Genesis y:2.12 目覚し
"His alarm clock"


目が覚めると、外は透き通るような紺色の空。朝日が昇るまであと 1 時間位だろうか、 ベッド脇の時計をぼんやりと眺めて思う。 時計の上を叩き、アラームが鳴るのを止め、体を起こす。
さすがにまだ眠かった。 時計が鳴り出すまでもまだ少しあるということはつまり、いつもより起きるのが早い。 普段と違うそのことを思って、昨夜はもう忘れていたことがあたしの頭の中で形をとった。

「あたし、は ‥‥」

ほんとうに眠い、けど胸が少し痛んで、もう横になっても休めそうにない。

「ごめん、シンジ。まだ、見たくない ‥‥」

あたしは寝間着のボタンを外しながら、諸悪の根源のことを思った。 隣の家の住人はまだ起き出していないはず。 電話をするにはまだ早いと思う ‥‥


「あ、おばさま? アスカです。あたし、今日はシンジ起こしにいけないので、‥‥」

電話を置き、カバンをとる。どうせ学校で顔を合わせることは分かっているけれど、 もう少し、独りでいたい。 一つため息をついて、あたしはドアを押した。

外を見上げると、空はきれいに晴れ渡っている。気温もそろそろ上がり始めていた。 今日も良い天気らしい。‥‥ あたしの気分に関係なく。
その場で暫くぼうっと立っていると、なんだか隣の家のドアが開きそうな気がしてくる。 あたしはそのドアに目を向けないようにして静かに急いでエレベーターに飛び込んでいった。
[閉]のボタンを押し、ドアが閉まって下降しだしたところで一息つく。

「はあ ‥‥」

ドアが開くと同時に外の道路まで飛び出してようやく足が止まる。 道路から自分の家を見上げ、あたしは電話のことを思った。
まだシンジと顔をあわせたくなかっただけで、 ほんとうは起こしにいけない理由は何もなかった。
理由を言わなかったから、おばさまはちょっと不審顔だったけれど、でも、 尋ねないでくださった。
ありがとう ‥‥

学校までの道々はまだ人は少ない。 そもそも学校に行くにしてもこんなに早くに行っても仕方がないかもしれない。 でもシンジを起こしにいかないとなれば、あたしは朝することが無かった。

「バカシンジを起こさなくていいんなら、こんなに早く行けるのね ‥‥」

とぼとぼと歩きながら、周りを見回してつぶやく。 「歩いて」学校に行くことは、シンジが横にいるとなかなか出来ることじゃなかった。 いつも走っていた。ゆっくりと行けたためしはない。

「‥‥ まあったくあのバカは ‥‥ さ」

たとえばヒカリに話してみれば、 何よそんなことで、と笑っておしまいにされそうなことだった。 昨日のお弁当のこと。それ自体は些細なことだけど、それがきっかけだった。 案外、あたしがシンジに出来ることってないなあ、とふと思い当たっただけだった。


窓際の列には妙な位置に一つ空席がある。シンジの左隣。 独りあたしはその席に座って窓枠に肘をついて校庭を眺めていた。 案の定あたしは教室一番乗りで、他にはまだ誰も来ていない。

ガラガラガラ ‥‥

ドアの開く音。振り向くとヒカリだった。目を丸くしているヒカリに手を振る。

「おはよ、ヒカリ」
「おはよ。アスカ今日は早いのねぇ」
「たまにはそういうこともあるわよ」
「碇君は?」
「シンジは ‥‥ 多分、まだこないと思うわよ。 いつもと同じくらいになるんじゃないかな」
「あれ? いっしょに来なかったの?」
「え、うん、‥‥」
「喧嘩?」
「別にそんなこと無いけど」

何故そういう発想になるんだろう。でも喧嘩という訳じゃなかったから、 心置きなくあたしは否定した。

「そう?」

もっともヒカリは納得しなかったような感じで、曖昧な表情で微笑んでいる。 でもあたしもヒカリもそれ以上のことは言わなかった。


人が少ないのは時間が早かったからで、 始業時刻が近付くにつれ、教室も賑やかになってくる。
普段にぎりぎり駆け込むのであまり見ることもないそういう変化を感じて, たまに早めに叩きおこすのもいいかもしれない ‥‥ などと頭の隅で思いながら ヒカリと話していると、下を走っているシンジの姿が目に入った。
ちゃんと起きられたらしい。
時計を見ると、まあ、普段通りだろうか。

「なあに、碇君の心配?」

ヒカリが目ざとくそれを見つける。
ミサトへの愚痴の話からちょっと声を顰めて、でもからかうような。 あたしは静かにヒカリを眺めた。

「違うわ。シンジなら今来たし」

返事が意外だったのか、ヒカリは不思議な表情であたしの顔を見つめていた。


学校。いつも通り、授業が始まる。
いつもと同じ風景に、いつもと違う感じ。少し ‥‥ 遠い。
ヒカリと話してても、自分を演技してる自分がそこに居るような、そんな感じ。 ヒカリでさえ、あたしがあたしでないあたしを演じていることが分からない。 あたしが、あたしの奥からあたしの眼を通して外を眺めている、そんな感じ。

一時間目は国語。あたしにとって一番不得手な教科。 他の教科で首位を独走するあたしが国語で、特に漢文でどうして苦労しているのか ヒカリやシンジは知らない。
あたしはちらと横のシンジを盗み見た。
実は見た目より分からない漢字が多い。でもそれをシンジに言ったことはない。 虫食い文を前後の文脈から推測することで分かったふりをしている。 だから国語の授業は、単に先生の話を聞くというだけでなく、 そういう推理で頭をフル回転させなければいけないことが多い。
授業に集中していることは あたしのプライドに掛けても隣の席のシンジにばれないようにしていることもあって、 国語は授業の中では一番きつい。 でも、今日は余計なことを考えずにすむのでむしろ助かる、はずなんだけど、 そういうあたしを横で冷やかに眺めているあたしがそこに居た。

「90 点」

返却された先週の小テストの結果。別に良くも悪くもない。 あたしはさっさと机の中に放り込んだ。
ふと視線を感じて左を向くとシンジがこちらを見て首を傾げている。

「‥‥ 何よ?」
「ん、‥‥ 別に ‥‥」

何かしら飲み込んだようなシンジを放って、あたしは黒板に向き直った。 授業が終るまで、あと 30 分は残っている。 退屈な、それでいてそれなりに疲れる国語だけど、 今日は早く終って欲しいといったことは別に思わなかった。


「ねえ、ヒカリ、ヒカリは何で委員長なんてやってるの?」
「え?」
「大変じゃない? とくにミサトが担任だと」
「ええ、大変よぉ」
「やっぱり、ミサトが担任だから?」
「ううん、別にミサト先生が担任だからじゃないわ」
「公式にはそういうことになるわよね。でも別にここにミサトはいないわよ」
「‥‥ そうね、ちょっとは大変かな? でも誰が先生でもたいして変わらないと思う」
「じゃなんで委員長なんてやってんのよ ‥‥ 大変なんでしょ?
‥‥ って、なんでヒカリそこで笑うのよ」
「やってて楽しいもの。
碇君を起こしにいくのアスカ、毎日やってるんでしょ?
多分、それと同じくらい、まではいかないかな、でも楽しいもの」

そう言って微笑むヒカリの顔を、あたしはしばらく眺めていた。
ふうん ‥‥

昼休み、ヒカリとあたしは屋上でお昼御飯を食べていた。
空になったお弁当箱。昼前にシンジが渡してくれたお弁当。
やっぱり少し思い出すものがある。
ハンカチでくるみなおしたところでヒカリの声が突然低くなった。

「‥‥ アスカ」
「ん、何?」

ヒカリはちょっと言い辛そうに口ごもっている。

「あの、ね ‥‥ 今日、アスカ、どうしたの?」
「どう ‥‥ って?」
「ちょっと変よ?」
「そう?」

考え考えヒカリが言葉を紡ぐ。

「ん、そうね、‥‥
なんていうかね、いつもどおりなんだけど、‥‥
見てて目立たないっていうか、‥‥
勘違いならいいんだけど ‥‥ その、違うって言ってたけど、」
「‥‥ なんで分かっちゃうのよ」

本当は誰にも言わないつもりだった。

「分かるわよ、それくらい。 ‥‥ 」
「言っとくけど、喧嘩じゃないわよ。誤解しないように釘、刺しとくけど」

でもよっぽど喧嘩にしておいた方が良かったかも。言い切ってから思う。

「‥‥ ん、あたしね、あたし ‥‥ あたし要らないのかなって、さ」

意味が全然分かっていない顔。そりゃそうだろう。
あたしはヒカリの戸惑う顔をちらと見て微笑んだ。
‥‥ あたしは今までちょっと泣きそうな顔だったらしい。 全然、気がつかなかった。

「あたしが、してあげられることって、あるのかなって、‥‥ ね。
ほら、シンジってなんだかんだ言って、 結局、なんでもできるところがあるじゃない?
なんで、あたしはここに居るんだろ ‥‥ な」
「ん、え、でも例えば、起こしにいってあげてるんでしょ?」
「そりゃね。‥‥ でもそれくらい、目覚しにだって出来るでしょ?
起こしてやってるつもりだったけど、起こされてやってんじゃないかなって。
‥‥ 起こさなかったのに、今日、ちゃんと学校来てたし」
「‥‥」
「ちょっとね、自信、無くしちゃった」
「アスカ ‥‥」

心配そうなヒカリに笑顔を作ってみせる。

「あは、大丈夫だって、
今だけだから。予鈴が鳴ったら‥‥ いつものあたしに戻る」
「‥‥」
「だから、そんな顔しなくても、いい」

キーンコーンカーンコーン‥‥
予鈴。
アスカ。行くわよ。

「ヒカリ、行こ?」
「‥‥ え、ええ」
「教室に戻る前に。そういう顔、止めてよね」
「うん」

あたしたちは教室に戻った。


それでもやはり長いこと顔を突き合わせているのは苦痛で、 あたしは授業が終ると同時に帰り支度、さっさと学校を抜け出した、
筈だったんだけどふと振り返ると後ろ、 ちょっと距離をあけてシンジが学校を出るところだった。
あたしはそれを無視して歩き出す。シンジも追い付くつもりはないらしく、 別にそれらしい気配は無い。 あたしはしばらくそのまま歩き、大通りから右に折れ、50m ほど進んで、 シンジがそろそろ角を曲がるころと見計らって振り返って立ち止まった。 あたしがそちらを見ているのに気付いて、シンジの歩みが速まる。
もっとも、走ったりしないあたりがシンジだった。
追い付いて来たところで並んで歩き出す。

「人のあとつけて楽しい?」
「え、いや、そういうつもりじゃなかったんだけど ‥‥ ごめん」

こうやって一々謝るシンジの癖も今日は煩わしく感じる。言葉に刺が混じる。

「じゃ、どういうつもりよ」
「ん、今日は一人になりたかったみたいだから。
その、昨日から、ちょっとアスカ、沈んでたし、
‥‥ でももういいみたいだね」
「‥‥」
「え、いや、その、だから、‥‥ よかったな、って」
「‥‥ あたしもおちたもんだわね。
そんなに分かりやすくはなかったつもりなんだけどな。
ヒカリにならともかく、あんたにまで分かるなんて」

シンジが正面に回り込むようにして視線を合わせてきた。強い、瞳。
あたしは努めて平静な顔をしていた。
わずか数秒のことだったと思う。 たったそれだけの時間、たったそれだけ見つめ合っただけで、 身に纏う虚勢が脆くなるのを感じる。 あたしは鞄を背に回し、その把手を後ろ手に強く握り締めた。

「アスカ。
そりゃ、言葉もやってることもいつものアスカのまんまかもしれないけど、」
「あんたには関係ないでしょ!」

シンジの、要は自分を見ていてくれたことに頬が緩みそうになるのを 内心で必死に抑えながら怒鳴り返す。
それと同時に心の中に同じ位の大きさで声が響く。「関係なくはない!」 ‥‥
胸が痛い。

「‥‥ ごめん。
聞いちゃいけなかった ‥‥?」

シンジが肩を落し、その瞳から強さが消える。 重圧が抜けてあたしはすこし息を吐いた。
その瞬間にすっとあたしの心に入ってきたものがある。

「聞いちゃいけないってことは無いけど。 でも、ほんとに関係ないことだから」
「そう?」

あたしは目を逸した。
だから、そんな優しい瞳で覗きこまないでよ。
あたしの心に入ってこないで。

「‥‥ このバカシンジ ‥‥」
「え?」
「ねえ、シンジ」

心を落ち着け、顔を上げて、でもあたしは話題を逸した。

「今朝、起こしに行けなかったけど、ちゃんと起きられた?」
「母さんが起こしてくれた ‥‥」

シンジの声が弱まる。

「あ、やっぱり? ‥‥ あんた一応、目覚しかけてんのよね?」
「うん。止めちゃうこともあるんだけど、
‥‥ 止まってないこともあるんだよなあ」
「おばさまの起こし方、どうだった?」
「どうだったって?」
「あたしとどっちがいい ‥‥?」
「アスカのがいいなあ ‥‥ 母さんだと、
いざという時あっさり見捨てられそうなんだよな ‥‥」
「ふうん」
「でもアスカの起こし方もやだなあ。もちょっと優しくなんない?」
「‥‥ で、起きられる訳?」
「‥‥」

シンジは答えない。.... もっとも、表情が自信のなさを物語っている。
あたしはにっこり笑ってすっぱりとシンジの懇願を切って捨てた。

「じゃ、しょうがないわね」

その時のシンジの表情は、あたしの悩みを幾分か吹き飛ばした。


作者コメント。 お約束な展開のわりには結末が弱い。 一週間後に控えた y:2 との繋がりが苦しそうだ ^_^;
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