聖書に関するQ&A


 Q.21 旧約聖書の中に出てくる「高き所」とは何ですか?

 A.
T.「高き所」はエジプトを出てカナンに入国したイスラエル民族が滅ぼすべき偶像礼拝の場
 ★「高き所」は基本的には主から滅ぼすことを命じられたカナンの人々の偶像礼拝の場所です。小高い丘の上に設けられていたのでこの名が付けられました。カナンの人々はこの「高き所」で自分の息子や娘をいけにえとして偶像の神々に捧げていたのです。
 ★主はイスラエル民族がカナンの人々の偶像礼拝を見習って偶像に子供を捧げるようなことの無いように厳しく戒めておられます。

 
「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの平野で、主はモーセに言われた、『イスラエルの人々に言いなさい。あなた方がヨルダンを渡ってカナンの地に入る時は、その地の住民をことごとくあなた方の前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない。また、あなた方はその地の民を追い払って、そこに住まなければならない。私がその地をあなた方の所有として与えたからである」。民数記33:50〜53

 「主はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々に言いなさい、「イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、誰でもその子供をモレクに捧げる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない」』。レビ記20:1〜2

 ★偶像礼拝は十戒の第一・第二の戒めに対する違反です。神のみ前では、殺人・盗み・姦淫・偽証などの罪より重い罪なのです。
 ★なぜなら、偶像礼拝の罪は、人に対する罪ではなく、神に対する罪であり、神と人の敵であるサタン・悪魔を礼拝する行為だからです。
 ★偶像を拝む者は、偶像に似た者になると聖書は言っています。つまり、偶像には目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があってもしゃべれないように、その偶像を拝む者も霊的に神が見えず、神のみ声を聞き分けられず、神に祈れないまま、悪魔とその使いのために造られた地獄に悪魔の道ずれとして引きずり込まれることになるのです。

 「もろもろの国民の偶像は白金と黄金で、人の手の業である。それは口があっても語ることが出来ない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことが出来ない。またその口には息がない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる」。詩篇135:15〜18

 ★偶像を拝む者は、自分がどこから来て、何のために生き、どこへ行くのか分からない人生の記憶喪失者として永遠の滅びの穴に落とされるのです。

 ★また、偶像礼拝はまことの神に捧げるべき礼拝を悪魔・サタンに捧げ、悪魔に向けるべき憎しみ・拒絶をまことの神に向けることです。
 ★人々は私たち人類を罪と滅びから救うために2千年前の最初のクリスマスに世に来られた子なる神キリストを悪魔を扱うかのように辱め、つばきをかけ、鞭打ち、十字架に掛けました。

 
「それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れ行って、全部隊をイエスの周りに集めた。そして、その上着を脱がせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、『ユダヤ人の王、万歳』と言った。
 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取り上げてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄した挙句、外套を剥ぎ取ってもとの上着を着せ、それから十字架に付けるために引き出した」。 マタイ27:27〜31


 ★偶像礼拝はまさに神の御子キリストを辱め、十字架にかける行為そのものなのです。

U.旧約の選民イスラエル民族が主を礼拝する場所はエルサレムの神殿と決められていた
 ★律法のもとに選ばれた祭司やレビ人の管理指導によって御心にかなう礼拝が守られるように、主はエルサレムの神殿において礼拝を守るように民に命じておられます。

 
「謹んで、すべてあなたがよいと思う場所で、みだりに(はん)祭<新改訳/全焼のいけにえ>を捧げないようにしなければならない。ただあなたの部族の一つのうちに、主が選ばれるその場所で、燔(はん)祭を捧げ、また私が命じるすべてのことをしなければならない」。申命記12:13,14

 ★エルサレムに神殿が出来るまでは、イスラエル民族の主のための礼拝所も「高き所」と呼ばれていました
(Tサムエル記9:11〜14;T列王記3:1,2)
 ★しかし、エルサレムの神殿が出来てからも、ソロモン王は外国からめとった正室や側室のために偶像礼拝のための「高き所」を造り
(T列王11:1〜8)、北王朝を建国したヤラベアム王は金の子牛をイスラエルの神として祭る十戒第二戒違反の偶像礼拝の「高き所」を造りました(T列王12:25〜33)
 ★その後、ユダ王朝のヨシヤ王が律法の書を発見して、国内に宗教改革を起こして「高き所」を一掃する出来事もありましたが
(U列王記22.23)、イスラエル民族は神の忍耐の限界を超える止むことの無い偶像礼拝と不従順の罪を繰り返した結果、彼らの国は滅ぼされ、バビロンへ捕囚となって散らされることになりました。

 
「ゼデキヤは21歳で王となり、エルサレムで11年間王であった。彼はその神、主の目の前に悪を行い、主の言葉を告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。
 このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌み嫌うべきすべての慣わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分のみ住まいとを哀れまれたからである。
 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、癒されることがにいまでになった。
 そこで、主は彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の中で殺した。若い男も若い女も、年よりも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された」。U歴代誌36:11〜17

V.新約の民キリスト者は、場所に縛られずにどこでも主を礼拝することが出来ます


 「女はイエスに言った、『私はあなたを預言者と見ます。私たちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなた方は礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています』。
 イエスは女に言われた、『女よ、私の言うことを信じなさい。あなた方が、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時がくる。あなた方は自分の知らないものを拝んでいるが、私たちは知っている方を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。
 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』」。ヨハネ4:19〜24


 
★旧約時代の選民イスラエルの礼拝の場はエルサレムの神殿に限られていましたが、新約時代の神の民キリスト者はどこででも主を礼拝できます。
 ★家にいる時も、通勤通学途上の電車の中でも、仕事や勉強の合間にも、何かの待ち時間にもいつでもどこでもお祈りが出来ます。
 ★主は

 
「あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう」。マタイ6:6

 ★と言っておられますが、個室を持たない人でも、自分で自分を訓練することによって、家族や他人との集団生活の場にあっても霊的な個室を造ってデボーション(み言葉と静思と祈りの時)をもつことも可能です。
 ★また、個人的礼拝の時とは別に、主の日の公同礼拝を守る事は信仰者として成長するためにも欠かすことは出来ません。

 
「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」。ヘブル10:25


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キリスト紀元2006年 12月 10日公開


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