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   主イエスのたとえ話

  
〈17〉金持ちとラザロの話


聖書
 ★ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜい沢に遊び暮らしていた。 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その食卓から落ちる物で飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬が来て彼のでき物をなめていた。
 ★この貧しい人がついに死に、御使い達に連れられてアブラハムのふところに送られた。
 金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら、目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかに見えた。
 ★そこで彼は声を上げて言った、『父アブラハムよ、私を哀れんでください。ラザロをお遣わしになって、その指先を水で濡らし、私の舌を冷やさせてください。私はこの火炎の中で苦しみもだえています』。
 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとあなたがたとの間には大きな淵が置いてあって、こちらからあなた方のほうへ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ越えて来ることも出来ない』。
 ★そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロをお遣わしください。私に5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告して頂きたいのです』。
 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者がある。これに聞くが良かろう』。
 ★金持ちが言った、『いいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟達の所へ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
 ルカによる福音書16:19〜31


 はじめに
 ★この話は一般にたとえ話の一つと考えられていますが、普通のたとえ話と違って、アブラハムという実在の人物名とラザロという人物名が出ているところから、この話は実話であるとする説もあります。
 しかし、主イエスのすべてのたとえ話は神の国の奥義と真理とを解き明かすために創られた話ですから、この金持ちとラザロの話は神の国の奥義と事実を物語り化したものという意味のたとえ話である言うことができます。
 しかし、死後の命と神の裁きを否定する異端の「エホバの証人」がこの話を単なる寓話と言う意味での「たとえ話」としていますので、彼らに対しては、断固として「この話は実話です」と言わなければなりません。
 ★また、この話は直前の「不正な家令(管理人)のたとえ」を聞いた「欲の深い」(新改訳「金の好きな」)パリサイ人らが主イエスをあざ笑った事に対応して、彼らパリサイ人に向けて語られた話でした。


 この話の要約
 ★ある金持ちが毎日をぜい沢に暮らしていた。その金持ちの玄関にラザロという名の貧乏人が金持ちの食卓から落ちる残飯で飢えをしのごうとしていた。
 ★ラザロは死後アブラハムのふところにいだかれ、永遠の安息に入れられました。金持ちも死んで、葬られましたが、黄泉(よみ)の火炎の中に投げ込まれ、もだえ苦しんでいました。金持ちがアブラハムに「ラザロを私の父の家に遣わして、私の兄弟達がこんな苦しい所に来ることが無いように警告させてください」と願うと、アブラハムは「彼らにはモーセと預言者(聖書)がある。これに聞き従わないなら、死人の中からよみがえる者があっても悔い改めることはないだろう」と言った。

 解説
 T. 二人の生前の生活
 A. ラザロ
 a. ラザロの名の由来

 エレアザルの短縮形で、「神は私の助けである」という意味をもっています。この名の通り彼は、神の助けを信頼し、この世的に不幸な身の上にもかかわらず神を呪うこともせず、最後まで耐え忍んで信仰の道を歩み通したと考えられます。
 b. 生活
 金持ちの玄関の前に「座り」(新改訳は「寝ていて」)と訳されている語は「置かれていた」とも訳せるので、何かの病気で全身が出来物で覆われていたために働けず、友人や家族に運ばれてそこに「置かれていた」と考えられます。

 B. 金持ち
 a.
 玄関に毎日運び置かれていた貧乏人ラザロが、金持ちの食卓から落ちる残飯で「飢えをしのごうとしていた」という文面から、金持ちはラザロにその残飯も十分には与えていなかったようです。
 b. 目の前にいる隣人ラザロの経済的・肉体的困窮を知りながら、この世の富を自分だけのために用い、隣人ラザロを援助するためには一銭も使おうとしませんでした。彼が盗みや殺人などの犯罪を犯したという記録はありませんが、実践すべき隣人愛を怠っていました。


 U. 二人の死後の状態
 A. ラザロ
 
a. 御使いによってアブラハムのふところに運ばれました。主を信じて死ぬ死者は天の御使いによって天に運ばれます。御使いは、救いの相続者となる人々に仕えるために主から遣わされます(ヘブル1:16)
 b. アブラハムのふところという表現は、天の祝宴でアブラハムの隣席の名誉ある席を表しています。彼は、地上でただ貧しい生活に耐えたからではなく、貧困の中にあっても主に信頼して聖い信仰の道を貫いたが故に、地上の生活とは逆転して栄光の座に迎えられたのでした。


 B. 金持ち
 a. 彼の地上の最後は荘厳な葬儀でとむらわれたと思われます。しかし、死後の彼を待っていた生活は黄泉(よみ・ギリシャ語「ハデス」)の火炎の中でもだえ苦しむ生活でした。黄泉(よみ・ハデス)は、最終的地獄(ゲヘナ)に投げ込まれる日が来る前に不信仰者が入れられる所と言われます(黙示20:13,14)
 b. 彼は地上では願うものはほとんど何んでも手に入れることができました。しかし、ここでは喉の渇きを癒す水の一滴さえも与えられない生活です。

 c. 金持ちが落とされた黄泉(よみ)の世界と救われたラザロの住む世界との間には超えられない大きな淵があって、互いに行き来することができませんでした。
 d. 黄泉(よみ)でもだえ苦しみながら、愛する兄弟達がこんな所に来ないように願いました。キリストの救いに与ることなくこの世を去った多くの我らが同胞の霊魂は、今火炎の中で苦しみながら親族・子孫がこんな所に来ないように心から願っています。
 e. 金持ちは、ラザロがよみがえって兄弟達に警告してくれれば、彼らは罪を悔い改めてくれると考えました。しかし、アブラハムの答えは、「聖書に聞き従わない者は、誰かが死者の中からよみがえって警告しても聞き入れない」というものでした。

 V. 聖書が語るキリスト者と非キリスト者の死後の状態
 
A. キリスト者の死後の状態
 a. キリスト者は死後ただちにパラダイス(天国)に移されます
(ルカ23:43)。そこは、父なる神とキリストとの意識ある交わりによる平安と喜びと楽しみの世界です(2コリント5:6〜8;詩篇16:11)
 b. 世の終わりの日、キリスト再臨の時に復活のキリストと同じ栄光の身体を与えられ、再創造される新天新地で永遠に至福の時を生きるのです。

 B. 
非キリスト者の死後の状態
 a. 知りながら犯す罪は、知らずに犯した罪より重く罰せられると聖書は言っておりますから
(ルカ12:47)、死後の裁きも人によって、軽重の違いがあると思いますが、永遠の刑罰が待っていることに変わりはありません。意識の無い世界ではなく、確かな意識を持って、火炎の中でもだえ苦しむことになります。
 b. 世の終わりのキリスト再臨の日に恥辱の身体によみがえらされ
(マルコ9:47,48:ダニエル12:2)火と硫黄の燃える池に投げ込まれます。
 「しかし、臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである。これが第二の死である」
(黙示21:8)

 
この話が教えること
 T. 
聖書の話(福音=良い知らせ=ゴスペル)を聞いて信じない者は、天国や地獄から戻って来た人の体験談を聞かされても悔い改めることはできないこと。
 a. 聖書が私たちに求める信仰は見ないで信じる信仰です。
 「イエスは彼(トマス)に言われた、『あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである』」
(ヨハネ20:29)
 復活の主に出合って、復活の主の身体に直接触れることが出来た使徒たちは幸いな人達だと、あなたは言うかも知れませんが、彼らとて、墓の中で布にくるまれた中から主が復活する状況を目撃することを許されてはいません。彼らも見ないでキリストの復活の事実を信じたと言えます。
 この話をなさった後、主イエスは別のラザロ(ベタニヤの人、マルタとマリヤの兄弟)を死後5日目に墓からよみがえらせなさいました
(ヨハネ11:43,44)。死者の中から復活したこのラザロを見た祭司長・律法学者達はこれによって主イエスとその福音を信じたでしょうか。いいえ、彼らは、主イエスばかりかラザロも一緒に抹殺しようと企んだのです(ヨハネ11:53;同12:10,11)
 この話の中のアブラハムが言っているように、聖書の言葉を聞いて信じない者は、復活などの奇跡を目の当たりにしても、信じることも罪を悔いることもないのです。
 十字架の死後3日目に復活された主が信者にだけ現れ、不信仰者には姿を現されなかったのはそのためです。
 b. 信仰は聖書から来るのであり、奇跡の体験から来るのではありません。
 「従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」
(ローマ10:17)
 それ故に、信仰に成長したい者は、聖書を熱心に読まなくてはいけません。

 
U. 地上生活での貧富の違いは来世の生活の違いと関係ないこと。
 a. ラザロは貧乏だったから天国に行ったのではく、金持ちは金持ちだったから地獄に行ったのではありません。
 
天国のアブラハムの地上生活は金持ちでした(創世記24:1)。それで、ユダヤ人は金持ちは神に祝福された人々で、貧乏人は神に呪われた人々だと信じていました。そこで、主はこの話で彼らの間違いを指摘されました。新約時代では、裕福が神の祝福のしるしではなく、貧乏や病気は神の呪いのしるしではありません。この話がそれを教えています。
 b. この金持ちはアブラハムのようにこの世の富で友達をつくる努力を怠っていました。それが、彼の地獄行きを決定付けたのです。
 
聖書は行いの無い信仰を否定しています(ヤコブ2:17)。初代教会のクリスチャン達は善行(良い行い)にみな熱心でした。今のクリスチャンである私達は見習う必要があります。聖書は「貧しい人達をかえりみなさい」(ガラテヤ2:10)と言っています。不況の時代ですから、特に教会内の貧しい人々に援助の手を差し伸べることを忘れないようにしたいものです。
 「私たちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、誰に対しても、特に信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」
(ガラテヤ6:9,10)

 V. 死後の運命は取り返しが付かないものであること。
 a. 死後、地獄に落ちた者は天国へ移動できず、天国に入った者が地獄に移動されることはありません。
 b. ですから、今と言う時に、救い主イエス・キリストを心に迎えることが、すべての人にとっての最重要課題であると言わねばな
りません。あなたにとって、明日はもう無いかも知れません。「確かに、今はめぐみの時、今は救いの日です」(2コリント6:2)

 結び
 
万人救済主義者たちは、愛の父である神が人を永遠の地獄の火に落とすはずが無いと勝手に決め付けて、内心の不安を鎮めようとしていますが、神のご計画は「イエス・キリストを信じる者を救う」こと(1コリント1:21)であって、信仰のあるなしにかかわらず万人を救おうと言うものではありません。
 手遅れになる前に、主イエスを心に迎え入れ、神との和解を済ませておいていただきたいものです。

 聖書
「すなわち、神はキリストにおいて、世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音を委ねられたのである。神が私たちを通して勧めをなさるのであるから、私たちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい」(2コリント5:19,20)



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キリスト紀元2005年 8月 10日公開

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