2015.02.04
      今日は三石さんとの吉田民人読書会でした。ひとつひとつの文章に現実的具体的な例を想定して解釈を深めていくのはなかなか面白い体験です。昔物理の教科書を読んでいた頃の事を思い出します。今日は97年の三田社会学という雑誌に掲載された文章の最初の2ページでしたが、これに2時間かかりました。以下その内容です。

__吉田民人の2元論は徹底している。事実的秩序と情報的秩序。これは世界存在が人間の差異化によって仕切られて現れる秩序とその差異化の表現である記号体系の秩序という意味であり、これらを吉田は厳密に区別している。それらは勿論対応している。丁度ソシュールの意味されるものと意味するものの対応である。(例えば、現実の猫と「猫」という言葉の対応。)

__事実的秩序には、当然ながら、個人的な主観による秩序もあれば、社会の共同主観による秩序もある。しかし、吉田はそれに加えて状況的秩序があるとする。これは未だ人間社会によって主体的に秩序化されていなくて偶然的に秩序、つまりパターンを持っている状態である。ウィーナーが定義した最広義の情報がそれに対応する。ここで見られるのは吉田の徹底した素朴実在論である。つまり、人間社会が無くても世界は存在する。その秩序は人間による差異化を受けていない。究極的な自然法則とはそのようなものであり、物理学者はそれを追い求めている。

__さて、情報的秩序であるが、勿論吉田の情報進化論に従って、シグナル記号で担われる秩序、つまり、記号の意味が物理化学的な法則にしたがって実現されるような記号(DNAなど)とシンボル記号で担われる秩序、記号の意味が殆どの場合物理化学的な法則ではなく、恣意的な、プログラムによって生成される他の記号であるような(言語など)秩序に分けられる。

__面白いのは吉田がこれらに加えて意味を持たない記号集合を想定していることである。(以下は解釈)これは記号が素記号の組み合わせで出来ているような記号において一般的に想定できる。例えばアルファベットは本来は人間の口述言語を固定化するために発明されたのであるが、一旦発明されると目的であった口述言語以外の無意味な記号集合を素記号の組み合わせによって作り出すことが可能となる。つまり、情報的秩序という記号体系は実は無意味な記号集合という広大な空間に囲まれた中の一部に過ぎない、ということになってしまう。人間が充分に差異化していない事実的秩序(状況的秩序)を感じ取って、それに新たな記号体系を与えて差異化するということは、実はこの無意味な記号集合から記号体系を拾い出すということで可能になるのである。例えば、様々な絵の具が与えられただけでは無意味な記号(絵の具)集合に過ぎないが、画家は、それを使って自らの想い(状況的秩序)を表現し、結果として生じた記号(絵の具)集合はもはや人間によって差異化された意味をもつことになる。つまり、状況的秩序であったものが個人の主観あるいは社会の共同主観によって切り取られた事実的秩序として立ち現れる(うまく行けばの話ではあるが、、)。詩人の場合にはそのような直接的なやり方をする事は稀である(宮沢賢治では、オノトマペのように、しばしば直接的であったが、)が、代わりに、既に確立した事実的秩序と情報的秩序の相応関係を切り離して繋ぎなおしてみせる(隠喩)のである。現存する社会における共同主観で切り取られ、その見方でしか見ることができないが故に隠されてしまうような事実的秩序に別の表現を与えることが可能なのは、このように無意味な記号集合が無限に産出可能であるような素記号を発明したこと、更には記号と意味の関係が本来的には切り離し得る(恣意性)からに他ならない。

2015.02.09
      吉田民人の読書会であるが、今回は4ページ進んだ。吉田は事実的秩序と情報的秩序をちょうど言葉の意味する事実や事物と言葉それ自身との対応のような意味において区別する。事実的秩序を表現するには情報的秩序が不可欠である。そういう意味で、吉田は情報的秩序について考察を進める。一つの分類基準はそれが守られるか否かによる罰則や罪の意識を記述しているかどうかであり、記述してあれば規範的、記述してなければ非規範的と言う。刑法などは規範的の典型であろう。もう一つの分類基準は情報的秩序が事実的秩序に現実に対応しているかどうか、であり、対応していれば現実態、していなければ可能態である。可決前の法案段階の情報的秩序は典型的な可能態である。

___その上で、現実態の情報的秩序を3つの水準(層)で捉える。第1水準(層)は言語のレベルである。使われている言語はその時点での共同主観的な意味を持ち、概念の階層構造に組み込まれている。憲法で言えば、それは制定時点で国民が共通に抱いていた平和への希求や国家からの自由或いは連合国やアメリカの意志といった観点からの概念構成に制約されている。

___第2の水準(層)はメッセージ(文章)のレベルであるが、ひとまずはそれが貯蔵されている段階を意味する。憲法で言えば、例えば図書館に保存されている憲法の条文の集合体である。メッセージの表現形式としては、解釈によってその意図を読み取る形式(陰関数的)とこれこれの条件下ではこうであるという直接形式(陽関数的)があるが、いずれにしても、そのメッセージは認知或いは評価或いは指令と分類される。

___第3の水準(層)はメッセージが実行されているレベルである。実行に当ってはその時点でのさまざまな状況が絡んできて、ご都合主義的な変更も行われる。憲法で言えば、集団的自衛権を認める、といった判断もそのような例である。

___一見単なる形式的な分類学のように思われるこれら3つの水準の区別であるが、社会学を研究する段階においてこれらの区分がしばしば曖昧になって、そのために議論がすれ違うことが多い。吉田は、基本的に第3の水準(層)を問題にすべきであると宣言している。そうでなければ事実的秩序(自己組織性)が捉えきれないからである。憲法で言えば、条文がそこにある、とか、まだ改定されていない、という第2水準(層)や、制定当時はこういう意味だった、という第1水準(層)で満足していてはならない、ということである。現実に憲法がどう運用されているか、が問題とされるべきである、というのが吉田の主張である。

___なお、読んでいる文献は、二つの相互循環 社会学的認識の基本特性

2015.03.02
      3つの層について、それが成立するということは間主観化されているということでもある。そういう意味で、それぞれの層における情報的秩序は間主観化によって保たれているといえるが、その間主観化には自然生成的(無意識)なものと制定的(意識的、人為的)なものとに分類できるだろう。慣習的に出来上がってしまったと思われるものが前者であり、法律のようなものが後者である。脳死の問題とか、人工頭脳の問題では、正にこの間主観化のプロセスが問題になっている。

      情報的秩序は第3層に至って、事実的秩序を生み出す(1次の自己組織性)プログラムとなるわけであるが、翻って、その結果たる事実的秩序は第1、2層の情報的秩序を既定しなおす(FeedBack)。これは2次の自己組織性(適応、進化)である。

      情報的秩序は情報の一般的性質として、認知、評価、指令と分類されるが、しばしば忘れがちなのが、情報的秩序の指令的側面である。それなくして、事実的秩序を生み出すことが出来ないにも関わらず、しばしば現実の構造を認知、評価の対象としてしか見ない場合が多い(現象学)。

      この事に関連して吉田は強調している。従来から言われている、1.意味表象(Sinn)と指示対象(Bedeutung)の混同(明けの明星と宵の明星)、2.対象言語とメタ言語の混同、(クレタ人は嘘つきであるとクレタ人は言った)に加えて、3.認知機能と指令機能の混同を言語使用のFallacyとして追加しておきたい。Genderは指令機能と認知機能、Sexは認知機能である(Sexの場合、その実現への指令機能は遺伝子にある)。神もまた指令機能であり、認知機能ではない。

      ここからいよいよ社会学の議論に入る。社会学が対象とする社会の成員を当事者として、研究者と区別する。勿論研究者自身が当事者を兼務することもあるが、研究主体としてはそこから超越していると想定しなければ、研究は言語化(対象化)されない。そこで、当事者の使用する言語と、研究者の使用する言語、という区分けが生じてくる。社会というものが一つしかなければ問題はないのだが、多数ありそれらを比較するという立場に立つ限り、当事者言語だけでは語れないので研究者言語が必要となる。言語の背景には当然それを形成してきた歴史や経緯や人間関係があり、そこからの眺め、つまり視野があるが、これは言語そのものではない。いわば、言語で語られる意味世界である。そう考えると当事者視野と研究者視野の区別もまた想定せざるをえないだろう。自然科学の場合、研究対象はそれ自身の言語も視野も持ち合わせていないから、これは人文・社会科学特有の状況と言える。

2015.03.09
      そこで、まず「当事者言語による当事者視野の表現」というタイプ(フェーズ)1の記述がある。これは録音データとか社会の内部で記録された言説そのものに相当し、社会学の基礎データである。そうすると、その対極として、「研究者言語による研究者視野の表現」、というタイプ(フェーズ)2もあって、これは社会学の理論である。当吉田民人はその専門家である。これらはしかし、そのままでは何の意味もない。「研究者言語による当事者視野の表現」というタイプ(フェーズ)3があって、社会の観察やタイプ1のデータからその社会を解析してモデル化したものを指す。一般人の目に触れる社会学の成果はこのタイプ3である。その対極には、「当事者言語による研究者視野の表現」というタイプ(フェーズ)4があり、これは研究者が作ったモデルを当事者の理解可能なように例解して表現し、当事者に働きかけてその応答を見る(研究活動としてのアンケート調査とか)ために必要となるので、もっぱら研究者の間でしか目にすることのない論文などで公表されている。(以下私見)吉田民人はこれら4つのフェーズが人文・社会学固有の構造と言っているが、構造としては自然科学も同じであり、ただ、当事者言語の代わりによく整備された実験条件が使われるに過ぎないし、当事者視野の代わりに自然法則が位置しているに過ぎない。

      以下、結論に向かう。まずは「狭義の生活世界」という概念を持ち出す。これは人類の科学の成果を持ち込む以前の生活世界という意味である。人類はそこに科学的情報空間を交流させて、生活空間を拡大してきたから、それを「広義の生活世界」と名づける。自然科学についてはこのような整理の仕方は一般的な理解となっているが、人文・社会科学においても同様な整理の仕方が出来るしそうしなければ科学の意味はない。その意味で言うと、上記のフェーズ1は狭義の生活世界を代表し、フェーズ2が社会科学が構築する世界であり、フェーズ3とフェーズ4がその間の交流である。そのようなプロセスを経て、社会学による広義の生活世界が開けるのである。

2015.03.11
      ところで、社会学が4つのフェーズを使い分けて分業して成果を出したにしても、それだけでは情報空間での出来事であり、実際の当事者の生活は改善されない。当事者は当事者自身の「感覚運動情報空間」を保持しており、そこから変換して得られた言語情報空間内で成果が得られたとしても、当事者と研究者の間での「感覚運動情報空間の間主観化」による相互理解がなければ絵に描いた餅である。それは第2フェーズの理論化作業では出来ないことであって、とりわけ第1フェーズの社会への参与による研究が必須となるのである。

      その辺をもう少し敷衍するために、対象に接近する態度(方法)を2分してみる。一つは「実証的接近(記述的接近)」であり、これは対象のあるがままの姿(現実態)を捉える、という態度である。もう一つは「設計的接近(規範的接近)」であり、これは対象のあるべき姿(可能態)を構想する態度である。この分類は4つのフェーズ全てに亘って考えられるし、考えなくてはならない。(以下私見)例えば太平洋戦争中において、息子の召集令状を受け取った家族を考えてみると、家族にとって、息子を奪われた悲しみというのが当事者の実証的接近であるが、口に出せば当事者言語による戦争への恨みとなるだろう。しかし、多くの場合、当事者は当事者言語表現としては設計的接近を表現して、お国のために役に立って死ぬことは名誉である、と表現するであろう。それを今日の研究者が研究対象とする場合、その実態データを収集し、そこから当時の国民意識というモデルを帰納推論すれば、それはフェーズ3の研究である。その時に、研究者言語として実証的接近を採るべきなのは言うまでもないが、一部の研究者は設計的接近を採って、自らの持つモデルの検証に利用しようとする(フェーズ4)ことで、歴史を歪めてしまう。

      社会科学における生活世界の拡張は自然科学と異なる点がある。それは生活世界自体が広く深く科学的世界の内部に浸透している、ということである。これは言語体系がそうであるという意味もあるが、それよりも自然科学の場合には生活資源が研究対象であるのに対して、生活世界そのものが研究対象となることで研究者自身が生活者として研究対象でもある、という二重性に起因する。また、科学と生活世界との関わり方という意味では、認知・評価的な相互作用(一般的な意味での科学)と指令的な相互作用(工学)があり、とりわけ20世紀以降においては、これらに加えて、共時的にはグローバル化、通時的には次世代や人類の将来まで含んだタイムスパンの長期化、が挙げられるだろう。

      これまで社会学は指令的な側面を軽視してきたように思われる。しかし、グローバル化した現在において、社会に対する設計的接近はますます重要になってきている。そういう意味で、「設計科学」としての社会学の観点から見れば、第1のフェーズは、当事者自身による行為設計やシステム設計、第2フェーズは設計科学としての社会学、第3のフェーズは当事者設計の理論への要約、第4のフェーズは設計科学の当事者言語への翻訳による実践、ということになる。それは、「事実的秩序と情報的秩序の相互循環」の内部に社会学者が設計科学的に、つまり認知的にではなく指令的・実践的に参入する、ということである。以上まとめると、「社会学的世界」と「狭義の生活世界」との相互循環、およびそれで構成される「広義の生活世界」の充実こそが、研究主体たる「私:吉田民人」の社会学的リアリティである。

      ということで、この論文は今まで超越的に(神様の立場で)社会学を語ってきた吉田本人の「主体」の在り処について語っている、という意味で興味深いものであった。
<目次へ>  <一つ前へ>  <次へ>