金曜プレステージ『歌枕殺人事件』の放送を記念して、やっつけ仕事でこのページを作成しました。(2009/10/03)
<末の松山>
(すえのまつやま)宮城県多賀城市
旅行日 '97/9
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五月八日(陽暦6月24日)を、壺の碑(いしぶみ)を見て感激の涙を流した芭蕉は、塩釜に到着。その日のうちに3kmほど南にある、末の松山と沖の石とを見物に行きます。
小倉百人一首にもある、清原元輔(きよはらのもとすけ:908〜990)の歌。
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは
〈歌意〉(二人で固く)約束したことですよね。お互いに涙を流しながら、末の松山を波が越すことがないように、決して心変わりはしますまいとねえ。
『末の松山』を『波を越す』とは、起こり得ない事のたとえ。女性とのお互いの愛情が変わる事など絶対に無いはずだった、のだが女性は他の男性を愛するようになってしまった。そんな女性の心変わりを嘆く歌です。
右の写真は、現在の「末の松山」。仲睦まじい男女のように2本の松の木が寄り添っているようにも見えます。
さて、『奥の細道』で芭蕉はどのように「末の松山」を記述しているのでしょう。
末の松山は、寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。松の間々(あいあい)皆墓原にて、翼(はね)を交(か)はして枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて…
左写真にもあるよう、末の松山のある場所は、末松山・宝国寺という寺になり、その墓地の中に二本の松の木は立つのでありました。
「翼を交はして枝を連ぬる」とは、いわゆる比翼連理(ひよくれんり)。男女の情愛がとても深いことのたとえです。
その昔、男女の変わらぬ情愛にも例えられた末の松山は、今はこうして、寺の墓地の中にある、そんな時代の移り変わりに、芭蕉ははかなさを覚えるのでした。
芭蕉が旅して300年後の現在、「末の松山」こそはこうして残っているものの、付近の海は埋め立てられ、海岸は遠くに。芭蕉の見た景色との違いを、今の私たちもまた眼前にする訳です。
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