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<有耶無耶の関>
(うやむやのせき)
山形県飽海郡遊佐町、秋田県にかほ市

旅行日 '09/4

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 有耶無耶(うやむや)の関は蝦夷の侵入を防ぐために9世紀頃に築かれたと言われる関。現在の国道7号の山形県と秋田県の県境、三崎峠付近であったとされます。しかし異説があり、国道286号線が通っている笹谷峠(宮城県と山形県の県境)付近に有耶無耶の関はあったとする説もあり、どこに関があったのかは実は分かっていません。
 この地は、鳥海山から流れ出た溶岩流が海側に突き出た場所であり、さらに西からは日本海からの激しい浸食をうけるという地形。「馬も通れない」というほどの交通の難所でした。
 
武士の 出さ入るさに 枝折する とやとやとほりの むやむやの関
(もののふの いつさいるさに しをりする とやとやとほりの むやむやのせき

 ここ「有耶無耶の関」も歌枕の地。夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)などにもこの地をよみ込んだ歌が見られますが、同じ歌枕の地でも「白河の関」に較べるとグッとマイナーなようです。
 

 『奥の細道』で芭蕉は「(象潟の)西むやむやの関、路(みち)をかぎり」と記してますが、実際は、有耶無耶の関は象潟の
 芭蕉と曽良は日本十景のうちのひとつ象潟(きさかた)をめざして六月十五日(陽暦7月31日)に酒田の町を出発。十里(約40km)北の象潟にはその日のうちに着く予定でしたが、土砂降りの雨にたたられて、途中やむなく吹浦(ふくら)で一泊。翌十六日に三崎峠を通過して象潟へと向かいます。例によって曽良は、この間の出来事を詳しく日記に書き留めており、その日記の文学碑が、三崎峠の秋田県側に建っています(右写真)。


 さて、この「有耶無耶の関跡」のある三崎峠。現在周辺は三崎公園として整備されています。三崎公園の山形側の最寄り駅が羽越本線女鹿(めが)駅。この女鹿駅、鉄道マニアの間ではちょっと知られた駅で、ドンコウ列車でさえほとんどが通過してしまうという情けなさ。一日に下りが3本、上りが2本しか停まらないという、すさまじい駅なのだ!
 こんなレアな駅があるとなると利用したくなる悲しい習性。無理矢理この駅を計画に組み込んで、私は行ってきてしまいました。ここから女鹿の小集落を経由して、三崎公園までは歩いて40分ほどです。


 芭蕉も歩いた三崎山旧街道は、公園内に一部残されており山形側から秋田側まで歩いて20分ほど。その昔、旅人を難渋させた道も現在ではウォーキングコースに使えるほどのお手軽さで歩くことが可能。
 秋田側からは、象潟駅まで路線バスが一日数本出ています。途中に「」というバス停があり、実はこちらが「有耶無耶の関」のあった所とする説もまた有り。曽良の日記にもそう教えられたとの記述があります。まったくどこまでもウヤムヤであったりするわけで…。


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