ベンジャミン・リベット「マインド・タイム」(岩波書店)をやっと読み終えた。通勤バスの中で少しづつ読んでは考えて消化して行った。一箇所判らない処が残ったが、とりあえずは重要でないので、ここに纏めておく。

    物理的な時間の定義は物理現象に依拠している。古くは天体の運動であり、現在ではセシウム33の振動、実用的には水晶振動子である。それらに基づいて、信号生成装置や検出装置の時刻が決められている限りにおいて、2つの刺激時刻や、2つの測定時刻の同時性が確定することになる。このことについては何の曖昧さもない。Benjamin Libet が初期に行った実験においては、大脳皮質の一次感覚野での神経の興奮(これは手術中であれば測定できる)持続と、主観的意識(気づき:awareness:これは被験者の報告を信用するしかない)との関係を明らかにしたわけである。その結果は、少なくとも一次感覚野が0.5秒程度興奮を続けないと主観的意識が現れない、ということである。このことの論理的な帰結としていえることは、感覚野に最初の神経パルスがやってきてから人がそれに気づくまでに少なくとも0.5秒が必要である、ということである。それでは、どうして人は感覚刺激の時刻を正しく意識することができるのであろうか?ここでもう一つの実験的事実が必要であった。それは末梢感覚器に由来する本物の刺激では、0.5秒以上続く脳波の事象関連電位(ERP:event-related potential)の中に初期EP信号(primary evoked potential)を有するということである。メカニズムはさておき、種々の実験からこの初期EP信号の時刻まで主観的意識は時間を遡ることが判った。皮質を連続して0.5秒刺激しても、初期EP信号は現れず、主観的意識は時間を遡ることができないのである。
1) 末梢の刺激からこの0.5秒の間に次の刺激が入ると最初の刺激の意識が混乱する現象はマスキングとしてよく知られているし、サブリミナル刺激としても応用されている。
2) 脳の病的欠陥には多くの例があり、末梢感覚器刺激に対しても片方の半球だけ初期EP信号を作れないという患者も居る。その場合には左右の手に同時に刺激を与えると、その半球の支配する側(逆の側)の手からの刺激の気づきが0.5秒遅れる。つまりそちらの刺激を0.5秒早くしたときに始めて左右同時に刺激されたと意識される(報告される)。
3) (これは後半での実験結果であるが)日常的に感覚刺激を受けてから対応する行動までの時間はほぼ 0.15秒 であって、それらが意識されるのは更に 0.35 秒後となる。この刺激から行動までのプロセスは完全に無意識である。盲視という現象に典型的に現れる。逆に刺激から少しでも意図的に行動を遅らせようとすると、0.5 秒以上の遅れが出てしまい、それ以下のタイミングでの行動は訓練無しには出来ない。

    ちなみに、この2) の場合に同時に現れる症状は、刺激された位置の同定が出来ない(分解能が極めて低い)、ということである。つまり、これは意識的感覚において、空間的同定と時間的同定はおそらく共通のメカニズムでなされていて、それは脳が環境に適応した結果である、ということを示唆する。空間的同定については多くの知見があったが、時間的同定についてはLibetが発見したということである。脳内の情報処理には当然時間がかかるわけで、それをそのまま意識に登らせていては環境を正しく認識できない訳だから、時間的にも調節してしまうのである。おそらく、感覚刺激の経路には逆向きの経路が伴っていて、正確に何時、何処からその刺激が来たのかを把握していて、意識に登らせるときにその情報を追加するのである。異なる感覚経路、触覚、視覚、聴覚、、、の間にもそれらの同時性を正しく意識できるような適応がなされていて始めて意識される世界は首尾一貫したものになる。

    さて、このような研究は脳外科手術時において患者の同意と倫理委員会の承認のもとになされるわけなので、限られている。その環境を失った Libet は次の実験を計画する。それは意識したときのその時刻を物理的時刻として同定できないか、ということである。今までは、2つの事象が同時であるかどうかという主観的意識の報告を利用していただけであるが、それが物理的にどの時刻であるか、を知らなくてはならない。これは原理的には不可能なのである。主観的な意識はあくまでもその人のものであるのでその時間そのものは測定できない。しかし、適応の結果として、環境中の種々の出来事の同時性は意識されている訳であるから、主観的にあることを意識したときに、目の前に時計の文字盤があれば、その針の位置を記憶することが出来る。脳の内部の時刻というのは、視覚刺激を処理して同定された時刻によって測定できるのであろうか?このことには異なる感覚経路における適応の結果としての同時性にともなう誤差が含まれるが、ほぼ0.05秒以内ということがいろいろな実験から明らかになってきているので、少なくともその程度の誤差で主観的意識の時間が物理的な時間に翻訳できる、と考えても良いと思われる。というか、それ以外に方法は無いのである。とりあえずは信用しよう。

    この目の前に時計の文字盤をおいてその針の位置を記憶しておいて報告してもらう、という方法を発明することで、Libet は脳外科手術無しに次の実験に取り組むことが出来たのである。それは、単純に、その人の自由意志で手を動かすということである。手を動かすという動作には特有の脳波が生じることは既に判っているので、その脳波の出現時刻と手を動かそうと思った時刻と、実際に手が動いた時刻とを比較できることになる。そうすると、まず脳波が生じて、0.35 秒後に手を動かそうと思い、その0.2 秒後に手が動いたのである。これが有名な Libet の発見であって、われわれが自由意志と思っているものは、無意識の内に起動されていた、ということである。

    われわれの行動が無意識の内に起動されているということは、意識は単に後で報告を受けて辻褄を合わせているだけであり、何の実質的機能もない、ということである。そうすると、その人の行動の責任はどうなるのであろうか? Libet は意識された自分の意志に対して行動までの 0.2 秒間に、その行動を止めるなり、改変するなりが出来るはずである、と考えた。しかし、この可能性については実験的に検証は出来ない。そのことを認めることは、すなわち、意識内容という主観的な事象自身が脳という物理的存在に対して直接作用を及ぼすということであり、このことの実証は極めて困難である。しかし、Libet は実証しようと思えばできるという。それは大脳皮質の一部を生かしたまま周囲の神経細胞から切り離し、その孤立した神経細胞への刺激が意識されるかどうか、を見ればよいというが、この論理はよく理解できない。

    しかし、こうまでして自由意志を 0.2 秒間にまで矮小化する必要はないのではないかと思う。本の中でも別の人(Max Velmans)の意見として否定的に採り上げていたが、全ての行動が無意識で、その人の遺伝と来歴による必然だとしても、行動の責任はその人にあるのであるから何の問題もない。意識的自由意志の本質は行動の時点での「責任ある」選択にあるのではなくて、行動の結果の反省に基づいた環境の選択や改変にあると考えるべきではないだろうか?(勿論 0.2 秒の間に出来ればいう事はないが。)無意識の世界は所定のプログラムにしたがって刺激の受容と行動が起きているという意味で、一種の自動機械である。しかし、その結果に対して意識的反省を行うことは可能であって、それは環境との相互作用そのものである。環境に適合しなければ罰せられるのであって、勿論この反省作用は多くの場合肉体的な罰よりは言語的なものであるから、意識が生じた時点での結果の予測によってもあらかじめ与えられるが、基本的には同じ作用である。その罰によってプログラムが改変される。つまり適応である。人は言語類の道具という環境に依拠することで、無意識に働くプログラムそのものを改変できると考えればよい。意識という現象はつまり内部に取り込まれた環境への窓口、正確にはその背景(地)に過ぎない。音楽演奏家や画家の練習もプログラム改変の典型である。何も不思議なことはない。そういう反省のメカニズムがないと、この複雑化した環境の中で人は失敗ばかりを繰り返すことになってしまう。行動への意志→その行動結果の予測→それに基づく反省→プログラムの改変、このようなメカニズムは実際の行動無しに絶えず行われていると考えるべきである。それこそが(直接言語を使わないとしても)「考える」ということの内容であり、全てが(来歴に依存する、道具化された)環境との相互作用であるから、脳内の生理現象だけでは解明できないと思われる。

    Libet に対しては多くのコメントが見つかった。それなりに参考になるので、纏めておく。

    Max Velmans (http://www.goldsmiths.ac.uk/departments/psychology/staff/velmans.html)は意識状態を脳の機能的側面の一つと考えている。つまり意識というのは環境への注意であり、それ無しには複雑な計画や行動が難しい。実際に意識ある行動は、たとえ個々の行為が無意識の内に進行しているにせよ、環境をより良く認識することによって(もっとも例外もあるが)、無意識での行動とは質的に異なる。素早い反応には意識は無用であり、せいぜい結果を反省することしかできないが、長期的な行動には有用である。しかし、神経回路の活動から具体的に主観的意識の内容は判らないし、主観的意識の内容が神経活動に直接作用を及ぼしているわけでもない。つまり意識は動物としての人に利用されている手段に過ぎず、主観的意識はあくまで意識的な脳活動の随伴現象に過ぎない。僕なりに要約すると、「我々は何故自由意志を信じるのか?それは我々の意識が自身の意志を知らないからである。」環境が厳しくなって、行動の選択肢が限定されてしまうと、自身の意志が判ってしまうから、不自由と感じるのである。しかし、自由と感じようとも不自由と感じようとも、意識そのものは主人公ではない。

    Douglas M. Snyder は時間の測定にコメントを付けている。測定されたのはあくまでも主観的な意識を持った時刻であるから、これが本当なのか、それとも(末梢感覚刺激の場合のように)環境適応の結果として意識の時間が遅れているだけなのかは、判らないのである。末梢感覚の場合のように何らかの時刻マーカーが見つかっている訳でもないが、行動の 0.2 秒前に何らかのマーカーが出ている可能性は否定しきれない。(だだし、末梢感覚刺激では意識の時間が前に戻り、自由意志の場合は遅れる、というのではいかにも不自然ではあるが。)そうだとすると自由意志は皮質活動に先立つし、それを撤回することもまた自由なのであるが、自由意志が意識されるタイミングは行動の 0.2 秒前に適応として調整されている、という風な解釈も出来る。それくらいのタイミングでないと、何かと不便であるから。とは言え、この解釈によって実質的に何も変わるわけではない。単に自由意志というものがあるという安心感だけであって、それが現実的には(主観的に)無意識の内に起動されてしまう、ということには違いがないのである。

    Giorgio Marchetti (http://www.mind-consciousness-language.com/index.html)は 行為の意志についての Libet の解釈について疑念を述べている。そもそも被験者は「自由意志」で手を動かしたのだろうか?あらかじめ好きなタイミングで手を動かしてくれと頼まれたのだから、手を動かすという意志は実験を始める前にあったのである。その上で、被験者は自然発生的に手を動かすように求められる。出来るだけ無意識に、という意味にもとれるこの指示から無意識に動作のための運動野皮質活動が起動するのは当然ではないか?そもそも手を動かすという意志には何時という要件が入っている。今すぐ、というのが実際に手を動かしたときの被験者の意志であるならば、意志の要件は2段階になっていて、手を動かすこと自身はあらかじめ意志されているが、何時動かすかということだけがその時に意志されている、というべきではないだろうか?そもそも事前に何の計画もなく動作するということが自由意志に基づく行為と言えるのだろうか?それは自然発生的、無意識的行為であって、我々が常識的に想定する自由意志の発現ではない。つまり、Libet の実験は自由意志についてのものではない。自然発生的に動作を行ったときに、それが意識に登るまでに時間的遅れを伴うということを証明したに過ぎない。(これはこれで重要なことであるが。)自由意志にはあらかじめの計画が伴うということになれば、これは神経生理学的にはアプローチが困難となる。

    Giorgio Marchetti のもう一つのコメントは、主観的意識と脳の神経活動を結びつける方法についてである。Libet はそれらは因果的に結びついていることは疑いがないにしても、本質的にカテゴリーの異なる現象であるから、同時に観察してその間の相関を調べるしか方法がない、という。しかしこの同時性だけで言えることは極めて限られている。やはり、何らかのモデルに基づいた研究が必須である
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