Genesis y:2.13 翳
"Her sleeping face"


「シンジ、起きなさい!」

いつもと違う声。 その違和感で僕は半分目が覚めた。

「‥‥ あれ ‥‥ 母さん ‥‥?
‥‥ アスカは ‥‥?」

布団にしがみつつ尋ねる。
良く考えてみればアスカじゃないんだから、しがみつく必要は無かった。 人間、習慣というものは恐ろしい。
母さんは呆れたようにこちらを見ている。

「今日は起こしに来れない、ですって。喧嘩でもしたの?」
「‥‥ そんなことは、‥‥ ないと思う ‥‥」

とりあえず、そういった記憶は無い。
何かあっただろうか、と寝惚けた頭で考えているうちに母さんはさっさと部屋を出て行った。 このまま横になっているのは若干、嫌な予感がするので身体を起こす。
まずは学校に行ってから考えよう ‥‥
まだすぐ閉じそうなまぶたをこすりながら僕は着替えた。


「おはよ ‥‥、母さん、‥‥ これは?」

テーブルの上には弁当箱が二つ。

「一つはアスカちゃんのよ。昨日、言ったでしょ?」
「あ、そうか ‥‥」

昨日のことを思い出す。弁当箱を受け取った時のアスカの様子も。

「そういえば、あの時、なんだか怒ってたな ‥‥」

僕のつぶやきを聞き咎めて母さんが振り向いた。

「なあに、やっぱりシンジが悪いの?」

喧嘩というのは既定のことで、問題なのはどっちに責任があるか、 ということだけだったらしい。ため息をつきながら席につく。
朝御飯をもう食べ終ったらしい父さんはひたすら新聞を読み続けていた。


同じ時刻に起こされて、わりとすぐに起きたにもかかわらず、
結局 学校まで走っているのは朝御飯をきちんと食べさせられるはめになったからだった。

「‥‥ おっかしいなあ ‥‥ はぁはぁはぁ ‥‥」

それでも朝のホームルームには間に合った。 教室のドアの前で息を整える。

ガラ。

「おはよ!」
「よ、おはよーさん」

トウジの返事。
トウジの前にケンスケ、その奥にアスカ。 アスカは自分の席でなく、窓際の空席に座って委員長と居た。 こちらに気付くことは無かったけれど。
鞄を自分の机に放り、 トウジの脇に座ると、ケンスケが端末から転校生の情報を呼び出すところだった。

「え、転校生?」

こういう情報は、やっぱりケンスケが早い。 でも、おかしいな ‥‥

「そうや、なんでや?」

トウジも同じ疑問を持ったらしい。

「次、うちのクラスの番だろ?」
「うん。でも、‥‥ ってことは、こっちに引っ越してきたってことでしょ?
どうやって?」
「ああ、こっちにはもう来てるみたい。
これない事情が何か、あるらしいけど、 そこまではまだなんだ ‥‥ 多分、病気で入院したか何かじゃないかな。
退院の目処がたったというところ」
「ふうん」

僕もトウジも納得顔。
それにしてもどうやってそんなことまで。

「‥‥ で、どっちや?」
「多分、女、だと思う、個人情報は厳しくて。
‥‥ でも、まだ誰にも言うなよ。 間違ってた時に袋叩きにされんのは俺だもんなあ」
「ま ‥‥ な、そんな噂流すのお前しかおらへんもん。
で、いつごろや?」
「さあ? 来週か再来週みたい。トウジ、委員長の方からさりげなく何か訊いてみてよ」
「‥‥ んなことできるかい」
「ケンスケがミサト先生に訊きにいけば?」
「ふむ、それはそれで一つの手、というか、名目が立つんだが ‥‥、
でもまだその時期じゃないだろうな。も少し調べてみるさ ‥‥
おい!」

ふいにケンスケが後ろを指す。この爆音は ‥‥!
僕が振り返るのと同じ速度でトウジとケンスケが窓へ飛びつき、
僕もそれに続く。
それはミサト先生の車が校内に入って来た音だった。


一時間目の国語。それは僕が唯一、アスカに教わることなしに来ている教科だった。 他はもう大差がついていて一々コメントする気にもならないほどだったけど、 これだけは何故か一緒に勉強したこともない。
最近、気付いたことだけど、 国語の時間だけはアスカにピンと張った緊張感みたいなものが漂う。 授業時間休み時間おかまいなしのアスカに、 男女別々の体育の時間を除けば、 この国語の時間帯だけは叩かれたことが無いような気がする。
一番奇麗な、というのとは少し違う、 かっこいい、というのとも違う、 可愛い、というのとは正反対の、‥‥ いや、可愛くないという意味では決してなく、 ‥‥ 僕の国語の成績の程度が知れるのが自分でも良く分かるけれど ‥‥ 凛々しい、というとやっぱり語感が変で、 あまり見せることは無いけれど、いかにもアスカらしい、 一番アスカによく似合いそうな印象に残る横顔をするのも、この時間だった。

その筈なのに、‥‥ 何だろう、今日はアスカの表情に冴えが無い。 別に今、却ってきた小テストの結果が悪いという訳ではないだろう。
ちらと覗けた点数は別に悪くなかった ‥‥ ごめん、アスカ。
もっとも、そう言うのも僭越で僕より良いけど、それは脇に置いといて。
授業中なので堂々と眺めている訳にもいかず首を傾げていると アスカがこちらを振り向いた。

「‥‥ 何よ?」
「ん、‥‥ 別に ‥‥」

僕は驚いた。息が止まるほど驚いた。
今日はそう言えば、アスカの顔を正面から見るのは初めてかもしれない。 家には来なかったし、朝、学校に来てからも話はしていない。
驚くほど顔色が悪い。病気というのではない、 そういう意味の顔色の悪さではない。 ‥‥ そう、女の子に使っちゃいけない言葉かもしれないけど、 なんていうか、肌に艶が無い、眼に光が無い。
授業が終るまでの 30 分。それは僕には少し長く感じられた。


授業が終ってみれば、単なる杞憂のような気がしていた。 実際、アスカも普段通りに見える。

「どないした、シンジ ‥‥ 奥方ばっかり見よってからに」

トウジのからかいも、だからそんなに気になることもなかった。

「そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと変かなって」
「そうか? 特にそんな気はしないけどな」

ケンスケがファインダーにアスカを捉えた。
つられて僕もアスカを眺める。
あ。
アスカの表情にふと翳が差した。ほんの一瞬のことにすぎなかったけれど。

「‥‥ シンジ。お前の言うとおりかもな」

ケンスケがファインダーから顔を上げる。
ケンスケも首を傾げていた。

「惣流がああいう顔できるとは思わなかったな。
シンジ、お前何かやったのか?」

ケンスケのおかげで気のせいでないことが分かったのは有難い、んだけど、 だから、何故みんなその結論に行くのかが僕には謎だった。
半分、机につっぷしながら僕は抗議した。

「違うぅ、‥‥ 僕じゃない ‥‥」

もっとも、それらしい心当たりがあるだけに反論は弱く、 二人を説得するだけの力は無かった。


「そのころ、ねぶがわでは ‥‥」

4 時間目、午前の最後の授業は数学。ただ、数学になることはあまりなく、 今も例によって同じ話。
と、珍しいことに隣から寝息。
アスカが眠っている。
ふつう、ちゃんとアスカは端末にむかっている ‥‥ ただし、 たいてい別のことをやっているだけで。

「はあ ‥‥」

でも良かった。平和そうな、幸せそうな寝顔。
ごめん、アスカ。昨日のことが原因だとすれば、‥‥ どうしてアスカが辛そうなのか、 僕には良く分からない。
こういう時、アスカのとる態度は単純だ。その場で言うか、絶対に言い出さないか。 言う気があるなら、今ごろ僕が無事にすんでいる訳はないから、 言うつもりはないんだろう。 そして、自分から話そうとしない以上は、尋いても話してくれないだろう。
だから、祈るくらいのことしか出来ない。
だから、アスカ、お休み。良い夢が見られますように ‥‥


「碇君。アスカどうしちゃったの?」
「僕もよくわかんないよ。様子がおかしいのって昨日の夜くらいからなんだけど」
「あのねぇ、アスカはね! ‥‥」
「うん」

委員長は何か知ってるのだろうか。

「‥‥ 自分で考えなさい」

僕はおもいっきり脱力してしまった。

「いいけど ‥‥ 委員長も、なんかアスカに似てきてない?」


学校が終ると、アスカは あっと言う間に姿を消した。
僕の帰り支度も大した時間かかってないはずなのに。
ちょっと朝のことが気になっていたけれど、 午後からは別にどうということもなかったので、まあ、いいかと思っていた。
大通りに出たところで、アスカが前方を行くのが目に入った。
帰り道は同じだし、学校を出たタイミングもそれほど違う訳もないから、 当然といえば当然。 なんとなく無理に視線を前に固定しているようなところがあり、 むしろ僕に気付いている風にしては速い。 僕はゆっくりと後ろからついていった。
多分 ‥‥ これでいいんだと思う ‥‥ 違うかな ‥‥?
しばらくそうやって後ろについて歩いていた。 大通りから右に折れ、アスカが見えなくなっても、べつに慌てることもない。
‥‥ 尾行している訳じゃなし。もっとも、見えなくなるとなんとなく不安にはなる。
右に折れ、先にアスカがみえるはずのところで、 ‥‥ 前方でアスカがこちらを向いて待っていた。
つまり早く来い、ということなんだろう。
僕は少し足を速めた。
追い付いたところで並んで歩き出す。

「人のあとつけて楽しい?」
「え、いや、そういうつもりじゃなかったんだけど」

言われてみればその通り。弁解の余地もない。
素直に謝るべきだろう。

「ごめん」
「じゃ、どういうつもりよ」
「ん、今日は一人になりたかったみたいだから。
その、昨日から、ちょっとアスカ、沈んでたし、
‥‥ でももういいみたいだね」

ほんとはまだ少し、どこかアスカ自身を傷つけているような言葉だった。
今朝よりいいのは本当のことだったけれど、
でもやっぱり言葉だけじゃ白々しかったか、返事は無かった。
不機嫌そうに睨んでいる。

「いや、その、だから、‥‥ よかったな、って」
「‥‥ あたしもおちたもんだわね。
そんなに分かりやすくはなかったつもりなんだけどな。
ヒカリにならともかく、あんたにまで分かるなんて」

僕はアスカの前を塞ぐようにして立ち、目をのぞきこんだ。
いつもなら透き通るような、意志の強さを感じさせるアスカの眼が、 単に同じ場所にあるだけの、なんの変哲もないものになってしまっている。 さすがに今朝のような無気力さ、といったものまでは見えていないけれど、 とてもアスカがする目とは思えなかった。
そして、視線をそうやって合わせているだけでどんどん揺らいでいく瞳。
自分でも分かっているのか、無理に挑むように目を合わせて来る。

「アスカ。
そりゃ、言葉もやってることもいつものアスカのまんまかもしれないけど、」
「あんたには関係ないでしょ!」
「‥‥ ごめん」

僕は反射的に謝ってしまっていた。何か、これ以上は手を出してはいけないような、 見た目はいつもどおりでも、手を触れると何か壊れそうな、そんなアスカ。

「聞いちゃいけなかった ‥‥?」

これが、僕の招いたことなんだろうか。

「聞いちゃいけないってことは無いけど。 でも、ほんとに関係ないことだから」
「そ ‥‥ う?」

アスカがため息ひとつして目を逸す。

「‥‥ このバカシンジ ‥‥」
「え?」
「ねえ、シンジ」

アスカが顔を上げた時には普段通りに戻っていた。
ふと垣間見えていたアスカの心の骨格。すごく繊細に感じていたそれを覆うように、 護るようにかぶさる、力強さと迫力と、粘りを見せる瞳。 いつものアスカがようやく戻って来ていた。
僕の知らない罪が、消えたということではないんだろう。多分、単なる執行猶予。 でも僕は一息つけた。

「今朝、起こしに行けなかったけど、ちゃんと起きられた?」

もとに戻ったところでなんでよりにもよって、この話題から入るのか。
僕はすこし引いた。

「母さんが起こしてくれた ‥‥」
「あ、やっぱり? ‥‥ あんた一応、目覚しかけてんのよね?」
「うん。止めちゃうこともあるんだけど、
‥‥ 止まってないこともあるんだよなあ」
「おばさまの起こし方、どうだった?」
「どうだったって?」
「あたしとどっちがいい ‥‥?」
「アスカのがいいなあ ‥‥ 母さんだと、
いざという時あっさり見捨てられそうなんだよな ‥‥」
「ふうん」
「でもアスカの起こし方もやだなあ。もちょっと優しくなんない?」
「‥‥ で、起きられる訳?」
「‥‥」

起きられる、とは言いがたい。実際、今朝、起きだしたのは、 万が一もう一度寝てしまうと遅刻が確実になりそうだったからで、 だからといって、起きられない、とも答えたくない。 どう答えようか逡巡していると、その前にアスカが笑みを浮かべて判決。

「じゃ、しょうがないわね」
「うう ‥‥」

しかし、反論出来ないのも確かだった。


作者コメント。 作者の国語能力の程度も知れる形容句の数々 ‥‥
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