Genesis y:2.10 そして日常が始まる
"Whose dream is this?"


様子のおかしいアスカを問いつめれば、やっぱり風邪。
昼からまたどこかに行きたそうにするアスカを宥め、家に帰し、ベッドに押し込む。

昼ご飯の後かたづけを終え、まだ太陽も出ているので布団でも干そうかと思うその時。
背筋に悪寒が走る。

「‥‥ 嫌な予感 ‥‥」

しかし、別に玄関のドアが開いた音はしなかったと思う。
僕はそっと自分の部屋の戸を叩いた。返事は無い。もちろんその筈だ。
でもなんとなく中を覗きたくないような気が何故かする。
ドアノブを握る手にも汗。
腕も強張って、ノブが回らない。
大きな音をたててしまいそうだ。
ノブは全然、動かないけどまるでそれをもぎとるように力を込める。

カチャ

感覚の無くなった手でも、ドアが開くようになったのが分かる。
ドアが前後に微かに震えている。
押す。ドアが ‥‥ 動く。
まだ、ベッドは見えない。

「アスカ ‥‥ 居ないよね?」

半開きのドアから、身体を滑り込ませる。
ベッドの方を見ない言い訳のようにして、ドアを見つめ、そっと閉める。
午後の陽は入って来ないけれど、部屋は明るい。

「‥‥ は、はぁ ‥‥」

ベッドを見つめて、僕はその場にしゃがみこんでしまった。
ベッドは空だった。

「と、当然だよな。うん」

やけに長い間、その場で空のベッドを見つめていたような気がする。
でも多分、数秒たらずのことだろう。

「あ、違う、そうじゃなくて、僕は布団を干しにきたんだ」

理由を付けなければいけないような気がして、僕はそう呟いた。

「えーと、まず、掛け布団と、‥‥」

段取りに頭を向ける。

「‥‥」

全然、何も思い浮かばなかった。

結局、布団を干すのは止める。
夕食までに父さん、母さんが帰って来るかどうか分からないので、 僕は晩ご飯の買いだしに出かけることにした。


「アスカ、起きてる ‥‥?」

チャイムも鳴らさず、合鍵でそっと入り ‥‥
忍びこむという言葉がぴったりするのにはかなり気が咎めた。
カーテンを閉め気味にして、 やや部屋を暗くした中でアスカが安らかに眠り込んでいる。

「よかった ‥‥」

枕もとにモモのカンヅメを切ったものをそっと置き、やっぱり忍び足で部屋を出た。


家に戻ると、さすがに陽も傾き始め、布団を干すのには手遅れ。

「さて、どうしようか ‥‥」

僕は窓を開け、しばらく勘案していた。

ガチャ
玄関のドアの開く音と ‥‥

「‥‥ それにしても何で風邪なんかひいたんだ? ‥‥」

父さんの声。
母さんの声も聞こえる。これで晩ご飯の用意はしなくてよくなった。
アスカの方には後で行けばいいだろう。
僕は窓を閉め、ベッドに腰かけた。

「あーあ、これでまた、いつもの生活に戻るんだな」

この 3 日、アスカとずっと一緒に居られた 3 日間。
ここのところ、こんなに一緒に居たことは無い。
休みの日でさえ最近は一緒じゃない ‥‥

「シンジ! 居たんなら返事しなさいよ」

記憶を遡りかけたところを母さんの声が中断した。
ドアのところから顔だけ出して、軽く眉を顰めている。

「あ、母さん、何?」
「何?、じゃないわよ ‥‥ 風邪はもういいの?」
「あれ?」

アスカの風邪のこと何で知ってるの‥‥ と口にしかけて、 かろうじて名前は出さずにすんだ。
もちろん二日前に風邪だったのは僕。

「うん。一日で治った」
「それで、アスカちゃんに風邪、うつしたりしなかったでしょうね?」
「‥‥ えーと」
「‥‥ しょうがない子ね ‥‥ ちゃんと面倒見てあげた?」
「‥‥ うん」

多分。


「‥‥ なんだ、アスカ元気そうじゃないか」

晩ご飯もそこそこにアスカの家にあがりこんだところ、いい匂い。

「こら、シンジ! 入る時、声くらい掛けなさいよ!」

台所からアスカの声が通る。
まだアスカのお母さんは帰ってくる予定がないらしい。
それらしい靴がないこと、そしてこの家の鍵を持っているのはアスカを除けばアスカの お母さんと僕だけだから。

「ごめん ‥‥ おじゃまします ‥‥」

アスカは台所で洗いものをしていた。

「シンジ?」
「うん。‥‥ 風邪、よさそうだね」
「あんたが大げさなのよ。‥‥‥‥‥‥ モモ、あ、ありがと」
「あ、うん」
「でも、あんたカンヅメだけ置かれても困るじゃない。
何だと思ったわよ。実は毒殺用のモモで、 間違えて食べちゃってたりしたら、あんたの責任だからね」
「えーと、ごめん。‥‥ でも、僕からだって思ってくれたんだ」

手を止めてアスカが絶句している。
真っ赤。かわいい。

「あ、あんたバカぁ!?
鍵、こじ開けずに家に入れるのってあんたしかいないじゃない!」
「モモ置きにきたときは鍵、開いてたけど」
「あたしはちゃんと鍵、締めたわよ! 鎌かけようったってそうはいかないわよ!」
「‥‥ 鎌って? 何を喋りたくないの?」

首を傾げて尋いてみた。顔中まっかにして睨みつけているアスカを見ているうちに 笑いを堪え切れなくなって吹き出してしまった。
ひとしきり笑い終えて、眼をアスカに戻して僕は驚愕した。

「ちょ、ちょっと、それは止めようよ、ね、アスカ」

アスカの右手に包丁。
なんといっても、その手に少し洗剤の泡がついている、というのが迫力を増している。

「冗談になってないから、‥‥」
「二倍」
「へ?」
「プレゼント、倍! って言ってんの!」
「そんなあ」
「今ここでうっかり手が滑るのとどっちがいい?」
「‥‥ 倍でいいです」

僕が何を考えていたかなんて分かりゃしない。同じものを倍と言い張れば良い。
とりあえず、この場を凌ぐことを僕は思った。

「‥‥ あんた、ほんとにバカね」

手を拭いて包丁をしまうアスカの、ほんとに呆れたという声。
‥‥ そんなに変だろうか?
その僕の表情に振り向いたアスカが答える。

「これから先、あたしが包丁持つたびにあんたはあたしの言い分聞くわけ?」
「‥‥ それはしょうがないような気がする ‥‥」

そもそも、 包丁なんか無くてもアスカの言うこと全部聞いてるような気がしないでもない。
そう思っていると、突然アスカが目を伏せて、ほとんど囁くような低い声。

「だから、あんた、バカって言うのよ ‥‥
それじゃ、あたし、ただのわがままになっちゃうじゃない ‥‥」
「え?」

良く分からないと聞き返すと、アスカが苦笑いする。

「あんたがそんなだから、あたしが増長しちゃうって言ってんのよ」
「‥‥ 別にそんなこともないんじゃない?」
「またそうやって甘やかす」
「そう? 別にそういうつもりは無いんだけど。
アスカはそのままでいいと思うよ」
「ありがと。シンジは ‥‥ も少し頼りになるよう頑張ってね」

腕組みして値踏みするように僕を眺めてアスカが告げる。
言外に頼り甲斐なし、と言われてしまった。
そのとおりだけに何も言えない。
返事に困っていると、こんどはアスカが吹き出す。

「ほんとにね、期待してるわよ?」

何やら複雑な気分を抱えて、僕は家に戻った。


‥ これでまた明日からアスカに叩き起こされ、学校への道を駆け足で急ぎ、 4 時間の授業、昼ご飯にパンを食べ、午後の眠たくなる授業を受け、 トウジ達と遊びに出かけ、家に帰って宿題をする、そういう毎日が来るんだと思う。
別に嫌いじゃない。
アスカにつきあったこの三日はかなり疲れたし。

でもこういう非日常的なこともたまにあるといい。
今週末もそういう日になるかもしれないな。

僕は日記はつけていない。
でも、今日だけは、これだけは書き残しておきたいと思う。
この三日みたいなこともある、こういう毎日が、僕は好きだ。

‥‥‥ これが実は非日常であることを僕が知るのに先立つこと 2 週間前の ノートの端に記したメモの一部。
今はまだこのノートは机の引き出しの遥か奥底に仕舞い込まれている。
何をあたりまえのことを書いたんだと、 またそう思えるようになる日まで。


作者コメント。 2.7 と 2.9 の間。日曜日の午後。 このシンジの回想で y:2.1, y:2.4, y:2.7 と続いたシンジのシリーズが 一旦、完結する。 y:2.9 からは別シリーズになる。
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