2015.03.24

「帝国日本の閾」第3部:日本人になること

第9章:小林秀雄という意匠
      この章は判りにくい。僕は高校3年生の時から2−3年の間、小林秀雄に心酔していたが、彼の政治的立場というものは気にしていなかった。彼が「批評」する対象、つまり、文学、絵画、音楽に関心があって、そこに切り込む彼のやり方が好きだった。その批評対象は批評する彼にとって、彼自身でもあるというやり方、というか、その無理を承知の上で自らを超越するような気配を見せるその文体が好きだった。彼の文章は読者に媚びないから判りにくいともいえるが、その分だけ誠実に見えた。彼の目で僕はゴッホを観たし、モーツァルトを聴いたし、アルチュール・ランボーを読んだし、ベルグソンも読んだ。しかし、その内に、彼の批評自身がそれらの芸術家の真髄を外しているのではないか、と気づいたのである。とりわけ、ランボーを読むためにフランス語を勉強して、たどたどしくも朗読して、詩を直接味わうようになって、小林秀雄の記述したランボーはランボーの本質ではなくて、小林秀雄自身のよく言えばランボーに抱いた幻想であり、端的に言えば愚痴のようなものだった、ということに気づいたのである。急激に僕は小林秀雄に心酔していたことが恥ずかしくなってしまった。だから、小林秀雄を金杭氏のように捉えた事はなかった。

      さて、小林秀雄の出世作「様々なる意匠」が1929年で、成熟期の「無常といふ事」が1942年である。それは満州事変から太平洋戦争に至る「激動」の時期に重なるが、小林秀雄はそういった世の中の激動には不動だにせず、それを「己の曲芸の舞台装置」として借用して見せた。歴史と戦いを高みから眺望する「見えすぎる目」を持った教祖。自我を求めて自然の絶対性に行き着いた彼を、神という絶対者を持たない日本の土壌における苦行であった、とする見方、あるいは、日本古来の白眼視の悟り屋の伝統に即している、とする見方。いずれにしても、小林秀雄の中に、日本古来からの文学の精神が凝縮している。

      竹内好と丸山眞男は共に、戦争体験と国家批判を形骸化する「自然主義」、つまり、日本と世界を内と外として固定させてナショナルなものを日本固有の内なるものとして自然化する態度、を最大の障害物として考えていた。その代表者こそ、小林秀雄だった筈である。「歴史はつまるところ思い出にすぎない。」という小林の格言は日本における思想史の本質を突いている。日本においては、本来異質的なものまでが過去との十全な対決無しにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利は驚くほど早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに「忘却」され、時あって「思い出」として噴出するに留まる。

      小林秀雄は日本の思想的(無)伝統において、マルクス主義という敵の論理を批判的に摂取し、極限まで辿りついた。「私達は今まで批評の領域にすら全く科学の手を感じないできた。しかし、マルクス主義の思想に乗じて突然極端に科学的な批評方法が導入された。だから、批判された伝統的な批評家も、君の批評はブルジョア自由主義だ、と言われて困惑し、そうなのか、と自惚れてしまう、といった滑稽な喜劇が演じられている。」マルクス主義は、いかなる思想的座標軸も存在しなかった近代日本において、現実を秩序づける観念体系として登場した。元々マルクスはヨーロッパにおける思想的座標軸であったヘーゲルの体系の物神崇拝性を摂取しつつ破壊したのであったが、日本においてはヘーゲルを経ることなくマルクス主義が導入された。このマルクスを思想的座標軸として否定的に摂取したのが小林秀雄だった。「思想の制度」としてのマルクス主義と主義者に激しく敵対し、マルクス主義になる前のマルクスとエンゲルスの「個性的思考」と「文体」に脱帽し、「唯物弁証法」ではなく、そのような「意匠」を剥ぎ取り、現実の運動に出会ったときに噴出する究極の思想としての「弁証法」を賞賛した。「体系」を突き崩そうとする緊張感に溢れた姿勢において、小林秀雄はマルクスとキェルケゴールとランケを一身に兼ねたとも言える。しかし、「普遍者」の居ない国で、普遍の「意匠」を次々とはがし終わったときに現れたものは「解釈」や「意見」ではびくともしない「事実の絶対性」であった。

      もうすこし要約する。内と外、過去と未来を分割する座標軸がなかった日本の思想にマルクス主義は普遍的な原理の要求として登場し、そのマルクス主義が過度の合理主義となって個人の生を余すところ無く裁断した結果、翻って個人の自己意識的な存立を妨げてしまう。そこに小林秀雄が登場し、マルクス主義とマルクス的に対決することによって、個人の独立した精神を救出した。しかし、救出された個人はその対価として、いかなる思考の働きにもびくともしない事実と歴史の絶対性を目の当たりにする。こうして小林は自然主義に屈服したのである。(ナチズムを受け入れたハイデガーと類似する。)丸山眞男がなそうとしたことはそこから再度日本の歴史や思想史の伝統を積極的に生かすべく、その「思い出」を自覚的に認識として対象化する作業であった。丸山は外来思想が「日本化」されてきた幾多の先例の中で、その「原型」を記紀に見出した。「つぎつぎなるいきおい」が普遍性の感覚や超越性を阻害してきた、という。そこで見出したものは「永遠の今」という時間意識であった。この時点までは良かった。しかし、丸山はその根拠を更に問いただすことはなかった。「プラスにせよマイナスにせよ、持続低音を続かせていた条件は、日本の民族的等質性で、まったく高度工業国の中の例外現象ですね。やはり日本の地理的な位置が大きかったと思う。」つまり「自然性」である。為すべきことは、その「自然性」を繰り返し宙吊りにすることで、日本という実在の成立及びその存立根拠を問う「超越論的な問い」のはずだったのだが。

第10章:批評、歴史、死−小林秀雄における国家と個人
      戸坂潤の唯物史観:現実を観念体系から裁断する。歴史や社会が人間を規定する。戸坂から見て、和辻哲郎は日本の古典を無条件に現実に応用する。古典回帰である。戸坂から見て、小林秀雄は人間が歴史や社会を作るという方向しかみない。文学主義である。

      「事実や実在は自己自身の内だけに横たわる。歴史と云い、社会と云い、政治と云い、自然と云い、小林秀雄によれば構成力を欠いたただの紙上のパースペクティブに過ぎない。客観的なリアリティーは云うまでもなく、主体的リアリティさえ通過することが億劫である。その代わりに「小林式パラドックス」でごまかす。実在が、客観的な物質界が恐ろしいのだ。この不安を打ち消すために喋り立てなくてはならない。この魔法が彼独特の逆説である。」この戸坂の批判に対して小林は「揚げもしない足を揚げたことにして物を言い、相手をやっつけたような顔をしてみせるのは評家の悪徳である。文学は社会を解釈してみせる程のものではない。文壇的専門化と思想的公式化によって貧しくなってしまった健全な常識を取り戻そうとしているだけである。」と答えた。昔の人は自然の変わらぬ姿に退屈を覚えて各々夢を心に描いた。現代では常に変わり行く現実に対処できず、最初から夢の中に居るようなものである。その不安とは何に対する不安なのか?確かに都市も社会もあるが、それを背後から操るからくりの糸が見えない。外界と言語、すなわち世界と自己が、小林においては始めから「不安」である。自然や神といった確実な法則など無い。人は自らの手によって己を律している。宿命は頭の中にある。近代文学は宿命を自ら作り出さなくてはならない。不安はかっては精神の疾病の一つであったが、現代では不安こそ正常な状態である。不安な人ほど自己宣伝をする。これが今日の文学界を支配している「錯乱」である。つまり、何ものも確実ではないが、不安を感じている自分こそは確実だという、この驚くべき単純な弁証法こそが奇怪な錯乱を生んでいる。小林の健全な常識は、専門化や公式化、弁証法によって、不安をからくりの糸にすることを戒めるものである。だから、不安をどこまでも不安に留める、という方法であった。すなわち、「自分を疑うことから始める。不安を感じている自我をさえ疑い、不安を感じることを不安の種にせねばならない。」

      戸坂の批判は、小林が不安を私事化していること、すなわち不安が生まれてくるところの社会的な脈絡に目をつぶったことへの批判であった。これは不安の超越論的な根拠を問いただすということである。しかし、小林は超越論的な基礎付けを「私」において成就させてしまった。したがって、戸坂のイデオロギー批判を小林は無化できる。戸坂が為すべきだったことは、小林の方法意識を解剖し、彼の「私」が超越論的な基礎付けになりえない地点を探り当てることであった。そのような批判によって、小林秀雄の自然主義は、日本古来の伝統の反復でも、唯物論的な党派性(人民の立場)や普遍性に背を向けたイデオロギーでもなく、単純に「不徹底な方法の失敗による自己背反」に過ぎないことが明らかになるのである。

      ここから小林秀雄とランボーとの関わり、つまり批評家「小林秀雄」の始まりの記述に入る。23歳の頃、小林秀雄はボードレールの世界に閉じ込められていた。言語の習慣性や言語における社会的限定とか制約とかから独立した純粋言語としての、つまりは音楽のような、詩。それは共時的な意味での言語とは無関係に、それ自体が叙情の表現となる。小林秀雄が取り込まれてしまったこの夢の世界を打ち破ったのは、ボードレールの世界の外部にある現実ではなく、ランボーの詩というもう一つの「現実」だった。ランボーの詩はいかなる意味でも叙情ではなく、客観世界がランボーの目を通して変質したもう一つの客観世界であった。そこでは言葉がそのまま現実だった。(これはまあ小林にとってである。勿論ランボーの詩にはそう感じさせるだけの硬質な非情さがある。とりわけ、ランボーは23歳で突然詩を捨ててアフリカで商人になったという事実も衝撃的ではあった。)ともあれ、小林は「夢を見る惨めさ」を教えられた。今こことは違うどこか、何かを求めることは、もはや「毒物」でしかなくなった。ランボーの到達した言語と生の一致は西洋近代文学の極点であり、可能性の条件であった。小林はこの方法で批評家となった。さまざまな作品を言語と生の一致する地点において見極める、つまり、砕け散ることを条件として創られた言語の構築物が、いかにその破裂を自己認識しているのか、が小林の批評となった。「批評とは己の夢を懐疑的に語る事」という小林の啖呵は「夢は所詮懐疑的にしか語れない」という意味である。

      小林にとって、デカルトのコギトは、人間の思考に確実な根拠を与えるものではなく、ただ己の生きてきた道のりを語ることだった。「誰もが自分のテスト氏を持っている。だが、疑う力が唯一の疑い得ないものという処まで精神の力を行使する人が稀なだけだ。」伝統や因襲や約束や仮定の上に立った理解というものを疑って、真の無秩序を見るに至るという事、この事を出来るだけ自分自身になる事によって行う事、この孤独な自我は、しかし、絶対に孤独になれない。孤独になろうと試みるだけである。孤独にならんがためには世界と接触していなくてはならない。小林の「私」は個人性と社会性との各々に相対的な量を既定する変換式を求める「実験室」のようなもの、与えられた対象を認識する主観でもなく、普遍的な秩序によって呼名された主体でもない、主観と主体を変数とする関数の軌道である。小説家は架空の人物を使ってこの軌道をあれこれと描き、詩人は言葉の物質性によってこの軌道を直接歌うが、批評家は、それらの表現された「私」を、小説や詩が砕け散るところまで連れて行く。

      日本の詩は万葉集以来、抒情詩である。だから、詩(叙事詩)から散文的要素を捨て去り、叙情の真の姿を確立しようとした西洋近代詩人の熱烈な運動は、縁の遠い世界であり、その成果を輸入しても、気分上の技法の輸入に終わり、もともと抒情詩であった日本の詩の伝統には何の影響も与えなかった。西洋詩における言語の物質性は自愛の歌に呑みこまれてしまう。文体という言葉は観察に置き換えられ、言語は観察者と観察対象の単なる中間項に成り下がってしまった。自愛によって客観世界の物質性が消失したのと同じく、正しい観察によって見る私が消失した。言語に形を与える「私」が居なくなった。日本の近代詩は、現実への肉薄無しに、美しいものを気楽に歌うものになった。小林にとって、自然主義からマルクス主義までの展開は「実験室としての私」が成立しえなかった過程であった。懐疑が止まり不安が無くなることはない。確実なものを求めるために不安でなくてはならない。孤独になるために外界と接触しなければならない。この精神は丸山眞男の決断と同じものである。丸山の決断も決断の反復として何物にも惑溺しない精神を意味した。両人共に、近代日本の精神構造を批判した。丸山の「ナショナリズム」は決断の反復を、小林の「私」は懐疑の反復を、それぞれ意味した。丸山は秩序生成の根源が絶対孤独の決断であることを見極め、小林はその根源たる絶対孤独に辿り着くために徹底した懐疑が必要であることを見極めた。そして、丸山がその絶対孤独を思念し続けることができなかったように、小林も出来なかった。小林の場合は、「歴史」に辿りついたからである。

      さて、マルクス主義にも皇国史観にも組しなかった小林秀雄の歴史観である。「死んだ子供について母親は肝に銘じて知るところがあるが、子供の死という実証的事実を肝に銘じて知るわけにはいかない。母親の愛情こそが全ての源である。愛しているからこそ子供が死んだという事実がある。死んだ原因を精査したところで動かしがたい子供の面影が心中に蘇るわけではない。歴史的事実とは、単に出来事があった、そこに至る因果があった、というだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在ることが感じられなければ仕方が無い。」この強固な歴史観を批判するためには少々回り道が必要となる。

      ベルグソンの「笑い」。「生き物としての自然な振る舞いから逸脱してメカニックな状態が実現したときに、つまり、メカニックが生命に植え付けられているときに、人は笑う。「笑い」はだから小林秀雄の「懐疑」と同義である。生き生きとした自発性が硬直したイデオロギーに支配されて機械的な言動が紛れ込む。それを鋭敏に検出して指摘することが批評である。この自然な生命にメカニックが植え付けられている、という事こそ、人が必然的に自然からはみ出している存在であることを意味している。だから、人はそれを笑う。小林秀雄はそれを懐疑することでコギトに至る。自然とメカニックなものとの対立を発見して、これを意識的に再現することは、人間高度の理智機能である。しかし、感傷の国日本では稀である。

      小林秀雄はベルグソンの「笑い」と対比して「微笑」を持ち出す。微笑は笑いと異なり自然そのものである。微笑するとは生きる喜びである。この微笑を小林は絶対化する。しかし、微笑を微笑として認識する大人には既にメカニックが植えつけられている筈である。対自化することで始めて微笑と笑いの差異が認識される。自然そのものの赤ちゃんにとっては何の区別も無いのだから。機械化以前に自然が自ずとあるのではなくて、機械化を通して自然が以前にあったと考えられるのである。微笑む子供を見るためには、既に子供であるという事実から出発するのではなく、思考によって子供になるという方法に頼らなければならない。このような小林が本来とるべきであった方法的懐疑は、歴史に対しては適用されていないのである。方法的懐疑によって母親と子供の関係に肉薄するのではなく、子供を失った母親の心という確実なところから思考を始めてしまうのである。歴史は、言語、懐疑、笑い、と同列であり、自然をメカニックなものと見なすこと、すなわち人為の介入によって過ぎ去った時間を止める試みに他ならない。この止める方法を小林は、方法的懐疑ではなく、死んだ子供に対する母親の愛惜の念という絶対的なものに求め、これを日常の経験の裡にある人間の知恵である、とした。「生きている人間とは人間になりつつある動物である。思い出が僕等を一種の動物であることから救う。記憶するだけではいけない。心を虚しくして思い出すことが必要である。」つまり「死」という絶対的なものの前で小林の懐疑が色褪せてしまう。確実なものを前提とする思い出はそもそも「方法」たることが出来ないのである。小林が死の絶対性へと行き着いた背景には明らかに戦争があった。戦争を通して小林は己の方法の正しさを確かめた。この方法の極限的な駆使は、しかしながら、「日本人である」という前提に基づいていた。小林は懐疑を捨ててこう言う。「日本人である限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に扱うことはできない。それは僕等の運命だ。」小林の歴史観は当時の日本主義と国体明徴というファナティックな言説(メカニック)への批判であった。しかし、その結果小林は死の絶対性へと行き着いてしまったのである。つまり、「時が来たら黙って死ぬ」という覚悟である。しかし、これは倒錯であった。つまり、事実は、「日本人である限り死なねばならない」のではなかった。逆に、次に述べるように、「死ぬ限りにおいて日本人たりえた」のである。

第11章:死への決断
      「僕はどの東亜協同体論にも、思想家が自ら考え出した力というものを認めない。どれも申し合わせたように書物から学んだ知識で歴史の合理化、辻褄合わせをやっている。辻褄は中国人もロシア人もドイツ人も合わせるであろう。誰が正しいのか、そんな処に思想の正しさは無い。行為の合理化という仕事が思想だと誤解している。思想が行為である事を忘れて。」小林にとって戦争は何ら新しい事を齎してはいない。ただ、平時にもあるものが鮮明化するだけだった。官僚の無能、文化を解しない政治家、文学者の政治的無能、日本経済の実力、、、。これは災難ではなく試練である。戦争は近代日本の「コギト」であり、自己証明だった。彼は、ここに日本人が「私」という実験室を見出したと捉えた。人々の平常心、つまり沈黙、事態に対して全身を以て則しているその態度。新しすぎる事態であるから、思いつきの言葉は要らない。体当たりするしかない。死を前にしても恐怖など感じない。平常心を保っている。小林が火野葦平の小節「麦と兵隊」に見たもの。日本人の気質、あの母親の愛に通じるもの。「今日ほど疑いの種の揃っている時は無い。疑わしいものは全て疑ってみよ。性欲のように疑えない君のエゴティズム即ち愛国心というものが見えるだろう。その2つだけが残る。そこから立ち上がらねばならぬような時、つまり非常時である。」国民は懐疑を通して国民たることを確認する。そして、この懐疑つまり平常心が死という極限において可能になったものである限り、日本人である運命は絶対的に覆せない。戦争は小林にとって、日本人である事を究極において証明した「普通状態」であった。しかし、小林の懐疑はそこで終焉した。植民地朝鮮を訪問した小林は朝鮮人青年が志願兵としての訓練を受けている様子を見て、その溌剌とした表情に感動する。現実に体当たりするときの表情。この美しい顔は彼等が「兵士」になるゆえのものである。小林の言う「平常心」を彼等は戦争に参加することによって獲得できたのである。しかし、これは倒錯である。朝鮮人志願兵は彼等の生の歩みを戦争によって確認したのではない。彼等は日本人たることを確認したのではない。彼等はそれまでの生を否定し日本人になろうとしたのである。小林秀雄は、「死が日本人であることを確実にしてくれる」という倒錯した意識において、「死を以って始めて日本人になれる」という根源的なロジックを覆い隠したのである。

      朝鮮半島は日本にとって対ロシア防御線であると共に国力向上のための産業育成の地であった。と同時に内地で余った日本人の移住先でもあった。総督府と植民者による計画的な土地収奪:総督府やある大会社がその土地を徴発するという噂を流し、その土地の片隅を買い取る。土地所有者は不安に駆られて1/10以下の価格で売り渡す。1910年の占領後10年以内に4割以上の土地が日本人の手中に収まった。米作を強制して内地における不況や凶作に備える食料庫にしようとしたから、うまくいかず土地を手放す朝鮮人も多かった。朝鮮半島は日本にとって領土であって、朝鮮人は労働力としての資源にすぎなかった。天皇の約束「一視同仁」にも関わらず、朝鮮でのインフラ整備は日本人のためのものであり、朝鮮人は追い出される存在であった。大日本国憲法も適用されなかった。朝鮮総督の命令による「制令」が適用されたのみである。「統治」とは公的暴力装置が住民を取り締まると同時にその生命と財産を守ることである。しかし、朝鮮において守られるのは日本人だけであった。朝鮮人は、極端な言い方をすればであるが、畑を荒らしに来る動物のように扱われた。戸籍整備も朝鮮人に対しては2割程度しか進まなかった。したがってそれは統治ではなく「占領」だった。法の名の元に朝鮮人に降りかかる暴力から逃れるために彼等は自らの生命を投げ打たねばならなかったのである。

      1931年に満州事変が起き、戦局拡大と共に朝鮮人の位置づけが変わる。1937年には皇国臣民誓詞の朗読と暗誦が命じられた。1938年に陸軍は朝鮮人の志願兵を募り始め、その後延べ16870人が動員された。1939年からは9月1日に全ての人々が神社参拝、宮城遥拝、国旗掲揚、君が代斉唱、皇国臣民誓詞暗誦などの行事に参加させられた。1934年にはついに朝鮮における徴兵制が施行された。朝鮮人の多くはこれを歓迎した。帝国内部で生命保障の無い宙吊り状態から解放されて日本人になることが可能となったのである。靖国の論理は内地においては自然的な感情として位置づけられたのだが、朝鮮半島では「揺るぎなき祖国観念」として把持されなければならなかった。内地の人がお国と家族の為に死を覚悟するのに対し、朝鮮人は自らの新たな「生」の為に死に赴かなければならなかった。2割くらいしか整備されていなかった戸籍も一年で8割の戸籍が整備された。しかし、その目的は生命の維持による人口統制ではなく、生命の駆りだしのための人口管理であったのは言うまでもない。

      占領期を通して恣意的暴力に晒された朝鮮人が身を守る方法は、結局日本人になることであり、徴兵制がその途を開いた。死を覚悟することによってしか日本人になれない、というパラドックス。これは朝鮮人において表面化した事実であったが、日本人においてはそれが潜在していたに過ぎない。自然的に日本人であること、血統的にそうであること、がその事実を覆い隠していたに過ぎない。戦死した朝鮮人が祭られた靖国神社においてはその矛盾が露呈している。「直接に帰って行くべき子孫の家というものを持たぬ霊たちを靖国が祭っているということは、いわば無形の家督を次の世代に護り伝えていく業であった。この祭りは家の祭祀を共同体が肩代わりする形で日本の家の構造を守り、家を守ることを通じて国家・民族の靖からんことを祈る祭りである。」「家」にはどこまでも自然的な人間の作為を受け付けない閉鎖性がある。靖国の祭りはこのような伝統を護持し、外からの攻撃からこの閉ざされた共同体を護る儀式であり、その儀礼の中から国家の歴史が思念される。この靖国の理念からして、戦死してやっと日本人になった朝鮮人合祀者はどう位置づけられるのだろうか?血と家督という閉鎖的紐帯に対して、その中の異質な存在、つまり「死の決意」という非自然的な作為によって護国の神となった朝鮮人が紐帯の亀裂を齎す。これは同時に、民族や国民や国家の連続的な存続を閉鎖的に自然化する場所としての靖国そのものの本来的な作為性を暴くものである。周知の様に、靖国の論理は日本古来の伝統ではなく、近代国家たる帝国日本の発明品なのである。表向きの靖国の論理(日本人の存続)ではなく、本当の論理(国家の為に死を覚悟する者だけを護る)がそこに露呈しているのである。つまり国家生成の場(生きるために死を覚悟する)がそこにあったにも関わらず、小林秀雄は気づかなかった。志願兵となった朝鮮人に、生きるための決意ではなく、小林自身が妄想した日本人に期待される「平常心」を見たのである。

<おわりに>
      近代日本の国家思想の系譜において、ついに「日本」を自然化することから離れたものはいなかった。近代国家として生まれた日本はその存立の根拠を問う事はなかった。国家の成り立ちが自然的なものとして思念されるならば、その行為に責任を取る人格は原理上存在しえない。敗戦はこの「無責任」体制から逃れる機会であったし、丸山はそれを目指した。しかし、彼の言語と論理は、あくまでも、独立した自由な精神を持った個人を想定していたから、仮想的にでも全ての関係を剥奪された恐怖に怯える個人がセキュリティーを求めて国家と契約する、という論理は見出せなかった。神という超越的な根拠ではなく、個人の肉体と生命によって国家を根拠づけるというのがヨーロッパで生まれた近代国家であるが、近代日本においては、この原初的な場面への思考が回避された。あの幾多の侵略戦争を殆どの日本人が正常な国家ではありえない逸脱行為として忘れさろうとしている。しかしそれは国家がそこにおいて存立可能になる理想的な正常事例だったのである。植民地はセキュリティーの原初的な場、すなわち個人がただ生きるためだけの動物になると同時に、その動物を排除することによって国家の民になれる、国家の民と動物が分割されるはざまの深淵であった。敗戦後の日本において植民地支配が忘却され、純粋日本を思念してきたことは、国家への根本的な問い質しをなしえなかったことに通じている。帝国日本への超越論的で批判的なまなざしは、必然的に植民地の人々に出会わなければ、つまり帝国日本の閾に自ら立たなくては、開かれないのである。

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