2025.08.09:  NHKの番組でヨーロッパの歴史の一幕を勉強した。。。
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    録画でハプスブルク家の話(プレミアムカフェ)を観ている。第1回まで。

    日本で言えば鎌倉時代から江戸時代、日本の文化が定着した時代に相当するのが,、ローマ帝国という後ろ盾を失ったカトリック教会が組織した神聖ローマ帝国の時代で、7つのローカルな候が互選で皇帝を選び、ローマ教皇が任命していた。やがて、皇帝の地位を独占して全ヨーロッパの王国を間接的に操っていたのがハプスブルク家ということになる。だから、ヨーロッパの伝統文化の中枢である。

    元々はスイスの habsburg 村に拠点があったらしい。13世紀にスイスの農民の自由を求めた反乱で追放されて、ドナウ河を東へ逃れて行って、神聖ローマ帝国の東端、ハンガリーと接するウィーンという小さな町の城に住み着いた。フリードリッヒIII世の時代、息子のマクシミリアンI世と豊かなフランドル地方(ブルゴーニュ公国)の娘マリアとの間に婚約が成立した。そのフランドルの王が亡くなって、フランス(西フランク王国)から圧力を受けて、救援要請がマリアから届き、マクシミリアンI世が騎士団を引き連れて駆けつけた。1477年に結婚して、マクシミリアンI世は婿となった。フランドル地方は豊かな文化を育んでいて、たとえばポリフォニーの甘美な合唱も有名である。経済的力を使って、フランドル地方の市民は納税の替わりに自治権を持っていた。

    マリアが亡くなり息子が後を継いでマクシミリアンI世は摂政となった。彼は最後の中世騎士と言われる。フランスに対抗するために、軍事費が嵩み、増税すると、市民が抵抗し、1488年に彼は幽閉されて、部下も殺されるが、父のフリードリッヒIII世に救援を求めて、何とか救出される。その後、地域紛争に介入してチロル地方を手に入れて経済復興をする。首都はインスブルックである。複式簿記、裁判制度、等々でチロルの借金を返した。イタリア商人フッカーに鉱山権を与えた。(フッカーの扱った免罪符が後に問題となる。)ミラノの皇女と結婚して、イタリアと交易した。ブレンナー峠の通行料で潤った。父の後を継いで神聖ローマ帝国皇帝となり、ハンガリーに奪われていたウィーンを取り戻した。父のフリードリッヒIII世は謎の文字を自らの標識として使っていた。AEIOU。全世界はオーストリアに属する、と解釈される。

    多言語、多民族の統合。諸国の技術や文化の相互交流。彼は帝国を旅して廻り、楽団を連れていた。フランドルのポリフォニー合唱はウィーンに持ち込まれて、ウィーン少年合唱団の前身となった。しかし、多額の借金を抱えたまま旅の途中で亡くなった。

    息子フィリップがスペインの王女と結婚。息子達がポルトガル、ボヘミア、ハンガリーの王女と結婚。こうして、ハプスブルク家がヨーロッパの大半を親族で支配することになった。

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    ハプスブルク家の話は第2話。第1話から間が空いているが、その間に宗教改革があり、プロテスタントの国が北方に出来ている。1740年にマリア・テレジアが神聖ローマ帝国女帝となったが、準備もなかった。プロイセンやフランスからの侵攻を受けた。当時ハンガリーはハプスブルク家に従っていたが戦争には参加していなかったので、マリア・テレジアは乗馬を密かに練習して、戴冠式で披露してハンガリーの人達の支持を得て、ハンガリー伝統の騎馬軍団の支援を得た。戦争中にも劇場を新設して文化力を誇示した。結局プロイセンには少し領土を奪われたままで終結し、その後軍の強化を行った。多言語で各地域バラバラの軍隊を統率するために、ドイツ語を採用して統制した。またシェーンブルン宮殿を改築して権威を示した。各地の諸侯はそれまで自治権を持ち、帝国に税金を納めるのであるが、それも諸侯次第だったのを、10年間同額とするように改めて、税収を安定化した。力を入れたのは教育であった。カトリック教会から教育権を奪い、先進的な科学技術を取り入れた。また義務教育制度を始めた。

    ウィーンには欧州全体あるいはオスマントルコからのさまざまな文化が入ってきて混合熟成している。正式のハプスブルク皇帝はフランツ・シュテファンで、政治には口を出さなかった。自然科学に関心が強かった。事業に強かった。外交を担当したのがカウニッツで、フランス(ポンパドール侯爵夫人)、ロシア(エリザベータ女帝)と同盟を組んでプロイセンと闘うが、エリザベータの死去で、何も得ることなく7年戦争が終了。フランツ・シュテファンが死去。1780年にマリア・テレジアが死去。

    15番目の子マリー・アントワネットはフランスとの同盟の証としてルイ16世と結婚、1789年の革命で処刑された。ナポレオンの遠征で、神聖ローマ帝国は崩壊して、ハプスブルク家はオーストリアだけになった。その後領内での民族独立運動で分断された。

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    第3話。ハプスブルク家最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ。ハンガリー独立運動を弾圧。エリザベートと恋愛結婚するも、彼女は窮屈な宮廷生活を嫌がって殆どの時間旅行していた。彼女には最後まで愛の手紙を書き続けていた。

    オスマン帝国の脅威が無くなっていたので、ウィーンの城壁を撤去して環状道路を建設した。様々な様式の建築。クリムト、マーラー、ヨハン・シュトラウス、、、様々な民族の芸術家達。オペレッタ。ウィーンは多民族が共存する文化都市になった。フロイト、カフカ、。多くのユダヤ人が帝国に同化した。キリスト教に改宗した者も多かった。

    イタリアとの間にアルプスを越えで鉄道を作った。弟マクシミリアンをイタリアに派遣した。彼はイタリア独立運動を容認しようとしたが、兄に解任されたので、フランスにメキシコの王として招待されて、戦争に巻き込まれて処刑された。

    サルジニアに敗北。更にプロイセンとの戦争に負けてベネチアを失った。エリザベートはハンガリーに長期滞在して、馴染んだ。皇帝はやがてハンガリーに自治権を認めた。オーストリアとハンガリーは同一の皇帝を戴く二重帝国となった。ハンガリー建築は独特のセラミックを使う。建築家レヒネル。階級があった。オーストリア人→マジャール人→クロアチア人→セルビア人、、、。セルビア人によるビザンチンとバロックの融合。

    やがてボヘミアのチェコ人が三重帝国への移行を求めたが、マジャール人やドイツ人の抵抗に会った。もはや皇帝が決めることが出来なくなった。政治的分断、マスコミがそれを助長。世紀末、分離派。リーダーはクリムト。国家を離れた。自由なウィーンの雰囲気の中、皇太子ルドルフの皇帝への反目と自殺(30歳)。死因はさまざまに取沙汰された。1889年。1898年エリザベートが暗殺された。1914年に次の皇太子、甥のフランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺された。フランツ・ヨーゼフはサラエボに宣戦布告。第一次世界大戦が始まった。フランツ・ヨーゼフは2年後に死亡。死の前日まで孤独で多忙だった。

    多民族融和の夢は、帝国ではなく民主主義国家の連合という形で、 EU に引き継がれている。

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