2003.01.24

「脳と身体の動的デザイン」多賀厳太郎(金子書房)

      著者は清水博の弟子の一人である。川人光男の計算神経科学とは立場が異なる。川人等は脳の側から知覚−運動系列における学習の問題を扱っていて、制御でいうとフィードフォワード制御に相当する。フィードバックは学習の形で行われる。したがって、環境の急激な変化に追従しない。(例えば歩行中に道路が凸凹しているとか。)脳の側だけでは現実的な知覚−運動系列の問題は理解できず、環境との相互作用の中で自己組織的にフレキシブルに運動が生成されるという機構が必要となる。脊髄における神経回路網の非線型振動と環境の振動との間に引き込みが起きて安定軌道(リミットサイクル)が生じる。歩行について計算機上のモデルを作り、確認した。速度をあげると自動的に歩行(両足接地)から走行(ホッピング)へと遷移する。脳はその神経回路網のパラメータを制御していると考えられる。解剖学的には脊髄において相当する神経回路が確認されている。更に、障害物との距離を知覚させる事で歩幅を少しづつ変えて避けるという行動も計算機上で確認した。

      脊髄にある歩行回路CPG(Central Pattern Generator)は生得的に存在するらしく、乳児は支えて動かすだけで歩行動作を行う。しかし生後2ヶ月〜4ヶ月の間はこの動作が起こらない。その後今度は自発的に歩行動作を始める。乳児を仰向けにすると手足をランダムに動かす(GM:General Movement)がこれもやはり生後2〜4ヶ月で止まり、その後意図的な運動として再現する。チンパンジーでもそうであるが、日本猿には見られない。こういう現象から、著者はCPGと大脳皮質との間で制御主体の受け渡しが起こっていると考えた。実はこのような運動機能の獲得プロセス(U字型)は他の分野でも同様であり、知覚における形と色の統合や、目に見える物に手を伸ばすリーチング等、多くの例が見付かっている。すなわち乳児は生まれる前から(胎児の運動もいろいろと研究されている)基本的に統合された知覚−運動機能を持っていて、生後2−4ヶ月の間に大脳皮質は統合された部分を個別に知覚し制御するような機能を発達させる(大脳皮質の機能地図)ことで、大脳皮質支配の新しい再統合を行う、ということである。すなわち生得的には統合されていた一連の知覚−運動機能の一部を凍結させたり、他の運動を追加することによって、環境に対する高度な学習機能が加わる。川人光男の計算神経科学はこの機能の、そしてこの機能のみの、理論と考えられる。

      この立場から見ると、ギブソンの生態心理学の立場は厳密には生後2ヶ月までの話しであって、それまでは乳児は自己と身体と環境の間の区別は何も無く、環境の与えるアフォーダンスそのものである。その後についてはヒトとしての新たな環境(社会や生活の場)を想定して生態心理学が展開されるが、どういう風に「環境」を設定するかという自由度が残る。これに対してピアジェの発達理論は乳児は白紙の状態で生まれ、機能は全く統合されていない状態から、試行錯誤で環境に応じて統合されていく、という立場であるから、4ヶ月以降の理論である。生態心理学ではヒトと動物を同じ視点で捉えようとしており、ピアジェは人における人格を問題にしているのであるから、当然といえば当然であるが、その境界線が生後2−4ヶ月頃にあるというのは面白い。大脳皮質は既に存在する知覚−運動系列に関与している神経細胞に対してランダムに刺激を与えその応答を受け取ることによって自分が制御すべき対象(身体−脊髄−−−)を「知る」。これが大脳皮質の「地図」である。このプロセスは大脳皮質の神経細胞にランダムに刺激を与えていれば自己組織的に生成する。我々成人が想像できるのはこの「地図」が出来て以降の話であって、それ以前の乳児の自立的な知覚−運動系列についてはむしろ「神秘」の部類に入るのではないだろうか?

      意識や随意運動の立場で見れば、大脳皮質−他の脳−神経系−身体−環境というヒエラルキーが一応あるように見える。(これはヨーロッパで確立された天上の存在と地上の存在の間に位置づけられた人という存在をその論理の延長で細分化したものでもある。)実際にはそれらの境界は強く結合して一体化しているため、機能的には区別が出来ない。もっと大きく動物という立場から見れば、環境の知覚→大脳辺縁系や中脳や脊髄が最初にあり、その支配(ランダムな刺激)を受けて大脳皮質や他の神経や身体があるように見える。意識そのものを問題にする場合はその立場を取らざるを得ない。すなわち意識とは何かの意識であり、その何かとは大脳皮質によって統合された知覚−運動系列であるが、意識のレベル(大脳辺縁系からの刺激)が下がると統合が時系列的に途切れて、夢のような状態に遷移する。更に下がると大脳皮質による統合が無くなり乳児のような生得的統合に戻る。これが深い睡眠である。最初に述べた脊髄歩行回路の非線型振動が大脳皮質からのパラメータ操作によって歩行−走行と遷移するのと類似している。そういう意味で大脳皮質全体が非線型振動子の集合であり、その制御パラメータを大脳辺縁系が与えていると見る事も出来る。ただし、非線型振動子というものが比喩的なものなのか、それとも脊髄に見られたように神経回路として存在しているものなのか、は今のところ不明である。

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