2007.06.12

2007.05.31

    友人がケン・ウィルバー「科学と宗教の統合」(春秋社)という本を貸してくれた。僕はこの人のように科学と宗教の矛盾を感じていないので、というか宗教という実感が無いので、ちょっと白ける感じであるが、折角借りたので一応読んでみる。最初のところで、宗教というものの共通項として、物質<身体(生命)<心<魂<霊  という「存在の大いなる連鎖」(包含関係)を挙げている。身体は物質ではあるが、それ以上の何かを持ち、心は身体に宿るが身体以上の何かを持ち、、、、という意味である。さすがに魂や霊などは信じられないので、僕は宗教を持たないのであろう。これに対して「近代」の共通項は<芸術:美>、<道徳:善>、<科学:真>という「価値領域の差異化」である、という。前近代においてそれらはお互いに不可分なものであり、独立して扱うことは出来なかったが、科学者は宗教的束縛を逃れて自由に真理を探ることが可能となり、芸術もそうなった。しかし、科学があまりにも強力な方法論であったが為に、科学による一元的な見かたが当たり前になってしまった。その世界観では全ての現象は物質の因果関係として存在するが、それ自身何ら「価値」も「意味」も見出せないものである。人は「価値」や「意味」を必要とするから宗教が必要であるが、宗教の教義は科学的に否定される、という矛盾を抱えたまま生きていかざるを得ないのが現代の人間である、という。

    僕自身は類としてのヒトを信じているから、その進化論的来歴を認める。また個人としては生まれてこのかたの人間関係の来歴を自己として認めざるを得ない。それは科学とは矛盾しないし、そこには「価値」や「意味」の根拠を置いているし、素朴にそれを感じているから、著者のいうような矛盾が何か白けた言い方のように思える。つまり、僕には<芸術>、<道徳>、<科学>が独立した領域とは思えない。勿論それらは体系としては独立しているように見えるが、個人としてそれらに実践的に関わるのであるから同じ一人の人間の価値観の上にあり、それらが矛盾しているとすればまだ理解が不足しているだけだ、と思っている。科学も宗教もそれぞれを「規範」としてみれば矛盾があるように見えるけれども、人は規範で動くものではないし、規範は気休め以上のものではない。統合したところで気休めであることには変わりがない。霊が現れればそれは心理的錯覚であるが、さりとてそれは心理的な現象として存在していたのであって、ということはその基盤としての身体的、物理的現象も存在していたのである。それが科学の対象とならないのは、再現性が保証できないからである。科学の対象はこの世の森羅万象全てではなく、あくまでも再現可能な側面に過ぎない。だからこそ科学の技術的応用も可能なのである。それ以外のことはどう考えようと自由であり、矛盾があったとしても解決できる筋合いのものではないし、実害もない。

2007.06.03

    第2章はこれまでの代表的な考え方を5つに分類している。何だか忘れてしまいそうなので記録しておく。
1.科学万能主義、
2.宗教一元主義、これらは自明であろう。
3.多元主義はやや説明を要する。肉の眼(経験主義)、理知の眼(合理主義)、黙想の眼(神秘主義)はそれぞれに対応した次元を扱っている限り有効であるが、他の領域を侵犯しようとすると問題が起きる、とする。
4.新科学主義であるが、これは経験科学は霊の問題を議論できるまでに進化した、という考え。たとえばビッグバンに神を見るとか、量子論、相対論、システム科学、複雑性理論などにその可能性を見出す。
5.脱近代主義(PostModernism)がなかなか興味深いと思う。科学は詩や芸術と同等で世界の解釈に過ぎない。この考え方は科学革命をパラダイム変換としたクーンの誤解に基づいている。これについては更に第4章で解説されている。「科学革命の裏には世界の解釈の仕方の転換がある」、というクーン主張は「世界は解釈次第である」、と受け取られた。しかし、解釈は実証されなければならないし、革命以前の解釈をその中に包含して発展していく、という科学の重要な側面が忘れられている。人々の認識方法の限界を乗り越えるためのパラダイム変換なのであって、そこには自然の側からの制約や必然性があるということである。それを無視して新しいパラダイムを「提唱」しても何の意味も無い。

    この章では更に、4.の立場についても批判している。科学の本質は分析的であり、個別に分け入って後で組み立てる、という物の見方であるが、システム論や複雑性理論はそれを乗り越えようとしている、と考えるかもしれない。しかし、それは科学の本質ではない。科学の本質は肉の眼(経験主義)であって、独白的(モノロジカル)という点に本質がある。経験科学は自然を自然として語らせるような立場をとる。そこには自分と他人という関係は出てこない。少なくとも隠される。これが科学における客観性の原則である。そこで語る自然が個別的分析的であろうと、全体的であろうと変わりは無い。それに対して、理知の眼(合理主義)は対話的(ダイアロジカル)である。語ることを解釈し理解し、また相手を説得するための修辞を構築する、という相互理解のプロセスが伴う。最後に黙想の眼(神秘主義)は超論理的(トランスロジカル)である。この辺は何とも私の理解を超えている。僕なら無意識の脳内活動を持ち出して説明すると思うが、これは「独白的」な立場なのであろう。

    さて、こうしてケン・ウィルバーの指摘によれば、問題なのは近代思想であって、経験科学ではない。近代思想が科学という肉の眼によって理知の眼も黙想の眼も置き換えてしまおうとするところが問題なのだ、という。僕の立場は同感といえば同感である。理知の眼(平たく言えば言語の世界)と黙想の眼(これも平たく言えば無意識の世界)は経験科学によって制御することは原理的に出来ないと思うが、経験科学による「解釈」は可能であり、経験科学の性格上その「解釈」は信頼性が高いから、活用すべきであると考える。

2007.06.04

    第4章はモダニティの把握に充てられる。近代によって齎された価値は大きい。自由・平等・正義、民主政治、等々、これらの価値は近代以前には存在しなかった。しかし近代はそれ以前にあった束縛からの自由であり独立であったことから、その行き過ぎが人格的な疎外や断片化された意識を生み出す。近代に対する批判は3つの型に要約できる。
1.前近代的復興:単純に近代以前の部族的狩猟文化に戻ろうとする。そこには統合された意識がある、という。しかしそれは統合されたのではなく独立していないだけなのである。
2.ポストモダン:真理は存在せず、解釈のみが存在する、という。しかしこの立場からはナルシシズムしか生まれない。
3.世界包括システム:ニュートン−デカルト的なアトミズムに代ってシステム論を対置する。しかしこれは近代科学の手の内から出ていない。

    これらの批判はモダニズムの本質を見誤っている。モダニズムの本質は<芸術>、<道徳>、<科学>の差異化(独立性)である。価値の言葉で言えば、美・善・真 である。善が社会的(あなたと私)であるのに対して、真は客観的(それ)である。美は主観的(私)である。価値が主観に過ぎないということではなく、美的価値は主観によってしか判らないという意味である。これらの健全な意識が次第に(それ)の観点でのみ語られるようになったことが近代の行き過ぎなのである。

    第5章に到って、やっと核芯的な言い方が出てくる。すなわち「近代の災いとは、内面的な価値を外面的な表層で説明し尽くそうというところに由来する」、と。「存在の大いなる連鎖」における身体→心→魂→霊の外側3項は全て身体によって規定されてしまうのである。特に科学が生命や脳、意識の解明に進んだときにこの大いなる連鎖は壊滅的打撃を受けることになった。

    これは僕にもあてはまるかも知れない。もっとも僕には表層で説明し尽せるとは思えない。表層とはいえ、進化論的な社会的な来歴を背負っているのであり、初期条件が未知なのであるから、原理は判ったとしてもそこにある生命体という存在自身は説明から自由である。吉田民人のいうところのプログラムである。結果的に美や善に対して科学は無力であると感じている。私が、あるいはあなたが、関わらない限り、美も善も存在しないのである。その科学的解析は関わるという行為によって簡単に乗り越えられてしまう。しかし、それでも科学的解析をやめられない。

2007.06.05

    第5章に出てくる4つの象限はなかなか面白い。ケン・ウィルバーの調べたところ、思想というのは殆どが階層構造・入れ子構造で構成される。それらを集めて分類してみると4種類になるという。
<第1象限>は現代の物理科学の考え方で、原子・分子から始まって、生物、神経系、辺縁系、新皮質、、という階層である。これは個体を外面から眺めたときの存在様式である。
<第4象限>はその外から眺めた眼で社会を見たときであって、銀河系や惑星に始まって有機的生態系、集団、家族、部族、と来て国家、と到る。これは社会組織が発達する順序であるから、高度な組織体はより場所的には狭くなっていく順である。社会科学的な立場である。
<第2象限>は個人を内面から見る場合であって、外界の把握、感覚、知覚、情動、概念、知的操作、、、という精神活動の階層がある。
<第3象限>は社会を内面から見たときであって、原形質的、植物的、、、移動的、魔術的、神話的、合理的、、、という集団心理的な階層がある。

    近代思想はこれら右側にある外面的階層(それ、の世界)で左側にある内面的階層(私と私たちの世界)を説明し、内面の世界を無視しようとしてきた。経験科学の成功、とりわけ生命科学や脳科学の成功(僕にはとても成功とは思えないが)はそれに拍車をかけた。しかし、そのことは、この世界の意味や価値感を失うことでもあった。近代思想に潜むこの虚無と最初に戦ったのがカントである。「純粋理性批判」において、カントは経験科学が内面の世界に立ち入ることが出来ないことを明らかにしようとした。神は科学(独白的理性)では説明できない(古い形而上学の死)。しかし、だから神が存在しないのではない。神が存在しないことも科学は証明できない。「実証理性批判」において、それを乗り越えようとした。すなわち、神の存在は対話的理性によって証明できるのではないか、と考えた。道徳の存在は神なしには考えられない、と。最後に「判断力批判」において、芸術の次元において神と科学を統合しようとした。これらカントの3著作はその後の思想を見事に分類している。「純粋理性批判」からは科学主義が生まれ、「実証理性批判」からは道徳主義が、「判断力批判」からは芸術至上主義が生まれた。

    自分を振り返ってみると、自らがどうしようもなく自然科学者であるということと、にも関わらず自然科学は自らの人生における重要な判断に対して何の拠り所にもならない、ということとの板ばさみの意識がずっと付きまとっている。大学生時代での、新左翼の運動に一時共感を覚えて羽田までデモに行ったり、詩作やデッサンや音楽演奏に没入して何かを掴もうとしたり、そもそもベルグソンを皮切りとした現象学や実存主義哲学書への接近はそれが理由であった。つまり、僕にとって、最初から科学は人生の意味や価値観とは無縁なのである。それにも拘らずなぜ科学に惹かれ続けるのか?素直になって感情を整理すると、やはり2つの理由がある。1つは他者との調和である。科学は何よりも私とあなたが共通に扱える対象物を利用するための方法であり、そのことを通じて私とあなたを結びつける。人との繋がりほど嬉しいものはないのであるし、僕自身の大きな欠点もそこにあると感じているから。もう1つは内面的調和である。それは言語や論理の世界と目の前の物的対象との整合性を目指しているからである。それがある種の美意識に繋がっていて僕を満足させる。繰り返すが、にも拘らず、「体系としての」科学はやはり人生の意味や価値観とは無縁である。人生の意味や価値観は科学とは異なる経路で学習しなくてはならない。しかし、人生の意味や価値観の基盤となる私という現象の由来は生命や人類やこの社会が辿ってきた来歴を「科学的」に検証することで浮かび上がってくるような気がしているし、その来歴の共有こそ私たちにとっての人生の意味や価値観なのである。だからこそ、その方面の勉強をしているわけであるが。

2007.06.06

    第7章はロマン主義、第8章は観念論、第9章はポストモダニズムである。<ロマン主義>は統合された世界観を求めて近代以前の歴史時代を遡り、そこに本来の人間社会の姿を見たが、現実的にはそれは彼らの思い描いた理想郷ではなかった。近代によって齎された差異化以前の状態に戻っても未来は開かれない。観念論は進化としての歴史に希望を見出した。本来のスピリット「個人を超えた絶対的な自己」から初めに物質世界が疎外され、意識が疎外され、やがてそれらから自らに回帰する。しかし<観念論>には方法論がなかった。如何にして人はそのスピリットに触れることができるのか?禅やヨーガのような方法論を持たなかったために単なる形而上学的戯言になってしまい、あっという間に歴史に置き去りにされてしまった。

    <ポストモダニズム>についての説明は僕にとって目新しいものである。内面の世界は直接指し示すことが出来ない世界であるから、私、あなた、の間で取り交わされる記号を解釈するという手続きが必須のものとなる。外面的な表層は見ることが出来るから独白的に語ることが可能であるが、内面の深層は解釈される以外に知ることは出来ない。世界の構造そのものの中に「解釈」の多様性を織り込もうという試みがポストモダンの基調となっている。しかし、その徹底した解釈主義によって、解釈以外の客観的要素が捨てられてしまったが為に自滅したのである。ともあれ、その要素は3つある。
1.リアリティは予め与えられている(所与のもの)ではなくて、一定の有意味な形での構築物、解釈である。これはある程度正しいが、それにしても客観的要素を完全に否定し、さまざまな思想傾向による解釈しか残らないという考え方からは寄って立つべき行動基準が生まれない。
2.意味は文脈に依存していて、文脈には際限がない。
3.それ故にいかなる特権的な視点も存在しない。存在の入れ子状態を想定するならば文脈依存性もまた当然である。

    このコンテクスト理論のさきがけとなったのがソシュールということである。ここでやっと僕の知識と結びつく。言語は意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)が裏表になっているが、この結びつきはそれ自身としては恣意的である。個別の言葉が個別の意味に対応しているのではない。シニフィエとシニフィアンの対応はむしろシニフィアンと他の多くのシニフィアンとの成している関係性によって間接的に決まるものである。意味を固定するのはもろもろの単語全体の間の関係に他ならないのである。恣意性のあるその組み合わせはそれだけでは意味を持たないが、全体の中にあって始めて意味を持つ。啓蒙主義(独白的知識体系)では、言葉はそれが対象を指し示すから意味を持つとされていて、そのことの積み重ねが真の知識の源泉であった。しかし、このような考え方では言語の構造を明らかにすることは出来ない。それ自体客観的に指し示すことのできない<間主観的>な「構造」がなければ言葉の意味は存在しえないのである。ソシュールの発見はそれまでの哲学者の考え方を変えてしまった。それまでは素朴に言語を使って世界を解析し記述していたのであるが、言語はそれほど従順なものではなかったのである。哲学はまず言語についての哲学である、ということが当然のことになってしまった。

    ソシュールの切り開いた新しい考え方は、しかしながら、ポストモダニストによって極限まで推し進められた。もはやシニフィエとシニフィアンは分離されて、シニフィアンが独自の構造と世界を作るようになってしまった。もともと構造はあったが、その構造が抽象化されいたるところに適用された結果、シニフィエが忘れられてしまった。その内に構造は近代科学によってシステム論として追及されてポストモダニストの住む場所がなくなってしまった。本来の目的、内面の世界、を忘れて学問の体系化に没頭した結果、その成果を外面の世界(近代科学)に掠め取られて自滅したのである。

    さて、ここで論じられた反モダニズムの思想家達の内、僕が読んだのはソシュールだけである。他は何となく胡散臭かったから読む気にならなかった、というのが正直な感想である。ケン・ウィルバーの記述はかなり一方的な断罪のように見えるが、まあ読んでもいないので何も言えない。僕が少し読んだことのある現象学や実存主義についてはどう考えるのだろうか?あるいはマルクスについてはどうなのだろうか?やや気になる。それに加えてさまざまな非西欧の思想についても触れられていない。もっとも非西欧世界にとって、モダニズムは外からやってきた思想ではあったが。

2007.06.07

    第10章と11章は科学においても内面世界が必須であるということを論じている。モダニストが内面を否定するのは、2つの理由からである。
1.内面は脳の観察可能な作用に還元される。
2.内面的な知の様式があったとしても証明する手段を持たない主観的なものであるから、存在の必然性がない。

    1.については経験科学が論理学や数学といった内面世界に依存している、ということを反例として挙げている。このことは実際には既に多くの科学哲学者や科学者自身に認められているし、僕もそう思う。

    2.については経験科学と知の内面的様式も「共通した」要素で構成されていて、本来区別すべきものではない、ということを言う。その要素とは「指示」「感受」「確証/反証」である。経験科学における経験とは感覚的な経験だけでないことはもはや常識となっている。ここでの「経験」とは何らかの意味での直接的な証拠やデータや裏づけがある、ということである。そこには心的、霊的な経験も含まれるはずのものである。数学における証明は心的な経験であり、多くの人に共有される客観性を持つ。このような広い意味での科学的方法の本質は、
1.介助的指示:手本、パラダイム、実験、手順、(これは教育によって伝えられるという意味で社会的に共有されている)、
2.直接的感受:指示によって提示された現象やデータの直接的経験、
3.共同体的確認:指示と感受の要素を十分満たした人たちと結果(データや証拠)を照合すること、からなっている。

    1.の指示という項目が目新しい。これはトマス・クーンのパラダイム論である。経験科学の有効性はその名前のとおり、経験的証拠を要求するところにあるが、それは科学者によって見出されなければ機能しない。そのためには有効な指示によってその領域が探索されなくてはならない。その指示こそがパラダイムである。これまでだれも見ようとしなかった見方でみるということによって、新しい証拠が見出されるのである。(仮説−検証のサイクルという整理の仕方でいうと、これは仮説を立てる発想そのものを意味している。その発想自身は勿論本質的に新しいものである場合もあるが、大部分は教育によって伝授されていくものである。)3.はカール・ホパー卿の発想である。真の知識は反証されることに対して開かれているべきである、ということである。経験科学をこのような手続きで要約するならば、心的、霊的な体験もまた、そのままの形で経験科学の対象として認められることになる。このあたりで何となくこの本の筋書きが見えてくる。

    第12章は宗教の側がどう変わらなくてはならないかを論じている。過去において宗教の霊性は神話に依拠していた。人々はそれを信じるだけでよかった。しかし経験科学が証拠を要求し始めると、最初は抑圧で答えたが、やがては持ちこたえられなくなった。しかし、本来の宗教的体験は神話に依拠する必要がないのではないだろうか。あくまでも黙想の眼によって開示される神秘的直接体験や超越的意識に依拠すべきである。そのための<方法論>こそ重要である。偉大な宗教の創始者はそうであった。そこでは神話は必要ない。神秘的体験の為の方法論は弟子たちに「指示」され、弟子たちによって「感受」され、弟子たちの間で「確認」されて、経典となたのである。その後の宗教の堕落はこの原初の「経験主義的」要素を喪失したことが原因であり、そのために黙想の眼を失い、理知の眼、肉の眼でしか世界を見ることができなくなったのである。

2007.06.12

    第13章は広義の科学の説明である。指示、感受、共同体的確認、あるいは 範型、経験、反証可能性、という3つの要素を備えた方法論は物質表層世界だけでなく、内面の世界にも適用できる。そういう意味でこの<広義の科学>は4つの象限全てに適用可能であり、それらの真実性判断の基準となる。狭義の科学の扱う第1象限(個的、外面的)、社会学やシステム理論の第4象限(集合的、外面的)、であるが、価値としての表現では、第1象限と第4象限が<客観的科学:真>、第2象限が<芸術:美>、第3象限が<道徳:善>ということになる。この中でも、特に霊的領域については、どうも著者の専門のようであり、トランスパーソナル心理学やら黙想の伝統という形式が「広義の科学」に相当するということである。第2象限の高次の段階に相当し、それが宗教の取るべき位置となる。

    第14章はこういった考え方を4つの象限、あるいは3つの価値、全てに展開する。すなわち、身体→心→魂→霊、という「大いなる連鎖」が広義の科学の枠組みの中で復活することになる。3つの価値でいうと、まず芸術である。絵画を例にとると、身体的段階の芸術は写実主義的なもの、心的領域では抽象絵画や超現実主義、魂の領域では、黙想によるヴィジョンを描いたもので、これを理解するには自らも黙想的体験をする必要がある。最後に霊の段階になると、もはや指示対象は無い。道徳の場合、前慣習的(感覚運動的、自己中心的)な段階から、慣習的(順応的、社会的)段階を経て、脱慣習的(世界中心的、合理的)な段階に発展する。霊的段階になると、聖人、菩薩、レベルとなり、一切衆生の為に悟りを得ようとする。客観的科学はこれらの内面的発展の外面的相関物を記述するように出来ているので、そういう意味で対応する段階がある。黙想や瞑想に対しても、その内面には達しえないが、脳の状態は<それ>のデータとして記述可能であり、実際それらは生理的証拠としての意味がある。第15章は諸宗教が取るべき態度についての記述である。もはや科学的に否定されたもろもろの神話に拘ることなく、初心に立ち返って黙想の方法論を磨くべきことが説かれる。そのような眼で見れば、諸宗教は驚くほど共通性がある。進化についても、科学的に明らかにされたことを認めて更に高次の精神活動への進化を想定すべきである。

    とまあ、以上のようなことで、最終的にはどうも霊的な段階にまで到るようで、もはや僕には付いていけなくなってしまった。美的体験や道徳までは良い。黙想の体験というのは無いこともないし、それなりに「発見」もあるのだが、やはり反省の中では僕自身の心理状態の一種として総括されてしまうから、僕にとってはとても霊的体験とはいえない。その前段階まではよく理解できる。

    広義の科学、というのは吉田民人のいうこととよく対応しているように思われるが、吉田民人が出来上がった体系を想定しているのに対して、ケン・ウィルバーは科学する行為の正当性を論じている。そういう意味では、通常言われる、仮説と検証のサイクルに相当して、<指示>、<感受>、<検証>という見方は新鮮であり、説得力がある。仮説自身の根拠となるべきものが<指示>であり、その意味は、経験科学には、その成果物たる物質諸相の記述だけでなく、それを研究するための方法論の歴史的発展という側面が不可分な要素としてある、ということである。その方法論自身が過去の経験によって選択され洗練され教育によって伝えられている。つまり、科学者無しに科学は成り立たない、ということを言っている。蛇足であるが、勿論このことは、方法論次第でどうにでもなるという意味(誤解されたパラダイム論)では無くて、方法論が変革されても過去の成果物はそのまま引き継がれるからこそ、科学は発展している、ということである。<感受>において重要なのは測定者を捨象して存在する実験データではなく、あくまでも測定者(当事者)の直接的感得である。データはその媒介物に過ぎない。<検証>についても、狭義の科学においては、再現性のある実験による訳であるが、それが内的経験の言語や態度による共有化にまで拡張されている。むしろ再現性のある実験データというのは<検証>を成立させるための一手段に過ぎないということである。つまり、客観性ということであって、それは人々の存在を捨象しては定義できないことなのである。冷たい完成された知識の体系ではなく、科学する行為や人間に焦点を当てることで、統一的視点に到達している、という意味では、僕と同じ考え方であり、共感できる。

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