Genesis y:2.11 これもまた一つの日常の
"Your words in the dream"


ふと目が醒めると、頭もとにモモ。
椅子が引き寄せられていて、その上のおぼんにモモのカンヅメ。

「‥‥‥ シンジ?」

添えてあるフォークで刺して一つ、口に運ぶ。

「美味しいのはいいんだけどさ ‥‥
あのバカ、あたしのプライバシーなんだと思ってんのかしら」

合鍵持っているから家には入れるにしても、 本人の許可も無しに女の子の部屋に勝手に入って来るなんて、なんて奴。
もちろん、本人の許可を得て入って来ることがけっこうあるから、 見られて困るものは見えるところに置いてないけど。

「でも、とっちめてやる必要は、ありそうね」

そう呟いて、あたしはベッドから降りた。
汗をかいたくらいで、体の方は問題なさそうだった。


台所に入って、あたしは包丁、まないたが使われた形跡があるのに気がついた。
置いてある場所は変わってないものの、洗った跡がある。
手元の皿に目を落す。

「‥‥ この皿、あたしん家のだもんね」

もしかして、と思い冷蔵庫を覗けば、
そこにはしっかりモモの残りが別の皿に移されてラップでくるまれている。

「‥‥‥ なんて言うか ‥‥」

冷蔵庫を閉めて振り返えると、
今朝、感じたような空気の冷たさといったものは完全に振り払われている。
冷蔵庫に凭れたままずるずるとしゃがみこみ、あたしは胸を抱いた。
温かさと優しさと。でも感じる嬉しさの中になぜか困惑と悔しさもあった。

「‥‥ バカ」

とりあえず使い慣れた言葉を口にしてみたけれど、 誰のことなのか、どんな意味なのか、 自分でも良く分からなかった。


カチャ

簡単な夕食を終え、お皿を洗っていると、
ベルも鳴らずに玄関からドアが開く音。

「つまりあのバカはこうやって入って来た訳ね ‥‥」

洗っていた皿を篭に置いて、あたしは玄関に向けて怒鳴った。

「こら、シンジ! 入る時、声くらい掛けなさいよ!」

耳をすませていると、玄関口からかすかに声。

「ごめん ‥‥ おじゃまします ‥‥」
「あれで謝ってるつもりかしら ‥‥」

手を止めて、耳をすませていなければ聞こえるものではない。
水音を立てていたのでは、まず絶対に聞こえない。
そんなことを思いながら、独り微笑んでいると後ろでリビングのドアが閉まる。
リビングに振り返った。

「シンジ?」
「うん。‥‥ 風邪、よさそうだね」
「あんたが大げさなのよ」

真剣な瞳でベッドに追いやられた時のことを思う。
反論を許さない雰囲気だった。
ああいう顔も出来るんだと、印象に残った表情。
でもそれより今はモモのお礼。

「‥‥ モモ、あ、ありがと」
「あ、うん」

なんでもないことだと、普通のことだと言っている言葉。
いろんな意味で、あんまり普通のことだと思ってほしくない。

「でも、あんたカンヅメだけ置かれても困るじゃない。
何だと思ったわよ。実は毒殺用のモモで、
間違えて食べちゃってたりしたら、あんたの責任だからね」

言いがかりだな ‥‥ と自分でも思う。

「えーと、ごめん。‥‥ でも、僕からだって思ってくれたんだ」
「!」

反射的にシンジを見返すと、にこにこして微笑んでいる。
自分でも真っ赤になったのが分かる。
声も出ない。
‥‥ そんなあたしを見詰めて、さらに嬉しそうなバカ。
しばらく絶句したまま見蕩れてしまった。‥‥ 不覚。

「あ、あんたバカぁ!?
鍵、こじ開けずに家に入れるのってあんたしかいないじゃない!」
「モモ置きにきたときは鍵、開いてたけど」
「あたしはちゃんと鍵、締めたわよ! カマかけようったってそうはいかないわよ!」
「‥‥ 鎌って? 何を喋りたくないの?」

笑いを堪えながら、とぼけて首を傾げるシンジ。
息を整え言葉を探して睨みつけていると、

「あは、ははは」

シンジがついに吹き出した。
息を呑んだところから叫んだために、肺に空気が無くてまだ喋れない。 反撃が無いのをいいことに好き勝手に笑い続けるシンジ。 これほどシンジに笑われたことは初めてだった。
そんなシンジを斜めに眺め、あたしは濡れた手の平を簡単に拭き、 おもむろに後ろに置いてあった包丁を取り出した。
笑いころげていたシンジがふと顔を上げて硬直する。

「ちょ、ちょっと、それは止めようよ、ね、アスカ」

シンジの視線は右手の包丁に固定されたまま。

「冗談になってないから、‥‥」

笑うのを止めてくれればそれで良かったとはいえ、
この笑われ方は気分良くなかったから、 あたしはしごく真面目な顔で判決を言い渡した。

「二倍」
「へ?」
「プレゼント、倍! って言ってんの!」
「そんなあ」
「今ここでうっかり手が滑るのとどっちがいい?」
「‥‥ 倍でいいです」

萎縮しながらも、
おびえながらも、
すこし変な智恵を働かせている瞳。
シンジの嘘は分かりやすい。
そんな裏表はあって欲しくないけれど、
でも ‥‥ でもどこかに安心しているあたしがいる。
甘さと優しさを勘違いしていないということだから。
それにもう一つある ‥‥

‥‥ もっとも、今回は契約不履行を許すつもりはない。
シンジは言い逃れできるつもりでいるのだろうか?

「あんた、ほんとにバカね」

さっきとは違う。
これは本当にシンジがバカだと、あたしが思っている、そういう「バカ」。
包丁をしまいながら思う。
理不尽だと、シンジが少しでも思うならそう言って欲しいと思っていることを、 シンジは分かっていない。

「これから先、あたしが包丁持つたびにあんたはあたしの言い分聞くわけ?」
「‥‥ それはしょうがないような気がする ‥‥」
「だから、あんた、バカって言うのよ ‥‥
それじゃ、あたし、ただのわがままになっちゃうじゃない ‥‥」

シンジの心地よい優しさについ、身を沈めそうになったこともある。
だから嘘じゃないけど、でも、こんなのほんとはどうでも良いこと。

「え?」

ただ、この程度でもシンジには良く分からなかったらしい。
あたしは苦笑いした。

「あんたがそんなだから、あたしが増長しちゃうって言ってんのよ」
「‥‥ 別にそんなこともないんじゃない?」
「またそうやって甘やかす」
「そう? 別にそういうつもりは無いんだけど。
アスカはそのままでいいと思うよ」
「! ‥‥ ありがと。シンジは ‥‥ も少し頼りになるよう頑張ってね」

腕組みしてわざわざ値踏みするようにしてシンジを眺めて告げた。
何を言われたのか、 今度は半分くらい分かったらしいシンジがなんとも言いがたい表情をする。
あたしは吹き出した。でもこれであいこ。

「ほんとにね、期待してるわよ?」

あたしが冷蔵庫にモモを見つけた時に感じた苛立ちをシンジがいま分かるとは思えないし、 分からなくていいと思う。
底無しの優しさ見せられたって、あたしにはどうしようもない。
シンジの真似ができる訳じゃない。
むしろそれが本物では無いと思ってでもないとあたしはやってられない。
でもシンジのそういうところを疑うのは嫌だ。しかもシンジとはぜんぜん関係ない、 あたしの都合だけで!

これがもう一つのこと。
シンジの甘さにも限度があると思えたから。
けっして底無しなんかじゃないと、思えたから、
あたしはほっとしていた。


これは、これもまた一つの日常として夢の中を過ごした、ある一日。

「アスカはそのままでいいと思うよ」
シンジは分からないなりに正鵠を射ることが出来ていた。
どうやってもシンジほど優しくはなれそうにないと、
あたしが思っている心苦しさをちゃんと和らげてくれていた。
だから、‥‥ あたしは今も覚えている。

シンジは分かっていなかったから ‥‥ だから、
単なる慰めでもなんでもない、素直な一言だと、本当に信じられる言葉。

シンジ。あなたは知らないんでしょうね。
これがどれほど救いになったか。

夢から醒めた時の、現実とのギャップの大きさ。
まだ自分に、それに抵抗する力があるなんてまったく思っていなかったのに、 心の底から死んでもよかったと思っていたその時に、 まだ死にたくないと、思う心がどこかにあったのをあとで気がついて驚いたことに。

夢から醒めた後、現実世界でのシンジもまた、
夢でのシンジと同じ人だと知らされた時の安堵。
あなたは知らないでしょう ‥‥

限りない肯定で、あたしを救ったあの一言、あなたはもう忘れているだろうけど。

だから口にするつもりは無いけれど、でも、だからこそ、 あなたに感謝するとともに、
あなたの存在に、あたしがいくばくかの支えとなれますように ‥‥


作者コメント。 2.6 と 2.8 の間。日曜日の午後。 3 重にも 4 重にも層をなす心を 2.6 のように間接的に描くだけの力量なんかないぞ。 だから 2.6 との文調の違いに眩暈がするかもしんないが、 かんべんして。
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