聖書に関するQ&A


 Q.29 福音書は何故4書あるのか?

A.
T.真実は2〜3人の証言によって確立する

 ★主イエスご自身が、「すべての事柄は2人か3人の口によって確かめられる」
(マタイ18:16)、と言っておられます。福音書著者のうち、マタイとヨハネは主イエスが直接選ばれた12使徒のメンバーであり、マルコは使徒ではなかったが、キリストの弟子として、主の受難の最後の数時間を目撃した、あの青年であったと見られています(マルコ14:51,52)
 ★そういう訳で、福音書は主イエスの3人の目撃者(マタイ、マルコ、ヨハネ)と目撃者たちから直接聞くことが出来た使徒パウロの同労者で医者でもあったルカの4人によって書かれています。

 ★「事実は2,3人の証言によって確かめられる」という主イエスの言葉は申命記19:15にも記されている律法の言葉であり、神の法廷において事実が確認される方法でもあります。
 ★従って、4つの福音書のキリスト証言は神の法廷において事実と認定されるに十分な証言であることを示しています。
 ★これらの4福音書は、それぞれ独自の視点から書かれた独立の書としてあらわされた書でありながら、4書は調和しており、人となられた神の御子なる救い主イエス・キリストを描いています。
 ★この4書が神の霊感によって書きしるされた「神の言葉」なる福音書として初代教会から認定されています。

U.4福音書の特色
 ★マタイはユダヤ人を対象として書かれており、ナザレのイエスが旧約聖書のメシヤ預言の成就者・王なるキリストであることを実証することを主目的として書かれています。そのため、先ず初めにキリストの系図を掲げ、主イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子であることを明示しています。

 ★マルコはキリストの系図や天から来られた神の子であることには触れず、主の僕としてのイエス・キリストを示しています。

「あなた方の間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならなければならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人々のあがないとして、自分の命を与えるためである」マルコ10:44,45。

 ★本書は4書の中で最も短い書であり、イエス・キリストが天から遣わされた神と人との僕として短い3年数か月の公生涯の間に枕するところもない多忙な奉仕者として人々の救いのために、速やかに、忠実に、簡潔に、遅滞なく行動され実践されたことを物語る、主イエスの行動の書です。

 ★ルカは新約聖書記者の中で唯一異邦人であり、異邦人読者を主な対象として執筆しています。医者であると共に学者であり、多くの資料を念頭に入れつつ、イエス・キリストの教えと行動を順序立てて記述しています。
 ★ルカの強調点は歴史上の人物である「人の子」としての主イエスであり、マタイの系図がアブラハムからダビデを通ってイエスの養父ヨセフに下っている
(マタイ1:1〜16)のに対し、ルカの系図は逆にマリヤの父ヘリからダビデ、アブラハム、人類の始祖アダムにまでさかのぼって(ルカ3:23〜38)います。
 ★少年時代の逸話を語る唯一の福音書であり、人となられた神イエス・キリストは少年時代両親に忠実に仕えつつ人間として日々成長を遂げられた真の人でもあられたことを証言しています。

 ★以上の3福音書は第四のヨハネ福音書に比べて、話の運び方、語り方が互いに似た所があるので、共観福音書と呼ばれています。

 ★ヨハネの福音書はキリストの神性に焦点を当て、イエスを神の御子として強調的に描いています。そのため、人としての系図には触れないで、天地創造の時代やそれ以前のキリストの神の御子・神のことばとしての存在と働きについて本書のはじめに触れています。
 ★ヨハネは他の3記者が共通に記している記事の多くを省いている代わりに、3記者が記していない出来事や教えなどを取り上げています。イスラエルの指導者ニコデモとの「新生に関する論議」や十字架の死の直前になされた12弟子への「別れの説教」や「執り成しの祈り」はヨハネだけが取り上げています。共観福音書に比べて、思索的、神学的であるとも言えます。
 ★また、他の福音書に書かれていないキリストの神性についての証言が描かれています。主が「アブラハム(イスラエル民族の始祖)の前から私はいるのである」と言われたこと
(ヨハネ8:58)や、主を捕らえるために来た敵の一団を「私がそれである」と言う一言で地面になぎ倒したこと(ヨハネ18:5)などが記されています。

V.4福音書の個性ある描写によってキリスト像はより立体的、より鮮明になっている
 ★目撃者が一人だけの場合より、視点の違う複数の目撃者によって事件の真相がより詳しく確かさを増すように、互いに独立した四福音書記者の独自の証言によって、キリストの福音はよりリアルなものとなっています。
 ★四福音書を比較研究したある法律の専門家は四書の記者が互いに相談・結託して四書を書き上げたことをにおわす証拠を微塵も発見出来なかったと言っています。

 
a.五千人の給食の奇跡とその前後の記事を一例として福音書の信憑性(しんぴょうせい)を確かめる
 ★
「私が命のパンである。私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)

 と言われた主イエスの福音にとって、五千人への給食の奇跡は重要な位置を占めています。
 ★そこで、この奇跡は4福音書全部に記された唯一の奇跡となっています
(マタイ14:13〜21、マルコ6:30〜44、ルカ9:10〜17、ヨハネ6:1〜13)。この奇跡は女性と子供を数に入れず、男性だけで五千人(実際は全部数えれば一万人位)の人々に、5つのパンと2匹の魚を分け与えて彼ら全員を満腹させた奇跡です。
 ★この奇跡とその前後の4福音書の各記事が、いかにお互いを補完し合い、主イエスの福音を立体的かつ鮮明なものにしているかを見てみましょう。

 ★この奇跡と酷似した四千人の給食の奇跡が、マタイ15:32〜38とマルコ8:1〜9に出て来ます。聖書批評家は同じ出来事だと判定しようとしますが、二つの奇跡の違いは人数やパンの数だけでなく、五千人の給食の時、人々が座ったのが草の上だったのに対して、四千人の時は地(新改訳は「地面」)の上となっていて、二つが明らかに別な出来事であることが分かります。
 ★それに、主イエスが「パリサイ人とサドカイ人とのパン種に気を付けよ」と弟子たちに諭した際、五千人と四千人の二つの給食の奇跡に言及しておられる
(マタイ16:6〜12)ことによって、この二つが明らかに別の奇跡であることがはっきりして来ます。
 ★それにしても、学者が同じ出来事と疑いたくなるほど、二つの奇跡の時の弟子たちの反応が同じであり、二度目の4千人の給食の時の弟子たちの言動に何の進歩も成長も見られない点を見ると、主が弟子たちの信仰の鈍さにあきれて、「まだ悟らないのか」とマルコ8:21で嘆いておられるのも納得させられます。
 ★五千人の給食をなさる前に、主イエスは弟子たちに「あなた方の手で食物を与えなさい」と命じておられますが
(マタイ、マルコ、ルカ共に記す)、ヨハネは主がご自分のなさろうとしておられることを知っておられ、弟子たちを訓練するためにそう命じられたこと、そしてその五つのパンと二匹の魚は一人の少年が自分の弁当を差し出したものであることを明かしています(ヨハネ6:6〜9)

 ★次に、5千人の奇跡終了の後、主が弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ご自分より一足先に向こう岸のベッサイダに送り出された時、弟子たちがしぶしぶ従った理由を考えて見ましょう
(マルコ6:45)
 ★主が弟子たちを強いて舟に乗り込ませ送り出されたことがマタイ14:22にも記されていますが、マタイとマルコを読み進んでもその理由ははっきりしません。しかし、ヨハネ6:22を読むとその理由が分かります。そこには、こう書いてあります。

 
「その翌日、海の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一せきあっただけで、他にはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちと一緒に乗られないで、弟子たちだけが乗って行ったということに気づいた」ヨハネ6:22(新改訳)。

 ★弟子たちが、主イエスに強いられなければ、自分たちだけで舟に乗ろうとしなかったのは、いつも主と一緒に居たいという願いだけではなく、そこに一隻しか舟がなかったので、主イエスが乗る舟がなくなり、主はガリラヤ湖岸を徒歩で迂回しなければ対岸に行けないと、彼らは心配したからでした。
 ★主イエスが弟子たちの舟の横の水面を歩いて渡って来られるとは弟子たちは全然想像もしていませんでした。そこは荒波と風の吹きすさぶ夜の湖面でしたので、彼らは幽霊を見たと思って恐怖で叫び声を上げるほどでした
(マタイ14:26)
 ★弟子たちは以前にこの同じ湖で主と共に乗舟していた時、主がその時と同じ荒波と暴風を叱りつけて鎮められたのを目の当たりにしていましたが
(マルコ4:35〜41)、その時の経験から学び取った事は何もありませんでした。
 ★主イエスが弟子たちだけ先に一隻だけの舟に強いて乗せご自分一人で山に登られた理由は、給食の奇跡を見た群衆が主イエスを王に祭り上げようとしたのを知ってそれを避けるため
(ヨハネ6:14,15)と、山で祈るため(マタイ14:22,23)、それに、弟子たちを訓練するためでした。すなわち、暴風で漕ぎあぐね、前進できないでいる弟子たちの横の湖面を歩いて通り過ぎることによって、弟子たちに呼び求められて乗舟することで、舟がたちまち安全に対岸に到着するという体験(ヨハネ6:21)を通して、主のみ心にかなう歩みをするためには、主から離れては何も出来ない事を悟らせるため(ヨハネ15:1〜5)でした。
 ★私たちの人生の舟も主イエスを船長としてお迎えするなら、どんな人生の荒波も世の終わりの裁きの火さえも乗り切ることができるのです。
 ★また、主イエスはご自身が人として苦しみを通して成長された方
(ヘブル5:7〜10)ですので、私たち主の僕達にも信仰的に日々成長することを願って、訓練を与えてくださる方です(ヤコブ1:12)
 ★福音書のそこここに記録されている、弟子たちの信仰の鈍さに対する主イエスの嘆きのことばは、私たち自身への言葉と受け止め、キリスト者は日々信仰の成長を目指したいものです。

 
b.福音書と聖書全体は通読するだけでなく、分析、比較、対照などをしつつ、詳しく聖書研究する者の努力に答えて、霊的宝物としての真理を提供してくれる書物である

「そこで、イエスは彼らに言われた、『それだから、天国の事を学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである』」(マタイ13:52)

「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(新改訳/みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。)詩篇119:130



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キリスト紀元2007年 9月 10日公開


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