「創ること」 佐々木昭一郎 文教大学 退任のあいさつ 5分間スピーチ (タイトルは無かったので、池田がつけました) 2006年3月17日(土) 十年の長い間、お世話になりました。 今日は、折角の機会ですから、私が学生たちと、どんなことを考えてきたかを、少々お話しさせて頂きご挨拶の代わりにしたいと思います。 私は、テレビ屋です。このテレビ放送というものは、マクルーハンなどによれば、活字や音声のみのメディアに較べ、すこぶるクールで客観的な特長を持っていると言われています。事実、テレビは公平であれ、客観的であれーとよく言われます。つまり、現実を写す正確な鏡であれ、と言うわけです。 ところが、私の専門のドラマは、この客観性や、公平性、現実性とは正反対の、いわば対極にあるものです。それは、主観的で、独善的で、現実離れしている世界、一片の夢のようなものです。ドラマとは、現実らしさや、本物らしさを追究する表現手段の外にあるものなんです。 それは、絵画や詩と同じです。私たちを魅了する絵画のマイスターたち、ダビンチであれ、ベラスケスであれ、ゴヤであれ、ピカソであれ、そこに描かれたものは、現実の引き写しや、自然らしさの追究とは何の関係もないものです。それは、自分の内部の或るイデー、 自己の悩がスバークしケイレンしたものを描いたもので、全く主観の創造物です。 私はテレビドラマの制作者として、そのように考え、演出の仕事に携わってきたものですから、この考えかたが、学生諸君に理解してもらえるか、受け入れてくれるか、最初はかなり不安でした。 しかし、すぐにそれが要らぬ心配であったことが判りました。学生たちは、自己を表現することに飢えていました。幼児の頃から続く社会的、教育的効率化の中で、忘れていた、頭の隅っこに追いやっていた、くだらぬ妄想に過ぎないと押し込めていたものを、画像や音声で創り上げることが、結構楽しい、心地良い、それどころか、全身が燃えるような感動を覚えることに気付いてくれたのですね。 現在、テレビは、コンビューターネットとの融合やデジタル信号による映像、音声づくりに血道を上げている状況がありますが、それらは枝葉末節です。 CGひとつとっても、安くて早く現実っぽく作れる擬似映像の域を出ていません。これは、CGが現実を模倣することのみにかかずりあっている限り、越えられない壁です。 つまり、そのことに気付かない限り、それは永久の迷宮入りなのです。しかし多分、それに一番早く気付くのは、ほかならぬハリウッドとテレビ界でしょう。 文教大学のスタジオは若者が自身の内部、つまり心の中を覗き込み、さぐって、引き出してくる、『生命の湖』のようなものです。どうか、学生たちが、ひととき、このスタジオの中で、自己を取り戻し、『創ることの神秘』に触れる時間を残しておいて頂きないと存じます。 つまり、スタジオを守って頂きたい、いや、守るなどというマイナーな考えではなしに、攻めて下さい。前へと! 私はこの道では奥手なんですが、つまり自分の授業は自慢したことありませんけれども、この際、誇らかに申し上げておきたい、堂々と『ドラマの文教大学』と打ち出して下さい。すでに大学の大きな魅力、セールスポイントになっているからです。そのことは、学生たちが、真っ先に感じていて、処々方々に広めているのですから。 どうも、長々、有難うございました 以上です。 私は七十年代のラジカリズムを描く作家ではなく、普遍性を追究し続けるものです。常に。 *****日曜日にはTVを消せ ******** 1974年11月17日(日) No.1 夢の島少女 (藤田) 1974年12月15日(日) No.2 夢の島少女 (藤田) 1975年1月12日(日) No.3 アニメ・ルパン三世 (池田) 藤田のTVに関するエッセイ OFF&ON 第2回 1975年2月9日(日) No.4 鏡の中にある如く (池田) 藤田+池田 OFF&ON 第3回 |