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      主イエスのたとえ話

  
〈5〉王子の婚宴のたとえ

 
★聖書 「イエスはまた、喩えで彼らに語って言われた、『天国は一人の王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
 ★王はそのしもべ達をつかわして、この婚宴に招かれていた人達を呼ばせたが、その人たちは来ようとはしなかった。そこでまた、他のしもべ達をつかわして言った、「招かれた人達に言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください」。しかし、彼らは知らぬ顔をして、一人は自分の畑に、一人は自分の商売に出て行き、また他の人々は、このしもべ達をつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
 ★それからしもべ達に言った、「婚宴の用意は出来ているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも婚宴に連れて来なさい」。そこで、しもべ達は道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めて来たので、婚宴の席は客で一杯になった。

 ★
王は客を迎えようとして入って来たが、そこに礼服を着けていない一人の人を見て、彼に言った、「友よ、どうしてあなたは礼服を着けないで、ここに入って来たのですか」。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、「この者の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない』」マタイ22:1〜14 参照ルカ14:16〜24

 ★はじめに 前の「邪悪な農夫のたとえ」では農園主(イスラエル民族の主)の跡取り息子として描かれていた主イエスが、このたとえでは王子(全人類の王の子)として、新約聖書的に描写されています。聖書の神の啓示は時間と歴史の推移と共に進展し、鮮明の度合い増して行きます。聖書によって生きる私達キリスト者も日進月歩の成長を遂げて行くことを主は期待しておられます。

 このたとえ話の要約 天の御国が王子の婚宴に喩えられています。王が招待客を呼びにしもべを遣わしたところ、客達は次々に断って来ました。中には王の使者を殺害する者までいたのです。王は怒って、軍隊を動員して殺人者どもを処刑し、町を焼き払いました。
 招待客に見切りを付けた王は、誰でも見つけ次第連れてくるように命じたところ、中に礼服を着ないで出席していた者がいました。王はその者の手足を縛って外の暗闇に追い出してしまいました。

 ★三つのテーマ 
 A 天の御国はキリストと教会との結婚のようなもの
 
2節に「天の御国は王子のために婚宴を用意した王のようだ」とあります。新約聖書は天国をキリストと教会との結婚の場として描いています
(黙示21:1〜4)。旧約聖書は神と選民イスラエルとの関係を婚姻関係にたとえています(エレミヤ3:14,20)
 B 招待客が王の招きを拒絶したこと

 王は婚宴の準備を全部済ませた後、招待客の臣民たちを呼びに人を送ったところ、彼らはあれこれ理由をつけて断り始めました。王は怒って彼らを滅ぼし、招待していなかった他の者たちを招くことにしました。
 C 礼服を着ないで婚宴に出席した人の問題
 この時代の王は招待客に礼服を貸与して出席させたと言われます。王から貸与された服を着ないで出席するということは、王に対する尊敬と従順の欠如と反逆の意思表示となります。礼服を持っていないなら、この婚宴に塀を乗り越えて入って来たことを意味します。

 ★適用
 A キリストと教会との結婚が天国の奥義

 天の御国は王子と天国民との婚礼のようなものです。「救い主イエス・キリストとキリスト教会との結婚」これが、天の御国の奥義なのです。「永遠の命とは父なる神と御子イエス・キリストを知ることである」と主イエスは言われました
(ヨハネ17:3)。聖書が言う「知る」とは頭の認識だけではありません。頭と心とからだとの全面的、全人格的実体験です。アダムが結婚によってエバを「知った」(創世記4:1)とあるように、私達キリスト教会はキリストとの霊的結婚によって神とキリストを「知っている」者達です。この永遠の命は神とキリストと私達との交わり(1ヨハネ1:3)によってもたらされます。聖書が言う「交わり」(コイノーニア)とは「同じものを共有する、分かち合う」という意味です。キリストが私達のすべての罪を十字架の上で引き取って下さり、ご自身の復活の命によってもたらされるすべての祝福と恵みと命を溢れんばかりに私達に与えて下さるのです(ヨハネ10:10)
 B 招待客の拒絶とその結果
 神の選民イスラエルは始祖アブラハム以来約2000年の永きにわたって神が将来のキリスト教会の担い手として手塩にかけてはぐくみ育てて来た特別の民族です。民の長老、祭司長、律法学者が先ず率先して主イエスを受け入れ、民族が一丸となって世界に出て行って、キリストの福音を宣べ伝えてくれることが当然の順序でした。ところが、天国の王の期待していた招待客である民の指導者達は王の心のこもった招待をすげなく断り、王のしもべ(預言者)達を殺害するまでに至ったのです。王が激怒して町を焼き払い(AD70年にティトスの率いるローマ軍によりエルサレムは焦土と化した)、キリストの福音はユダヤ民族を離れ異邦人キリスト教会の手に委ねられました。
 ★神の招待に対するユダヤ人の無関心振りにはあきれ返るばかりですが、神と福音に対する無関心と反逆こそ、私達人類の生まれながらの人間性(聖書が言う「肉」)の本性であることを知らねばなりません。「生まれながらの人は、神の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである」
(1コリント2:14)
 ★ルカ14:16〜24を見ると、ある者は「畑を買ったので見に行かねばなりません」と言っています。買い物をするのに、品物を見て確かめない買い物客はいません。彼らの拒絶の理由はどれを取ってみても、道理に合わない言い訳であって、本心は「出席したくない、王子の婚宴より自分の生活の方が大事だ」という態度が見え見えです。
 ★私達の周りの世間の人々を見て分かる通り、自分の仕事や生活のことで精一杯で霊的問題、罪からの救い、永遠の命などには全く関心を示しません。ノアの時代も全く同じで大洪水が迫っていると言うのに人々は、飲んだり食べたり、嫁いだりめとったりしていました。
 ★招待客に見切りをつけた王は、「善人でも悪人でも誰でも、無理にでも連れてきて、この家が一杯になるようにしなさい」
(ルカ14:23;マタイ22:9.10)としもべに命じています。ですから、私達教会は見込みのありそうな人にも、なさそうな人にも、誰にでも伝道し、教会に誘わなければなりません。人を救うのは私達ではなく、主なる神の御業だからです。
 C 礼服を着用していない人とはどんな人か
 王が客に会うため式場に入ってきた時、王の希望通り礼服をを着用していない人がいました。天の御国の王である神に謁見するために私達が着用しなければならないのは、キリストという名の礼服です。「キリストに合う(付く)バプテスマを受けたあなた方は、みなキリストを着たのである」
(ガラテヤ3:27)。キリストが、十字架と復活によって獲得してくださった義(ただしさ)と聖(きよさ)とあがない(罪の完全な赦し)が今や信じる私達キリスト者のものになったからです(1コリント1:30)
 ★この礼服の名はまた、「新しき人」とも呼ばれています。「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」
(エペソ4:22〜24)。新しき人を着るとはキリスト信仰によって新しく生まれている、新生している(ヨハネ3:3)と同時に、その品性においてキリストに似た者に変えられつつある(ロマ8:29;1ペテロ1:16)人だということです。私達キリスト者の義なる性質がパリサイ人の義(表面的・外面的ただしさ、すなわち偽善)に勝るものでなければ、決して天の御国に入れないと主は言っておられます(マタイ5:20)
 ★11節と12節とは共に「着ていない」と訳されていますが、12節は原語のギリシャ語では「持っていない」となっています。従って、この人は持っているのに着ていなかったのではなくて、それを持たずに入ってきたようです。つまり、裏口から入って来たわけです。聖書は「門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」
(ヨハネ10:1)と言っています。
 ★イエス・キリストの十字架と肉体の復活によるあがないを信じる信仰を持たずに、キリストの十字架までの生涯を人生の道徳の手本とするだけの塩気のない塩のような無用の長物型キリスト教(現代主義キリスト教)や「物見の塔」やモルモン教などの異端の信仰者は裏口入学のニセキリスト教者です。
 ★王はこの人に、「友よ」(新改訳は欄外の注参照)と呼びかけています。裏切り者ユダに、やはり「友よ」と呼びかけて、最後まで悔い改めを促しておられる主イエスと全く同じ心情が示されています。礼服を持たない客も自分の非を即座に認めて悔い改めたならば心優しいこの王はこの人を赦したことでしょう。しかし、彼は「黙っていました」悔い改めの姿勢が見られませんでした。最後の最後まで悔い改めを拒否する者には火と硫黄の燃える池が来るべき世に用意されています
(黙示21:8)

 ★結び 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と主は言われます
(マタイ22:14)。「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見い出す者が少ない」(マタイ7:14)のです。神に招かれていながら、自分から天国を拒絶する人がいるかと思えば、人からクリスチャンと見られていた人々の中からも落ちこぼれる人々が出るのです。ですから、聖書はすべてのクリスチャンに「恐れおののいて自分の救いを達成しなさい」と呼びかけている(ピリピ2:12)のです。


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キリスト紀元2004年 7月 20日公開

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