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    話の泉

〈8〉カトリックの煉獄の教理について
   −救われた者に煉獄の火が必要か?−


 ★カトリック教会については、余り関心が無かったのですが、当教会のホームページのキリスト教に関するQ&AQ6「カトリックとプロテスタントの違いは何か?」を書いてから、書いた以上、内容に責任があるので、改めて書物やインターネットで調べてみました。そうするうちに、カトリック教会という存在の非聖書的かつ反キリスト的様相が、これまでの筆者の理解以上に大きく、かつ深刻なものであることが見えて来ました。その非聖書的かつ反キリスト的様相の一つとして煉獄の教理を取り上げます。
 ★先ず、カトリックが煉獄の教理で何を教えているかを見てみます。カトリック要理第21課147項を見ると、こうなっています。「煉獄とはどういう所ですか。」「煉獄とは、この世で果たし終えなかった罪の償いを果たし終えるまで、義人の霊魂が苦しみを受ける所です。」つまり、告解やミサや献金で罪の償いを果たし終えないで死んだ信仰者(聖人に列せられた人々を除くすべてのカトリック教徒-その中には司祭やローマ教皇自身も含まれます)がその罪のきよめを受けるために火で焼かれる所、それが煉獄です。地獄の苦しみとの違いは、期間だけです。すなわち、地獄の苦しみが永遠に続くのに対し、煉獄の苦悩は有限の期間内であるとしています。
 ★この教理の起源となる思想は聖書には無く、キリスト紀元前のインド、ペルシャ、エジプトなどの異教世界にあり、これが後にギリシャ・ローマ哲学に取り入れられたと見られています。アレクサンダー大王の世界制覇に伴い、この思想が世界に広がり、カトリックが聖書の中に加えている外典の一つ2マカベア書12:39〜45にその影響が見られます。カトリックが煉獄の教理の根拠として上げているテキストの一つがこれで、プロテスタントを納得させる説得力はありません。また、カトリックが聖書の中の有力な証拠テキストの一つとして上げている1コリント3:13〜15は煉獄の教理を証拠付けるものではありません。この聖句は世の終りの日の、救いに定められたキリスト者に対する神の裁きの状況を描いているものであって、自分の人生という建物が全く神の評価にあたいせず、燃やされて灰に帰してしまうが、本人自身は炎焼する家からかろうじて救出される人のように救われる、アブラハムの甥ロトのようなクリスチャン人生もあることを語っているのであって、煉獄とは何の係わりもありません。
 ★カトリックは黙示録21:27「すべて汚れた者は都(天国)に入れない」を盾にキリスト信徒も地上にいる間にきよさを完成した訳でないから、残った汚れを清めるための最後の過程として煉獄の火が必要なのだ、と主張します。しかし、主イエスがライ病人にさわり「そうして上げよう、清くなれ」と言われた時、彼はただちに清められたのであり
(マタイ8:3)、十字架上の強盗の一人も信仰によりただちに罪を清められ「今日あなたは私と一緒にパラダイスにいる」と宣言されているのです(ルカ23:43)。主がすでに清められたものを「清くない」と言ってはならないのです(使徒10:15)。カトリックのこの言い分を封じる御ことばは、「御子イエスの血潮が、すべての罪から私たちをきよめる」(1ヨハネ1:7)。「御子イエスは罪のきよめのわざをなし終えられた・・」(ヘブル1:3)。「キリストは一つの捧げ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである」(ヘブル10:14)。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。などたくさんあります。
 ★1597年2月に長崎で殉教した26聖人のうち3名は、自ら進んでその十字架刑を志願したと言われますが、筆者が煉獄を教え込まれたカトリック信徒だとすれば、寿命まで生きて後、いつ果てるとも知れぬ煉獄での苦しみを受けるよりは、殉教者として殺されて一挙に天国へ直送してもらえるなら、その方を選びたいと思うかもしれません。
 ★カトリックがこの教理を根拠として、悲しむ遺族から死者の煉獄での苦しみを軽くするためのミサの料金を今日も要求していることはカトリックの公式サイトが認める事実です。プロテスタントの神学者ローレン・ベトナーLoraine Boettnerの名著 “Roman Catholicism”(published by The Presbyterian and Reformed Publishing Company in 1964)には45年前に亡くなった夫の煉獄での苦悩を和らげるためのミサの挙行と料金の支払いとを求められた未亡人の実話も出ています。カトリックがどのように弁明しようと、この教理が教会の蓄財の有力な手段の一つであることは間違いないようです。
 ★カトリックの聖職者集団が、やもめの家を食いつぶしていた律法学者・パリサイ人たち
(マタイ23:14)の子孫であると言っても過言ではないでしょう。そして、これは異教である日本の仏教が葬式仏教とたたかれても懲りないでいる姿と同一であり、聖書を軽視して人が作った伝統を重んじる教会であり続ける限り、カトリック教会は宗教改革時代の醜悪な姿と何ら変わりないのです。
 ★私たちプロテスタントは、キリスト信仰の道を最後まで耐え忍ぶなら、煉獄なるものを通ることなく、天国へ直送していただけることを、みことばによって確信できることを感謝しつつ
(ヨハネ5:24)、カトリックを他山の石として自らを戒め、みことばと御霊によって清められ、恐れおののいて己が救いを達成する(ピリピ2:12)ことに励みたいものです。


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キリスト紀元2003年 6月 1日公開

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