<象潟1>
(きさかた)秋田県にかほ市(旧・由利郡象潟町)

旅行日'94/11 '94/12 '95/10 '97/4

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 象潟は『奥の細道』最北の地。芭蕉は「より北へ」との思いもあったようですが、ここできびすを返し、以後は日本海沿いに南下して行きます。

←現在の象潟の姿。
 水田になっている部分がかつてはでした。海の方々に松の木の生い茂る小島がポコリポコリと浮かび、ちょうど太平洋側の「松島」を小型にしたような光景だったのです。

写真、下引用部とも町発行の観光パンフより

 南北約2km、東西1kmの入り江に島々が無数に浮かび、八十八潟、九十九島の絶景の地として、松島と並びその美景を天下に誇りました。しかし文化元年(1804)の大地震で海底が2m40cm隆起し、潟の海水が失われて現在の陸地になりました。水田のなかの美しい島々の姿が、いにしえを偲ばせてくれます。


 芭蕉がこの地を訪ねたのが元禄二年(1689)のこと。残念ながら現代の私たちは、芭蕉が眺めたとおりの風景を観賞できません。つくづく百九十年前の地震が恨めしい・・。もっとも当時の人からしてみれば、あたらしく土地ができ、米をつくれるようになったのだから喜ばしいことだったのだろうけれど・・。


 もし地震が起こっていずに、旧来の姿をとどめていたとしたら、今ここ象潟は東北を代表する大観光地になっていたでしょう。だとしたら観光客がワンサと押し寄せ、喧噪と俗趣味とが持ち込まれていたに違いありません。
 それよりは変わり果てた光景を眺めながらイメージをふくらませ、在りし時をしのんでいるほうが、よほどのしあわせなのかなぁ・・と、つむじ曲がりな私は思ってしまうのです。

 さて、三百年前の芭蕉さん。雨の降りしきる六月十六日(陽暦8月1日)、途中雨宿りをしたりしながら、ようやく塩越(いまの象潟の町)へ到着。

 闇中に莫作(もさく)して「雨もまた、奇なり」とせば、「雨後の晴色(せいしょく)、また頼もしき」と、蜑(あま)の苫屋に膝を入て、雨の晴るゝを待つ。


 翌日は見事に晴。舟を浮かべ、能因島や干満珠寺(かんまんじゅじ)を訪れ、象潟の景を堪能します。

 江の縦横、一里ばかり、おもかげ松島にかよひて、また異なり。松島は、わらふがごとく、象潟はうらむがごとし。さびしさに、かなしびをくわえて、地勢、魂をなやますに似たり。
<寂しさの上に悲しさの感じを加えていて、土地のたたずまいは(美女が)心を悩ますのに似て(憂いを含んで)いる>


続けて、芭蕉の句(↓)へ。



<芭蕉の句>

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)

<句意>
象潟の雨に濡れて咲いている合歓<ねむ>の花は(かの美女の誉れ高い)西施が(目を閉じて)眠っているかのような趣である。
三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より



 さて、西施(せいし)とはどのような女性だったのでしょう。
 古代中国春秋時代(B.C.770〜403)の末期、越国に居た絶世の美女と伝えられます。
 戦いに敗れた「」は、敵国「」へ西施を献上する。呉の国王は彼女を溺愛するが、ゆえに呉の国力は傾いてゆく。やがて呉は越によって滅ぼされ、西施はもともと情を通じていた男とともに五湖に舟を浮かべて行方知れずになったという・・。

 合歓(ねむ)の花とは?
 合歓(ねむ)は豆科の落葉樹。夕方になると葉が閉じ、朝になると再び開くのでこの名がある。7月ごろ、白または淡紅色の可憐な花をつける。

 雨の象潟の景を、美女「西施」の憂える様になぞらえ、さらに「ねぶ」は「合歓の花」と「眠る」の掛詞になって、西施が目をつむる−物思いに沈んでいる姿を連想させる仕組みになっています。



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