先週東図書館で河合隼雄編「無意識の世界」(日本評論社1997年)を借りてきて読み終えた。雑誌「こころの科学」の特集記事だったらしい。

       臨床心理家がそれぞれの立場から「無意識」という概念について語っている。西洋ではフロイトによって初めて「意識化された」こころの「意識されない」領域とされるが、近代的自我の立場から見て整合性の無い人間のこころを本能や神がかりではなく、正にそういうこころの状態として認めざるを得ない、ということである。それはヒステリーの治療の過程で必要とされた概念であって、症状を引き起こす源として合理的自我以外のものを想定せざるを得なかったのである。治療のためにその無意識の動因を患者に意識させる、ということが有効であった。

      しかし、もともと意識されないのであるから、何を見出すかは臨床心理家に依存している。幼児性欲であったり、エディプスコンプレックスであったり、権力欲であったり、ユングに到ると人類の辿ってきた進化の記憶までが問題になる。実際上無意識という概念はヒステリー以外ではそれほど有効でもないらしい。また意識化することなく治療がなされることも多い。結局のところ意識の側から意識できないこころを何とかしようという試みであるが、そうではなくてむしろ身体の側からこころを動かすほうが容易かもしれなくて、さまざまな様式に従った身体の動きによってこころが正常に立ち戻ったり、意識の変容すら起すことができる。そもそも「こころ」というものも実体としては捉えどころがなくて、何となくその人の行動の動因であるとして想定されているにすぎない。

    ●河野良和氏は催眠と無意識について解説している。

      催眠療法はフロイトの自由連想法によってしばらく忘れさられていたが、世界大戦後の患者の増大に間に合わなくなって効率的な方法として復活したものらしい。催眠状態は極度に注意が集中された意識のレベルにあって、催眠者の暗示にしか注意が向かなくなっている。言葉という手段が暗示に有効であるのは意識が活動している証拠であり、また無意識と呼ばれるこころの世界でもある程度言葉が有効ということであろう。

      ところで意識というのはその意識している対象に向かっていてそれで占められるのであって、その周辺にある感情については意識されにくいのが普通である。短気で問題を起している人はしばしば自分が怒っていることを知らないで凶暴な行動を取る。それは相手の態度や行動に注意が集中してしまっていて、自分が何を感じているのかが判らなくなっている状態なのである。そういう人に対しては、感情モニタリングという方法が有効である。自分の感情を意識するように誘導することでその感情がどこか奇妙であることに気づく場合が多い。例えば幼い頃に何かの出来事で深い感情に捉われていて、その感情がたまたま相手にはけ口を求めているだけであることに気づくと、もはや凶暴な行動には向かわなくなる。

    ●空井健三氏の心理テストの話も面白い。

      心理テストではいろいろな語であったり、絵であったり、そんなものを見せて反応を観察するのであるが、一番無意識と相関するのはその反応の中身では無くて、反応にかかる時間だそうである。つまり抑圧するために時間がかかるのである。結構犯罪捜査に役に立つらしい。しかし、心理テストはあくまでも気づきであり示唆であるに過ぎない。そこから無意識の内容に到るには別途努力が必要である。

    ●平木典子の関係における無意識の話も面白い。

      これはベイトソンが言い出したことのようであるが、2者間には対称性と相補性という逆方向のエスカレーションが進みやすい。二人が似たもの同士だと無意識に相手の優位に立とうとして競争する結果ますます似てくる。相補う関係だと、無意識の内に支配力と服従の関係が硬直化しやすい。そのような自己強化循環を断ち切るには一見約束違反や逸脱と見られる行動をとることが大切である。

    ●森岡正芳氏は無意識と身体についてうまく解説している。身

      体はもともと可視化されないで「自分」であったものなのに、いつしか自分の鏡像を自分の身体として意識するようになる。他者の視点で自分の身体を意識する。そこからはみ出してしまうものが無意識の身体なのである。鏡像というのはラカン が使った比喩であるが、一般的には言語体験がそれに相当する。このようにしてはみ出した身体に気づくには「見える身体」を拘束したり、隠したりして、「見えない身体」を直接意識するように誘導することが大切である。電話による心理療法とかその人の存在によって感じることを出来るだけ「想像」するとか、「力を抜く」ことで意識を「見える身体」から離すこと、など。。。

    ●吉副伸逸氏によれば、西洋心理学の範疇としては大きく四つある。

1.フロイト(意識しない欲求や動機を持つ:自伝的無意識)、
2.ワトソンとスキナー(人の行動は刺激と反応であって、そもそも自発的な動機は認めない)、
3.ユング(集合的無意識:種の歴史的体験)、
4.マズローとウィルバー
(トランスパーソナル心理学。発現無意識:人がそれを目指すべき運命にあるような意識でこれによって人類は進化しうるとする)。
非日常的体験積極的に利用する。シャーマンや宗教的儀式などと同様なことを集団として行う。昨年読んだ、P.D.ウスペンスキー「人間に可能な進化の心理学」、ケン・ウィルバー「科学と宗教の統合」などがこういう位置づけになっているということのようである。ラカン は一貫して出てこない。

    ●目幸黙僊氏は東洋の無意識を説明している。

      それは一言で言えば「無心」の境地であって、むしろ積極的にそこに到達すべきものとして理想化されている。ユングの無意識に近い。ただ、そこに到るには修行が必要である。窮して通じる、自己中心的な努力を捨て去って無意識の働きに任せると神秘的な力が現れる。それが参禅の目的であり、そのために身体的活動を様式化する。無意識は客観的に分析されるべきものではなく、自らの体験により会得すべきものとして捉えられている。こうなると確かにあれこれ思いを巡らせるよりは実践がまず先に来るべきであろう。

    ●読書案内では、エレンベルがー「無意識の発見」(弘文堂:1980)、ドルト「無意識的身体像」(言叢社:1994)が面白そうである。河合隼雄の本では「無意識の構造」(中公新書)、「コンプレックス」(岩波新書)が読みやすいということである。
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