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 作成者・池田博明


   佐々木昭一郎さんとのQとA RESPECT 佐々木昭一郎   上映会パンフレットより 

  第11回映画祭 TAMA CINEMA FORUM
   2001年11月25日(日) 永山公民館5階 ベルブホール
  13:00 14:15  夢の島少女
  14:30 16:00  四季 ユートピアノ
  16:20 18:50  トーク(途中、川の流れはバイオリンの音) 
▼佐々木昭一郎さんとのQ&A 上映に先立ち,20の質問にお答えいただきました

  【パンフレットの誤植等を訂正しました。
  また,佐々木昭一郎氏の原稿による追加が色文字であります(池田記)】

▼Q1 産まれてからの記憶で、最初に覚えているのはどんなことですか?
 A@ 母親の鏡台と口紅(資生堂1号と呼んでいた)
 Aピアノを弾く母親(木造家屋。8畳間。母の嫁入り道具のカワイのピアノ。その上には父が1920年代にパリから持ち帰ったシャンパンの小ビン。我が家に最も目出度いことがあった場合に皆で飲もうと決めていたが、1970年代のある日、弟が突然飲んでしまった。母は嘆いた)。
 Bビゼー「カルメン」序曲のSP盤(5歳の私の背丈大の電気蓄音機がその8畳間にあり、私は毎日カルメン序曲をかけた。戦争が始まると桑野道子の歌やベートーベンを母はかけた)
 C母が妹を抱き、その脇で弟と私が川を見ている(近くの目黒川)、夏の日ある夕刻。  これらの記憶を母の声とともに思い出す。これらが一体何歳の時の記憶なのか判然とせず込み入る。

▼Q2 日本で一番好きな場所はどこですか?
  A 東京都世田谷区北沢2の186 (質問1の我が家。今は代沢3と名が変わった)。もの心つくとこの住所を丸暗記し(母親による)、セタガヤクキタザワニノイチハチロクと、父が死んだ時はこの住所を棒読みし駅長に伝え…しばらく記憶をなくした。

▼Q3 今、行ってみたい場所はありますか?
  A プラハとアンダルシア(グラナダ、コルドバ、セビリアなど) いずれかに安住したい。

▼Q4 今、一番欲しいものは何ですか?
  A 絶対に欲しくないものがある。権力だ! 所詮スターリニズムに過ぎぬ。家、書斎、書庫なども要らない。「omnea mea porto a cum (私は持てるものの全てを、持ち運ぶ)」と、私は心臓と頭を指さす。プラハの親友ズデネク・ストロベックから教わったラテン語の格言。

▼Q5 今、最も興味のあることは何ですか?
  A 「隣のジャンとマリーを殺してやりたいほど憎い。だからといってフランスとフランス人を全滅させようとは思わぬ」と考える権力者が、地球がなくなる日までに現れたら、私は100年後、母親と腕を組みモーツアルトを聞きに出かける。

▼Q6 この30年を想う時、一番に思い出すことは何でしょう?
  A 母が事故死する前、カメラマンの吉田秀夫が歩けなくなった母を見舞いに来てくれた。私は母の手を握り「百まで生きよう。それで俺と結婚しよう」と母にキスをした。母に触ったのは生まれてこのかたこの時が初めてで、母は80を越えていた。(戦時中の悪しき美徳によるのか、私と母の間にスキンシップはなかった。) 先月、編集の松本哲夫の結婚式で吉田秀夫と会った。彼は「佐々木さん、あの時お母さんは嬉しそうだった。親不孝じゃないと思うよ」と慰めてくれた。母に何も告げずにロケハンやシナハンに出て何ケ月も帰らないことが年中続いたのだ。大の親不孝だ。

▼Q7 今の佐々木さんが30年前の佐々木さんに会ったら、何と声をかけますか?
 A 私が生きた時代を私は私が作品を創った時代とともに思い出す。30年前1971年は処女作「マザー」を出した年だ。30年前の自分に声をかけるなら、こうだ。「お前、<作家が最後に創るべき作品を最初に創ってしまった。これからが大変だね>と遠藤利男が言ってたぞ!」(遠藤利男は処女作「マザー」のプロデューサー) 

▼Q8 今の時代に生まれたとしたら、何をしていると思いますか?
  A 同じ仕事をするが、今より数倍の作品を創る。ただしリメークではない。しかし、まず母を私の作品のロケ地に案内する。父が10年もいたカルチェールラタンで母と永住する。

▼Q9 佐々木さんにとって「家族」とは?
  A 家族とは「青い鳥」と同じだ。永遠に探し続けるものである。

▼Q10 映画を創りたいと思ったことは?また、創らないかという話はありましたか?
  A 創りたいと思ったことはあるが、切実に考えたことはない。
  話はあったが、私が切実でないから相手も萎えてしまった。ラジオとテレビが相手で目一杯だったのだ。

▼Q11 最近ご覧になった映画で面白かったものは?
  A 是枝裕和「DISTANCE」。彼は常に新しい!
 TVフィルムドキュメンタリーでは工藤敏樹「和賀郡和賀町」「富ヶ谷国民学校」。
 萩元晴彦「小澤征爾第九をふる」「あなたは」 いずれも再放送。

▼Q12 今のTV番組をどう思いますか?
  A 肥満が問題。演技マシーン(存在してみせることにかけて感受性不足)が問題だ。つまり充足し過ぎ。全てに余剰である。

▼Q13 日本のジャーナリズムについてどうお考えですか?
  A 新聞は署名入りにすべき。それにより欧米と肩を並べる。
 映画ジャーナリズムにおける竹中労やドナルド・リチーがTVにも現れることを望む。
 放送(ラジオ/テレビ)番組の歴史をとらえた決定的書物がない。埋没、無視、弾劾、死蔵番組を赤い絨毯番組とパラレルにとらえる感動的な書物が一冊もない。映画とか放送とかに区分しない「映像評論」の専門家がいない。大問題だ。若き<カイエドシネマ>の出番を待つ。若人には底力あり!「映像」を書ける人が出る!

▼Q14 作品を創るとき、何に一番喜びを感じますか?
  A 最も難しい質問だ。私は私が選んだ出演者の包摂力、無償性、才能に感動して創る。彼らを「素人出演者」と片付ける輩が大半だが、彼らは皆「隠れた天才たち」だ。私は彼らを多くの人の中から選び抜く。
 「まず、そこに存在してみろ」と私に言われ、演技マシーンをかなぐり捨てる職業演技者は今はほとんどいない。
 私は少人数で撮影する。吉田秀夫、葛城哲郎、長谷川忠昭、岩崎進たちだ。私は彼らをこそ隠れた天才と呼ぶ。才能とは隠すことである。
 私は二重映像など画像を多く重ね、花花紙吹雪など過剰照明で飾り付ける映像は駄目だ。舞台にまかせればいい。

▼Q15 映像を創るうえで、必要なことは何でしょう?
  A 日常性の感受性のピッチをオクターブ高めたところで台本を書く。撮影にかかる時は更に上げる。そうすrことで、一日の睡眠時間がたとえ2時間でも数ケ月もつ。

▼Q16 若い世代が創る映像をどうご覧になりますか?
  A 素早い。大変上手い。すばらしい!
 1967年、まだ20歳前半だった作曲家・池辺晋一郎がこう言った。「60年代、私の曲の録音は5時間かかった。演奏者の技術が追いつかなかった。今は、1時間ですみます。上手くなったんです」。
 若い映像作家への私のささやかな注文は、逆説的で、上手くなるな!

▼Q17 佐々木さんの作品は、見た人の人生を変えてしまうくらいの力を持っていると思います。ご自身が10代から20代のころ、人生が変わるような作品(ジャンルを問わず)に出会った経験はありますか?
  A 創った私が偉いのではなく、見た人の方がはるかに偉大だと思う。NHK時代、いつも反響ある度にそう感じた。
  中学2年で私は英語を使う仕事につく決心をした。当時、三番館の映画は格安で、母は家計をやりくりし毎日でも映画が見られる金を出してくれた。新宿の今の紀伊国屋書店の場所には40円の「新星館」、伊勢丹の前には30円の日活名画座、歌舞伎町には地球座、私が暮らす下北沢には4つも三番館があり、山手線や中央沿線の全ての駅近くに安い映画館がたくさんあった。私はアメリカ映画から英語を学び、一日中同じ映画を見ていたのだ。ある日、ギャバンとディートリッヒの「狂恋の果て」という仏映画を見て以来アメリカ映画から離れた。「鉄格子の彼方に」(犯罪者そのものに感情移入する作品)に我を忘れ、次第に欧州映画に魅かれた。
 本も乱読した。文庫本のほとんどだ。立ち読みもした。ヘッセを読まないと人間じゃないと言われ、ヘッセ、モーパッサン、ドストエフスキーなどかたっぱしに読んだ。
 名画の殆どを中学2年から高校卒業までに見た。
 大学では英語の芝居にも出、徐々に映画から遠のいた。NHKに入り、ラジオドラマを創り始めた頃から全く映画を見なくなった。当時話題のヌーベルバーグ作家たちの映画も最近見たほどだ。大学で映像を担当することになり、見た。トリュフォー『突然炎のごとく』は大傑作だが、全部アフレコではないか!。大失望した。こんなことは新しくない。新波(ヌーベルバーグ)ではない。話をもどすと、 
 小説も読まなくなった。何故か?
 私がかかえる負債の方が、他のあらゆる作品のそれよりも大きいのだ。
 それは計量不能だ。
 そして私はいい観客ではなく、いい読者でもなくなった。
 しかし、今でも中学2年から見た好きな映画はたくさんある。中でも「ジェニーの肖像」は何度見ても飽きない。W・ディターレ監督作品でビデオ屋で最近見つけた時は感激した。ブニュエルの「小間使いの日記」も大好きだ。
 私は誰の作品にも影響されない道を選んだのだ。

▼Q18 100年後、佐々木さんの作品はどうなっているのでしょう?
  A ネガを誰が、どのように保存するかの方が問題だ。今はヨコシネDIAの笠原征洋が保管してくれている。笠原は私の全作品のネガ編集、タイミングをしてくれた男だ。
  NHKは保存しないだろう。私が編集室に「夢の島少女」などを隠しておいたところ悪者扱いされた。場所がないのだ。大量生産、大量消費、そして恐るべし誇大広告の時代だ。ますます激しくなるだろう。
 私は大広告が大嫌いだ。
 私のラジオ作品は百年もつと思う。そのつもりで念力をいれた。しかし、どれもNHKにはない。音質が良くないからと、捨てられてしまった。音質を気にするのは粗悪な演出論と同じだ。映画青年たちが昔、飲み屋であれはどう撮ったとかを論議するのと同じように粗悪だ。
 さて、ラジオ作品の方は幸いにも視聴者たちが持っている。どこでどう手に入れたのか!私の映像作品もラジオと同じ運命だろう。多分、誰かがDVDにし保存するのかもしれない。この上映会で30年前の作品がかけられる。100年は十分持つと思うが、私は先に死ぬから、わからない。
 とんでもないことが起きて、ケッヘルのような人物が200年後に発掘するかもしれないが、これは夢の範疇だ。

▼Q19 今もよく夢を見ますか?
  A 夢は最大の楽しみだ。ラジオ「おはようインディア」(1966年)のケン少年に私はこう言わせている。「死んだら夢も見られないんだからね」。夢を見られる限り何も要らない。今のうち夢を見るんだ。いつもの喫茶店のあの席でね。

▼Q20 次回作について何かイメージがありましたら。
  A  まず、本を書く。本(フィクション。集英社)を書く約束をして4年になる。映像創りはそれから考える。大まじめに。
 寺山修司の作品はやりたい。九条(寺山)映子さんとも約束だ。つげ義春も、三島由紀夫も、井上ひさしも。鈴木志郎康と創った台本も撮りたい。みな若い時に会った人たちだが、多分、私らしい映像になる。
 私は木島始の詩が好きだ。氏の訳だがラングストン・ヒューズの「黒人は多くの川を語る」は感動的だ。原詩より氏の訳はすばらしい。川シリーズの第4作をミシシッピーで撮る予定で密かにロケハンまでしたが、3作で打ち切られた。木島氏のその訳詩を存分に活かすつもりだった。
 私は画家・本多克巳氏の作品が好きだ。本多氏が木島氏と創った絵本が好きだ。
 私は岩佐なをの詩と銅版画が好きだ。
 私は清岡卓行氏の作品の全てが好きだ。野球の詩は涙が出る。もし次は何を創るかと聞かれたら、清岡作品だ。
 そうこう考えているうちに夢を見なくなるのだろう・・・最初に像が消え目を閉じ、そこから音が聞こえなくなるのだ・・・。
 創るということは戦場を疾走するのと同じだ。愛憎悪、生老病死五怨情念。ひと山越えたと思ったら、またひと山越え。本を書くほど大変なことはない。台本なら葛城哲郎や吉田秀夫や出演者の声が聞こえるが本は何だ。掌を見つめても何も見えないし聞こえない。
 それから、母を撮りたいと思う。しかし、母はいない。1985年「東京オン・ザ・シティー」という60分の作品(吉田秀夫撮影)で倒れる前の母に出てもらったが…。
  「夢の島少女」は、神泉駅のホームのすれ違いの電車に乗っていた赤いワンピースの女性が残映となり夢に出てきて発想のもとになった。母の場合は、母の霊が私に住みつき動くことから始まるだろう。夢幻能だが映像にしたい。しかし誰も予算を出す人はいないだろう。私は長い疎開生活の果て、終戦4年目でようやく母に引き取られた。中学2年の2学期だった。母はミシンで生計をたて、自分のワンピースも縫っていた。母は薄いピンクの袖無しを着て私と教室に入り転入の挨拶をした。その時の顔、姿、声を私は永久に忘れない。何を描くか、考えてもいない。感覚的にしか考えない。したがって、考えているうちに私は死ぬだろう。
 大まじめに考えて、私はなぜ作品を創るのか。作品に対して責任があるからだ。作品を見る人に責任があるからだ。私がどういう人間なのか、どういう経歴や経験の主なのかなど、どうでもいい。作品である。作品に対して私は責任がある。一本たりとも間違った作品は創ったことがない。是枝裕和の作品がいい例だ。彼は作品に対して責任を果たし、彼の作品を見る人々に対して責任を果たす。テレビでは佐藤幹雄がいる。彼の名は知る人ぞ知る。

(2001年10月20日質問:TAMA映画フォーラム実行委員 黒川由美子)
●インターネットを通じてお会いした方々から、メッセージをいただきました。


 ★「微音空間」は中尾幸世さんのファンのあおせさんがつくったHPです。
 女優さんとしてだけでなく、朗読家としての現在の活動も知ることが出来る、貴重なサイトです。そして佐々木さんのドラマに関する資料も豊富にあり、今回の上映に際して大変参考にさせていただきました。その「微音空間」の管理人、あおせさんのお言葉です。

  映画祭とはそぐわないかもしれませんが、朗読家 中尾幸世という「楽器」について書いてみたいと思います。
  中尾幸世さんの朗読会に出かけるたびに、これは朗読だけれど、でも朗読という一言に収めてしまうには抵抗があると感じていました。 どうしてそう感じるのだろうと考えるうちに、これは朗読ではなく演奏なのではないのかと思うようになったのです。では、中尾幸世さんがどんな楽器を演奏しているというのか。ピアノ、それともバイオリン・・・ 私はその楽器を世界でただ一つしかない楽器「中尾幸世」だと思うのです。この「中尾幸世」という楽器は他の楽器のように旋律を奏でるわけではありません。言葉そのものが、その身に隠し持つ響きを、小さな音だけれど、音叉のように純粋に響かせる、そんな素敵な楽器だと思うのです。            微音空間管理人 あおせ
♪「微音空間」 http://isweb21.infoseek.co.jp/cinema/aose/
  微音空間では佐々木昭一郎全作品集ビデオ・DVD化と佐々木氏の著書「創るということ」復刊のためのリクエストを積極的に呼びかけています。ご賛同くださる方、リクエストよろしくお願いいたします。
DVD化→サイト「たのみこむ」 http://www.tanomi.com/metoo/naiyou.html?kid=10596
復刊→「復刊ドットコム」http://www.fukkan.com/vote.php3?no=1148

  ★他にも、佐々木昭一郎関連でこんなHPもあります。今回の映画祭での上映も宣伝してくれました。
すくぅらっぷ館」 http://www.ne.jp/asahi/ayu-kawa/sou/ (鮎川想さんのHP)
Nutrients of my Life」 http://www.bbap.cc/~matja59/index.html (まてぃあさんのHP)
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       Realisation       ピッコロ・フューメ 木本典孝
 学生時代に京都で佐々木昭一郎氏の作品の上映会をして17年が経つ、当時は2年に1度でも佐々木氏の新作をTVで観ることができるのが幸せだった。再放送を望むよりもむしろ自分達の手で上映してしまうのが速い、学生だからお金は無いが時間はある。蜘蛛の子を散らしたように関西の大学の映画部に宣伝の協力を求めてまわったり、関係者への取材などでたちまちのうちに半年の準備期間がすぎた。
  Part1では佐々木氏を、Part2では中尾幸世さんを招いて座談会も行われ、それぞれの期間のべ600人・800人のファンが押しかけた。佐々木氏の作品のピークと言える『四季〜ユートピアノ〜』のあと、川シリーズが完結してちょうどのベストタイミングだった。
  私達は日本中各地の学生に大規模な自主上映会が広まって、佐々木氏の新作の一助になればと願ったが、二、三の反応もあったが上映会にいたらず、当時の学生達も今や各方面で活躍している。
  NHKアーカイブスやインターネットの普及によって新しい扉が開かれようとしている、TAMA CINEMA FORUMの黒川さんが今日上映会をして下さる。
  今はHPの掲示板によって顔を互いに知らない者達が意見を交換しあい、いつのまにか情報だけが一人歩きをしてしまう。上映会はそんな人たちが実際に出会って語り合える場だ。となりで観ている人に失礼のない程度に尋ねてみてほしい、繰り返し使われていたクラシックの曲名はご存知ですかでも、なんでもいい佐々木氏の描き続けた鉛筆書きの「まる」がより大きく広がっていくことだろう。 '01 10/24(MER)                                    

● ピッコロ・フューメ主催の佐々木昭一郎を特集した上映会は、京都で1984年と1985年に開催されました。 当時のスタッフ、木本さんが提供された上映会の資料は「微音空間」で見ることが出来ます。
    再録  池田博明 
ひとつのカノンと「円環」

●池田博明さんは『夢の島少女』放送後、藤田真男さんと共に「日曜日にはTVを消せ」というミニコミ誌を発行。当時、批評家・マスコミ等に正当に扱われていなかったこの作品を真っ先に評価し、広めました。池田さんは現在高校の理科の先生。ご自身のHPの中でも佐々木さんに関するページがあります。 アドレスhttp://village.infoweb.ne.jp/~hispider/ikedahome.htm
 1985年、ピッコロフューメの上映会に寄せられた文章は今回の上映にもふさわしいと思いましたので、掲載させていただきました。(黒川)
●本日は第11回映画祭TAMA CINEMA FORUM「RESPECT佐々木昭一郎」にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。 今回のプログラムのタイトルはすぐに思いつきました。辞書を引くとRESPECTとは「尊敬する。価値あるものに対し、それにふさわしい敬意を払う」とあります。それを裏付けるように、活躍する映画監督たちからのメッセージが届きました。(黒川)


 ★佐々木昭一郎さんの作品に出会ったのは、僕が大学生の時ですから、今から20年近くも前の事になります。 その映像は、テレビなのか映画なのか、ドラマなのかドキュメンタリーなのかといったジャンルの境界を見事に超越していました。 この、今までとは異質な映像体験が、僕をテレビというメディアに向かわせる大きなきっかけのひとつになりました。 今回、佐々木昭一郎さんと、作品の主人公である中尾幸世さんにお会いできる事を、緊張とともに、とても楽しみにしております。   是枝裕和

 ★NHKがラディカルな時代があった。 今まで見たこともないドラマ文体、実験性に溢れながら、どこかリリカルなエモー ションを与えてくれる映像、まだ十代だった私は興奮した。 血眼になってそれらのドラマを追った。 ドラマを見るたびに、作家の名前をノートの端っこに書き記した。 佐々木昭一郎、いつも名前はそう記されていた。 「書を捨てよ、街へ出よう」彼のドラマを見るたびに、あの時代に好きだった寺山修司 の言葉をなぜか今も思い出してしまうのだ。     瀬々敬久
 ★静かにゆく人は遠くまでゆく― その言葉が、心にしみいって、 佐々木さんの透明な感性を信じはじめました。 ラストシーンのA子の涙の意味を感じた時、 生きる喜びを知った 大好きな作品です。     『四季・ユートピアノ』をみて  河瀬直美

●今回の上映が何らかの形で、「これから」につながっていけたら、と願っています。 参加された皆様に感謝いたします。 (黒川)
   ▼これ以降はTAMA CINAMA FORUM 全体の案内パンフレットより▼


         「夢の島少女」    佐々木昭一郎

 私は記者嫌いだ。取材は作品完成後に限る。作品以外の取材には一切応じない。上の写真は「毎日新聞」の脇地炯という記者が取材嫌いの私を察し広報(番宣)に盗撮させたもの。私はスチールは自分で撮ることにしているが、夢の島では撮り忘れ、上の一枚は今では貴重品だ。同記者は著書「文学という内服薬」(砂子屋書房)「違和という自然」(思潮社)で拙作を論じている。夢の島は長嶋茂雄現役引退とオイルショックの10月、放送された。やがて「日曜日にはTVを消せ!」と題す手書きのミニコミ誌が届いた。北大の池田博明、愛知学院大の藤田真男君の発刊。二人で全国に回覧し、夢の島を広め、各紙は二人を称えた。池田さんは今は高校の理科の先生、藤田さんはライターである。夢の島は今年、NHKアーカイブスで27年ぶりに放送。インターネットのあるサイトの掲示板の書き込みは一夜で数千を超えたそうだ。


          「四季 ユートピアノ」  佐々木昭一郎

  『夢の島少女』の後、演出助手をしながら『四季』にかかった。TBS「調査情報」編集長の村上紀史郎氏が創作ノートを2年書かせてくれた。『四季』は実際に見た夢がもとだ。終戦から数年後、近くの少年が母にピアノを習いにやって来た。私の家は大通りを隔て焼け残ったが、少年には何もなかった。彼の名は伊東克彦といい、『四季』を書き始めてから、度々夢に現れた。ある日、大人になった伊東少年が母を訪ねて来た。重い鞄からA音の音叉を取り出しカワイの古いピアノを調律し始めた。音を聞いた瞬間『四季』の台本は前進し、没になっていた七冊を私は捨てた。主役の名前はAの音叉と母の名からとり、企画が通った時、私はイタリア賞を確信した。「白テンを抱く貴婦人」に負けない美を今度も中尾さんから引き出す!・・・海から来る馬車に突っ走る栄子を手持ちで追う吉田秀夫の撮影は映像の歴史を変革する大仕事だ。『四季』『紅い花』は全米ネットや英国BBCネットにのった日本のテレビドラマとしては今のところ、最初で最後(元放送文化基金事務局長・清水真一氏)。賞は私にとって次回作への「旅券」そのものであったが、1985年の毎日芸術賞を期にどんな賞も断ることにした(例外は1990年バンフ特別賞と革命後初のチェコ放送文化賞)。そして90年代半ばまで、殆どの作品を海外との低予算合作で創った。全作品中、最も好きなフィルムは『夏のアルバム』と『東京・オン・ザ・シティー』である。撮影の秀さんもこの2本で、音の岩崎進さんは『夢の島少女』と『紅い花』。拙作の賞の真価は何か? それは超少人数式の個々のクルー・出演者の、並外れた才能で大交響楽団の個々の才能より偉大だ。『四季』の台本は「月刊ドラマ」(映人社)と「創るということ」(宝島出版)に載った。放送直後「東京新聞」に寄せて下さった清岡卓行さんの「四季・ユートピアノ」は永遠の宝だ。


            上映を記念して  日本放送協会専務理事  板谷駿一

 第11回を迎える「TAMA CINEMA FORUM」おめでとうございます。地域のために10年間もの間イベントを続けていくのは大変なエネルギーが必要です。実行委員のみなさんに敬意を表します。 今年は佐々木昭一郎さんのテレビドラマ『夢の島少女』と『四季・ユートピアノ』の2作品が上映されるそうで、大変嬉しく思っています。 佐々木さんは、私たちテレビマンが誇りとする先輩です。佐々木さんの作品は、様様な番組と共に放送されていても、1カット見れば、「これは佐々木さんのドラマだ」とすぐ分かる個性豊かな作品でした。しかも、エミー賞やイタリア賞など。数々のテレビの国際賞を獲得する普遍性を持っていました。今でも放送すると時代を超えて、若い人を中心に非常に大きな反響があります。 私たちはこういう作品を1本でも多く作り、後世に引き継いでいくことが出来ればと願っています。 今年のフォーラムでも、佐々木さんの作品はきっと沢山の人々に感動を与えてくれるでしょう。


             ゲストの紹介   佐々木昭一郎氏(テレビマンユニオン演出家/文教大学教授)

 1936年東京生まれ。立教大経済卒。1963年よりラジオドラマの演出。『都会の二つの顔』『おはよう、インディア』。1966年『コメット・イケヤ』でイタリア賞グランプリ(賞金1200万リラ)。脚本の寺山修司、作曲家の湯浅譲二と共に国際的注目を得る。同年TVドキュメンタリー、劇映画に歩み助監督となる。1971年処女作『マザー』で日本初のモンテカルロ国際TV祭の金賞・創作シナリオ賞受賞。1980年『四季・ユートピアノ』で世界最大級の規模と伝統を誇るイタリア賞グランプリを受賞。ラジオと合わせ世界初のダブル受賞者となる。1995年から文教大学情報学部教授となり、オーディオと映像制作が担当。「10年後に本物のジャーナリストと映像作家が世に出るでしょう」と若者に夢を託す。作品数より賞の数の方が多い。「作品性と賞はなんら関係ない。賞は作品性を疎外する。『夢の島少女』は何も受賞していない」


             佐々木昭一郎さんからのメッセージ

 TAMA映画フォーラム実行委員諸氏に感謝!今年は処女作から30年目。私がスーパースターなら盛大な会を開くだろう。TAMAが偶然を必然のメモリアルにしてくれた。私はスターでもないのに! 私の母親は多摩霊園に眠る。私「フォーラムへ一緒に行こう」。母は答えた、「また石油をめぐる戦争をしている。第一次、第二次大戦も石油がもとだ。そんなもん全部宇宙に飛ばしちまえ。お前と散歩はそれからだね。100年後、ここからTAMAまで歩こう」。10年前、母は多摩で事故死した。全作、母の力で創った。『四季』のヒロインの名は母親からとった。一作だけ私自身をモデルにし、35mmで撮った。『八月の叫び』だ。さて父は,戦時中特高に追われ満州に行き、帰国して翌日、逃げる途中の汽車の中で喀血し私の目の前で死んだ。父も多摩に眠る。


              ゲストの紹介   中尾幸世氏

 1973年、東京キッドブラザーズに参加し、『シティー』(1974年)に出演。1974〜1984年、『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『川の流れはバイオリンの音』などNHKのTVの5作品に主演する。1981年、テレビ大賞新人女優賞。1984年よりラジオドラマに出演。『赤糸で縫いとじられた物語』『DQ』(NHK-FM)『夜明けのショパン-甦る天才ピアニスト田中希代子』(TBSラジオ)他。1989年より朗読活動を行っている。多摩美術大学デザイン学科卒業。


              ゲストの紹介  司会:是枝裕和氏(映画監督・テレビディレクター)

  1962年、東京生まれ。1987年に早稲田大学第一文学部文芸学科卒業後、テレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組を演出。『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』(1991年)、『彼のいない八月が』(1994年)、『記憶が失われた時・・・』(1996年)など。 1995年、初監督した映画『幻の光』が第52回ヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞。2作目の『ワンダフルライフ』(1998年)は、フランスのナント三大陸映画祭でグランプリ受賞など、各国で高い評価を受け、世界30ケ国、全米200館での公開と日本のインディペンデント映画としては異例のヒットとなった。3作目の『ディスタンス』(2001年)は、第54回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に招待された。
●是枝監督のメッセージ:佐々木昭一郎さんの作品に出会ったのは、僕が大学生の時ですから、今から20年近くも前のもとになります。その映像は、テレビなのか映画なのか、ドラマなのかドキュメンタリーなのかといったジャンルの境界を見事に超越していました。この、今までとは異質な映像体験が、僕をテレビというメディアに向わせる大きなきっかけのひとつになりました。  今回、佐々木昭一郎さんと、作品の主人公である中尾幸世さんにお会いできることを、緊張とともに、とても楽しみにしております。
Movin'on(11月号)より    ●企画者・黒川由美子

★企画の意図:きっかけは今年5月のNHKアーカイブスの27年ぶりの『夢の島少女』の再放送でした。そして、インターネット上での熱い反響。2度感動しました。これはやるしかないと思いました。必ず成功する企画だという確信はありましたが、それ以外の困難が立ちふさがるであろうということも想像がつきました。
★苦労話など:踊り出したいくらい嬉しかったり、涙が出そうなくらい憤りを感じたりの連続でした。本当に色んな意味で勉強になりましたよ。上映が決定してからは、佐々木さんとのFAX文通が始まりました。宣伝活動を始めるとインターネット上でファンの皆さんにも出会え、どんどん輪が広がっていきました。
★ずばり見所!:佐々木昭一郎の作品を見ない人生なんてつまらない。見所はすべてです。ここには書ききれません。そして、佐々木さん、主演の中尾幸世さん、映画監督の是枝裕和さんのトークは、見た人の胸にきっと忘れられないものを残してくれる事でしょう。その余韻をぜひ他の人たちにも伝えて下さい。
★応援メッセージ:国内初の記憶されるべきイベント。「リモコンを捨てよ、TAMAへ出よう」(塚)。

佐々木昭一郎  上映会当日   中尾幸世さんへのインタビュー

Q 佐々木さんの演出はどんなふうにつける?
A 状況やセリフを説明してくれるけれども、テイクして思い通りに撮れないと状況を変えて撮る。常に一回だけで、2回目のテイクはない。
Q なぜ朗読を始めたのですか?
A 自分の声の力を感じたのは『四季・ユートピアノ』のアフレコの後くらい。(作品は殆ど同時録音なのでアフレコはナレーションなど一部)。 私の家は工具店だったので、鉋の音などに、なじみがあった。 中尾幸世
Q ご自身で一番お好きな作品は?
A 一番思い入れのある作品は『アンダルシアの虹』です。最初のイタリア作品『川の流れはバイオリンの音』は初めての海外ロケということで緊張していたし、チェコ作品『春・音の光』はチェコのスタッフがいて、制約があった。スペイン作品はジプシーの人たちが気持ちのいい人たちで、シンパシーのある時間が多くすごせて楽しかった。
Q ひとびとのデッサンも自分で描かれるのですね。
A 必ずその場で描くわけではありません。後で写真を見て描いたりもしていました。


                   『夢の島少女』について

▼私はこの作品で生かされたと思っていたので、『四季』でも全面的な信頼を寄せて撮影に参加していました。(中尾)
▼カメラで眼を撮るとか、アップにするとか、引くとかは全て撮影の葛城さんの判断、彼の感性と技術に依っています。中尾さんについては葛城さんが「すごいんだ。眼から放射能が出ている」と言っていました。(佐々木)

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