見えない鎖 1

 その日は周瑜が私的に慰労の宴を開いていた。多くの文官・武官が呼ばれ、宴は大いに盛り上がったが、そこで凌統には我が目を疑う出来事が起きた。
 始め、周瑜と呂蒙が二人で呑んでいた。そこに魯粛が加わると、酒の席はにわかに対魏座談会になった。三人の討論は白熱して、その場にいる者にはとても入り込める物ではなく、凌統などは後学のため、ただ傍らで聞いているしかなかった。
 その時、甘寧がひょいと立ち上がった。周泰のとこにでも行こうとしたのだろう、通り道の座談会の脇をすり抜けようとした時、いきなり呂蒙の腕が伸びたと思うと、カメレオンよろしく、甘寧は腰を抱えられて呂蒙の膝の上に引き寄せられたのだ。
「おわ!?」
 甘寧が間抜けな声を上げて膝の上に倒れると、呂蒙はそのまま甘寧を抱え込み、それから何事も無かったような顔をして、酒杯に手を伸ばした。
「……呂蒙?」
 周瑜と魯粛は目を見開いて二人を凝視したが、呂蒙は「どうかしましたか?」と酒を呷っている。
「どうかしましたかじゃねーだろおっさん! 放せよごるぁあぁ!!」「お前はまたふらふらと落ち着きなく飲み歩くつもりだろうが。少し大人しくここに座っていろ。それで曹操に密書を送っていた人物は判明したのですか?」
「……いや」
 周瑜はまだダメージを受けていたが、魯粛は先に立ち直ったようだった。さすがに呉軍一の折衝役。すぐに顔色を元に戻すと、議論のために膝を叩いた。
「今それを釣り上げる為の工作を用意している所です。曹操は赤壁の負け戦にもかかわらず、いつ南下してくるかも分かりませんからな。早急に対処せねば」
「そうですな。劉備達もいつこちらに矛を向けるか分からぬ故、挟み撃ちにされたら面倒だ」
「何を言う呂蒙殿。劉備殿とは同盟関係にあるのですぞ」
「何が同盟関係か!」
 劉備の名が出た途端に、周瑜は目の前の素っ頓狂な光景などまるで無い物のように、急に我に戻って熱弁を振るいだした。
「魯粛よ、君もあの男の二枚舌にいい加減に気づいてくれ。荊州城をまんまと奪い取った時の孔明の顔を、君こそが見るべきだったのだ!」
「って、話に入る前にさっさと放しやがれおっさん!」
「うるさい甘寧! お前も黙って聞くがいい!」
 びしりと指を突きつけられて、甘寧は反撃の機会を失った。そうしてその席が終わるまで、甘寧はずっと呂蒙の膝の上でつまらなそうに酒を呑んでいた。
 なんで呂蒙殿が!?と凌統の目が点になったのは言うまでもない。やけ酒のように酒を呷り始めた甘寧がそのうち赤ら顔で眠り始めると、それを見ている凌統たなんだか胸がムカムカして落ち着かなかった。
 幸せそうな顔して眠りやがって。大体呂蒙殿もなんだってあんな男の事を膝に抱いて甘やかしてやるんだ!
 その日は官営と呂蒙ばかりに気が行って、凌統はせっかくの酒の味もよく分からなかった。



 その半月後。凌統は地元の小さな賊を平らげた廉で、孫権の酒宴に呼ばれた。そこには主立った武将達も呼ばれていたが、凌統は上席を与えられ、孫権の厚いもてなしを受けた。
 うわ〜、殿様呑んじまってるよ〜。
 凌統が冷や汗をかきながら孫権と酒を呑んでいると、呂蒙が甘寧を呼ぶ声が耳に入った。
「何だよおっさん」
 甘寧がのこのこと近づいていき、そしてまた呂蒙の腕が吸いつくように甘寧の腰に巻きついて、そのまま甘寧は呂蒙の膝に収まった。
 あのバカチンはまた何やってやがんだ―――!!
 凌統は孫権がそこにいる事も忘れて、二人の様子に釘付けになった。甘寧はぎゃんぎゃん喚きながら暴れているが、そのうち大人しくなって、呂蒙の膝の上で酒を呷り始めた。呂蒙はそんな甘寧にはお構いなしのようで、隣の席に座っている蒋欽と何事か喋っている。離れた席に座っていても、蒋欽の困っている風情が見て取れるが、呂蒙はお構いなしのようだった。
 甘寧は先ほどからやけになって人の三倍は呑んでいる。あんなに呑んだらまたあいつ潰れちまうぞとハラハラしながら見ていると、案の定甘寧は呂蒙の膝の上で小さく開けた口から寝息を漏らし始めた。
 酒に酔った頬は朱に染まり、時々瞼をこする仕草はやけに幼く見えた。
 凌統はその姿から目が離せなかった。何故目が離せないのか自分でも分からなかったが、とにかく酒に酔って呂蒙の膝の上で眠る甘寧を、ずっと見続けていた。
「……何を熱心に見ているのだ」
「え!?」
 慌てて声の方を見ると、目の据わった孫権がそばにいて、凌統はそんな事まで失念していた自分に冷や汗が出た。
「いえ、あの、か、甘寧のバカが呂蒙殿の膝を占拠していて……」
「どれ? あ、本当だ。お〜い、呂蒙! 良いオモチャを抱えておるではないか!」
「何を言われる、殿! 殿だって目の前に良いオモチャを持っておられるではありませんか」
「良いオモチャ?」
 孫権が自分を見る。おいおい呂蒙殿、良いオモチャって、まさか俺の事じゃないだろうね!?
「よし、凌統。お前も私の膝に座ってみよ」
 やっぱり俺かよ!!
 凌統は焦って逃げを打ったが、そんな事を許す孫権ではない。
「いや殿! 殿の膝の上などと畏れ多くて!」
「何を言うか! 私が乗れと言っているのだ! ほら遠慮するな、さぁ乗ってみろ!」
「やめて下さい殿!」
「周泰! 凌統を私の膝に乗せよ!」
「……御意」
「ぎゃー! 周泰殿、酔ってる時の殿の命令は無効だって、いつも殿が言ってるだろ!」
「……命令は命令だ」
 その夜の宴は散々だった。逃げ回る凌統は結局最後には周泰始めその場にいた部将達に羽交い締めにされ、とうとう孫権の膝に乗せられてしまったのだ。羽交い締めにする武将達の方こそいい迷惑という顔をしていたが、一番迷惑なのはこの凌統だ。凌統を膝に抱えた孫権と、甘寧を膝に抱えた呂蒙だけが満足そうな顔をして、その他の参加者は全員げんなりと疲れた顔をしていた……。



「……こないだは酷い目にあった……。もう当分は殿のそばで酒を呑むのはごめんこうむりたいね……」
 凌統はあの宴の事を思い出すたびに、恥ずかしさで身悶えした。こんなこっ恥ずかしい真似をさせられて、よくも甘寧はいつも平気な顔をしていられるものだ。やはり面の皮の厚さが違うのだろう。自分などあれ以来殿の顔が正面から見れないというのに、甘寧はいつものように楽しそうに呂蒙殿と喋っている。本当に、どういう神経だろう。
 甘寧は、もっと研ぎ澄まされた奴だと思っていた。他人に肌を触れさせたまま、眠ってしまうような奴だとは思っていなかった。それだけ呉軍にうち解けているという事か、それとも相手が呂蒙殿だからだろうか……。
 凌統はなぜだか激しい怒りに襲われた。この怒りは何だ。父上の仇が呉軍に慣れ親しむ事に対する怒りか。
 そうだ。甘寧が呉に親しみ、そして呉の人間が甘寧に親しんでいるのが、それがむかつくのだ。
 奴は敵だ。父上の仇だ。
 それ以上の意味など、あるはずがなかった。



 次の宴の機会は思ったより早く来た。孫権に公主が生まれたのだ。公の祝いの後、孫権は主立った臣下を集めて、内々の祝いの席を設けた。
「殿、おめでとうございます」
「うむ。しかし女の子というのはなんだか怖いな。小さくて、すぐに壊れてしまいそうだ」
「目元が殿にそっくりですな」
「私になど似ずに、母親の歩に似てくれれば将来有望なのだが。だが似ていると言われると悪い気はしないな。ありがとう」
 めでたい席は内々の祝いという事もあって、すぐに無礼講となった。今日ばかりは皆が孫権に酒を勧め、孫権も上機嫌で皆に酒を注ぎ回っている。そして呂蒙の脇まで来た時、もうずいぶん酔っている孫権がニヤニヤと笑った。
「なんだ呂蒙。今日はオモチャを抱えておらんではないか」
「めでたい席故、今日は遠慮しておるのです」
「遠慮などとお前らしくもない。ほらほら甘寧、こちらに来ぬか」
「勘弁して下せぇよ、殿!」
「良いから来い!ほら!」
 甘寧は渋々立ち上がると、孫権の脇まで歩いていった。呂蒙はわざと座ったまま、自分の膝をとんとんと叩く。
「ほら甘寧、呂蒙が呼んでいるぞ。早く座ってやったらどうだ」
「俺ほんっとにイヤなんすけど」
「そう言うな!」
 ばんばんと叩きつけるように孫権は甘寧の肩を押さえて呂蒙の膝に座らせた。
「ほら甘寧。お前はそこに座っている方が、酒が進むようだからな。今日もたんと呑むが良い」
「イヤ、ここにいるとつい呑んじまうのはやけ酒っす」
「いいから!ほら!」
 孫権は呂蒙の隣にどっかりと座り、甘寧にメチャクチャに酒を勧めた。嫌そうにしながら、勧められる酒を全て胃の腑に納めていくと、そのうち甘寧も大人しくなってきた。
「お、いい顔になって来たなぁ」
 やんややんやと孫権は一人で盛り上がり、そのうち腰が抜けたような変な座り方をしたと思ったら、孫権は小さないびきをかいて眠ってしまった。
「しょうがないな。今日はお開きのようだぞ、甘寧。ん? 甘寧?」
 呂蒙が膝を揺すると、甘寧の頭もかくりと落ちた。
「しょうのない奴だ。もう眠ってしまったのか。こいつもいつもなら底なしの筈だが、どうしてか最近はよく潰れるな」
 それはあんたのせいだろうがと凌統は心の中で突っ込みを入れたが、それはその場にいた全員が一斉に入れた突っ込みだったろう。
 そうして呂蒙はいきなり立ち上がると、膝の甘寧を肩に担いだ。麻袋でも持ち上げるような、そんなぞんざいな態度だったが、その後の台詞がいけなかった。
「しょうがない。今日はこいつの寝惚け面でも肴に、一人で呑むとするか」
「呂、呂蒙殿!?」
 凌統はその言葉に素早く反応した。
「ん?どうした、凌統?」
「いやあの、そ、そんな奴、捨ててって構わないんじゃないでしょうかね」
「いやいや。どこに不埒な輩が潜んでおるかも分からぬからな。こいつを潰したのは俺の責任故、今日は連れて帰るとしよう」
「不埒な奴って……!?」
 呂蒙はニヤリと笑った。
「お前とかな、凌統」
「お、俺が何を……!」
「何を赤くなっている。いきなり斬りつけられては堪らんと言っているのだ」
「あ…」
 凌統はそれ以上何も言えなかった。そのまま甘寧を抱えて去っていく呂蒙を、ただ見送るしかなかった。
 初めて分かった。
 この気持ち。
 これは、嫉妬だ……。
 凌統は唇の端を噛みしめて、その場にただ立ちつくした。



 その晩は眠れなかった。呂蒙の膝の上で眠る甘寧の、いつもより子供っぽい顔が目の前にちらついて、そんな甘寧をあやして笑う呂蒙の満足そうな顔が目の奥にちらついて、凌統は臥牀の上でもんどり打った。
 あの時、確かに呂蒙殿は俺を牽制した。つまり呂蒙殿は甘寧に惚れてるという事か? そりゃそうだろう。そうでなけりゃ、どうしてあいつを膝に抱えたりする?
 何であいつなんだよ。俺は呂蒙殿の事をずっと尊敬していた。無骨一辺な部将だったくせに、あの激務の中、殿の勧めに従って本当に学問を修めた呂蒙殿を、俺は本当に尊敬もしてたしいつも目標にもしてきた。なのに、なんで呂蒙殿が惚れてんのがあいつなんだよ。
 そりゃ最初からあの二人は仲が良かった。そもそも甘寧を迎え入れたらどうかと殿に進言したのは呂蒙殿だったし、そのせいか甘寧だって呂蒙殿にはすごく懐いてた。でもまさか、それがこういう事だとは思わなかった。
 何であいつなんだ、畜生! 
 あいつは父上の仇なのに、何で俺はあんな奴に惚れちまったんだ!
 今頃呂蒙が甘寧と何をしているのかと考えるだけで、凌統は気が狂いそうだった。呂蒙の無骨な腕が甘寧の胸を這っているのかと、甘寧が呂蒙のために体を開いているのかと、呂蒙にしか見せない顔や、呂蒙にしか聞かせない声を曝しているのかと、そう思うだけで体中の汗腺から血が噴き出しそうだった。
 こんな思いをしながら、俺はこれから先一生暮らしていくのか? 甘寧が呂蒙殿と親しくしている所を見るたびに、こうしてもんどり打って?
 そんな事は、絶対にイヤだ。だいたい、甘寧は俺の物だ。そうだ。あいつは俺の物だ。あいつが父上を討った時に、あいつの命は俺の物になったのだ。命の替わりに体をもらって何が悪い。それを、いくら相手が呂蒙殿だからって、簡単に譲ってなんかやるものか!
 凌統は、悩む事をやめた。勝負は明日だ。



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