日曜日にはTVを消せ 目録


フィクション・テレビ・フィルム   
  ドラマ「夢の島少女」制作メモから
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  葛城哲郎   (ページ作成者は池田博明)
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水平線の彼方  葛城哲郎
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fiction TV film
     フィクション・テレビ・フィルム
      ドラマ「夢の島少女」制作メモから   

            葛城哲郎      
 「映画テレビ技術」1975年8月号,276−26〜276-30
  この番組は,時代が,そして,人々が,「捨てている」ものの中に,形而上的な因果関係を求めた演出者の空想から生れたものです。それは,都会の波の中で,誰も目にともようとしない,汗を流し呼吸するある少女の孤独と絶望の「記憶」の中に,「その生きながら死んでいる」少女の再生と再び訪れる「死」の中に,そして少女と少年の「出会い」と「愛」の中に収斂される「失くしてしまった,いちばん大切なもの」への永遠の追求とでもいったものです。
    「番組解説用パンフレット」から


 演出の佐々木(昭)ディレクターと台本担当の鈴木志郎康氏が"ちょっと話があるから"と顔を出したのは,NHK放送センター10階にある,狭苦しいフィルム編集室の一室だった。昭和49年2月,そのとき私は,明るい農村"村の記憶"−睦合出稼ぎ年表−という番組の編集に没頭していた。
 少女の身売り,出征,出稼ぎという形で,村を連れ出され,引き立てられ,大都会に吸い込まれた挙句,二度と再び,生きて故郷の土を踏むことのなかった農民の歴史を,"年表"という形式で記録し,かれらをこのような運命に追い込みつづけているものへの告発と抵抗の文集としてまとめ上げた,一中学校教師と,その文集が番組のモチーフとなっていた。
 番組は睦合村在住の女子高校2年生を"かたりべ"として登場させるとともに,年表追跡の中に彼女自身のイメージをダブらせていくという構成方法をとり,さらにトークのほか,詩,わらべうた,音楽などの音声テープも同時にダブル編集をしていったために,その作業は,かなり"腕力"のいるものであった。
 しかし私は,担当ディレクターの真しで粘り強い態度に牽引され,番組のイメージにあまり強く結びつけられていたので,ドラマの打合せに現われた二人の話を聞いていても,このドキュメンタリー番組の続編をつくるような気分を変えることができなかった。デフィレクターが少女について語り,台本担当者が東北の風土について語った,ということもあるかもしれないが,それは,ごく自然な成行きなのだった。
 テレビ局で働いているフィルム・カメラマンとして考えてみると,こうした経験は,別に珍しいことではないと思う。むしろ私は,この気持ちを持続し,ドラマへ持ち込みたいとさえ思っていた。私は"次の仕事はドラマだ"と気持ちを切りかえて,下見や顔合わせ,衣装合わせといった,テレビ番組作りのスケジュールに従った型に引きづりこまれることを恐れていたのかもしれない。"いわゆるドキュメンタリー・タッチ"のやせ細ったリアリズムや,滑走路のように聖序された快感はあっても,見事に自己を塗りこめた,汚れなきドラマ,登場人物の緊張関係を強調するあまり,ストーリィの劇的展開がどうなるかということへ,結局いってしまうドラマも乗り気しなかった。もっと自分の気分をササくれ立たせることによって,カメラマンとしての感性のしなやかさ,のびやかさを,充分に私の肉体に満たしておきたかったのかもしれない。
 もちろん私は,同じ演出者と体験した2作「おはようぼくの海(マザー)」(昭和44年),「さすらい」(昭和46年)を意識している。しかし,"テレビに適した方法"というコトバが待ちうけている陥穽にはまることだけは,絶対に避けたいと,かたくなに心に決めていた…・。

   少女を待つ間

 ともかくロケハンをはじめてくれ,という指令が出たのは,三月初旬だった。出演者は決定していなかった。脚本も未完成で,私の知らされていることといえば,少女,夢の島−東京,そして東北のどこか,ということだけなのだ。夢の島は,他の番組でも何度も行ったことがり,掌を指す様に承知している。ためらうことなく,私は東北へ向うことにした。また"村の記録"の上田ディレクターから,「睦合村から更に北へ行ってみてはどうか,いわゆる北秋へ」と提言され,大館,能代,五能線経由で弘前までを予定して,3月14日,上野駅をひとりで出発した。
 大館周辺の小坂鉱山,花岡鉱山を手はじめに,能代から八森町まで行ったところで,五能線を下ってきた演出補と合流した。私たちは,いろんな人と会い,数多くの場所へ出かけたが,いつの間にか八森町,そして五能線沿いの海岸の風景に,すっかり心を奪われており,夢の島に対置されるべき現実の土地として,いつの間にか自明となっていた。山は大きく海岸線にせり出す。細長くどこまでも続き,途切れては現われる集落。トンネルや鉄橋で,かろうじて縫うように走っている線路。海岸の黒い砂と漁具小屋。斜面にしがみつくようにして,いたるところに立つ墓石。漁期を過ぎて,静まりかえっている小漁港,その突堤に立ってふり仰ぐと,古電池分解工場の煙突から,ゆっくりと黒い煙が立ち上がっている。
 鈍色の海と灰色に沈む集落の大ロングを眺めつつ,私はようやく溶けはじめた雪の下から,畑に埋められたはずの大量のハタハタの残骸を見つけている。
 踊りの好きな老女や,中学校のバスケット・ボールの選手とも顔見知りになり,細い路地も歩けるようになった。これはシナリオに基づくロケハンではなく,シナリオのための取材でもないのだった。演出補は,もしここでロケが行われる場合に備えて,いろいろな手を打っているようであった。
 「少女を待つ間」私はこうして,演出者の演出方法に十分対抗できるように,私なりのやり方で時を過ごした。佐々木ディレクターの作品では,台本の設定にふさわしい場所を探してくるのがロケハンではない。
 彼はあてはめることをしない。人間でも土地でも,何かを発見すれば,そこからはじまるのだ。従って,八森町では何がどう起こるか予定できない。演出補の努力の大部分は水泡に帰すかもしれない。しかしともかく,演出者と出演者の間に何かが起こった時,私は間髪を入れず,それを記録しなければならないのだ。
 「一回性でしかとらえられない出会いの一瞬のきらめき,そこで交される,さり気ない言葉,人が確実に生きているという息づかい,それらをすくいあげることが,われわれの最大の目的であった。それはカメラとの出会いであり,スタッフとの出会いでもあった。こうしたわれわれの感覚が,どう伝わったか−それは窓の向こうに,つまりノゾキからくりの向こう側に,想像する世界を持っている視聴者だけに伝わる感覚だと思う…」
(昭和47年3月29日 読売新聞 佐々木昭一郎<さすらい>の世界)より。

 前回のドラマを,こうして総括した演出者は,次に少女を主人公とし,詩人を共同作業者に引き入れることによって,既成のドラマへの疑問を洗い直しているはずであった。ラジオ・ドラマ(昭和38年"都会の二つの顔",40年"コメット・イケヤ",41年"おはようインディア")以来,過去に結実した番組の方法論を超えて,スタッフの出会いの一回性,送りっ放しの放送の一回性に,大胆にも,さらに一歩踏み込んだ展開を意図しているようであった。  主人公の少女を探し出すのに,ふたりが大きなエネルギーを注いでいるのを見ても,私には油断のならぬことであったのだ。次にロケで八森町を訪れる時には雪は消えているだろう,あの発電所の廃屋と中学校の背景を大きく占めている山は,一面の新緑におおわれているはずだ。八森町を去る日まで,私は少女の幻影におびえながら,再現のない想像をめぐらしていた。

     「息裂けよ 少女」

 帰京してみると,案の定,少女探しは続けられていたが,スタッフは次第に集結しつつあった。各自の持ち寄った資料(人物,場所,技術上の問題点から,番組の考え方など全て)は提出され,討論された。
 スタッフは,演出,演出助手,台本,美術,効果,録音(2名),撮影の計8名,ポイントになる打ち合わせには,制作担当管理職が必ず出席していた。
 幾人もの少女が,現われては消えた。主人公となるべき生身の少女は,未だスタッフの前に姿を現していないというのに,内容については煮詰められていくということは,かなり危険を伴うことはたしかである。演出者のドキュメンタリーの方法への強い関心を思えば,なお更のことなのだ。
 文章に表現されたストーリィやせりふの意味が,人間対人間,人間対物の関係を,即時的にブラウン管の中へ映し出すという錯覚からは,スタッフは解き放たれているはずであったし,演出者のイメージするものが,結局は番組を支配していくということの意味もまた,あいまいにしておくことなく,製作過程の中で,スタッフ自らが明らかにすべきことであった。
 かくして,演出者と台本担当者に対する他のスタッフの関係は明確であった。この番組のために確保されたフィルム編集室をアジトにして,私たちは連絡をとり合い,打ち合わせを重ね,可能な限りの準備をしていた。しかし,「少女」が現われてくれないことには,何も始まらないこともたしかなのだった。
 4月から5月にかけて,初稿にもとづく予備的な撮影のために少編成のスタッフで東北を旅したある朝,私は早起きしすぎたのを悔みながら,洗面所から自分の部屋へ戻ろうとして,ジーンズに長髪の少年が,ドアをノックしているのを発見した。こんな早朝に,といぶかしく問う私にふりむいたのは,まぎれもなくケン,横倉健児(17才)(44年"マザー"の主人公)だった。夜行列車で今着いたばかりだということ,高校は中退していること,何か手伝うことがあれば,ということなど,照れ臭そうにしゃべっていた。彼とは6年ぶりの再会であったが,佐々木ディレクターが彼を相手役として選んだことは明らかだった。ケンは他のスタッフともすぐに打ち解けていった。
 私には,ケンの無邪気さ,純粋さは"マザー"のころと少しも変わっていないように見えたが,何かしら,こわれやすくナイーブな17才の彼は,すでにひそかに「少女」が選ばれていることを直感させた。
 それは,完全に納得のいく少女が立ち現れるまでは本格的な撮影は始まらないだろう,期限までに彼女が現われなければ,製作は中止となるだろう,もう代役はきかないのだから,ということであった。
 佐々木ディレクターと鈴木志郎康氏が,駅のホームや女学校の門の前で,あてどなく少女を探した時は過ぎて,今や,誰を選ぶかが全面的に佐々木ディレクターにゆだねられていた。彼の一挙手一投足に息を呑む思いで待つうちに,「息裂けよ 少女」と仮題された決定稿台本が上っていた。
 ロケの現場では,ズボンのポケットに突っ込み,時折り取り出してはチェックする,といった体の台本では,これはない。もとより,そのような意図に沿って書かれたものではないからだ。時空を超えた,不思議な少女の旅の物語である。基本的な状況設定や,人物の動きは,打ち合わせの結果が生かされていた。
 オール・ロケは既定の方針だったので,台本に従って,ロケ地の必要な交渉や,大まかなスケジュール作成は,すでに終っていた。しかし,それらは何度も組かえられた。息裂けそうなのは,少女でなくスタッフの方であった。

    「小夜子

 5月27日,見切り発車のロケ開始。人形工場他。28日,ついに「少女」の出現,全スタッフと会う。
「私は,出会った瞬間に,この番組の中に在る,ほとんどのシーンの状況設定を考えつきました。  このような体験は,これまでの作品では,全く考えられなかったことです。(略)私は,これまでの経験の上に立って,彼女に,どのような状況を設定すればよいのか,その可能性の大きな事を直感的に判断しました。(略)赤いワンピースの少女が,ある日突然,東京の町に現われて,人々の間を点在し,夢の島に消えていく−という私の中にあった甘いセンチメンタルな空想を捨てて,まだカメラとマイクによってとらえられたことのないこの少女を,アルプスの少女ハイジやシンデレラのような美しいばかりの永遠の少女ではなしに,この東京の荒波の中に放出され,コミットされていくプロセスをとらえることによって,中尾さん自身の中にある,開かれない,故に"透明な魂"といったものをくっきりと描き出したい,と考えたのでした」
(番組解説パンフから,佐々木ディレクターの文章)。

   <少女>は,撮影期限ぎりぎりに姿を現した。ジーンズにお下げ髪の,中尾幸世さん,17才,高三。いよいよはじまりである。私たちは雪崩れをうって撮影に突入した。
 小夜子とケンと,演出者を遠まきにし,ある時は接近し,ワイヤレスマイクと同時録音カメラを手がかりにして,日に夜をついで撮影した。
    第1回 東京 6日間
    第2回 秋田 8日間
    第3回 東京 9日間
 スタッフは自分の趣味にかかわっていることはできなかった。盆栽いじりをしているわけではないのだった。自己のアリバイをつくる,余裕も必要もなかった。私は,いままでこのように早く走ったことはないが,それが可能だったのは,多忙なテレビ局のフィルム・カメラマンとして,己の肉体をそのように馴致させてきた結果では決してない。

       「スタッフについて」  
 佐々木「今度の主役の中尾さんは,この正月から探し歩いた約300人の中から,自分で選びました。(略)その時に「夢の島少女」の構想も決まった。そのため,鈴木さんの台本も即興的に,どんどん変えていってしまったわけですが…」
 −「鈴木さん,その間の"事情"について」
 鈴木「面白かったですよ。演出は具体的なものであって,途中で新しい要因が入ってくるわけですから,演出者によって台本が改変をこうむるのは当然だと思いますね。(略)」
  (昭和49年7月10日 毎日新聞夕刊より)

 演出者は,書かれたコトバを出演者との関係の中で洗い出してこそ,現実の生きた断面を切り取っていけるのだという強い姿勢に貫かれている。従って彼が呼吸しあえる近さにいない出演者は信じないし,また呼吸しあうためには,いくらでも時間をかけるのだ。スタッフは忍耐づよくその瞬間を待ち伏せしなかればならない。ある時は,その瞬間は怒涛のように押し寄せまたある時は,唇のわななき,瞳の一瞬のかげりさえも捕捉することを要求する。演出者の関心は,生きざま,そのものであって,ストーリィの背後に隠されている黒々としたものを引き出したとたん,具体的な少女の運命は切り捨てられてしまうのだ。しかし,演出者は,映像をストーリィの文脈から切り離そうとし,一元的,固定的なものではなく,自立したものとして存在させようとしてきた。従って,この番組に参加したスタッフは,演出者のイメージの運び屋であることによるアリバイは成立しないのだ。これまでのスタッフの関係との相違は,ここにある。スタッフと出演者との関係もまた変化し,全体がゆるやかな,ひとつのまとまりを示しはじめるとき,演出者への服従という関係は消滅する。

    空中撮影
 「(略)今回の飛行で,私が最も感動したのは,人間を撮るための低空飛行だからでした。先ず少年を紹介され,ついで少女を紹介され,私はいっぺんに二人と仲良しになりました。永いパイロット生活で,出演者を紹介されたのは,はじめてのことでした。「少年が少女を背負って夢の島を歩くのを出来るだけ低空で撮りたい」と言うカメラマンの要求を聞いて,私は,この制作者たちが何をしようとしているのか,その意図をいっぺんに理解することができました。私は,操縦桿に念力をこめて,地上50センチから30センチの低空に耐えました(略)」
          (全日空パイロット 畝本宣伊氏)

 KH−4にエアロビジョンを搭載しての撮影は,25分間で終ったが,あのローターが風を切る音には,抗い難く浮き足立って,ラッシュを見ては後悔するのが常なのだが,畝本パイロットにリードされて,ここでは十分所期の目的を果たすことができたと思う。
 ロケも終りに近く,悪天候が続いて,私は焦っていた。しかも重要なラスト・シーン,空港の進入灯が,すぐ近くに見えるし,テストでは,ゴミや板片が激しく舞い上がっていて,私は不安だった。しかし夢の島の空間は,正に,彼と彼の手足のように動くKH−4のために存在させられているかのようなのだ。
 ヘリは上昇し,カット!!OK!!のサインを送った時彼はうなづき,微笑みながら下を指さした。赤いドレスの少女を背負った少年は,よろけながらもまだ一心に歩いていた,私は四肢の延長として,このようにエネルギーを効果的に集中して機械を操る人を,まだ見たことがない。

     「クランクアップの日」
   ある日,あるとき,ある日曜日の朝,
   ひとびとは,深い眠りの中にいます。
   ひとびとは,思い出そうとしています。
 − 失くしてしまった,いちばん大切なものを ――  
  (放送台本から)

 6月29日,雨。朝まだきの渋谷,街を放浪する少女を撮影して,すべてのロケ予定が終了した。  少女と演出,録音,撮影の3人のスタッフは,開いたばかりの喫茶店に入っていた。
 少女は,じっとりと濡れた濃紺のワンピースが,自然に乾いていくのを待つかのように,静かに椅子に腰を下ろしていた。撮影は終った。これで私たちの責務の大半は果たせたのだ。しかし,私たちは長時間ドラマのクランク・アップにふさわしい,解き放たれた,明るい挨拶を交すこともなく,また「お疲れさん」と,ほかの誰かから声をかけられることもなく,追い詰められた四匹のネズミのように,黙りこくって,熱いコーヒーをすすっていた。  

 ちょうど1年後の今,私は,神戸市生田区諏訪山上にある,「ヴィーナス・ロード」と呼ばれる,展望用遊歩道にいる。須磨,垂水の山稜から,中突堤とポート・タワーが,背景に白い船群を従えて,ぐぐっとせり上がるように迫って見える。貿易センター・ビルと組んで,神戸大橋,ポート・アイランドが,見事に構図に収まっている。
 私は10月から始まる,朝のテレビ小説「おはようさん」のフィルム・ロケに来ているのだ。若いふたりの,ほのかなふれあいのシーンである。32才の演出者は,27才の演出補とたがいにコンテをたしかめあって撮りすすんでいる。私たちはこの山へ上る途中ですでに21シーンを撮ってきた。港のシーンは,昨日の夕方撮り終えていえう。インサート・フィルムということもあり,私も気楽なものなのだ。
 私の眼前には,6年前に担当したドラマ「マザー」の,ほとんどの現場が手にとるように見えている。
 「マザー」「さすらい」「夢の島少女」まで,今思えば,そのときのすべての時間は停止して,私の会った人々の優しさだけが漂ひ出してくるようにみえる。私が通ってきたのが,素晴らしいフィクションの世界だったからであろうか。
 《使用機材》
 カメラ:アリフレックス 16S     
     エクレール NPR
 レンズ:アンジェニュー 5.9mm    
     シネゴン  10mm  
     アンジェニュー 12〜120mm ズーム
     アンジェニュー 12〜240mm ズーム
 フィルム:EK7254     

水平線の彼方
   水平線の彼方
  葛城哲郎氏インタビュー
     
(1985年3月12日)
 三月上旬,NHK大阪で,葛城哲郎氏にインタビューをさせていただき,大変興味深いお話を伺いました。ここに,その抜粋を掲載します。  葛城氏は,「マザー」「さすらい」「夢の島少女」「川の流れはバイオリンの音」「アンダルシアの虹」の撮影を担当し,最近ではNHK大阪制作の「安寿子の靴」のカメラも回しています。( ピッコロ・フューメ ,佐々木昭一郎作品上映会パンフより)   佐々木さんはこの世界で異色の人です。自己の芸術的欲求を徹底的に追求していますね。つまり企業の論理と矛盾したことをやっているんです。個人,個性を認めないという力学が本質的にテレビには働いていますね。そのなかで,彼のような態度を貫き通すことはなかなかできないことですよ。もう十年一日の如くスケジュールに従って,スターを使って有名なライターを使って,視聴率00%と,計算どおりにできますからね。演出を何人でやっても関係ないです。そういうドラマ作りをやっている中では,やっぱり異色ですよ。そうじゃない,こういうこともテレビでやれるんだ,ということを示した点でも佐々木さんの功績は大きいと思います。


 彼の純粋な芸術的欲求のあくなき追求というロケの状況についていえば,スタッフとディレクターの関係も又,通常のものとは変わったものになっています。要するに,現場では佐々木さんの頭脳の中に,スタッフが吸い込まれる。(言うとおりになるというのではないんです)佐々木さんの発想,中尾さんへの語りかけ,回りの人間への即興的演出に対して,スタッフが自分の技術をどういう風に,(強い言葉で言えば)いかに対抗して,表していくかということ,サイズ・アングルとかの既成の作法に従った技術ではでくて,自分白身をそこに投影しなくてはならない。だから気が狂いそうになる程しんどいですね。つまり,一種,独特の狂気の集団として,スタッフが渦巻いてゆく。
 ですから普通のテレビドラマの作り方とは,根本的に違うわけです。通常のテレビドラマの場合,スタッフが監督から逃げようと思えば,心理的に外を取り巻いていれば可能なんだけれども,佐々木さんの場合にはそれか許されない。ここが付き合うスタッフのしんどいところでもあり,彼のすごいところでもありますね。

 『四季』は,それまで撮ってきた作品が,エチェードだったんじゃないかとおもわせる完成度の高いものだと思います。『夢の島少女』で,中尾幸世さんは,高校生の顔と同時に,東北のロケ現場では,彼女白身の虚構を生きている。そうなんだけれども,撮っているのは東京都世田谷区に住んでいる高校ニ年生の中尾幸世白身なんです。現場の風景の中でその辺のズレをどう生かして演出するかが,佐々木さんの一種のテクニックですね。映像作家としての表現方法として,優れているところじゃないかなとおもうんですよ。

 この『夢の島少女』では,そういうところで,佐々木さんはふんぎりがついて,はっきり虚構を背負った少女として中尾さんを演出して,『四季』へ雪崩れ込んだんだな。だから,『四季』の完成度の高さはそういうところにあると思いますね。『マザー』は佐々木昭一郎の方法,それに対抗する撮影ということからすれば,非常に牧歌的な作品です。よくいえば純粋な,つまりは単純な,ただ人間と人間の出会いのもつ面白さかドラマになる,ということに着目して,出発している,それか『さすらい』になると,ちょっと違ってきていて,もっと意識的にサーカスだとか入れて,その少年はもっと明確な過去を持っていて,「どこかにいるはず」の姉さんを捜している。『夢の島少女』になると,完全に虚構の主人公ですね。このように,彼自身の方法論を否応無く展開していった,いうなれば自己の作家的資質を自ら追い詰めつつ,という気がします。

 彼は音をものすごく大切にする人で,むしろ,それだけで勝負しているところもある位で,音と響きあうカットを沢山撮り揃えておかねばならない。それに,中尾さんが面白い動きを見せたり,彼がひらめけば,どんどん撮る,そのカットはどこへくっつくか分からないけれど,生きている細胞として撮るわけですよ。死んでいては駄目なんだ。生きていればこそ,それが巧みに編集されて面白くなる。佐々木さんの方法論からして,そのように撮られた素材は必ず意味があり,豊富なほどいいのです。ただ,ドキュメンタリー的に事実をコピーしてゆくというやりかたじゃないんだ。だからいわばカメラマンのくそカがいるわけです。彼の作品はフィルムを使っているから,モニターがない,勝負するのはその場の気分なんです。しっかりカメラが動いている限りは何かがとれている。何かが必ず映っているはずだ,だからそこだけで勝負する,従って佐々木さんにとっても,カメラマンの個性は非常に重要な要素だと思うんですよ。『夢の島少女』で,一応佐々木さんとの関係はある程度行くところまでは行った,というのはおかしいんだけど,このままでは(国内でやる方法では)行くところまできた,という感じですね。最初の頃は,極端にいうとNGなしですね。フィルムを回している限り何かは映っている。それを編集で最終的には作っていくというやり方ですが,外国篇では台本が出来てきて,勿論,基本的には彼の演出の根幹である即興は変わらないですが,台本とそれに基づく発想に,現場の状況を合わせていくようになりましたね。

 僕はあまりにも佐々木さんとつきあいすぎていて,だいたい引き出しが揃っているから,ああこの引き出しだ,っていってあけてすぐ撮るから,僕とやっても彼にとってもためにならないですね。ですから,ドキュメンタリー出身のカメラマンとしての僕の役目は終わったということです。
 今度『春・音の光』を撮った中野君という人は,僕とは全く違ったタイプのカメラマンですけど,『春・音の光』はまたちょっと違った感じで仕上がっていて,佐々木昭一郎はやっぱり天才だなと思います。

   日曜日にはTVを消せ プログラム
    佐々木作品資料

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