2008.01.25

1月19日(土):
    先週借りた 新宮一成「ラカンの精神分析」(講談社現代新書)を、朝の通勤バスの中で少しづつ読んでいる。ラカンは哲学の世界では随分重要な人らしのだが、僕は知らないし、あまり本も見当たらないなあ、と思っていたら、偶然斎藤環という人の「生き延びるためのラカン」(バジリコ)を見つけてざっと読んでみて興味を持って図書館にに行くと、これしかなかった次第である。やはり一般向きではないようだ。消化しきれないので、本からの引用が大部分である。謂わば自分の為のメモ。。。

    フロイトの後、娘のアンナ・フロイトとメラニー・クラインによって、幼児と母親の関係の理論化がなされ、臨床に応用された。彼女等の考え方の対立をマリー・ボナパルト等が政治的に調停して、女性達によって精神分析学会が運営され、ある程度の実績を上げる中で、精神分析は学会による認定制度となって拡がっていくが、ラカンはその中で独特の立場を取り始めることで、学会から追い出される。新しい学会の主導者になったラカンの最初のマニフェストが1953年の「ローマ講演」である。

    学会から追い出される原因となったのは患者と対峙する時間についての彼の考え方である。分析時間の終了は規則によって束縛されるものではなく、患者が自己を語り始める契機として利用すべきであるとする。そもそも精神分析というのは、患者が他者の欲望によって自己規定する、という行為であり、そのことによって、自らを社会の中に位置づけることになる。しかし、このプロセスは静的論理によっては達成されない。自らを知るということには論理的矛盾があるから、それを回避するために、過去と現在の区分による誤魔かしが必須なのである。つまり他者を観察することで、自己規定するのであるから、その結果としての自己規定が他者に影響してしまったのでは自己規定が完結しない、という仕組みになっている。

    ラカンは比喩として、3人の囚人に3個の白札と2個の黒札を背中に着けて、お互いの会話を禁じた上で、自分の背中に付いている札の色が判別できたものに解放を許すというゲームを示している。実際には3人共白札であったが、3人が同時に、「他の2人は白である。もしも自分が黒だったら、他の2人共に白と黒を見ていることになる。その2人共自分が黒だったら相手は黒を2つ見ているから相手は自分が白だと確信して真っ先に手を挙げる筈であるが、そうではない、従って自分は白なのだと確信して手を挙げる筈である。ところが実際にはまだ手を挙げていない。ということは自分は白なのだ。」と考えて正解に達したのである。つまり、ここでの観察結果と論理的帰結は誰かが手を挙げた時点で覆されてしまう。ここに、分析時間の区切りが必要となる。つまりその分析時間の間に観察された他者はそのまま変化しない存在でなくてはならない。患者が自己規定を完成させるのは分析時間が終了した後なのである。精神分析家はその患者の自己規定へと動く動きを捉えて、分析時間を終了させなくてはならない。

    ラカンの考え方、
1.人間は人間でないものを知っている。
2.人間達は人間達であるためにお互いのあいだに自分を認める。
3.私は人間達によって人間でないと証明されるのを恐れながら、自分は人間であると断言する。
ここで、仮想された「自分が黒であること」は他者が手を挙げないという過去の事実の中に葬りされれているし、決して自分では見ることの出来ないものである。これをラカンは「対象a」と呼んだ。自分の中の人間でないものでありながら、論理的には仮想せざるをえないものである。精神分析の中では、乳房、糞便、声、まなざし、として登場するらしい。ここでまた、比喩が登場する。自分を x、他人を y とする。他人に映った自分(対象a)を a=x/(x+y) とする。決して到達することの出来ない a を自分が見た他人として類推すると、 a=x/(x+y)=y/x ということになる。この式の解は a=(√5−1)/2 となる。つまり黄金数である。x/(x+y) というのは私が自分自身を神の立場で見ることである。このことは不可能であるが、その代用として自分の見る他者の像を立てることで、自己規定が可能となる。

1月25日(金):
    「ラカンの精神分析」も中ほどとなって、いよいよ言語が登場する。「私が何であるかを言うように迫っているのは私が言語を話すという事実そのものなのである。言語を用いる以上、言語によって私が何であるかということを言えないと私の言語の内容に真実性が無くなってしまう。しかし、自己言及の不完全性によって、私が言語によってそれをいうことは不可能なのである。私が何であるかを知らないまま、私が何であるかを知っているかのように振舞う他者達の中に、私は産み落とされたのである。話す存在自体が確かに存在していることは、言語以外のものによって支えられなければならない。」「私が話しているとき、私は無意識においては、無力な受難として他者の語らいを身に受けているだけの存在である。その時私について話しているのは他者である。」「人間は己の経験を示す言葉を駆使して、論理の世界を構築し、ついには自分自身を示す言葉を求めるに到ったが、この自己言及の関係だけは、論理的に保証されなかった。この部分に言葉ではなく対象aが生じ、対象aが他者の欲望の対象であることによって、辛うじて、われわれの経験を示す言葉の世界の、有意味性が保たれているのである。」

    子供の糸巻き遊びの話。糸巻きを投げて見えなくなって「ヨー」、見つけてきては「オー」、と叫ぶ、この繰り返し遊びの意味。これは母と子という一つの関係が、子供と糸巻きという関係によって象徴化された、ということである。糸巻きを投げる子供は母の立場に立って自分自身を放り投げている。このとき糸巻きに対する子供の心は、子供に対する母親の心であり、子供に対する母親の欲望は、糸巻きに対する子供の欲望となって、子供の心の中に設立される。もとを辿れば、子供は母親の不在によって苦しんでいたはずだが、子供はまだ主体的に欲望を文節化する形式を知らず、「僕は母を欲している」とは考えていなかった。象徴行為としての糸巻き遊びは「僕は糸巻きを欲す」という統辞構造を持っていて、これが子供の心の中の「母は僕を欲す」という統辞構造の象徴となっている。こうして本来の「僕は母を欲す」という統辞構造は否定されて表に出てこない。遊びの中で糸巻きを再発見して喜ぶ子供の喜びは、子供を発見して喜ぶ母という他者の喜びである。その中ではもはや本物の母も子も居ない。居るのは他者(不在の母)になってしまった子供と、見捨てられた子供自身である対象a (孤独になって苦しんでいた自分自身)である。子供はこの苦しんでいる自分を表す対象a を幾度も消え去らせ、また引き出す、という行為を繰り返す。主体が他者として生まれ直したこの普遍の象徴界において在不在交替が続く限り、主体は生と死の境界を越えて、反復的に再現される残渣として、自らの同一性を保ち続けることになる。私が私の鏡像を私として認めようとする限り、それは私を示す言葉になるから、自己言及の苦しみを引き起こす。しかし、私の鏡像が他人の内側に託されたとき、もはや鏡像は主体にそのような言語的関係を作らない。そのような鏡像を他者の中に想像することによって安定感を持った自信に満ちた統一の感情が生じる。それは謂わば他人の中に囚われた私である。これが想像界である。

    この後(有名な) L シェーマ が出てくるが、なかなか難しい。本来の自分 S は他者 A の言語構造の中に取り込まれることによって、自分の鏡像 a' の中に自分 a を見出す。しかし、それが私である、と言った途端に語る私は語られた私の外に存在する、という言語構造を逃れることはできない。この自己言及の矛盾は鏡像 a' と 自分 a との癒着によって遮られている。A が a について語ることは無意識の中に潜んでいて、A は それを自分が自分を語ることに置き換えている。このあたりもそうであるが、やはり精神分析と関わってみないとよく判らないような気がする。

    対象a は普遍者から見た自分であるから、そこから逃れる訳には行かないが、あくまでも個別の人間である私には手が届かない。近代以降の人間は自分自身を基準にして万物を測る方法を身につけてしまった。これが科学である。しかし、そのために却って人間それ自身をどのように計るべきかという尺度を失ってしまった。精神分析はその尺度を与える手段である。従って科学する主体は、同時に精神分析する必然性を持つ。

    ラカンはやがて自らの設立した学会からも追放され、医者として存続できなくなり、より一般的な聴衆を相手にして講義を始めた。1964年である。「精神分析の4つの基本概念」である。新宮氏は「無意識の病理学」(金剛出版)で解説をしているらしい。ラカンはこうして医学・心理学から追放されることで哲学の分野に影響を与えることになった。しかし、哲学として見た場合、臨床での有意性だけでは物足りないのであって、一つの首尾一貫した人間観としてどれくらいの大きさを持っているかであるが、まだよく判らない。
<目次> <一つ前へ>