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   主イエスのたとえ話

 
〈21〉10人の乙女のたとえ閉じられた扉のたとえ

 聖書 
〈十人の乙女のたとえ〉
 ★「そこで天国は、十人の乙女がそれぞれ明かりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者達は、明かりを持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分達の明かりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた。
 ★花婿が来るのが遅れたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。その時、乙女達はみな起きて、それぞれ明かりを整えた。ところが、思慮の浅い女達が、思慮深い女達に言った、『あなたがたの油を私達に分けてください。私たちの明かりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女達は答えて言った、『私たちとあなたがたとに足りるだけは、十分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方が良いでしょう』。
 ★彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意の出来ていた女達は、花婿と一緒に婚宴の部屋にはいり、そして戸が閉められた。その後で他の乙女達も来て、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、開けてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、私はあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである」。マタイ25:1〜13

〈閉じられた扉のたとえ〉
 ★さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは、人々に向かって言われた、
 ★「狭い戸口から入るように努めなさい。事実入ろうとしても、入れない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞ開けてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない』と言うであろう。
 ★その時、『私たちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私たちの大通りで教えて下さいました』と言い出しても、『あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
 ★あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分達は外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 ★それから人々が、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着くであろう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者がある」。ルカ13:22〜30


はじめに
 ★救い主イエス・キリストは約2000年前に乙女マリヤから生まれるという仕方で一度世を罪から救うために来られましたが、今度はキリスト教会の救いの完成と世界の裁きのために、天に昇られた時と同じ姿でもう一度世に来られます。これがキリストの再臨です。キリスト者はこの再臨に備えて、主がいつ来られてもOKという態勢をいつも整えていることを求められています。主を迎えるそのあり方について教える二つのたとえを学びましよう。

T.これらのたとえ話の要約と解説
 A.要約
 a. 十人の乙女のたとえ

 ★十人の乙女達が、明かりを持って花婿の到来を待っていた。しかし、花婿の到来を告げる声が聞こえた時、愚かな五人の乙女らは明かりの油が足りないことに気付き、やむなく店に買いに行った。その間に、花婿が来て五人の賢い乙女は婚宴の部屋に迎え入れられたが、愚かな五人が到着した時には、部屋の戸は閉められ、中に入れてもらえなかった。

 
b. 閉じられた扉のたとえ
 ★天の御国に入る狭い戸口がいったん閉じられると、どのような申し立てをしようと決して開けてもらえない。

 
B.解説
 a.十人の乙女のたとえ

 ★このたとえには花嫁が登場して来ません。聖書の中で教会はキリストの花嫁と呼ばれています。十人の乙女たちとは花嫁の友人達のことです。
 ★「
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである」(マタイ25:13)
この主イエスの御言葉から、このたとえは全てのキリスト者に向けて語られていることが分かります。
 ★
「ヨハネの弟子達がイエスのところに来て言った、『私たちとパリサイ人たちとが断食しているのに、あなたの弟子達は、なぜ断食をしないのですか』、するとイエスは言われた。『婚礼の客(新改訳/花婿の友人)は、花婿が一緒にいる間は、悲しんで居られようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう』」(マタイ9:14〜15)
 ★上記の御言葉の中で、キリストが弟子達を婚礼の客または花婿の友人にたとえておられます。以上の理由から、十人の乙女達は個人としてのキリスト者を表し、このたとえでは隠れている花嫁は集合体としての教会を表すと見て良いでしょう。

 b.閉じられた扉のたとえ
 ★信仰義認(キリストを救い主と信じることによって罪を赦されるという聖書の教理)の間違った理解のために、「キリストを信じさえすれば後はどうでもいい、行いは要らない」と考えて、聖書が教える良い行いへの勧め
(ガラテヤ6:9〜10など)を無視するクリスチャンがいます。
 ★こういう人々は、このたとえで主が語って居られることに謙虚に耳を傾け、終わりの日に
「私はあなたを全く知らない」と主に言われ、天の御国から締め出される者にならないように心がけてもらいたいものです。

U.これらのたとえ話が教えること
 A.十人の乙女のたとえ
 a. キリスト再臨を待つ者たちは、明かりと油の用意が欠かせないこと

 ★十人の乙女の内五人は賢く(思慮深く)、五人は愚かでした。賢い娘の「賢い」というギリシャ語「フロニモス」はルカ6:1〜13の
不正な家令(管理人)のたとえの中で「この世の子らはその時代に対しては、光の子等より利口である」(ルカ16:8)の「利口である(新改訳/抜け目が無い)」と訳されている語と同じことばです。
 ★この「フロニモス」は上記の意味の他に、「分別がある」「敏感である」といった意味があります。不正な家令のたとえによって主は、世の人々が自分の定年後、老後の備えに抜け目がないように、光の子等(クリスチャン)にキリスト再臨後または死後の命に備えて、思慮深く行動してほしいと語られました。
 ★主はこの乙女達のたとえによって、同じようにキリストの再臨と死後に備えて、この世にあって思慮深く日々を過ごすことを私達キリスト者に願っておられます。
 ★賢い乙女達は明かりと共に備えの油をしっかりと用意していました。「油」は聖書の中では「聖霊」を表します
(Tヨハネ2:27;Uコリント1:21〜22)。「明かり」は、詩篇119:105の「あなたのみ言葉は我が足のともしび、我が道の光です」から御言葉(聖書)であると判断されます。
 ★日々御言葉をしっかり学び、御霊によって歩み、良いサマリヤ人の人格とキリストに似た品性を身につけ、隠れた所で見ておられる主の御前に良い業に励む生活こそ、油と明かりの備えのある生き方と言えるでしょう。

 
b. キリスト再臨はいつあるか分からないので、いつ来られてもいい備えを常にしておくべきこと
 ★キリスト再臨の日と並んで私たち一人一人が世を去る日が個人的な世の終わりの日であり、キリスト再臨の日です
(ヘブル9:27)。この二つの日はいつ来るか分からない日ではありますが、確実にやって来ます。世界がますます悪い方向に向かっており、裁きの日はいよいよ近づいている感があります。それと共に、私たち現代人は死と隣り合わせの生活を送っています。交通事故死と家庭内事故による死者が国内で年間それぞれ一万人前後に達する時代です。人は死を他人事とし、皆自分だけは死なないと思って生きています。
 ★自分の死ぬ日または、キリスト再臨の日が自分の永遠の住処の決定する日であるという重大かつ厳粛な事実を覚えて、常に備えを怠らないよう、主は再三聖書の中で私達に警告しておられます。

 
c. キリスト再臨の時、また死を通して世を去る時、他人の助けによって救いを獲得することはできないこと
 ★愚かな五人の娘達は花婿が到来したとの知らせに眠りから覚め、明かりを整えはじめましたが、油が足りないことに気付きました。賢い娘達に譲ってもらおうとしましたが、断られました。
 ★これは、キリスト再臨の日、または死ぬ時にあわてて天国への救いを求めても手遅れであることを語っています。自分の心の中にキリスト信仰をはぐくんでこなかった者は、親の信仰や友人の信仰を当てにしても無駄だということです。

 
B.閉じられた扉のたとえ
 a. 狭い戸口から入るよう努めること

 ★「努める(新改訳/努力する)」と言うギリシャ語「アゴーニゾマイ」は、主がゲッセマネの園で十字架を前にして血の滴りのような汗を流し「苦しみもだえて(エン・アゴーニア)」祈られた時の、「もだえ苦しむこと」(アゴーニア)と共に「アゴーン」(競技・苦闘・格闘)という語から派生しています。(ちなみに、英語のagony〈苦悶・苦悩の義〉という単語はこのギリシャ語から来ています)。
 ★競技者が栄冠を得るために、苦しみながら節制と鍛錬を重ねて自らを鍛えるように、キリスト者も天の御国に入るためには苦闘しなければならないことを主は明らかにしておられます。すなわち、私たちキリスト者は、サタン・この世・自分(生来の肉的性質)という三大仇敵と格闘しながら天の栄冠を目指す者でなければならないのです。
 ★クリスチャンは洗礼を受けた後は、棚ぼた式に救いの完成の日がやってくるのを口を開けて待っていればいいのだと思っていたら大間違いです。キリスト信仰さえあれば行いはどうでもいいと思っている人は、終わりの日に天国の扉から締め出されて歯軋りして悔やむことになります。

 
b. 最後まで耐え忍ぶ信仰以外に、救われるための特典や特権やコネのようなものは全く無いこと
 ★終わりの日に、閉じられた天国の扉をたたき、「私たちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私たちの大通りで教えて下さいました」と主に申し立てる人々がいると、主は言われます。
 ★「洗礼を受けて、しばらくクリスチャンとして主と共に歩んでいたことがあります」とか「教会の礼拝に出席して、聖書の話を熱心に聞いていたことがあります」とか言い訳を言っても、「あなた方がどこから来た人なのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」とはねつけられるのです。
 ★「悪事を働く者ども」は新改訳では「不正を行う者たち」となっています。終わりの日に天国の扉をたたく人々は、自分は当然天国に入れるものと高をくくっていたクリスチャンたちです。終わりの日に、天国から締め出された時に、その理由が明らかにされます。「悪事(不正・不義)を働く者」と主から判定を受けています。
 ★その悪事とは、主を裏切ったイスカリオテのユダのようにこっそり盗みを働いたのか、神より富を愛して堕落した予言者バラムのように巨額の報酬に目がくらんだのかも知れません。いや、それほど大きな悪事は働いてなかったが、金持ちとラザロの金持ちのように隣人愛のために自分の富を使わなかったことか、あるいは良いサマリヤ人の中の祭司やレビ人のように人の苦しみを見て見ぬ振りをしたためかも知れません。或いは、ミナやタラントのたとえの中の賜物を地に埋めて使わなかった人の様に、ただ主の御心を何もしなかったことだけかも知れません。
 
「為すべき善を知りながら行わなければ、それはその人の罪だからです」(ヤコブ4:17)

 
c.後の者が先になり、先の者が後になることがある
 ★主イエスの時代、取税人や遊女を地獄行きの罪人たちと見下して、自分らは当然天国だと思っていたパリサイ人、律法学者らは、終わりの日に自分達が天国の扉から締め出され、自分達が見下していた取税人や遊女が、悔い改めて天国に入っているのを見て愕然とすることでしょう。
 ★また、自分の教会の信徒が天国に入っているのに、自分は永遠の地獄の火炎に落とされて、歯軋りして悔やむ牧師も何人かは出て来ることしょう。なぜなら、「牧師(みことばの教師)は他の人達よりも、もっと厳しい裁きを受けるからです」
(ヤコブ3:1)
 ★
「だから、彼らがあなた方に言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることは、習うな。彼らは言うだけで実行しないから」(マタイ23:3)。これは律法学者、パリサイ人について主イエスが群集と弟子達に向かって語られた言葉です。この律法学者・パリサイ人のような牧師にならないようにと筆者はいつも自戒しています。

 
C.二つのたとえに共通する教え
 a.今は救いの時だが、救いを求めてもすでに手遅れの時がやって来ること

 ★ノアの箱船の時も、義の宣伝者ノア
(Uペテロ2:5)の伝道説教に耳を貸さなかった人々は、ノアの箱船が完成した後、洪水が始まった時、船の入り口は最終的に神の御手によって閉じられ(創世記7:16)、人々は完全にシャッタウトされ、おぼれ死んだのです。
 ★
「見よ、今は恵みの時。見よ、今は救いの日である」(Uコリント6:2)
 と聖書は言っています。今と言う時に救い主イエス・キリストを信じなければ、救いを求めても得られない、手遅れの時がやって来るのです。死は突然やって来るのです。そして、死後悔い改めるチャンスは永遠に無いのです。まだ信じて救いを得ていない人は今と言うこの時に、主イエスを心に迎え入れてください。

 
b. 当然、御国に入れるものと思い込んでいたのに、締め出される人々がいるということ
 ★
王子の婚宴のたとえの中の礼服を身に着けないで出席していた人が外に追い出されています。この人はイエス・キリストという義の衣を着ていない人であり、主イエスを信じていると口では言っていても行いがそれを否定している人々です。

 
c. 再臨の時、また死後キリストに「私はあなた方を知らない」と言われないために、そう言われた原因と対策を考えて見ましょう
 
1. 五人の愚かな乙女らは花婿が到来する時までの十分な油の備えが出来ていなかった
 ★当然予想される長期間待たされると言う事態に備えて内的力を養い、霊的体力をつけるためにみ言葉をしっかり学び、御霊によって祈るなどして、耐え忍ぶ力をつけていなかったこと。
 ★御言葉の学びと、御霊の親しい交わりによって主の御心を深く知り、キリストに似た者になる努力をして来なかったこと。

 
2. 天国の扉から締め出された人々は、悪事を働く者共と呼ばれている
 ★彼らは、自分達が当然天国に入れるものと考えていた。洗礼を受けて、クリスチャンだったかも知れない。しかしながら、
 「あなた方がどこから来た人たちなのか、私は知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」
 と主に言われています。
 ★主イエスを信じて、御霊によって生まれた人々であるならば、父、御子、御霊から来た人として主イエスに認知されたでしょう。それが、認知されなかったということは、垣根を乗り越えて侵入して来た泥棒のようなサタンの子供であるということになります。
 ★悪事(不正・不義)を働く者とは、神の御言葉(聖書)の教えに反することを人々に教えたり、自ら実行したりしていたニセ預言者・ニセ牧師・にせクリスチャンのことです。

 
3.「私はあなたを知らない」と言われないために
 ★「私はあなたを知らない」と言われないためには、上記のように御言葉と御霊によって日々聖よく歩み、クリスチャン品性の形成に励むと共に、「神の御臨在の中に親しい神との交わりに生きる」訓練・修練を積むことです。
 
「信心(新改訳/敬虔)のために自分を訓練しなさい。身体の訓練は少しは益するところがあるが、信心(敬虔)は、今の命と後の世のいのちとが約束されているので、万事に益(有益)となる」(Tテモテ4:7後半〜8)
 「すなわち、自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ることになる」(ガラテヤ6:8)
 ★
「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と主イエスは約束していてくださる(マタイ28:20)のですから、私たちと共にいてくださる霊なる主との友情を育む訓練が欠かすことができません。
 「私たちの交わりとは、御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(Tヨハネ1:3)

結び
 ★共産主義者は自分達を「りんご」と「トマト」の二種類に区別していると言われます。それは表面だけ赤いりんごのような名目的な共産主義者と外も中も赤い本物の共産主義者との区別のことです。共産主義は無神論と唯物論(神や人間の霊魂の存在を認めない思想)を土台とした思想であって、サタンの生み出した、反キリスト思想の一つです。
 ★このような悪魔に属する人々にも本物と偽者があるように、キリストに属する私たちキリスト者にも本物と偽者とがあります。世の終わりの日、主から
「善かつ忠なるしもべよ」(マタイ25:21)と呼ばれる内も外も聖よい本物のキリスト者と認められるよう日々励みたいものです。


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キリスト紀元2005年 12月 10日公開

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