聖書に関するQ&A

    Q.20 ダチョウの生態に関する聖書の記述は間違いですか?

 Q.19 「死者のために祈ること」について聖書は何と言っているか?

 A.ここで、「死者のために祈る」ということの意味を世間の言う「冥福を祈る」と同じような意味で、死者が「死後の世界で幸せであるように祈る」という意味で考えます。
 ★キリスト教会の中で、カトリック教会と聖公会は死者のために祈ることを教えますが、聖書に立つプロテスタント教会は死者のための祈りを禁止しています。
 ★旧新両約聖書66巻には死者のための祈りの言葉そのものやそれについての直接的教えはありません。それでは、死者のための祈りは信仰者各自の判断に任せられるべき問題かと言うと、そうではありません。聖書のことばを丹念に学び研究することによって、「死者のために祈る」ことが神のみこころに反することであることが結論出来るのです。

 ★まず、人の死後の行く先とその状態については、その人の死の直前のキリスト信仰の在る無しに従って、死後神によって決定付けられるのであって、地上に生きている人の祈りによっても、功徳によってもその決定を覆すことは出来ないのです。

 
「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで、神は宣教の愚かさによって、信じる者を救う事とされたのである」Tコリント1:21

 ★カトリック教会の「死者のための祈り」は
煉獄の教理と密接に繋がっています。この二つの教えは共に聖書から来たものでなく、伝統に基づくものであり、人の教えに基づくものです。

 「こうしてあなた方は、自分達が受け継いだ言い伝えによって、神の言葉を無にしている。また、このような事をしばしば行なっている」。 マルコ7:13

 ★人が死んだ場合、クリスチャンはキリストの十字架と復活のあがないによって直ちにキリストと共にある天国(パラダイス)に移されます。

 「私は、これら二つのものの間に板ばさみになっている。私の願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」。ピリピ1:23
 「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう』」。 ルカ23:43


 ★キリストを信じていなかった人は自分の行い(思いと言葉も含まれる)によって裁かれ、永遠の滅びに定められます。

 「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」。へブル9:27
 「そして、これらのことは、私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、明らかにされるであろう」。ローマ2:16


 ★死後には、悔い改めるチャンスが全くないので、死後悔い改めて地獄から天国に移されることはありません。また、地上に残された遺族や友人の祈りや功徳によって地獄から救われる望みも全くありません。
主イエスのたとえ話〈17〉金持ちとラザロの話ご参照

 
「この貧しい人がついに死に、み使い達に連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。
 そして、黄泉にいて苦しみながら、目を上げると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声を上げて言った、『父、アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをお遣わしになって、その指を水でぬらし、私の舌を冷やさせてください。私はこの火炎の中で苦しみもだえています』。
 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとあなた方との間には大きな淵が置いてあって、こちらからあなた方のほうへ渡ろうと思っても出来ないし、そちらから私たちの方へ超えて来る事も出来ない」。 ルカ16:22〜26


 ★人の死後の行く先を決定付けるものはひとえにその人自身の世を去る時点でのキリスト信仰の在る無しにかかているので、私たちプロテスタントキリスト教会は福音伝道を重視し、地上に生きている間に、罪を悔い改め主イエス・キリストを信じて救われることを人々に勧めているのです。

 
「しかし、すべてこれらのことは、神から出ている。神はキリストによって、私たちをご自分に和解させ、かつ和解の務めを私たちに授けてくださった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねられたのである。
 神が私たちを通して勧めをなさるのであるから、私たちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う。神の和解を受けなさい。神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私たちが、彼にあって神の義となるためなのである」。Uコリント5:18〜21

 ★日本では、一般に人は死ぬと成仏し、仏になったり神になったりすると考えます。それで、葬儀において人が死者の前で焼香し祈るのは聖書から見ると偶像礼拝に当たります。それで、私たちキリスト者は葬儀において焼香と死者への拝礼をしないのです。
 ★「死者のために祈る」事と共に、「死者に向って祈る」(カトリックはマリヤを含めた聖人と呼ばれる死者に祈りを捧げています)ことと「死者の霊を呼び出して伺いを立てる」(霊媒をする)こととは共に神に憎まれる恐ろしい偶像礼拝の罪ですから、すべての人、特にキリスト者は警戒し避けなければなりません。

 「あなたの神、主が賜る地に入ったならば、その国の民の憎むべきことを習い行なってはならない。あなた方のうちに、自分の息子、娘を火に焼いて捧げる者があってはならない。また、占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。
 主はすべてこれらのことをする者を憎まれるからである。そして、これらの憎むべきことの故にあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。
 あなたの神主の前にあなたは全き者でなければならない。あなたが追い払うかの国々の民は卜者、占いをする者に聞き従うからである。しかし、あなたには、あなたの神、主はそうすることを許されない」。申命記18:9〜14

 
★「死者のために祈る」こと、「死者に向って祈る」こと、「死者と交わる(霊媒)」ことを含め上記の占い、まじない、魔術など偶像礼拝(悪魔礼拝)にかかわる一切の行為を憎み退けることを主は私たちに命じておられます。これらの行為にかかわる者は悪魔の強力な支配の下に縛られ、自分に裁きを招くからです。

 「それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」。 Tコリント10:14

キリスト紀元2006年 10月 20日公開




Q.20 ダチョウの生態に関する聖書の記述は間違いですか?

A.間違いではありません。
 ★某キリスト教会のホームページ(現在休止ないし閉鎖中)に「ヨブ記のダチョウに関する記述は動物生態学的には間違いである」とありました。はたして、真相はどうなんでしょうか。これは聖書の権威に関わる重大問題なので、調べて見ました。

T.聖書の記述
 ★ヨブ記
 「13ダチョウは威勢良くその翼をふるう。しかし、これにはきれいな羽と羽毛があるか。
14これはその卵を土の中に捨て置き、これを砂の中で暖め、
15足でつぶされることも、野の獣に踏まれることも忘れている。
16これはその子に無情であって、あたかも自分の子でないようにし、その苦労の空しくなるのも恐れない。
17これは、神がこれに知恵を授けず、悟りを与えなかったゆえである。
18これがその身を起こして走る時には、馬をもその乗り手をもあざける」。  ヨブ記39:13〜18

 ★哀歌
 「山犬さえも乳房をたれて、その子に父を飲ませる。ところが、わが民の娘は、荒野のダチョウのように無慈悲になった」。哀歌4:3

U.上記某キリスト教会のホームページの記述
 ★再確認のためアクセスしたところ、休止ないし閉鎖中のようなので、筆者の記憶に従って書きます。
 「聖書のダチョウに関するこの記述は、当時の人々のダチョウに関する偏見に基づく記述であって、現代の科学者の調査研究によるダチョウの真の姿は、子らを大事に育てる愛情深い鳥である」、といった内容でした。

V.
筆者のウェブサーフィングによる検証結果
 ★ダチョウは一夫多妻制で雄一羽に雌数羽のハーレム形態で生活しています。雌の第一夫人が力を持っていて、自分が産んだ卵は孵化するまで大事に育てますが、他の雌たちが産んだ卵は蹴散らして、日中の太陽の下にさらし、他の動物に踏み潰されたり、餌になるのもお構いなしです。
 ★第一夫人以外の雌たちは卵を産みっぱなしで、それらを温めることをしません。卵の孵化は雄(夜番)と第一夫人(昼番)の役割で、孵化後の雛の子育ては雄の仕事となり、すべての雌は育児には関わりません。
 ★また、巣穴が野獣や人間に荒らされた形跡に気づくと、彼らは無事な卵をも巣穴に置き去りにして、それらを見捨てて他の場所に新しい巣をこしらえます(Apologetic Ministries TEKTONICS / Ostrich)。
 ★ダチョウの以上のような生態から見て、ダチョウに関する聖書の記述「ダチョウはその子に無情」「荒野のダチョウのように無慈悲」は正確であり、間違いではありません。
 ★ダチョウは時速30〜50マイル(50〜80km)で30分間走り続けることが出来るそうです(NDSU North Dakota State University:Ostrich)。ディープインパクトの時速60kmを上回る速さです。サラブレッドの最高時速は70kmと言われますが、競走馬サラブレッドは人工的な品種改良によって生み出された馬です。聖書時代の天然の馬について語っている上記ヨブ記39:18の真実性は人工的競走馬サラブレッドによっても覆されていません。


W.聖書は信仰の書であって科学の書ではないが、真実の科学と矛盾することは書かれていない
 ★ガリレオが地動説を唱えた時、天動説を信奉する当時のローマ・カトリック教会がガリレオを宗教裁判に掛け断罪しましたが、聖書そのものの立場は天動説でも地動説でもありません。
 ★当時のローマ・カトリック教会は、聖書ではなくアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスの仮説の従って、天動説を信奉していました。
 ★聖書には「日が昇り、また沈む」(伝道の書1:5)という表現がありますが、地動説を疑う者もない現代でも、この表現は使われます。日の出、日没を地動説的表現に変えたら、ややこしい表現になって訳が分からなくなってしまいます。
 ★同様に、ダチョウについても、その生息地に住む原住民の観察に基ずくダチョウの概念に従って聖書は語られています。アラブの人々の間では「ダチョウは愚かな鳥である」という共通概念が今でもあります。
 ★蛇足ですが、聖書には「彼<神>は地<英語は地球>を何も無い所に掛けられる」(ヨブ26:7)という地動説が知られていなかった時代としては驚くべき表現があるのです。


キリスト紀元2006年 11月 30日公開

URL http://31church.net


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