日 高田馬場にて )
   
ラジオドラマからはじまった
『マザー』『さすらい』
中尾幸世との出会い
いつも音楽が響いている
技法ではなく方法論を

 
 2010年7月24日(土)〜7月30日(金)ユーロスペースにて開催 NHKのディレクターとして、多数のTVドラマを手がけ、いまなお熱烈なリスぺクトを受ける佐々木昭一郎監督。既存のTV表現の枠を逸脱したその独創的な世界観は、ドラマや映画というジャンルの垣根をこえて、すでに「佐々木昭一郎」という一個のジャンルと呼ぶしかない。ワークショップの有志たちによって開催される今回の特集上映にあわせて、佐々木監督のお話をうかがった。

 佐々木昭一郎(演出家)=立教大学経済学部卒業後、1960年にNHKに入局。ラジオドラマの演出を手がけ、66年に寺山修司脚本の『コメット・イケヤ』でイタリア賞グランプリ、『おはよう、インディア』で芸術祭大賞を受賞。その後、テレビドラマ部へ。『マザー』『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』などの作品を発表し、国内外の賞を多数受賞。

 
 ラジオドラマからはじまった

 ――僕が佐々木作品と出会ったのは、90年代半ば、BS2で「佐々木昭一郎の世界」という特集企画が放映されたときでした。今回上映される『マザー』『さすらい』『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』の4本もそのときに観て、たいへんな衝撃を受けたのですが、あとでじつは『八月の叫び』(95)をリアルタイムで観ていたことを知りました。

 佐々木 あのドラマを評価してくれる人は少ないんですよ。僕の作品としては珍しく、シナリオのとおりに撮った作品でね。35ミリで、110分版と90分版の2つのバージョンをつくりました。主演の大竹しのぶさんからは、僕が所属しているテレビマンユニオンを通じて、「ぜひ佐々木さんの作品に出たい」ということをつねづねおっしゃっていただいていて、『八月の叫び』のシナリオを書いているときに、ふと彼女のことを思い出したんです。
 あのなかで大竹さんがオペラを歌うシーンがあるでしょう。撮影の三日前に「これをおぼえてください」と渡したんですが、本来は相手役がある歌(編註:モーツァルト「ドン・ジョバンニ」より「手をとりあおう」)なので、彼女はそうとう練習したみたいですよ。アパートの一室でほかのシーンを撮影していると、階下から大竹さんの歌声が聞こえてきて、助監督に止めに行ってもらったこともあった(笑)。
 本番はモーツァルト劇場で、一発勝負で撮影しました。

  ――佐々木監督は、どの作品もほぼ一発撮りですよね。

 佐々木 2回おなじことをやるとダレちゃいますからね。そのときの出演者の表情とか、風が吹いていたりとか、そういう1回限りの偶然を取り入れながら、なるべくつくっていきたい。

 ――ディレクターとしての出発は、ラジオドラマですね。

 佐々木 僕の人生はすべて偶然なんです。大学へ入ったのも、NHKに入社したのも。当時のNHKの方針として、新人はまず、クイズ、落語、バラエティを勉強し、一年くらいしたら担当を割り振られていく。僕もひととおりやりましたよ。クイズ番組なんかいろんなことを調べられて楽しいし、一生これやりたいなあ、と思っていたら(笑)、ラジオドラマの演出をまかされることになった。当時27歳くらいでしたが、一本目と二本目が失敗して、次が駄目ならディレクターとしてはもうチャンスはないだろう、と。それで思いきって方針を変えたのが『都会の二つの顔』(1963)。
 文学座の研究生だった宮本信子を見つけてきて、相手役には滝野川で魚屋をやっていた横溝誠洸を起用した。 宮本研さんがシナリオを書いた二本目の『手は手、足は足』(63)では、武満徹さんと一緒に仕事をしていた本間明さん(当時、鈴木明)に音響効果でついてもらい、すべて生音でやったんですよ。そうしたらスタジオの役者の声が音響効果に負けちゃったんですね。聞いて、これは駄目だと。 だから、『都会の二つの顔』のときは、二人を街なかに出して、それを手持ちマイクで追っていくという録音方法をとった。これはとても評判がよくて、ラジオテレビ記者会の賞までもらったんですよ。
 遠藤利男さんは宮本信子の声を気に入って、当時名古屋で製作していたTVドラマ『名古屋駅前』に、彼女をラーメン屋の娘役で起用しました。

 『マザー』『さすらい』

 テレビドラマ部に移って、『マザー』の企画を提出したんですが、これが即却下されてしまった。翌年、ドラマ部のトップが川口幹夫さんに変わって、川口さんが遠藤利男さんをプロデューサーにしたんですよ。彼の名伯楽としての素質に目をつけていたのかもしれない。
 遠藤さんは僕のやりたいことを認めてくれて、『マザー』の企画を拾いあげてくれたんです。それで遠藤さんとずっと一緒にやっていた撮影監督の妹尾新さんをトップに、チームを編成しました。
 遠藤さんのすごいところは、編集を変えて2つのバージョンつくらせたこと。一つは、上を説得するための企画書どおりの作品――捨て子の問題を告発する、というテーマを押し出したもの。もう一つは、海外のコンクールに出品するために、説明的な要素を省いて、主人公の少年により重点を置いたもの。 なによりも僕はケンちゃん(横倉健児)を撮りたかったんです。そして、港の祭りを撮影するために、神戸の街を舞台にした。撮影中、ジャクリーヌ・ジャヌレイさんというスイス人の画家が個展を開いているところに偶然出くわして、言葉はほとんどわからなかったけれど、「港で絵を描いてくれませんか」と交渉して、出演してもらった。そういう柔軟なやりかたでつくっていきました。
 撮影もまた柔軟で、線路の上を逃げて走っていくシーンなどは、キャメラを放り投げて渡しながら撮影しているんです。妹尾さんは即興的な撮影が巧くて、葛城(哲郎)は移動撮影の名人だから、まさにスタッフの連携の賜物だと思いますけどね。
 それから、『マザー』は、ワイヤレスマイクによる録音をいち早くおこなった作品でもあるんですよ。放映後、今村昌平さんのスタッフから「あの音はどうやって録ったの?」と訊かれたりしました。ミキサーにとっては不本意だったかもしれないけれど、僕は悪い音もあえて使ったんです。ガチャガチャとした街の喧騒とか、クルマが通りすぎるときの雑音とか。骨董品の店でオルゴールを買うシーンなんかは、ジリジリと周囲の雑音が入ってるんですが、それもリアリティだと思ってそのまま使いました。

  ――『さすらい』は、どういう発端だったのですか?

 佐々木 最初、遠藤さんから「井上ひさしと組んだらどうか」と言われたんです。井上さんはNHKの「ひょっこりひょうたん島」を経て、当時すでにたいへんな売れっ子になっていました。僕から「兄弟をテーマにした作品をやりたい」と提案して、物語は井上さんにまかせたんですが、待てどもあがってくる気配がない(笑)。結局、撮影を遅らせるわけにはいかないから、僕が自分でシナリオを書いて、配役にとりかかりました。
 主役を決めるのにほうぼう歩きまわったんですが、横浜の外人墓地に行ったとき、ゲートのまえでバイクのエンジンをふかしているやつがいた。それが安仁ひろしだったんです。お茶を飲みながら顔つきを見ていたら、こいつはいいな、と感じてね。その足で彼のご両親に会って、出演の承諾をもらいました。すごく頭のいいやつで、「アドリブで撮影したい」というこちらの要望をすぐに理解してくれましたね。
 設定も、彼の暮らしぶりからヒントを得て、つくっていったんですよ。山手のセント・ジョセフ学院に通っていたから、教会の神父さんにも出てもらった。東京ではペンキ屋に勤めることにしよう、と考えて、神泉の近くにあった映画の看板を描いているペンキ屋さんで撮影した。
 それから、三沢にロケに行って、外国人のハウスを見てまわっているとき、基地の女を出したいな、と思いついたんです。じっさいにそういう女を探してみたんだけど、求めるようなシュールな女はなかなかいない。僕はいつもシュールなやつしか選ばないんですよ。現実に生きている人間なんだけれど、現実を超えた存在感をもっている人というかね。それで白羽の矢を立てたのが、笠井紀美子だった。彼女は当時、新進のジャズシンガーで、六本木の俳優座の近くでよく歌っていたんですよ。「基地の女を演じてほしい」とお願いしたら、「じゃあ、水着でも着ましょうか」と言うので、それはやめてくれ、と。いまはいいけれど、10年後に観直したときに、なんなんだあの水着は、ということになるからね。普通のTシャツで頼むよ、と。本当に気っ風がいい子でした。

  ――フォークシンガーの友川かずきや遠藤賢司も出演していますね。

 佐々木 友川かずきは、助監督が見つけてきたんですよ。兄とか妹とか、そういう歌を歌っているフォークシンガーはいないか、ということで。初対面で、いきなりギターを抱えて歌いはじめたのをおぼえています。彼を主人公にすることも考えたんですが、東北弁であまりにもわかりやすすぎるし、話をもたすにはもうちょっと謎を持ったやつのほうがいいな、と。友川だと個性が強すぎて、彼の記録映画になってしまう。
 遠藤賢司は、友川からの紹介です。寮に帰ると、食べるものはカレーライスしかないという設定だったので、それなら「カレーライス」という歌を歌っている男がいる、と(笑)。

  ――栗田ひろみさんもこれが初めての出演作ですね。
 佐々木 妹という感じの、目のクリクリした女の子を一人、探していたんです。当時、渋谷の西武にアンティークの店があって、そこにオールヌードの少女の写真が飾ってあった。店の人に調べてもらったら、「栗田ひろみといって、13歳の女の子だそうです」と。それで「一日だけ来てよ」と交渉したら、赤いドレスを着て来てくれた。台詞はすべてアドリブ、三時間くらいで撮影を終わらせました。 そうしたら放映後、栗田ひろみへのファンレターや問い合わせがものすごくてね。連絡先を教えるわけにはいかないし、困りましたよ。あの一年後に大島渚の『夏の妹』に出演して、名前が広まっていくわけですが。

 中尾幸世との出会い

  ――二年後の『夢の島少女』では、初めて中尾幸世さんを起用されます。佐々木さんは、中尾さんに限らず、キャスティングをするときには、台本読みをさせたりはせずに、いつも本人のところまで直接会いに行かれるそうですね。

 佐々木 僕は、役を決めるときには、放送局の会議室みたいな空間には絶対に呼ばないようにしています。NHKはいまでも新人を使うさいはオーディションで決めることが多いと思いますが、あれは意味がないし、失礼ですよ。その人が普段生きている場所、いちばん居心地がいいと思える場所に行かなければ、相手の本質はわからない。
 もっとも、『夢の島少女』のときは、それでたいへん苦労しました。当時は、現役の高校生が放送局のドラマに出るなんて、とんでもない話だったんです。退校処分になりかねない。女子学園の生徒を追いまわしたあげく、放送局に電話がかかってきて、大変な目に遭ったりもしました(笑)。なかには、その後有名になった子もいましたよ。原田美枝子とかね。ちょうど東宝の映画(『恋は緑の風の中』1974、家城巳代治監督)でオールヌードになった直後だったかな。非常にかわいかったけれど、すでに演技をつくることをおぼえていて、僕としてはピンとこなかった。
 中尾さんは、千葉で「ルネッサンス」という劇団を主宰している大川義行さんが紹介してくれたんです。教えてもらった番号に電話をかけたら、本人が出たんだけど、低い声でぜんぜん聞こえないのね。あとで訊いたら、お母さんがそばにいてあまりしゃべれなかった、ということらしい。それで上北沢の喫茶店で待ち合わせて、会った瞬間に、この子はいいな、と思いましたね。受験生ならではの鬱屈とした感じがあって、それがすごく僕のイメージに合っていた。髪の毛はオカッパで、「なんでそんな髪型にしているの?」と訊いたら、「いま、流行ってるんです」と言っていたけれど、じつはつげ(義春)さんのファンだった、ということをあとで知りました。だから、僕はつげ義春は中尾さんに教わったんですよ。「サヨコ」という役名にしたのも、そういう事情(つげ義春の「紅い花」に登場する少女の名前が「キクチサヨコ」である。佐々木は、75年に同作をドラマ化。サヨコ役は沢井桃子が演じている)。それで「ご両親に会いに行ってもいいかい?」と訊いたら、「やめてください」と。「私一人で責任を持ちます」と言ったんですね。
 冒頭の川のシーンは、秋田の八森で撮影したんですが、その最中に中尾さんのご両親にバレてしまった。お母さんが電話口で「幸世みたいなものが……」と泣いているので、「みたいなものじゃないですよ。素晴らしいですよ」となだめて。撮影を終えてから、東京のご自宅まで謝りに行きました。お父さんが大工職人で、彼女のことを理解してくれていたので、なんとかお母さんにも納得してもらえてホッとしましたね。

  ――その後、中尾さんを主演に『四季・ユートピアノ』、そして「川」三部作(『川の流れはバイオリンの音』『アンダルシアの虹』『春・音の光』)をつくられるわけですね。

 佐々木 今回上映される4本のうち、『マザー』『さすらい』『夢の島少女』までの3本は、一言でいえば「若気の至り」。若さにまかせて、けっこう無謀なことをやっていたと思います。だからこそ、思い入れもあるのですが。
 『四季・ユートピアノ』は、そういう意味で、かなり戦略的に、海外での評価などを意識してつくった作品でした。本当は、中尾さんとはこれ一作で終わりだろう、と思っていたんです。ところが放映した段階で次の作品を撮らなければならなくなって、ちょっと強引につくってしまったのが『川の流れはバイオリンの音』(1980)だった。いまとなっては、中尾さんに頼りすぎちゃって申し訳なかったな、という気持ちもあります。裏を返せば、そういう出演者がほかにいなかったということなんだよね。
 中尾さんは、立ち居振る舞いが自然なんですよ。演技をつくってしまうと、ああいう歩き方はできない。いまのドラマを観ていると、ファッションモデル出身の女優さんが多いけれど、どうも面白みがない。撮影となれば、事務所や広告代理店がみんなついてきちゃうから、本人もすごくつっぱった演技になってしまう。 僕の考える演技というのは、記録映画の延長上にあるんです。中尾さんにしても、安仁ひろしにしても、みんな演技をしながら、ほかのことを考えているような顔をしている。そこがいいんだよね。人間ってそうやって生きているものでしょう。飯を食わなきゃいけないとか、家族とどう向かい合うべきなのかとか、それぞれの人生を背負っている。そういうことがにじみ出てくるような人がいいんですよ。

 いつも音楽が響いている

  ――著書『創るということ』のなかで、「映像のあとから音響効果を考えて音を探してくるのではなくて、映像にとりかかる瞬間にはすでに私の頭脳の中で一つの印象的な音が音楽性をともなって鳴りひびいている」と書かれていますが、音響効果も含め、佐々木作品は、最も本質的な意味で「音楽的」な作品といえるのではないかと思います。
 佐々木 漠然となにかに詰まったときは、音楽を流せば解決する、というのが僕の考え方なんですよ。私にとっての音楽は、特定のメロディだけではありません。音響、声、雑音。それらを僕は音楽と認識しています。
  『マザー』のときは、音響の織田(晃之祐)が口笛が上手かったので、それを利用したんですね。
  『四季・ユートピアノ』で使ったマーラーの「交響曲第4番」は、クラシックの記者をやっていいる僕の弟の部屋から、ある日、聴こえてきたんですよ。まったく偶然に。
 それから、『夢の島少女』の「カノン」は、NHK-FMがまだ本放送になるまえに、一日じゅう垂れ流していたのが印象に残って、レコードを買いに行きました。そうやって次の作品には絶対にこれを使うぞ、と考えるわけです。 僕はとりたてて上等な音楽体験はもっていないけれど、音楽を聴く耳に関しては子どもの頃からわりと自信があるんですよ。クラシックでも、一回聴いたらおぼえてしまう。その音感を頼りに、いままでやってきたのかもしれません。

  ――喜んでいるときにはずんだ曲をつけたり、悲しいときに悲壮な曲を流したり、そういう音楽の使い方は「論理武装」でしかない、という言い方もされていますね。

 佐々木 ラジオドラマをやっているときは、湯浅譲二さんや林光さんと仕事をしましたけれど、彼らは変な劇伴音楽はいっさいつくってきませんでした。登場人物の感情や台詞をなぞるようなね。そういうのは非常に軽薄だと思う。
  『夢の島少女』で「カノン」のアレンジをお願いした池辺晋一郎さんとも長い付き合いです。30歳のとき、NHKの先輩だった吉田直哉さんに引っ張られて、「明治百年」というドキュメンタリー番組をつくることになり、僕は「西洋音楽」のパートを担当したんです。そのとき、武満徹さんが推薦してくれたのが池辺さんだった。池辺さんは、武満さんの言葉を借りるなら、「エクリチュール」を持っている人。文学でいう文体ですね。 劇伴音楽を手がける人は、自分の音楽で作品全体を支配しようとする人が多いように思いますが、武満さんや池辺さんはそうではなくて、音楽と映像がどのような関係にあるのかをきちんととらえている。

 技法ではなく方法論を

  ――佐々木作品は、ときに個人的な要素が強い、「私ドラマ」というような言い方をされますが、監督ご自身はそれについては否定的なんですね。

 佐々木 「私ドラマ」という呼び方は適当ではないでしょう。僕はなにかを私物化したり、私事に落とし込んだり、私的関係に終始したり、「私」のなかだけで片付くことが嫌いなんです。それはすごく単純なことで、シナリオを書いてみればわかるんですよ。「私はいま、○○さんと笑いながら話をしています」という文章は恥ずかしいでしょう。ところが、これを「彼は〜」で書いていくと、あまり恥ずかしくない。つまり、紙の上で「私」という一人称が三人称にトランスフォーメーションする。その三人称の世界にこそ真実があり、作家はそこで苦しむべきなんですよ。TVドラマの脚本家は、どうもそういうところが甘い気がする。連続ドラマなんか観ていても、主人公が自分のことばかりずっとしゃべっている。他人の人生を描くときに、そんなにつるつると言葉が出てくるわけはないんでね。作家のなかだけで自己完結しているから、深まっていかないんじゃないかな。

 ――技法ではなくて、つねに方法論について考えている、ということもおっしゃっていますね。

 佐々木 僕は、技法を確立することには興味はないんです。方法論について考えることは、毎回、一つの戦争であって、それはキャスティングについても音楽についてもおなじ。手持ちキャメラでドキュメンタリータッチでやります、ということが先にあるんじゃないんですね。あらゆる技法は、佐々木昭一郎というジャンルをつくるための方法にすぎない。と、今回のタイトルに沿うかたちでまとまったかな(笑)。

 
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