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夜酔い歌

     私は歌っていた。

  堅石や 我がススコリの かめる酒
  手酔い 足酔い 我酔いにけり

 なんでこんな歌を歌っているのだろう。そうだ、女が教えてくれたのだった。どこかの蔵を改造した飲み屋だったかそんなところだった。外の光は届かず、 が私と女の足下に深海の大きな巻き貝の化石のように静かに忍び寄っていた。その女が だったかはっきりしないが、その当時の私の交友関係を考えるとおそらくKであっただろうと思う。Kは の側の人間だなとふと思った。髪が長くてつややかだった。まるで夜を思わせるように。
 どうしてそんな話になったのかはわからないが、死について話していた。自分の命が終わるような気がしていたからかもしれない。すると突然Kは
「手酔い足酔い我酔いにけり」
と歌いだしたのだ。なんだそれ、と思っていると、見透かしたように
「あなたは知っているはずだわ。」
と妙な言い方をした。
「知っているはずだって? 知っているはずなかろう。教えてくれよ。」
私がそう言うと
「ヨヨイの歌よ。」
「は?よよいのよいって?」
「やめてよ。あなたどうかしてるわ。夜酔う歌よ。アナクロニズムをやらないでほしい。」
シリアスな話に疲れ始めていたので駄洒落のつもりだったのだがどうもKの機嫌を損ねたようだ。私は額の汗を拭った。
「悪かった。謝るよ。だけどなんのことかやっぱりわからないよ。」
私は思わず謝った。それでKも少し機嫌を直してくれたらしい。
「ほら昔の王の話。ススコリのお酒の話。えっ、知らない? だから、そのお酒を飲んで、大きな石が邪魔で、歩けないで。それで、この歌を歌ったって。そしたら石のことをたたこうとしたら石の方から逃げたっていう意味。だからね。この歌を歌えば大丈夫な意味のやつ。」
そう言ってまた歌い出す。
「ちょっと待って。何がどう大丈夫なんだ。」
「あなた、男でしょう。男だったら誰でも大変なことがあるんだから。」
どうもよくわからない。何か自分がまったく別の世界に入り込んでしまったようでもある。それから変な話だが、Kがだんだん美しくなってきたような感じがする。本当にあれはKだったろうか。いやそれは私が酔っぱらってきたせいかもしれない。
 妖しい旋律である。特に後半は独特なのですぐに覚えられた。
「思い出したのよ。あなたは、 ここがあなたのいる場所 なの。」
またそんなことを言う。人違いだよと言おうとしてKを、たぶんKだったと思うが、彼女を見た。遠い昔にどこかで会ったことがあるような気がした。彼女の瞳があまりにも深くて私はあわてて目をそらした。気を抜くと引き込まれそうだった。しかたなく私は曖昧な相槌を打って一緒に歌を歌い出した。
「手酔い足酔い我酔いにけり」
 つい口をついて出てしまう。何度も何度も歌って、そこの部分が頭の中で蜷局を巻いているようだ。ああ、蜷局だ。螺旋だ。
 私は螺旋について考えた。この世はきっと光の入ってこない螺旋なのだ。私はこの螺旋をぐるぐる回っていて、しばらくするとまた同じところに 戻って きてしまうのだ。