聖書に関するQ&A

 Q.28 牛車から落ちそうになった神の箱を支えたウザは何故、神に撃たれて死なねばならなかったのか?

 Q.27 主イエスが十字架の死後、「黄泉に下られた」とはどういう意味か?

 A.使徒信条に「主は・・・十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人の中よりよみがえり、・・・」という一節があります。
 この信仰告白を裏付ける聖句があります。

 
「兄弟たちよ、族長ダビデについては、私はあなた方に向って大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、私たちの間に残っている。彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位に就かせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉(よみ)に捨て置かれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを、神はよみがえらせた。そして、私たちは皆その証人なのである」。使徒行伝2:29〜32

 「キリストも、あなた方を神に近づけようとして、自らは義なる方であるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
 こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところへ下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、昔ノアの箱船が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱船に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」。Tペテロ3:18〜20


陰府・黄泉・ハデス

 ★「陰府」も「黄泉」も共に新約聖書ギリシャ語の「ハデス」の日本語訳として用いられていますが、「陰府」は文章語であると辞書にあります。
 ★「ハデス」は新約聖書の中では非キリスト者の死後の状態またはその場所として描かれています。
主イエスのたとえ話の中で神を恐れぬ貪欲な金持ちが死後このハデスに落とされ、火炎の中で苦しみもだえている様子が描かれています(ルカ16:22〜24)
 ★上記のTペテロ3:18〜20から、主イエスが十字架の死後行かれた場所が、この金持ちが落ちたハデスであることは明確です。
 ★しかし、主イエスがこのハデスで苦しまれたとはどこにも書かれていません。主イエスは十字架上の死の直前に「完了した」と宣言しておられますから、主による罪のあがないの事業はこの時、完了したのです。ですから、主は黄泉の火炎の中で苦しみもだえる必要はなかったのです。
 ★旧約聖書時代のダニエルの3人の友人がネブカデネザル王の建てた金の偶像の前で頭を下げなかったために火の燃える溶鉱炉の中に投入された時、火の中で御使いと共に何の害も受けずに歩き回っていました。この3人が炉から出された時、
「火は彼らの身に何の力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套は損なわれず、火のにおいもこれに付かなかった」(ダニエル3:27)とあります。

主はハデスに下り最終の敵・死の力を持つ者への勝利を宣言された
 ★主は「昔ノアの箱船が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者ども」
(上記Tペテロ3:18〜20)のいるハデスに下り、「宣べ伝える」ことをされましたが、主ご自身は彼らと共に苦しむ必要はありませんでした。
 ★主は私たち罪人をあがなうために、地上で十字架の死と葬りの道を通られた後、罪人の死後の行く先としてのハデスに下ることによって、あがないの事業の完成を宣言されました。
 ★上記Tペテロ3:18〜20の中で「彼は獄に捕らわれている霊どものところへ下って行き、宣べ伝えることをされた」と言われている「宣べ伝える」と訳されている言葉「ギリシャ語/ケーリュッソー(宣言する)」は「福音を宣べ伝える」という意味の「ユーアンゲリゾマイ」とは違うことばです。従って、一部の教会が解釈するように、主イエスはハデスで福音を語り、死人たちに死後の悔い改めと救いのチャンスを与えたのではありません。「死後にも悔い改めと救いのチャンスがある」という教えは聖書の中には全く存在しません。
 ★主イエスのハデスでの宣言は「ハデスの力=死の力=サタンの力」に対する勝利の宣言でした。

「そこで、私もあなたに言う。あなたはペテロである。そしで、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」マタイ16:18

「このように、子たちは血と肉とに共に与かっているので、イエスもまた同様に、それらを備えておられる。それは、死の力をもつ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」ヘブル2:14,15

 ★このように、主イエスは私たち罪人の通るべき全行程、全生涯を罪を除いて私たちと同じように黄泉に至るまで歩み通されました。これによって、主は私たちをこの世だけでなく、来るべき世でも救ってくださるまったき救い主であることを示されました。

キリスト者と非キリスト者の死後
 ★ハデスは地獄(ゲヘナ/キリストを拒否する人々の行くべき究極の場所・火と硫黄の燃える池)ではなく、中間地点ですが、カトリックが創作した煉獄のように、地上の親族らの献金や祈りによって天国へ移される希望を持たせてくれる場所ではありません。
 ★キリスト者の死後の場所は、キリストと共に居るパラダイスではありますが、ここも信仰者の到達する究極の場所ではなく、やはり中間点であり、究極の場所はキリストの再臨後再創造される新天新地にあります。
 ★そこにおいては、私たちはキリストの復活のからだと同様の栄光のからだ、天国のからだを与えられ、神とキリストと共に永遠至福の生活が始まるのです。
 ★ノアの箱船の出来事は、科学的に実証されている歴史上の事件です。単なる寓話ではありません。この箱船によって救われたのはたったの八人でした。この事件は世の終わりの日の裁きのひな形であり、モデルであり、予告であり、世の終わりに臨む私たちへの警告です
(Tコリント10:6,11)。このノアの洪水の時ほどではありませんが、世の終わりの日に救われる人々は、大方の楽観的予想に反して甚だ少人数となるかも知れません(ルカ13:22〜30)

 
聖書
 「私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下ってくるのを見た。また、み座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人とともに住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
 すると、み座にいます方が言われた、「見よ、私はすべてのものを新たにする」。また言われた、「書き記せ。これらの言葉は信ずべきであり、まことである」。
 そして、私に仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルファであり、オメガである。初めであり終りである。乾いている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。私は彼の神となり、彼はわたしの子となる。
 しかし、臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。黙示21:1〜8

キリスト紀元2007年 5月 10日公開



Q.28 牛車から落ちそうになった神の箱を支えたウザは何故、神に撃たれ死なねばならなかったのか?

A.
1.ウザの出来事とその背景
 

聖書
 「彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子たちウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱の傍らに添い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と竪琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌を歌い、力をきわめて、主の前に踊った。
 彼らがコナンの打ち場に来た時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押さえた。牛がつまずいたからである。すると、主はウザに向って怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。その日ダビデは主を恐れて言った、『どうして主の箱が私の所に来ることができようか』。ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテ人オベデエドムの家に運ばせた」(Uサムエル6:3〜10)。



★神(主)の箱とは
 契約の箱とも呼ばれます。アカシヤ材で作られた、長さ約1.13m、高さ・幅共に約0.68mの箱で、中にはモーゼがシナイ山で神から授かった十戒が刻まれた2枚の石板、イスラエル民族がシナイの荒野で40年間養われた天から降ってきた神のパン・マナが入ったつぼ、アーモンドの芽を出し花を咲かせ、実を付けたアロンの杖
(民数記17:8)の3点が入っていました(ヘブル9:4)。この神(主)の箱は主なる神の臨在の象徴でした。
 ★イスラエル民族が異教徒ペリシテ人との戦いに敗れて神の箱は奪われましたが、この神の箱のためにペリシテ人に裁きが下ったので、ペリシテ人は神の箱を金の供え物と共に牛車に乗せてイスラエルに送り返しました
(サムエル上4〜6章)
 ★イスラエルに戻った神の箱は長らくアビナダブの家に留まっていましたが、ダビデ王がこの神の箱を首都エルサレムに運び込もうとした時にこの出来事が起きました。

2.ウザが神に撃たれた訳
 ★ウザが打たれて死んだのは、律法に祭司しか触れてはならないと定められていた、この神の箱に手を伸ばして触れたことが直接の原因でした
(民数記4:17〜20)
 ★さらに、別の原因がありました。「神の箱を運ぶ時は、祭司が肩で担いで運ばなければならない」という規定が律法の中にありました。ダビデ王とその民はその律法の定めを忘れたのか、軽視したためか、ペリシテ人が牛車で送り返して来たのを見てそのまま真似して牛車で運んでしまったためでした。

 
「(神の箱についての律法の一部)またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない」(出エジプト記25:13,14)。

 ★従って、ウザの過ちはダビデ王とその民の過ちでもありました。ペリシテ人は彼らの占い師に教えられた通りに、新しい牛車に神の箱を載せて来ました(Tサムエル6:7)。主は律法を知らない異邦人のすることは大目に見られましたが、律法をわきまえているはずのダビデとイスラエルらがすることには厳格に対処されました。
 ★ウザはつまずいた牛によって積み荷の神の箱が落ちそうになったので手を伸ばして支えようとしました。彼のそのとっさの行為は人間としては当然の行為であったように見えます。しかし、その積み荷はただの貨物ではなく、祭司以外の者が触れてはならないと定められている「神の箱」でした。それで、ウザはいわば見せしめとして処刑されたのでした。
 ★「主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った」
(Uサムエル6:8)とあります。ダビデは主のなさったことに腹を立てると共に、理由の分からない緊急事態の発生に恐れの念を覚えました。
 
「その日ダビデは主を恐れて言った、『どうして主の箱が私の所に来ることができようか』。ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテ人オベデエドムの家に運ばせた」(Uサムエル6:9,10)。

 ★しかし、その後ダビデはこの時の自分たちの間違いに気付きました。

 
「『あなた方はレビ人の氏族の長である。・・・さきにこれ(主の箱)をかいた者があなた方でなかったので、我々の神・主は我々を撃たれました。これは、我々がその定めに従ってそれを扱わなかったからです』。そこで、祭司たちとレビ人たちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め、レビ人たちはモーセが主の言葉に従って命じたように、神の箱をさおをもって肩にになった」(T歴代15:12〜15)。

 
「宿営を進む時、アロンとその子たち(祭司)とが、聖所と聖所のすべての器を覆うことを終わったならば、その後コハテの子たち(レビ人)は、それを運ぶために、入ってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである」(民数記4:15)。

3.この出来事の教訓

 ★
「これらの事が彼らに起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである」(Tコリント10:11)
 と聖書は言っています。
 ★このウザの出来事は私たちに何を教えているのでしょうか。それは、新約聖書ヨハネ4:23,24に教えられています。

 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者達を求めておられるからである」(ヨハネ4:23,24)。

 ★ダビデが神の箱を新しい牛車で運ぼうとしたように、異教徒のやり方や聖書に無いやり方を主なる神礼拝の場に持ち込んではならない、ということです。
 ★また、神の箱に触れる資格のないウザが箱に触れたように、神の言葉を無視してたとえ善意からであろうと、人間的思いから、み言葉に付け加えたり、取り除いたりするに等しい行為をしてはならないのです。

 ★特に聖霊によって礼拝していると自認する教会とその信徒たちは「霊とまこと」の「まこと」、つまり「み言葉の真理」に絶えず立ち返って、自分達の行動を軌道修正をする必要があります。

 ★聖霊派の教会の中には、信徒の上に手を置いて祈るとその信徒が後ろにひっくり返って倒れてくれるのを見て得意になっている牧師達がいます。
 ★しかし、聖書では、聖霊の力で倒れるのは信徒ではなく、キリストの敵対者達です
(ヨハネ18:5)

 ★聖書が世の終わりまで守るように教え
(Tコリント11:26)、使徒たちが毎週の公同礼拝で守っていた(使徒20:7)聖餐式を軽んじて、年1回位しか行わないプロテスタント教会があります。牧師の誤った聖餐式理解のため、正しい執行によって受けるはずの恵みを信徒が受けられないようにしています。

 ★祈りの時間の長さを誇っている牧師たちもいます。しかし、彼らは、「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ聞き入れられるものと思っている」
(マタイ6:7)という主のみ言葉を忘れています。大体、祈祷時間の長さを誇りとしている人々は聖書を読む分量と時間が少ないものです。

 ★また、信徒数の多い大きな教会は即神に祝福された教会だとして、信徒の数の多さを誇っているキリスト教会があります。しかし、日本の新興宗教創価学会も世界宗教のの一つのイスラム教もその信徒数から見ると並はずれた巨大宗教団体です。ただし、彼らが数的に栄えているのは、永遠の裁きの火に彼らが投入される世の終わりの日まで、彼らの中の幾人かでも悔い改めて救われるように、裁き主なる神が忍耐して待っておられるからに他なりません
(Uペテロ3:9)

 ★聖書の時代と違って、ウザやアナニヤやサッピラ
(使徒5:1〜11)が即死したように、聖書に違反した行為がただちに裁かれることは今の時代はありませんが、世の終わりに裁かれずに済むことは決してありません。


キリスト紀元2007年 7月 10日公開



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