2015.03.12

#「帝国日本の閾」(岩波書店)金杭(Kim Hang)

      金杭(Kim Hang)という若い韓国研究者の書いた「帝国日本の閾」(岩波書店)。この間中央図書館で目についた「文学界」3月号の対談で見つけた人で「労働が価値の源泉である、という考え方が終わりつつある。ポストモダンの時代とはそういうことだ。」とあって、ああそういうことか、と妙に納得した。確かに、「価値の源泉」が確かにある、というよりも、「ゲームの中で価値が生じる」、という考えが21世紀を特徴づけるのかもしれない。それは既に20世紀に世界戦争という形で芽生えたものだし、市場原理主義もそうである。その対談の趣旨は別にあったのだが、ともかくその中で話題になっていた本である。探したらすぐ見つかったので借りて読み始めた。序文だけ読んだのだが、著者の観点が簡潔に表現されている。こういう観点で、「日本人」という意識を解明しよう、というのが本文の内容である。とりあえず、本文の第1部と第2部を読み終えた。まずは、序文から。

##序文:セキュリティー、豚、日本人
      最初にホッブズの国家論が出てくる。個人個人は能力として基本的には平等であり、それ故に自己保存のために個人同士が敵対している。生き抜く方法は個人の努力に依存する。この敵意だけではしかし国家は生まれない。小さな共同体として解消されるからである。敵意が現実的な脅威となるとき、それは個人よりも大きな敵によって攻撃される可能性が生じたときである。我々の安全を保障するに必要な人間集団のサイズは我々の恐れる敵との比較によってのみ決定される。敵が個人よりも強いとき、個人は己の権利を何者かに委託することによって、セキュリティーを確保する。これが国家主権の由来である。国家は人間のセキュリティーを絶え間なく敵の脅威に晒し、国民を(仮想的ではあれ)絶対孤独の状態に陥れることによって存立可能となる。

      戦争の世紀で体験したことは、国家がセキュリティー概念における主体であり客体であると位置づける限りは、国家によって保障されるセキュリティーは国家間の争い(軍備拡張競争のような)によって却って不安定化される、ということである。この逆説は国家が必要とし作り出しもする敵の脅威を個人にではなく、国家に降りかかるものだと思念することから生まれる。そう考えることで、国家の存立基盤に対する超越的視座(ホッブズの見方)が失われ、国家の存立が自明のものとされてしまうのである。坂口安吾は「白痴」の中で、空襲に晒されることで世間の掟から解放され(逃げ惑う豚のように、と表現している)、却って人間性を取り戻す(共に逃げる白痴の女と衒いなく向き合える)という話を書いた。また、金聖a(セイミン)は「緑旗聯盟」の中で、中国軍の攻撃に晒されるという個人的恐怖から宗主国日本に従うようになる朝鮮人を描いた。

      しかし、国家の存立基盤を問い直した坂口安吾の小説はデカダンスとして排斥され、「敵」の攻撃を想定して日本人であることを繰り返し確認せねばならなかった植民地の人間は敗戦と共に外国人として日本の歴史から追放された。坂口安吾は、教養や精神や道義などを一切投げ捨てたところに人間の救済をみようとした。「戦争がどんな破壊を為そうとも人間自体をどうすることもできない。人間は堕ちる。そのことを認める以外に人間を救う道は無い。」南原繁はそれとは正反対に、日本人が世界の道義という普遍的な関係性へと己を高めることで救済される、と説いた。南原の思考を可能にしたものは戦後日本の植民地放棄であった。南原は「日本は天皇の元で純粋になって生まれ変わるのである」と宣言した。安吾のような「異種族」は排除されねばならなかった。BC級戦犯として服務した台湾人兵士は刑の終了と同時に「あなたは日本人ではありません。」と言われて追放された。負傷して障害年金の請求をした朝鮮人兵士は「日本人ではない」として退けられた。ただし、戦死してしまった者は日本人と同様に靖国神社に祭られている。過去を消すことは出来ないのである。

##第1部:恐怖なき決断−丸山眞男の個人と国家

###第1章:民主主義という「虚妄」
      海に囲まれ、国家の境界が自然に成立してきたように見える日本においては、ホッブズのような個人の Security が国家の根拠である、という発想は生じにくい。初めてそれを表明したのは丸山眞男だった。

      丸山は、「うそを現実よりも尊重する精神」こそが近代精神だという。それは人間が自然的で直接与えられたものに拘泥するのではなく、自然を媒介し作り出したものを尊重するという態度である。従って、いかなる制度も人間の手によらない、自然に与えられたものとして把握されるとき、そこに近代精神の原理は潰えてしまう。近代精神とはあくまでも、人間を取り巻く環境をフィクションとして捉えることだからだ。故に「実在」するのは「現実に行動する個人」のみである。というのも、あらゆる制度や理念などが「うそ」である限り、つまり「虚妄」であるかぎり、唯一実在すると言えるのはそれを作り出す「個人」以外にないからだ。そして「うそ」を「つくりだす」ことこそは、周知のとおり、丸山が自然的所与から脱する近代的なモメントとして位置づけた「作為」に他ならず、その思想史的な源泉は唯名論に連なるものである。

      後期スコラ哲学 のドゥンス・ソコートゥス、ウィリアム・オッカムは、普遍概念が実在する、というトマス・アクイナスの正統派神学に対して、それは人間が勝手に作り出したもので、実在するのは個人だと、言い始めた。後に、社会契約論や原子論に繋がる。つまり、デモクラシーはフィクションにすぎない。それはあらゆる関係性を逸した個人の運動によって絶えず内面から更新され批判されなければ、ドグマと化する。戦後デモクラシーが教典化(実在化)されれば、恐るべき反動が準備されるだろう。同様に、丸山は、国家を自由な個人の作為によって歴史的に生成するものと捉えた。ヘーゲルの体系の真髄はそのプロセスを示した点にあり、生成した国家を賛美した点には無い。

###第2章:危機と政治−荻生徂徠論
      1940年「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」において、丸山は、日本思想史を国家の連続性を自然に前提する「国民道徳論」(後の国体論)、精神構造をその背景から切り離した和辻哲郎の「文化史」、文化や思想を生産関係の単なる反映としか見ないマルクス主義史学、を批判して、カール・マンハイムの知識社会学的アプローチを採った。知の構造を、個人がその中に投げ出された社会によって規定されると同時に、その社会は個人が獲得した視座によって逆に構成される、という風に、知とその対象となる外部世界はお互いに規定し構成し合うもの、として捉える。構成するものと構成されたものとが重なり合う地点を含意する概念として、丸山は「人格」と「作為」を用いた。制度や規範がフィクションであるということは、それを作り出した「主体」を忘れないということである。マルクス主義の「反映論(文化は生産関係の反映である)」においては、人格が単に階級構造の受皿となり、新カント派の方法二元論において、人格が存在とは無関係なところで価値を追求するが、丸山の「人格」は秩序を生み出す「主体」となる。

      江戸時代(と中国の漢時代)の儒教教理(君臣の義)は制度や規範を内的道徳と外的強制の区別なしに、あらかじめ既に与えられているものとして固定化した。朱子の規定では「万物の理」が人間に宿って「性」となる。問題は如何にして人間がその本来的な「性」に到達するかである。一方で徳性を学び(存心:主観)、他方で宇宙の理を体得(窮理:客観)をして聖人となる。つまり、人間の内面と外部政治世界とは同一の理に従うべきものである。こうした視座構造(道徳と国家秩序の同一視)の崩壊から「政治」が発現する。徂徠は個人道徳を政治的決定にまで拡張することを否認した。「道」によって同一視されていた「自然法則」(天命)と「人間規範」(治国平天下)とを分離した。政治が自然法則と道徳から解放され、政治の究極の根拠を「先王」という人格の作為に見出した。時は元禄から享保にかけての転換期で、支配層の抱いた危機感が徂徠のような敏感な知識人に発想の転換を強いたのである。

      この辺り、吉田民人が、自然法則からプログラムを分離したのとパラレルである。そこでも同じく「主体」が登場する。

      徂徠のこの転換はマキュアベリが政治のためには主君は徳に捉われるべきでないと言った事に対応している。カール・シュミットは「権威は権威を信じるものにとってのみ権威である。」と誰にとっても自明な権威を否定したが、それを逆手にとって、スピノザは私的領域を権威からの自由な領域とした。同様な事は本居宣長が政治とは別個の「文学」として国学を興したことに対応している。

###第3章:決断としてのナショナリズム−福沢諭吉論
      個人の主体性を主張して、儒教に対して徹底的に戦った知識人は福沢諭吉であるが、彼は一方で国家主義者でもあった。個人の内面的自由に国家を媒介させたのである。個人対国家という矛盾をこのような形で止揚するという意味で弁証法的全体主義である。この思想はその後の日本の主流となった。

      国家とは意識が自由に向かう歩みの中で構築されるもの(ヘーゲルの体系)であり、19世紀におけるヨーロッパ中心の「国際秩序」のグローバル化の中で、幕末明治の「開国」はこの歴史性に拘束されたものであった。そして、同時にそれは、意識の自由、すなわちいかなる関係性からも独立した個人という「唯名論」の視座を根底におく普遍性に基礎付けられねばならなかった。丸山にとっての主権国家と個人の関係は、この歴史性と普遍性が交差する地点だったのであり、それは福沢諭吉論を通して形成された「決断としてのナショナリズム」として語られることになる。「個人−国家−国際秩序」の「自由−独立−平和」を統一的に捉える。そのためには国家を個人の内面的自由に媒介させることが必要だった。つまり、国民の国家への結集は決断によるものであって、自然感情や郷土愛からは分離されるべきものである。それは、外憂(危機)と内部的な成熟(国民相互のコミュニケーション手段があること)を前提条件とする。アジアにおけるナショナリズムは根源的に受動的な決断として起こらざるを得なかった。つまり、アジア諸国はいずれも古い世界を防衛するためには古い世界を変革しなくてはならず、新しい世界の脅威を脱するためには新しい世界のプリンシプルを取り入れねばならないというパラドックスに直面した。主体は、いかに自己を守るかというよりも、まずは守るべき自己を作り出さねばならなかったのである。

      福沢のナショナリズムを支える心構えは「複眼主義」(決断が絶対化されないで、暫定的である)と「惑溺批判」(繰り返しの決断:不断の見直し)である。

###第4章:「国家の民」と「豚と人間」−丸山眞男の臨界点
      丸山が上記の視点で帝国日本を批判したのが「超国家主義の論理と心理」であった。批判の要点は、

・倫理と権力が相互移入することで、私的なものが端的に承認されない

・政治権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されない

・フィクション性を逸し、個人の作為にその基礎を置かない「実在」としての国家は「限界意識」を知らない(倫理に「限界」は無いからである)。

本来、明治初期の中江兆民には国体論も家族国家論も国家膨張の神話的正当化もない。国際間のパワーポリティックスしかない。帝国日本の歴史はそこからの堕落の歴史だったと見ている。

      作為によるフィクションという意識は、外的条件から直接生まれるものではない。外的条件を抽象化し秩序立てる。中世的な人間は始めから関係を含んだ人間としてしか存在しないから、関係が関係として客観的表現をとらないで、慣習法が支配する。近代的な人間関係はあらかじめ在るものとは考えない。個人をまずは絶対孤独の存在として仮想的に置くことで、関係が客観的に表現され、見直される。重要な点であるが、福沢が実際に見出した個人は「運命共同体としての日本人」という「関係」を含んだものでしかなかった。丸山はそれを批判しなかった。従って、帝国主義国同士の問題と帝国主義国内での植民地支配の問題を別けて考えざるを得なかった。前者では国家が、後者では個人が主体と見なされている。この自己背反は彼が「他者」を見誤ったことに起因する。他者が他者として理解されるためには、我と他者がいかなる関係も持たない全くの他なる存在たらねばならず、それは知的な作業を経てのみ可能となる。問題となる他者は、個人が国家の民たろうと決断するはざまの、言語も理性も関係も逸した、ただの肉塊としての己である。しかし、丸山はそこを思考することはなかった。永久革命としての民主主義というドライな場を国家として思考したに留まる。

      1960年代以降、丸山はマルクス主義と天皇制の精神構造に対して本格的に向き合わなくなった。彼は彼自身が為してきたそれらへの批判を問い直す必要がないものとして「実在化」させてしまった。彼はオールド・リベラルの天皇制擁護と袂を分かち、永久革命としての戦後民主主義を打ち出したし、小林秀雄に代表される極限の自然主義を批判することによってフィクションとしての近代的原理を鮮明にした。しかし、彼はこの2つの思考形式における根源的な問題性、すなわち国家と国民への問いを自然化することを、それ以上追求する必要のないものとみなした。以下、その丸山眞男が取り残した事を課題とするのが本論文の目的である。オールド・リベラルに対しては関東大震災における朝鮮人虐殺(第2部)、小林秀雄に対しては植民地朝鮮の例外的な境遇(第3部)を考察することによってである。

##第2部:日本人であること−国民国家の本源的蓄積

###第5章:オールド・リベラルの天皇制
      オールド・リベラルというのは戦前からのリベラリズムである。それは個々に思想的背景は異なろうとも、教養主義的、人格主義的なリベラリズムであった。大正デモクラシーの思想的担い手である。個人人格の自立性は当然のこととして、そこから人間の社会的制約の問題に行き、あるものは社会主義に行き着いた。彼等が敗戦によって自由を得たとき目指したのはその自由な人格形成の収斂点としての天皇であった。天皇を求心点とする文化国家・道義国家である。国民国家成立の根拠は問い直されることなく、自然的・歴史的根本条件(国体)とされたのである。明治天皇の五箇条のご誓文の趣旨は昭和の軍部によって方針が見失われたのであり、それを取り戻すべきなのだ、というのが岩波茂雄によって創刊された「世界」の趣旨であった。丸山眞男は敗戦後半年の間思い悩んだ末、自らも呪縛されていたそのような天皇に依拠した国家観を自己否定して、「超国家主義の論理と心理」を書いたのであった。

###第6章:自我、家族、団体−日露戦争後の国家論
      石川啄木に焦点を当てて日露戦争後の思潮について纏めている。明治に入ってから20年間は欧化主義、そこから10年間は国粋保存に傾き、そこから5−6年は日本主義、という風に揺れてきた。その中で高山樗牛などは自然主義、すなわち、西洋の知識や日本の儒教道徳によって人性本然が縛られるのは良くない、として「美的生活」を唱えた。日露戦争後(明治38年、1905年の講和)後、ロシアという大国に勝利した小国日本について、その要因を犠牲的献身の精神に求め、西洋の個人主義(利己主義)に対して日本では家族主義(利家主義)が根付いているからだ、という論調が見られるようになった(高楠順次朗)。板垣退助は、それは家族主義というものではなく、あくまでも個人の選択による国家への忠誠である、と反論した。自然主義もその本来の個人主義からすれば、国家からの束縛を問題とすべきものであったのだが、主張する自我の自然な拡大の行方が国家であると自覚されるようになった。国民の民としての自覚を促し表現するものがこの時期の個人主義であり、それは本来対立していた家族主義と結合したのである。

      高山樗牛に私淑していた石川啄木は、このような思潮の変化を「時代閉塞」と捉えた。自然主義が旧道徳、旧思想、旧習慣の全てに反抗を試みたと同じ理由において、国家という既定の権力に対しても懐疑の鉾先を受けねばならなかったにも関わらず、性急な心が頭を擡げて、深く強く痛切なる考察を回避し、早く既に、あたかも夫に忠実なる妻、妻に忠実なる夫を笑い、神経の過敏でない人を笑うのと同じ態度を以って、国家というものについて真面目に考えている人を笑うような傾向が青年の間に風をなしている。日露戦争後の自然主義者にとって、国家は、理屈によって得られた道徳ではなくて、自然に発生してくる情的道徳として、否定されえない自我の延長として、その本然の発露として、捉えられるに至った。こうして個人主義としての自然主義は井上哲次郎や穂積八束の家族国家観(国家を家族の延長として、つまり血縁的な自然性の拡張として位置づけ、その広がりと古代に遡らせて、天皇を頂点とする服従の紐帯とした国家観)に呑み込まれてしまった。啄木は端的に表現している。「今、私にとっては、国家について考える事は、同時に「日本に居るべきか、去るべきか」という事を考える事になってきた。」このような、国家は自然的なものではなく、人為的な構成物である、という視点はマルクスの資本制生産関係の捉え方、つまり、労働者をそれまで自然に所有していた生産手段と流通と消費から人為的に切り離して市場に従属させる、という人為的な操作の結果として捉える視点に通じる。

###第7章:ある憲法学者の不安−国体論争とその時代
      上杉慎吉のドイツ留学。1909年オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を見て、もはや国際間に法律は適用されない、国家の富強を目指すのみ、として、立憲制を否定し、君主の絶対支配国家が必要である、と考えた。彼にとって帰国後の日本は個人主義や自由主義が唱えられる風潮により、日本の君主支配が危機に瀕するように見えた。彼にとっては男女同権の運動が家族を破壊するという意味で、反自然−反文明−反国家的な「革命」と映った。啄木と逆の方向から見ていたのである。こうして、天皇機関説(立憲主義)の美濃部達吉との論争が起きた。

      美濃部にとって、国家は「共同の目的」のもとに結合した人民の団体であり、この国家が権利能力を持った法人として、主権を持つ。主権を行使する機関の区別として政体があり、君主政体と共和政体がある。これは「今日の国家現象」を説明しようとするとそう考えざるを得ないからであり、万世一系の天皇による統治を否定したわけではない。それはあくまでも国家が主権を行使する手段にすぎないという立場である。つまり、統治の具体的な議論については「国体」思想という観念が入り込む余地が無い。美濃部にとって国体とは国家団結の成り立っている基礎条件であって、天皇個人が直接人民を統治するというのは事実としてそもそも不可能なことでもあった。上杉はこの美濃部の議論を「国家法人」という「大怪物」を持ち出して「君主を威嚇」するもの、と批判し、そもそも、帝国議会とか法律というものは「簡単明瞭な事実」たる万世一系の天皇の統治にとっての手段にすぎず、本質的に必要不可欠なものですらない、という。

      上杉にとって、美濃部のような議論や男女平等思想などでは、日本が帝国主義国として欧米と争っていく上の緊張感が保てないという事である。彼の時代に対する不安は家族国家論−国民道徳論をすら超えていて、教育勅語の重要性は、それが正しいからではなく、それが主権者たる天皇の命令だからであった。帝国主義国家として生き残るためには「体制意志」すなわち「組織する意志」が必須であり、その意志こそが統治権であり、日本ではそれが「天皇」であった。したがって、上杉にとって法律は天皇の意志でどうにでもなる。美濃部にとって法律は人びとの意識の反映であり、意識が変われば法律も変わる。例えば、植民地においては人々の意識が異なるから本国の法は適用されない。上杉にとっては天皇さえ生き残れば国家が滅びることはないから、その存続如何が不安の種になるが、美濃部にとって、人々が存続する限り国家が滅びることはない。人々の意識の中に実在する国家、それを支えるものが「国体」であり、それは絶対に疑い得ない帝国日本の根本条件であった。美濃部にとって国体は思考や政治の対象ではないのである。結果的には上杉の説は大正デモクラシーの潮流の中で異端として退けられた。

      この時代は、日本が物質的、軍事的に西洋列強に並び、そこから何を目指すかについて知識人が迷っていた時代でもある。安倍能成、阿部次郎、和辻哲郎、南原繁、田中耕太郎、末松厳太郎。旧制高校で学んだ彼等は、何らかの形で我を普遍者への意識を通して形成しようとした。カント哲学、内村鑑三、ケーベルや夏目漱石の下で、教養と人格を涵養し、まずは自己の確立を目指した。共通の価値観は「自ら法を立てて自ら服従するという意味の自由」であった。しかし、美濃部が国体を国家と区別した如く、彼等は人格陶冶を「規範」としながらも、国体を疑いようもない「事実」として区別した。大正デモクラシーを支えた立憲主義と人格主義は事実としての「国体=民族主義」を絶対的な不変の存在として認めるところに成立していた。だから、石川啄木の「日本に居るべきか去るべきか」という問いはそもそも不可能であった。日本人とは、「日本人である」、のであって、「日本人になる」、のではない、ということで、そもそも個人主義思想によって国体が危機に晒されるとかいうことすら在り得ないのである。ところで、1945年、物質文明の崩壊と軍部による暴走が敗戦によって止まったときに活躍した「オールド・リベラル」とはこの時代の知識人達である。したがって、復興の中枢が「天皇・皇室」と「人格陶冶」となった。「国体」は、つまり、「日本人である」という事実性は、敗戦によっても何ら変化することなく、疑われることもなく、新日本建設のための根本条件とされたのである。。

###第8章:国家生成の根源
       1923年9月1日の関東大震災について。
1.菊池寛「絢爛で強固に見えた文明を滅ぼし、人間を獣のような状態に変えた。」
2.青野李吉「震災は人間の手による文化や文明を根本においてはなんら変化させていない。社会の変化は社会の内部の働きでしか起きない。変化したように見えるとすれば、それは今まで潜在していたものが顕れたに過ぎない。」
3.長谷川如是閑「日本文明がこの程度の災害で動揺するはずがない。」
4.福田徳三「東京は素裸の人々が新たに自己の実力で復興すべきである。」
5.倉田百三「かかる恐るべき出来事の生じる人生は絶望的である。」

      長谷川、福田、倉田はいずれも震災によって齎された現象を克服すべき受難と受け止め、そこからの復興の中にこそあるべき社会の姿を見た。菊地や青野にとって、震災が齎したのは人間と社会を根底において限界づけているところの、究極の状態が露になった場面であった。彼等2人が見たものは一見対照的である。いずれも素っ裸になった人間が己を守るために行った蛮行を見たのであるが、菊地はそこに人間なら当然備えるべき道徳を失った獣を見て、青野は獣になったからこそ顕現する社会の支配秩序を見た。彼等の視点を重ね合わせることによって、「人間社会の支配秩序は人間を素っ裸にする限りにおいて生成し維持される」、ということが、正に震災によって露になったことが判るのであるし、それは平穏な時代には見えない(隠されている)というだけなのである。善良なる市民は生活世界の崩壊の中で己の寝食を守るために勇敢なる自警団を作り、朝鮮人と見なされた人たちを危険因子として殺害したのである。青野の文書の表現では、それらは呪詛すべき事実であり、拭うても拭うても消すことの出来ない事実であった。しかし、それはいとも簡単に打ち消されてしまう。長谷川如是閑の文書の表現によれば、「流言蜚語は衝撃を受けた心の創造であって一時的心理状態に過ぎず、極端な残虐行為は一時の非常の興奮」として、片付けられてしまった。この蛮行は法秩序の根本的な規範を維持するために採られる法的措置である「戒厳令」の元でなされたのであり、善良なる市民はそれに従ったに過ぎない。だからして、善良なる市民が「本能」として「自然に」抱いていた筈の「尊皇心」や法秩序は、まさにこの蛮行に根ざしている限りにおいて「安固」たり得るという事である。

      戒厳令とは「国家の命令」として重なり合う法と規範が、法規という手続きではなく、直接の力によって顕示される事態である。戒厳令の布告によって、法律によって定められたほとんどのの人民の権利は停止するが、唯一戒厳令司令官は「法律の制限を超えてまで人民の生命を奪うような権力を有するものではない」とされる。すなわち、そこに残されるのは生命のみが保障された素っ裸の人間だけである。つまり、その状況において初めて国家が維持される。戒厳令司令官は「汝等の生命を守ろう。ただし、そのためには汝等の生命を晒しだせ。」という。この治安効果は抜群であって、大多数が非常時における軍隊の有難さを感じた。美濃部の確信によれば、法の目的たる規範の支配は、歴史と心が滅びない限り存立し続ける。戒厳令という例外事態に対しても生命の維持を保障する形で法律意識は消えることがない。美濃部のこの確信は勿論人類の進歩への信頼によるが、もうひとつは「国体」への確信であった。日本という国家の法律意識は国体に要約される日本の歴史と文化に根ざしている、という考えである。つまり「日本人である」ということが帝国日本の法律存立のための根本的条件である。しかし、戒厳令下の東京で、「朝鮮人襲来」というデマの最中で、「日本人である」ことは自然なことではなく、積極的な識別によって証明されるべきことであり、そのことで人々は自らが社会の中に「境界」を設定せねばならなかった。朝鮮人と見なされる人々への暴力としてである。

      国家の戦争状態においては「生命を守るために生命をさらけ出すこと」という逆説が如実に見られるわけであるが、関東大震災直後の戒厳令下の東京では、その論理が通用していた。勿論「敵国」があったわけでもないが、戦争の本質はそういうことではない。本質は国家がその生存を賭してその生成の原点へと立ち返ることであって、宣戦布告はその一つの様態に過ぎないのである。ホッブズは「万人の万人にたいする闘争がある限り戦争は内在されている」と説いている。旅行に出るときには武装したり同伴者を伴うし、眠ろうとするときには鍵をかける。これらはその人が敵を想定していることを示している。内在する戦争は平和時には法律によってピン止めされているにすぎないのである。露骨な戦争状態や戒厳令は国家が潜勢から現勢へと様変わりするその生成の現場である。そのために必要なことは「敵の襲来予想」である。

      震災の翌日9月2日、戒厳令が布告されたのは、どこからともなく朝鮮人が襲来するという明らかな流言蜚語が見られたからである。そもそも戒厳令はこの流言蜚語にまつわる秩序の乱れを取り締まることであった。「どこからともなく」組織された「自警団」は戒厳令司令官の指揮下に置かれて、「通行人に対する検問は自警団が行ってはならない、また武器や凶器の携帯は憲兵や警察の許可無しには許されない」、と布告された。しかし、これは逆に言えば、自警団活動が国家の安寧秩序維持と同一の指揮系統に連なることであり、自警団活動そのものに国家からの正統性が付与されたことを意味する。つまり、民衆による全ての言動がことごとく「軍事化」された、ということを意味する。本来流言蜚語として認識されたはずの「朝鮮人襲来」は「軍事情報」として取り扱われ、公式電送系統を通じて朝鮮、台湾にまで伝達されたのである。「暴徒襲来の警報」に基づいて軍隊、警察、自警団が「軍事作戦」を行ったのである。絶頂は3日、4日であった。震災で路頭に迷う「通行人」が治安維持のために尋問され、「自警団」は通過証を発行した。群集はお互いに仮想的な敵となり、敵味方の区別として、「日本人である」ことが基準となった。道行く人は見知らぬ人を見れば朝鮮人かどうかと疑ったのである。顔相や発音がまずは基準とされ、「おい君、十円五十銭と言って見給え」、というのが合言葉になった。美濃部が国家成立の根本条件とし、和辻が人々の本能とし、阿部が確固たる事実とした「国体」と「民族」は、戒厳令下において完全に「国家」と一致し、その「国家」が「敵」として「自然的に」と同定したものが「朝鮮人」(と同定された人々)であった。敵は恐怖を齎し、恐怖は敵を殺害するまで止まない。川を埋め尽くしたと伝えられている死体によって「日本人であること」の証明が完結したのである。

      美濃部を始めとしたオールド・リベラルはこのような事態(それはその後の昭和の戦争においても繰り返された)を「一時的」「例外的」と見なし、戦後の復興に天皇を頂点とする「国体」を復活させたのであるが、その中の一人であった丸山眞男は半年の間悩みぬいた末に、「天皇制が日本人の自由な人格形成にとって致命的な障害となっている」と見抜いたのである。そのうえで、自由な人格を個々人の決断という政治的なものの中で形成させようとしてきた。(彼は今日の市民運動の原点を作った。)しかし、丸山の「決断」が国家を個人の内面に根付かせるものだった限りにおいて、彼も国家と個人の関係における「正常」を「オールド・リベラル」と共有していたのである。彼等が正常な国家成立の根拠とする歴史や慣習や自由な決断は恐怖や不安などに苛まれない状態を前提としている。しかし、国家成立の原点は正にそのような状態「個々人の生命を差し出した状態、裸の個人」において「顕現」するのである。このロジックを丸山は大正デモクラシーと戦後民主主義の対決の中で見逃してしまったことで、国家を心に根付かせる自然主義へと陥ったのである。

      この後は第3部で小林秀雄が批判されることになる。ところで、この本は著者の東大留学での学位論文である。審査の過程でいろいろと言われたり、その後コメントがあったことについては後書きで応答している。

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