2007.12.01

   先々週東図書館で偶然見つけた、P.D.ウスペンスキー「人間に可能な進化の心理学」(めるくまーる)を昨日の朝のバスと今朝のコタツの中で読んだ。ここでいう進化とか心理学とかいうのは現代的な意味とは異なり、精神の発達といった意味である。一般的には神秘主義として分類される組織(スクールと言う、例としてフリーメイスンなど)について説明したものである。最初の方をちらちらと見て借りたのであるが、考え方が現代科学に拘っていなくてそれなりに本質を突いていると思った。人間は運動や本能や感情や思考といったばらばらの機能を有する一種の機械であって、単なる刺激−応答システムに過ぎない。それらが統一されているというのは錯覚である。意識はそれらの活動のほんの一部を知るに過ぎず、朦朧とさまよい続けていて、何の脈絡も無い。わずかに記憶によって辻褄を合わせているに過ぎない。しかしながら、歴史上の過去には偉大な意識的人間が存在したのであって、組織的な訓練によってその段階に少しでも近づくことができる、ということである。そのための方法論のことを「進化の心理学」という。意識状態の分類は「睡眠」「覚醒」「自己意識」「客観意識」であるが、通常意識といわれているのは「自己意識」である。しかし、反省してみると、「自己意識」の状態にあるのは極めて短い時間であって、単発的である。まずはこれを如何に持続させて「自己を知る」ことが最初の修行である。(「客観意識」は充分な「自己意識」を獲得した人が極まれに得る事のできる世界や人々への見通しであって、説明すら出来ない。しかし、それが想定されるのは、意識というものが本質的に一人の人間の内部にあるものではなく、社会的なものだからである。またそれ故にスクールが必要とされる。)人間はその人が生来持っている性質「本質」と生後身に付ける「人格」の2つの側面から語られるが、これらはお互いに調和しながら発達させねばならない。人格はしばしば本質を疎外し、そのために世の中の不具合が生じるが、人格無しには高次の意識状態に達することはできない。「存在」と「知識」についてもそうであり、それらはお互いに必要としあう。知識は存在を高めるために必要なのであるが、知識が過剰となると存在が忘れられる。解説文の最後の方に面白い引用があった。

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ピタゴラスは古代の知識をエジプトで学び、ソクラテスはその知識を引き継いだ。プラトンの伝える、パイドロスに語ったソクラテスの、記憶についての話を引用しよう。「文字を発明した神トートは、文字の及ぼす影響と判断を誤ったとして、当時のエジプト王。神タモスから戒められた。『お前の発明した文字は学習者の心を忘れっぽくさせるだけだ。誰も記憶しなくなる。書かれた文字を頼り、自分自身を記憶しなくなる。文字は回顧には役立つが記憶には役立たない。お前の弟子は、実体ではなく実体に似た外観を教わるだけで、あらゆる事項について聞いたりするだろうが、何も学び取ることはしなくなる。博識家に見えても、およそ何も知らない弟子ができてしまう。実体の伴わない知識をひけらかす、退屈な人間ができるだけだ』」。要するに、記憶するには自分がそこにいなければならないのである。

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 哲学は科学にその座を譲るだろうか?その鍵は科学の知識体系の発達具合にあるのではなく、科学者自身の存在にある。科学者が、あるいはその体系的知識を学び、応用する人達が自らの存在を高めるためにそれを利用しない限り、哲学本来の意味と意義は科学によって愚弄されるに過ぎない。

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