ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
      主イエスのたとえ話


  
〈6〉不正な家令のたとえ

 ★聖書
 
イエスはまた、弟子達に言われた、「ある金持ちのところに一人の家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口する者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけに行かないから』。この家令は心の中で言った、『どうしようか。主人が私の職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしい。そうだ、分かった。こうしておけば、職を辞めさせられる場合、人々が私をその家に迎えてくれるだろう』。
 ★それから彼は、主人の債務者を一人一人呼び出して、初めの人に、『あなたは、私の主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこに座って、五十樽と書き換えなさい』。次に、もう一人に、『あなたの負債はどれだけですか』と訊ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き換えなさい』と言った。ところが主人、はこの不正な家令の利口なやり方をほめた。
 ★この世の子らはその時代に対しては、光の子らより利口である。またあなた方に言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友達を造るが良い。そうすれば、富がなくなった場合、あなた方を永遠の住まいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、あなたがたが不正の富について忠実でなかったら、誰が真の富を任せるだろうか。また、もし他の人のものについて忠実でなかったら、誰があなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」
 ★欲の深いパリサイ人達が、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。 ルカ16:1〜14


 
はじめに
 
このたとえ話は、特に弟子達に向けて語られた話であることに注意しましょう(1節)。この話の中で弟子達は光の子と呼ばれています(8節)。主ご自身が「私は世の光である」(ヨハネ8:12)と言われ、この光を信じる私達キリスト者は「光の子」と呼ばれます。光の子らには、この世の子らとは違った生き方があるのです。その生き方の一つをこのたとえ話が教えています。

 ★このたとえ話の要約
 ある金持ちに一人の家令がいて、彼が主人の財産を浪費しているという訴えが出されました。主人に「会計報告を出せ」と命じられた家令は免職になった後のことを考えて、主人の債務者を一人づつ呼んで負債を軽くしてやりました。失業した時、彼らに受け入れてもらうためでした。主人はその家令の抜け目なさに感心してほめました。

 ★解説
 A 不正な家令
 この家令が不正な家令と呼ばれている理由は、〈1〉このたとえ話を語っておられる主ご自身がこの家令を「不正な家令」と呼んでおられるからです
(8節)〈2〉主人の財産を浪費しているという訴えに反論する構えをみせず、れを黙認した上で、〈3〉家令の立場を悪用して主人のお金を自分の保身の道具として不正私用している点にあります。
 B 主人がこの家令をほめた理由
 たとえ話の中の主人がほめたのであって、主イエスがほめたのではありません。〈1〉まだ家令である間に、自分の権限を用いて失業した後のために手を打ったこと、〈2〉負債者全員に対し一律に割り引くのでなく、一人一人呼んで事情と状況に応じて割引率を変えて、負債者に対してきめ細やかな配慮をしている点にあります。聖書の中の家令たちは可なりの権限が与えられています。兄弟達にねたまれて異邦人に奴隷として売り飛ばされて、エジプトのポテパルの家令となったヨセフは「主人の妻以外のすべてのものが自分に任されている」と言っています(
創世記39:8,9)。
 C たとえに続く主イエスの教え
 〈1〉不正な富で自分のために友を造りなさい。ここで言われる「不正の富」とは不正行為によって手に入れた富という意味ではありません。11節で主は「不正の富」の対立語として「まことの富」を上げておられます。来るべき世で与えられる「まことの富」に対して、この世の富は人を欺き、人の心を奪い、人の偶像になる性格をもっています。「神と富とに兼ね仕えてはならない」と言う時の富がそれです。金銭それ自体が悪い分けではありません。人の心の方が悪いので、この世では金銭が人に災いをもたらすことが多いのです。ですから、主はこの世の富を「不正の富」と呼んでおられるのです。従って、上の御言葉は「自分に与えられたこの世の富を用いて、自分の来世の生活のために友人造りをしなさい」という意味になります。
 〈2〉小さいことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。他人のものに忠実な者は、自分のものにも忠実である。不正な富に忠実な者は、まことの富にも忠実である。 私達人間は皆、この世で自分に任された富の管理人(家令)として、富をどう用いて来たかを世の終りの日に問われ、神の裁きを受けることになります
(マタイ25:14〜30;ルカ19:12〜27)。この世の富は、金銭だけではありません。自分のからだ、心、時間、能力、才能、職業、立場、家、車などを如何に、何のために用いて来たかが問われます。これらのものは、来世の富に比べると、小さいことであり、他人のもの(神のもの)であり、人を惑わす偶像となりやすい「不正の富」ですが、これを主なる神に忠実に用いることによって、来世の大きなこと、真に自分のもの、まことの富を任せられるに相応しい者と認定されるのです。
 〈3〉この世の子らはその時代に対しては、光の子らより利口である。 この世の子ら(非キリスト者)が将来、すなわち失業後や老後に備える用意周到さ抜け目なさは、光の子ら(キリスト者)が来世に備える熱心さをはるかに上回るものがあります。

 ★適用
 A 「不正の富を用いて自分のために友を造りなさい」 「あなたがたは、それぞれ賜物を頂いているのだから、神の様々な恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」
(1ペテロ4:10)。来るべき世のために、自分の財産を投資しなさい、言い換えるなら、「天に宝を蓄えなさい」(マタイ6:20)ということです。
 ★聖書の中のキリスト者を見ると、彼らが善行、特に信仰の家族に対しての良い業に熱心であることが分かります。百卒長のしもべが病気で、その病気の癒しを主に願い出る時、友人のユダヤ人たちが「この百卒長は我々のために会堂を建ててくれた人で、祝福を受けるに価する人だ」と推奨しています
(ルカ7:4,5)。ペテロの祈りによって死からよみがえった女弟子ドルカスは、やもめ達に上着や下着を作ってやるなどの善行によって彼女らに慕われていました(使徒9:39)
 ★「だから、機会のあるごとに、誰に対しても、特に信仰の仲間に対して、善を行なおうではないか」(ガラテヤ6:10)。また、主は言われます、「私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」
(マタイ10:42)
 ★世の終りのキリスト再臨の日に主はすべての国民を集めて、右と左に分けて、左ののろわれた人々に向かって言われます、「あなた方は、私が空腹の時に食べさせず、乾いていた時に飲ませず、旅人であった時に宿を貸さず、裸であった時に着せず、また病気の時や、獄にいた時に、私を尋ねてくれなかったからである」。彼らが、「主よ、いつ私達はそうしませんでしたか」と訊ねると、主はお答えになります、「あなた方によく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」
(マタイ25:31〜46)
 ★ここで注目すべきことは、善行を行なって祝福される人々は、自分が善行を行なったことに気付いていないこと、呪われる人々は善行を行なわなかったことに気付いていないということです。2千年前、ベツレヘムの町の人々は気付かない中に王の王、主の主イエスを胎内に宿していた乙女マリヤとその家族を冷遇し、馬小屋に泊めるという無礼を働きました。これより、およそ2千年前、人としての主イエスの先祖アブラハムは、それとは知らずに主の御使いを手厚くもてなしました。すべての隣人に対して、人からしてもらいたい親切を施す習慣を身に着けることで私達も真に善行におけるアブラハムの子孫となれるのです。
 ★B 「この世の子らはその時代に対しては、光の子らより利口である」 世の人々が老後に備える熱心さ以上の熱心さと知恵とをもって来世の友人造りに我々キリスト者は励んでいるかどうか、ここで自省してみたいものです。キリスト信仰によって救われたのだし、これからもそうだから、隣人のことや信仰の仲間のことは気にすることはない、人に対する善行に配慮する必要はない、と考えて来なかっただろうか。ヤコブの手紙は「行いのない信仰は死んでいる」と言っています
(ヤコブ2:26)
 ★C 「欲の深い(新改訳:金の好きな)パリサイ人達が、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスを嘲笑った」。 たとえ話の第一の目的である、傲慢な俗物を天の御国から排除する目的が見事に実現していることをここに見ることができます。彼らがつまずいたのは「不正の富を用いて、自分のために友達を作りなさい」という言葉の表面的意味だけを捕らえて、「イエスの教えにも俗っぽいところがあるじゃないか」と考えてニヤリとしたものと思われます。

 ★終わりに
 筆者が、このたとえ話の以上の講解説教をある教会で語った時、一人の信徒が「私を天国に迎えて下さるのはイエス様であって、イエス様だけで十分であり、天国の友人は必要ないと思います」と語りました。確かに、イエス様と一緒に十字架にかかって十字架上で悔い改めて主を信じた犯罪人の場合は、彼を天国で迎えてくれるのは主イエスお一人でしょう
(ルカ23:39〜43)。しかし、私達普通のキリスト者は信仰を持って地上である期間生活するのです。信仰を実生活に生かすチャンスはいくらでもあるのです。身近な家族や友人や職場の同僚に対していくらでも親切や善行を施す機会はあります。それを怠る者に聖霊は、「現に見ている兄弟を愛さない者は、眼に見えない神を愛することは出来ない」(1ヨハネ4:20後半)と言っておられます。


URL http://31church.net

キリスト紀元2004年 7月 30日公開

7